電波暗室 2004/06
- 2004/06/30(水)
友人と食事に行く。最近、和食というか、肉料理よりも、野菜や魚料理の味わいの深さにめざめ
つつある。のんびりとゆっくりと、味わう。天ぷらって、こんなにおいしかったっけ、と述べ合う。
お酒も少し飲む。ちょびっとだけ飲む。
鞄の中にあるたくさんの本を取り出して、それを肴に話をする。友人の、本の愛で方(?)を見て、
新たな知見がえられたように思う。折をみて、いずれ触れてみたい。
友人と分かれてから、ふと写真のことを考える。
*********
昔、写真というのは、果たして藝術足りうるのか?ということを考えていたことがあった。つまり、
その名の通り、あまりにも写実的に現実を切り取り、写しすぎるので、そこにはただ、現実をコピー
しただけのものしかないのではないか、と思っていた。
しかし、自分で写真を撮るようになって、それはまったくの勘違いであることに気づかされた。写真を
とるときに現実に向ける自分の位置と、その見方つまり視点や、視野というのは無限に存在する。そ
のあまたの選択肢のなかから、意識的に、あるいは無意識的に選び取ったものが、写真になる。
人間というものは、すべてを見ているのかというと、決してそうではなくて、無意識に選び取ったもの
だけを、普段見ている。そのなかから、さらに選びとるの写真だったりする。だから、誰かと誰かが同
じ視点でものを見るということは、高い確率でありえないことなのだ。だからこそ、誰かの撮った写真
をみてはっとする。この人は、こういう世界を見ているのだ、と気づく。そういう気づきの藝術なのだと
思う。(そうはいっても、「ありきたりの写真」というものは、しっかり存在するのが、写真の一筋縄でい
かない面白さかもしれない。)
そして、もし、誰かが撮った写真が、違和感なく自分の眼と同調するならば、それはほとんど「ありえ
ない」はずの世界が一瞬重なった、とても幸福な瞬間なのだと思う。誰も見ていないはずの世界を
見ることのできる同志がいるという。そういう、驚きと偶然を求めて、私は写真を撮り、誰かに見せ、
誰かのとった写真を見たいと思うのだろう。
*********
ふわふわと、たゆたう気分で、帰宅した。
これがほろ酔いというものか....。(そんなにノンデナイ)
- 2004/06/29(火)
国立国語研究所が「わかりにくいカタカナ語をわかりやすい日本語に置き換える、その例」を発表し
たと、ニュースが報じていた。たとえば、「コンプライアンス(法令遵守)」「ガバナンス(統治)」などが
あげられ、皮肉にもいずれの例も、本日行われた三菱自動車の株主総会の様子から引用されてい
た。
会社に入ると、このような類推不可能な用語が、経営陣や人事から突然ふってわいたように発せら
れることがあり、たずねようにも意味をわかる人は皆無ということが少なくない。なんですか?コミット
メントって?マジでわかりません。なぜ、意味の通じない言葉を突然使い始めるのかは、不明だが、
使うなら使うで、言葉の定義をしてもらいたいと思うのだ。
言葉の定義をしないまま使うから、「なんとなく」使われるし、意味があいまいになるばかりか、誤用
されないとも限らない。現に、「コンプライアンス」を最上位に掲げる三菱自動車の役員のかたは、
「コンプライアンス(法令遵守)を遵守する」といっていた。
コンピュータ言語の世界では、通常(そうでないのもあるが)、定義されない変数はエラーとみなされ
る。あ、この「変数」って言葉もわかるひとにはわかるという、英語ではないが、わかりにくい専門語
ということになるだろう。普通の和英辞典をひいても、逆にあたる英語が出てこない。
ニュースでは続けて、「最近若いひとの間でデフォルトということば、つまり初期設定という言葉が、
こんなふうに使われています」とのべ、「『あのラーメン屋、チャーシューがデフォルトで2枚はいって
る』などと、追加注文なしの標準でという意味でつかわれてます」と解説していた。
こういう会話はコンピュータ関係に限らず、技術系の人間にとってはまさに、「デフォルト」であって、
会社の飲み会などにいくと、部長が「俺の頭はROMやから」とか、課長が「僕は最近DRAMで...」
などといったりする。ROMとは、Read Only Memoryの略で、一度だけ書き込み可能なメモリー。
つまり、一度憶えたことは忘れない、という意味になるのだが、誤って憶えたことも、修正されない
というやっかいな頭のことを指す。わたしの同期は、この部長に一年くらい、別の同期の名前と間違
えて覚えられていた。また、DRAMは、Dynamic Random Access Memoryの略で、書き換え可能な
メモリーなのだが、ある周期ごとに「リフレッシュ」といって、情報を書き込み直さないと、どんどん記録
が失われていくという性質をもつ。
こういうのは一見、技術系親父ギャグとおもわれがちだが、若い技術者でも専門用語を転用すると
いうことはある。この前のジョイントコンサートにいったとき、たまたま会場でK岡とあったので、なら
んで聞いていたのだが、隣にいっこあけていた席に、別のお客さんがやってきたので、二人ともさら
に左に一個ずれたのだ。そのとき、K岡は「こういう時、『シフトレジスタや』って言ったりせーへん」
などとのたまった。まさかK岡がそんなことを口走るとは思わなかったので、少々おどろいた。
不思議なことに、女性はこういう専門用語の転用をあまりしないようである。
さて、さきほど、「若い人が『デフォルト』を日常で使っている」と聞いたとき、その例を聞くまでは、一
瞬デフォルト=初期設定ではなくて、デフォルト=債務不履行のことかと思ってしまった。デフォルト
=初期設定なんて当たり前すぎて、新鮮味がなかったからだ。案外、金融業界のひとなら、「あいつ
にこの前、2万貸したら、デフォルトしちゃってさー」などと言っているかもしれない。金融用語というの
はカタカナ語のオンパレードだが、日常語に用いるにはまだまだ敷居が高いのが現状かもしれない。
カタカナ語に関しては、いろいろと論じたいところであるが、ちょっと眠たくなってきたので、考察・結論
のないまま、本日は終わる。気が向いたら、補足するかもしれない。
- 2004/06/28(月)
コンビニATMで、今週の生活費を下ろす。暗証番号を打ち込むときにきづいたのだが、ここのテンキ
ーは、電話型だ。
言うまでもないことなのだが、テンキーには2種類ある。電話型と電卓型である。電話型が、上段左
列から1,2,3と昇順に続くのに対し、電卓型は上段右列から9,8,7と降順に続く。いったいいつの
ころから、この2種類に分極してしまったのか定かではないが、とりあえず、電話と電卓は用途違うの
で、いい加減慣れている。
しかし、問題は銀行のATMで、どちらが採用されているかはまったくの五分五分のようである。だか
ら暗証番号を打つときに、いつも戸惑う。これも、0の位置によって、指が判別できる(電話型は8の
真下に0が来る)場合は、0位置だけ確かめて、あとはそらでうてるだが、たちの悪いテンキーは電
卓型と同じ、1の真下に0があることがあり、油断ができない。この前デビットカードで支払いをする
ときに、認証に失敗した、と思ったらこのタイプだった。
全国の金融機関でぜひとも統一してもらいたいものです。
- 2004/06/27(日)
京都府立大学合唱団と、佛教大学混声合唱団のジョイントコンサートを聞きに行く。例年なら、佛教
大学混声合唱団のサマーコンサートの時期なのだが、今年は4年ぶりにジョイントになったという。
コンサートの構成としては、府大単独、ぶっこん単独、合同の3ステージ。ちょっと物足りないものが
ある。せっかくなんだから、単独2ステージはやればいいのにと、最初は思っていた。現に昔やってい
た同関(同志社グリー、関学グリー)や、いまもやっている早混・CCD(早稲田混声、同志社学生混声
)は、5ステージ構成なのだ。多分、早慶(早稲田グリー、慶応ワグネル)もそうだと思う。
ここからはちょっと厳しいことを書くが、結果として、単独を2ステージやらなくてよかったのかもしれな
い。2ステージに耐えられるだけの音楽が、どちらの団にもないのが現状だったからだ。
まず府大。なによりも、感じたのは発声が悪い。女声がややまし。男声は通行人と変わらない。それ
から選曲が、いまいちだ。かなり古い曲で、聞いていて面白みに欠ける。BKの仲間にOBが何人か
いるが、申し訳ないが正直なところ、途中で帰りたくなった。誉められる点を、さがそう、さがそうと
思って聞きつづけたけれども、だめだった。
つぎにぶっこん。バロックの曲を4曲選曲しているのは、意欲的だった。少人数なので、ハーモニー感
はしっかりしていて、何より女声の発声がよいので、結構安心して聞けた。ただ前半2曲のうちは、ま
だ喉があったまっていないようで、違和感があり、後半の2曲で並びを変えてからは、息が流れはじめ
音楽に勢いが出てきた。これから、というところで終わってしまったので、やや物足りない感が。
ぶっこんについては、去年の暗室にサマーコンサートの感想を書いたが、"アンサンブル能力の高さ"
が彼らの持ち味で、今年も期待はしていたが、やはりメンバーの入れ替わりがあった今年、男声の
個人個人の発声に難があって、あきらかにそれが、全体のバランスを微妙に狂わせていた。音楽の
流れがいつ止まるか?とやや不安になるところが男声に多かったのである。
で、ああこんなんもんなのか...と思って、合同ステージの曲を聴く。そしておどろく。ちゃんと「音楽」に
なっている。2つの団体がまざりあっただけなのに。府大の女声の発声を、ぶっこんの女声がカバー
し、ぶっこんの女声の声量の少なさを、府大の女声の声量がカバーしていた。男声は1+1=1に近
かったが。信長貴富作曲の「初心のうた」という曲。はじめて聞いたが、みずみずしい音楽のおかげ
もあり詩のもつメッセージがストレートに伝わってくるなかなかいい曲だった。(やや、古今の良い音
楽のいいところをコラージュしたもののようにも聞えたが....。)このステージを聞いて、ようやく溜飲が
さがる思いをした。(ただ、半分は合唱から得たものだが、半分は細見さんのピアノだ。)
去年、大阪の大学3団体のジョイントを聞きに行ったときも、まったく同じことを思ったのだが、なぜ、
単独のステージで、この合同のような演奏ができないのか?まぁ、さっき書いたように、互いの団で
弱いところを補っているというものはあるにせよ、単独と合同の音楽のポテンシャルがあまりにも
違いすぎる。合同なんてものは、本来はおまけなのだ。互いの団同士が、火花を散らしあってそれ
ぞれの持つ音楽をぶつけあうからこそ、その先に非常にリラックスした状態で、2団が結合して、
新しい色合いの音楽ができるんではないだろうか。
********
帰りに新風館の本屋、Village Vanguardに寄る。そこで、こんなの↓を買った。

植木鉢のなかの双葉がひらすら上下にゆらゆら揺れるというおもちゃ。ゆれが具合がなんとも
いえず、脱力感を誘う。ソーラーパワーなので、水いらず。こうやって、机のうえに飾るにはちょう
どいい。
で、本屋に入ったからには、本を買わないわけがなく、2冊も買ってしまった。ボーナス前というこ
とで、かなり財布のひもがゆるんでいるなぁ。

古本屋めぐりの本と、建築書。
- 2004/06/26(土)
NCの練習のため、大阪へ。阪急で梅田まで行き、地下鉄御堂筋線に乗り換えるのだが、このとき
あることに気がついた。ホームの駅名表示が、「ナンバリング」されているのだ。
「ナンバリング」とはNumberingのことで、一駅一駅に番号を振り、さらに路線ごとにアルファベットを
振ることを指している。たとえば、御堂筋線の梅田駅なら、「M13」(←この番号は適当です)という
ようになる。漢字が読めない外国人旅行客などに対して、このナンバリングだと説明しやすいらしい。
また、数字の昇順、降順かによって、進行方向がわかるというし、特に乗り換えの説明に利点があ
るようだ。M12→M14=N12→N15というような説明を口でなくても紙でかけるからだろう。
この仕組み、初めて知ったのは4月に東京に行ったときで、東京メトロで実施されていたからだ。
たしかこの4月のはじめから実施されたようで、地下鉄の社内でも、どういう意味があるのかを説明
・宣伝するための吊広告がたくさんぶらさがっていた。大阪の地下鉄の場合、先週みたときには確
かなかったように思うので、実施は今週に入ってからのことだろう。しかし、その割には駅構内にも
車内にも、このことを告知するようなものはまったく見られず、あれ?っと思ったのだった。
以外に思う人がいるかもしれないが、大阪の町の中心部は、京都同様に碁盤の目のような通りに
なっていて、地下鉄も基本的にこの道筋にそって南北の線と東西の線からなっており、目的地の
位置から、乗る路線の選択が容易である。また、乗り換えは、基本的に東西南北線が交わる地点
にしか存在しない。
このように、東京のあの複雑な路線から比べるとわかりやすいことこのうえないネットワークである
ために、実はナンバリングの意味が少ない。漢字が読めない旅行者にはわかりやすいのはかわら
ないが、そもそも東京にくる外国人旅行者数との差は歴然である。というようなことに「やってしまっ
てから気づいた」のではないだろうか。大阪市営地下鉄は。で、その結果あまり大々的に知らしめる
には、広告代がもったいないと考えたのか。あるいは、そんな告知のスペースがあるなら、ほかの
広告とったほうが、儲かると考えたのか。予想はいろいろできるが、謎である。
- 2004/06/25(金) R.O.D
ちょっとうれしくもあり、ちょっと残念でもあったそんな日。この「ちょっと」っていうのが、重要なんだ
な、たぶん。
R.O.Dの21話から26話(最終話)をまとめて見る。見終わると夜が明けていた。現在、AM5:00。
こんなに泣いてしまったアニメのTVシリーズは、かつてなかったかもしれない。が、私は物語の終盤
にどうしても、あることが気になって仕方がなかったのだ。それは、ある脇役キャラの声優さんは、
誰なのかということ。正確には、「この声、すごく印象に残ってるけど、ほかのどのアニメのどの役
やったやろか?」ということ。名前が出てくるほど、ベテランじゃない。でも存在感がある...。
こういうことは、よくあることで、洋画劇場なんかの吹き替えを聞くと、あの役は誰で、この役は誰誰
だな、と次々と頭の中で、当てはめていかないとなんとなく落ち着かない。エンディングロールで、
名前がわかったりすると、なぜか敗北した気分になってしまう。これはオタクの業というべきか。
R.O.Dの脇役さんの場合はエンドロールを見てもわからず、そこから眠い頭をフル回転させて、記憶
をたぐり寄せた結果、ぱっとひらめくものが!「ガンパレードマーチ」というアニメの「瀬戸口」役の人
の声だ!と思い当たる。ほっとする。完全なひとり芝居。
自分で設定した問題にもがき苦しむのは、マゾなんじゃないかと思うこともある。でも、声を記憶し、
再生するっていう作業は、ある意味、映像を記憶、再生するよりもはるかに高度なことなんじゃない
かって思える。映像っていうのは、記憶の圧縮が難しい。情報量が多いから。だからそのまま記憶
するしかない。でも、情報量の少ない音声は、頭の中の隙間にすっと差し入れられて、みえなくな
る。手がかりにわずかな糸だけ残して。その糸を手繰りよせられたときの喜びっていうのは、まさに
隠されていた宝物を見つけたときみたいだ。誰にでも見えるところに置かれた宝物(映像)を見つけ
ても、達成感はない。そういう理屈。
なんだか、馬鹿なことを大真面目に書いてしまった。もう寝よう。
- 2004/06/24(木)
今日はちょうどご飯がきれていたので、烏丸からちょっとはなれた新町にある定食屋で晩御飯を食
べる。でそのまま新町通りを下がって家に帰ったのだが、「祇園祭の宵山のころ、どうやって家にか
えろ」ということを道すがら考えていた。
私は室町通沿いのマンションに住んでいるが、室町通はまさに山鉾のメインストリートで、一筋に南
北たしか、5〜6基の鉾がならぶ。宵々山、宵山ともなると、それはもうすごい人出なのである。隣の
新町にしても、同じようなもので、そのうえ、道幅が極端に狭まる場所があって、その四辻などは、核
融合でもおこさんばかりの圧力がかかって、身動きがとれなくなることがある。南北方向の移動はほ
とんど不可能に近い。数年前、馬鹿なことに自転車でここを通行しようとして、エライ目にあった。
そのときは、「こなへん住んだら、夏大変やナァ」などと思っていたが、まさか本当に住むことになると
は思ってもみなかった。まぁ、住んでいるところは、ラッキーというか、ぎりぎり鉾町の外なので、室町
や、新町を通らないと帰れないということはない。でも少し遠回りをしないといけないのは事実だ。
しかし、心配なのは街中の車だ。
室町、新町は言うにおよばず、近隣一帯の南北及び、東西の通行は著しく制限されるため、逆に鉾
町の外縁にあたる街の交通量は一気に増える。ただでさえ、荷物の積み下ろしが多い、呉服街に通
行制限が加わるとどんなことになるやら。朝、ボーっと歩いていたら、いまでもひかれそうになる。
まだ、まだ先のようにも思えるが、7月に入ったらあっという間。
全然梅雨らしくないので、もう気分は真夏に傾きつつある今日この頃。
- 2004/06/23(水)
夕飯を買いに大丸によると、特設コーナーで水無月を売っていた。食後のおやつにと思い2個購入。
6月30日の「夏越の祓」とあわせて食べるものだが、フライング。夏を迎えるにはかかせないお菓子
で、私の大好物である。

京都に住んでいて良いなぁ、と思うことはこういうおいしい和菓子が手軽に食べられるところだと
思う。デパートに出店している高級和菓子屋さんから、まちの「おもちやさん」、はたまた、近くの
「うどんやさん」にいたるまで、6月になるとこの水無月が店頭にならぶのだ。
どういうお菓子かというと、写真は2個なので、四角になっているが、ひとつひとつは三角形で、
ベースの部分はういろう。そして上にはごらんの通り小豆が並ぶ。三角形が「氷」をあらわし、
小豆は「魔除け」なのだそうだ。
生もので、しかも夏場のお菓子なので、地方発送などできないから、この時期に京都にいる人し
か食べられない。京都にいる人は是非食べよう。(まぁ、虎屋なんかだったら東京で売ってるのだ
ろうけど。)
あぁ、これに水羊羹が加われば最高!
- 2004/06/22(火)
「じかせんえん。流行性かどうかどうかわからへんなぁ。」というのが、健康管理室の先生の見解。
『じかせんえん.....時価千円....自家腺炎....あぁ、耳下腺炎か!』と頭のなかで、ちょっと訳すのにて
まどった。流行性耳下腺炎とは、つまりおたふく風邪である。一瞬、ひえーと思ったが、症状がどうも
おたふく風邪とは違う様子で、もしかしたらただの炎症かもしれないとのことで、ちょっとだけ安心し
たが、とにかく様子を見るしかないとのこと。気づいていなかったが、計ると微熱があった。痛みどめ
だけもらって、職場にもどる。で、もし夜に熱がでてきたら、朝一で市立病院にいくことにした。
いまのところ平熱なので、安心。このまま何もないことを祈る。大人の、それも男性のおたふく風邪
はちょっとした恐怖なのだ。
******
YKのS姐さんにお貸ししていた「ハチミツとクローバー」を、金曜のBKで返してもらったので、ひさし
ぶりに読んでいる。だいたい一日1巻を就寝前に服用。この漫画は、ある種の状態にある人間にとっ
ては、非常に共感を憶える作品で、そのポエジックなワールドにはまるとなかなか抜け出せない。
女性誌掲載のものだが、男も女も関係ない。切ないのに、ぽややーんと胸の奥があたたかいよう
な、不思議な気持ちになるさじ加減が秀逸。
そこの君、ぜひ読みなさい。今読まずしていつ読む。ドラマ化とか、アニメ化(そんな話はない)されて
メジャーになる前に読んで、「実は原作読んでるんや〜」という暗い優越感に浸りたくはないか!?
全日本メガネ部YK支部推薦図書(ウソ)
第27回講談社漫画賞受賞(ホント)
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諸般の事情により、今年の夏コミ行きをなかばあきらめていたのだが、やはり夏に夏コミにいかない
というのは、自分自身の精神衛生上、どうしても耐え難いことであったので、「諸般の事情」のほうに
は泣いていただくことにした。いや、べつに泣きはしないし、私がいなくてもなんとかなるだろう。秋冬
の連休のほぼすべてを「諸般の事情」に費やしている身としては、夏と冬のコミケ参加は、精神のバ
ランスをとるうえで欠かせないのだ。(諸般の事情が嫌いなわけではもちろんない。)
で、早速ホテルの予約をとろうとしたのだが、No!!いつものホテルがインターネットで検索すると
満室。計ったように、コミケの期間だけ満室。うううううううううう。決断がやや遅かったか?いやいや
こんなことでへこたれていられない。かくなるうえは直接電話攻撃。結果、勝利!。そう、インターネ
ットで満室でも、マージンをとっているケースがあるため、電話予約は結構有効なのだった。ただし、
さすがに全日程は押さえられず、最終日のみだった。残りの日は仕方がないので、東京在住の友人
の部屋の廊下を提供してもらうことに。
まだまだ先のことなのに、あぁ、なんか心が軽い。
- 2004/06/21(月)
台風。雨はひどくなかったが、風がすごい。風のせいか、気圧のせいか、エアコンの奥が「ぽこぺん、
ぽこぺん」となってうるさいので、目が覚めた。いったいあれは何の音なんだろう?
昨日の朝、いやおとついの夜くらいから前兆はあったのだが、ひだりの耳の下、リンパ節のあたりが
どうも、はれている。さわるとにぶい痛み。はれてるだけなら実害はないのだが、皮膚がつっぱるせ
いで、咀嚼したり、首を左右に動かすと痛い。体調は普通。二日間サロンパスを患部に貼り続けてい
るのだが、はれはひかない。
なんといっても食事のときに思うように噛めないのがつらい。こういう経験をしたのは1995年2月以
来だ。なんだって、そんなに正確に日付を覚えているのか、というと、学生時代にグリークラブで、欧
州演奏旅行に出発する確か、5日前くらいにそれがおきたからだ。
朝起きると、口が指一本分くらいしかあかないのだ。あごがいたくて。あわてて歯医者にいくと、歯茎
のすきまからばい菌がはいって炎症を起こしているとかで、さっそく歯茎を切開して膿をだしてもらっ
た。それでもまだほとんど開かない。口があかないということは歌えないということで、かなりうろたえ
たが、仕方がない。一曲も歌えないかもしれないという不安のまま出発した。が、幸いなことに飛行機
のなかでくすりを飲み、口をゆすいでいたら、急につっかえていたものがとれるみたいな感じがして、
水をコップにもどすと、なんだか血のついた塊というか繊維のようなものがぬらーっと出ていた。最後
の膿が出てきたのかもしれない。その後、急速に回復して、無事に3週間の旅行をすごすことができ
た。食事にもまったく支障がなく、もちろん歌うことも可能だった。
今回も、そういうケースか?と思って、奥歯やら歯茎をチェックしたのだが、そのあたりに炎症はみら
れない。それに前回は口がまったく開かなかったが、今回は開くことそのものはできるのだ。うごか
すと痛いというだけで。だから歯が原因ではないのかもしれない。それと炎症であればサロンパス
を貼ることでだいぶ緩和できるはずなのだが、まったく効果がない。
こうなると、なんか理由はわからんが、1リンパ節の内部で炎症を起こしている、2腫瘍のようなもの
ができて圧迫している、3単なる顎関節炎、というくらいしか思いつかない。まさかおたふく風邪では
あるまいに。とりあえず、今日もサロンパスを貼って寝ることにする。これで明日、症状が改善されな
ければ、会社の健康管理室で触診してもらおうと思う。
なんだか最近、体ズタボロだ。トホホ。
- 2004/06/20(日)
6/13に、この場所で、「ペットボトルの市販のお茶は買わない。ただし六条麦茶は買う。」というよう
なことを書いたのだが、六条麦茶に限らず、「麦茶」なら買っているなぁ、ということを思い出した。
それは近くのコンビニで、「伊藤園の天然水ミネラルむぎ茶」を見かけたからなのだが、実をいうと、
ペットボトルではない。いわゆるお茶のパックのコーナーに、ででーん!と箱に入ったこの商品を
見つけてしまったのだ。
夏になって、水分の摂取量が増えているのだが、清涼飲料水をなるべく飲まない(宴会で私が飲
むジンジャーエールと、ラムネは別腹とする)ようにしている身としては、お茶を毎日沸かさざるを得
ない。実家のような大容量やかんならともかく、ひとり用のやかんでは、その量はたかがしれてい
るので、すぐになくなるのだ。すくなくとも、おちゃっぱは二回使うのだが、それしてもいちいちわか
すこと、おちゃっぱをやかんから取り出すこと、飲みたいと思っても沸かしたてはあつくてすぐに飲め
ないことなど、さまざまな理由で、はやいはなし面倒になってきていた。(冬はともかく)
で、たまたま上記の商品を見つけた。お湯だけでなく、水出しもできるので、容器にいれて冷蔵庫
で冷やしておくだけでいいのが助かるなぁと思って、値段を見ると238円。20パック入って238円。
計算してみよう。説明書きによると、1リットルの水に1パックとあるので、20パックで20リットル。
つまり、1リットルあたり、23.8円。コンビニでまったく同じブランドのペットボトル500ミリリットルを
買うと、157円。倍にして1リットルあたり、314円。実にこの差、13倍。
むろん、これには水代やパッケージ代・容器代は含まれていないが、それを含めても10倍はくだら
ないだろうと思われる。これだけ差があったら、少々の手間(手間ともよべないくらいだが)がかかっ
ても、家で麦茶をつくって、水筒で持ち歩いたほうが良いということになる。だって、パッケージの表
記上は、まったく同じブランド名で、デザインまでペットボトルと同じなのだから、まったく同じものと考
えて良いし。(いろいろな条件の差はこの際、捨て置く。水によって味の差は出るなど。)
まったく違う製品としてお茶パックを出すのなら話はわかるが...、いったい伊藤園は消費者に優しい
のか、それとも単なるおバカなのか?不思議だ。
まぁ、もうちょっとつっこんだ考え方をするなら、浄水器やミネラルウォーターが売れて、水道水、飲用
するに値せずの世の中になってきている以上、少々高くてもメーカーが最初から水入りでだしてくれ
るなら、そっちを買う、という心理もあるのかもしれない。単に飲みたいときに飲めるという利便性が
一番なのだろうが。
すくなくとも、水道水がおいしい地域のひとは、お茶パックを買うのが賢い選択だと思う。
- 2004/06/19(土)
気持ちいい天気なので、阪急電車で大山崎にある大山崎山荘に行く。(JRでも行けるのは秘密。)
以前いったのは、2年前の冬、一月。天王山の中腹にあり、周りを緑に囲まれた山荘は、春・夏・秋
はさぞかしい美しいだろうなぁーと思いながらも、思いだすのは、冬に入ってからだったりして、いつ
の間にか2年が過ぎてしまっていた。
団体客が入ったあとだったので、しばらく庭で時間をつぶす。期待にたがわず、緑にあふれる庭に、
気持ちよい水音。滝のそばにいって、ぼーっとする。前回はデジカメを持参したので、今回はフィル
ムカメラを持ち出した。同じように水辺でたたずんでいるカップルのリラックス具合が、見ていて気持
ちよかったので、おもわず背中を写してしまった。
 
山荘とよぶにふさわしい洋館。泊まってみたい(注:ホテルじゃありません。)(2002.01撮影)
 
階段部と1階廊下。どちらもライトカバーの意匠がすばらしい。(2002.01撮影)

新館、地下へ続く階段。この建物には地階しか存在しない。(2002.01撮影)
ここ、大山崎山荘はもともと明治の実業家の屋敷だったが、戦後に持ち主を転々とし、荒廃の極み
にあったものを、1996年にアサヒビールが買い取り、美術館として修復したものだ。内部は美術館
とはいえど、もとの内装や調度品との雰囲気をこわすことなく、普段はアサヒビール創業者の陶磁器
コレクション(バーナードリーチの作品など。)が展示されている。また、山荘のわきに安藤忠雄設計
による新館をたて、その地階には「モネ」の睡蓮が飾られている。
企画展示が随時行われているのだが、ちょうど開催されていたのは、マリンバ奏者で、アンティーク
着物の着こなしや、エッセイで著名な通崎睦美さんセレクトの着物にまつわるコレクション展。題して
「通崎好み」。彼女のエッセイ集「天使突抜一丁目」の世界が目のまえにとびだしてきたような、なか
なか「通好み」な面白い展示だった。(6/20まで)
 
窓辺の光りが優しい喫茶室で、ガトー・グランマニエを食べる男。(2002.01撮影)
さて、企画展を見た後は、2階の喫茶室で午後のお茶である。企画展のせいか、まわりは女性の
グループばかり(若い人も結構おり、着物姿のひとも多い。)で、男性ひとりは少々居心地が悪い。
前回とまったく同じメニューを頼む。紅茶とパウンドケーキだ。なんだか、そそくさと食べて、席をあと
にする。ひとりでは会話できんからなぁ。メールはしてたが。
さて、今日のテーマは実は、このパウンドケーキなのだ。帰宅後に2年前のデジカメ写真を見返して
いて気づいた。2年前の写真ではメニューにはっきりと250円、とあるのだが、今日食べたものは、
300円(税込み)。なんと、税抜きで、実に40円の値上げ!それはないんじゃないか、○ー○ロイヤ
ルホテル。おいしいのは認めるが。
2年前に、どうでもいいようなメニューを写真に収めていたからこそわかる真実。
しかし、真実はかならずしも、ひとをしあわせにしないという悲しい事例であった。(終劇)
- 2004/06/18(金)
BK練習。ラスト5分に間に合う。練習場が暑くて、少々げんなり。外のほうがすずしい。そのうち
外気との差がなくなるほど暑くなるのだが、そのときはBKは夏休みである。
今日の宴会で、「山Dさんを見て、こんな理系のひともいるんやーと思った」と言われる。その場に
いた、全開ばりばりの理系であるF栄にいわせれば、「こんないいかげんな理系はいない」という
ことになるのだが。自分としては、理系らしくないということは素直に認めるところである。
理系らしくないというか、純粋に理系になりきれるほどの、論理力がないというのが、自分の分析
である。どちらかというと、直感に近い、analogyつまり、類推を働かせたり、そこから洞察すること
が得意というか、思考のパターンである。断片的なものごとを、化学変化のように、瞬間的にむす
びつける力、というとわかりやすい(わかりにくい?)かもしれない。
厳密にいえば、この思考パターンと論理力というのは切り離せるものではない。論理力の前に
あるのが、このanalogyであると思うからだ。自分自身のなかのものでしかない、思考の結びつき
を、客観的に、一般的に他人に伝えるための手法が論理なのだと思う。まぁ、たぶんに筆のはし
るままに、思いつきで書いているようなところもあるので、あまり真剣に突っ込まないで欲しい。
理系らしくない、というのは理系はこうあるべき、というイメージがあるからで、自分的には、化学や
数学や、理工学というものは、文学や、美術や、音楽といったものと同じくらい興味があるもので、
どちらかを選べ、といわれても困ってしまうのである。この感覚というのは、自分自身の育った環境
もあるが、私の通っていた高校の教育にも原因があると思う。進学に関して、理系・文系という区別
が一切ないのである。全生徒が3年間、ほぼ同じカリキュラムの授業を受ける。3年生の午後の授
業のみ、選択制で、工学部にいくなら、この授業はとっておいたほうがいいよ、くらいの「お薦め」は
あるが、強制ではないし、美術・音楽・語学(英語・ドイツ語・フランス語)系の選択授業もあった。
文系・理系という枠組みは、その本人の適性を生かすための選択というより、むしろ「対極にあるも
のは苦手と思っていい」というイメージを植えつけて、視野をせばめてしまうものに思えてならない。
そういう意味で母校の教育方針というものは、わたしにとってはありがたかった。いや、数学や物理
の成績よりも、国語や美術のほうが良いってこともたまにあったので、理系分野の成績だけでは、
大学の推薦は受けられなかったかもしれないからかも(笑)。
まぁ、こういう技術者がひとりくらいいてもいいんじゃないでしょうか。ねぇ?
- 2004/06/17(木)
今朝、ガスの使用量を知らせる紙がポストに入っていた。ガスはだいたい毎月同じ程度しかつかわ
ないので、それほど気にならない。やはり、もっとも気になるのは電気代である。なにせ、先月末あた
りから、エアコンで冷房を使いだしたので、「一万円とかいってたらどうしよ」と急にこわくなってきた。
こわくなろうとなかろうと、その時がくればわかるのだが、人はなぜか生き急いでしまう。帰宅後すぐ
に先月の電気使用量をしらべ、メーターを見に行った。結果、現時点で105kwh。先月の検針記録に
よると、次の検針は明日であるから、まぁこの値でFIXと見ていいだろう。
で、105kwhが多いか少ないかなのだが、意外にすくない。この5ヶ月の使用量を比べると、100khw、
140kwh、116kwh、77kwh、そして今月の105kwとなっている。クーラーを使っていたわりには、使って
いなかった時期に比べても少ないとさえいえる。140kwh使った時期は、暖房にホットカーペットを使っ
ていた時にあたる。クーラーを使うのは帰宅後から就寝までの約3〜4時間と、起床後から出社まで
の1時間弱の計5時間。ホットカーペットも同じくらいであった。ただ、「クーラーは高くつく」という意識
が、すこしでも我慢できる範囲なら消す、風のあるときは窓を開ける、などの対策をこまめにさせるこ
とになり、結果として、つけっぱなしが多かったホットカーペットに比べて、消費量の少なさにつながっ
たということだろう。
ただ、それにしても燃費良いナァというのが正直な感想。体調不良で週末家にいる時間が多かった
のにもかかわらずこの電気代なのだから。この値から、夏本番の7〜8月であっても、注意すれば、
それほどかからないという予測が立てられ、ちょっと安心した。もっとも8月の夏期休暇は、ほとんど
部屋にいないので、相当量の電気代が削減できるだろうから、もしかしたらこれまでの記録、77kwh
を破れるかもしれない。←この記録は5月のGWの時期のものだ。
なんだか、急に眠くなってきたので、もう寝ることにする。
安心して、クーラーをかけているからだろうか。
- 2004/06/16(水)
"Alles Gute zum Geburtstag!">私信
うーん、よく眠れない。寝覚めが悪い。肩こりがひどいのだ。不整脈やら、風邪やらで、凝りまくって
いる。正確に言うと頭と首の付け根が痛い。風致というツボがあって、付け根のちょっとくぼんだとこ
ろなんだが、指で押すと盛大に痛い。こりゃほっとくとだめだと思い、会社がえりに、いえの近くのク
イックマッサージへ行く。21時までやっているのである。
店に入ると、すこし待たされ、お冷がでる。これでちょっと落ち着く。担当は女性だ。ここにはこれで
3回くらい来ているが、男性、女性、女性という配牌。女性だからといって、力が弱いわけでもなく、
マッサージとしては同等であるが、やはりむさい兄ちゃんにやってもらうより、麗しい女性にやって
いただくほうが、気分上のリラクゼーション効果は高い。(女性の客はどうなんだろうか?)
さて、担当のひとにはやはり施術にも個性があるようで、今日は初めての経験をした。背中をくる
くると、ナデナデされるのだ。(カタカナで書くとなんかやらしいですな。)ただ、それだけのことなの
に、手から伝わる温かみで、背中がなんと心地よいことか。なんだかぼーっとしてくる。
吐き気を催して、オエオエ状態のとき、優しいひとだと、背中をさすってくれたりするのだが、わたし
はあれがどうも苦手だった。オエオエ状態のときは、きまって発熱しているので、手でさすられると、
熱がまして、余計に気持ち悪くなるからだ。そして、あの背中をさするという行為は、「はきやすくす
るため」にやってくれているものだと思っていた。
でも、違うのだな。たぶん。もしかしたら、はきやすくする効果もあるのかもしれないが、背中をさす
るという行為は、人をとてもリラックスさせてくれるのだ。しんどいときに、気分をよくしてくれるための
行為なんだろうと思う。体と心を癒してくれるものなんだろう。
こんなにも、あんなにもオエオエ経験があるのに、いままでそれに気づかなかったのは不覚だった。
そして、それを見ず知らずのマッサージのおねいさん(誤解を招きそうな表記だ)から教わるとは、
ちょっと悲しい。どうせなら、恋人とかそういう女性に教わりたかったなぁと思う、今日この頃。
これ、自分でやっても全然気持ちよくない。
- 2004/06/15(火)
晴れ。また晴れてるよー、と思わずいいたくなるほどの晴れ。京都市内は32℃まであがったそうだ。
昨日、朝の日差しのきつさについてふれたが、こんな日は、西日、つまり夕日の日差しも当然きつ
い。うっかり、日が沈む前に帰宅しようものなら、朝の逆で真西からくる西日をもろに受けてしまう。
人によるかもしれないが、わたしは朝日にはまだ抵抗力はあるが、西日にはまったく無抵抗で、
免疫がない。なんのこっちゃと思われるかもしれないが、西日を浴び続けると、しんどくなる。朝日の
ように体力を奪われるという状態ではなく、車酔いのときのように気分がわるくなり、頭痛、吐き気
を伴う。何が原因かはよくわからないが、子どものときからそうだ。
小学校のとき、キャンプで「岬の家」という三重県の臨海学校施設にいったときも、海に沈む夕日を
浴び続けた結果、みんなが夕食でバーベキューを食べている間、傍らでずっとうーうー言いながら
横になっていたことがある。当然おなかがすくので、ダブルショック。なぜか、介抱してくれる先生や
友達もまったくいなかったので、トリプルショックであった。冷たい水とか頭痛薬とかもなかったもん
なぁ。あの時の担任は何を考えとったんだ。今思い出すと、むしょうに腹が立つ。思えば、あの経験
が、「自分の病気(頭痛)は自分でなんとかする」という自立(?)につながった気もするが。
今日は、間の悪いことに、就業終わりくらいに、持病のひとつである頭痛(持病多いナァ)がひどく
なり、早めに帰宅したのだが、時おりしも夕日燦々の時刻で、もとから気分悪いのに拍車をかける
ことになってしまった。朝は日差しを防いでくれた帽子も、熱をこもらせ余計に苦痛を与えるもので
しかなく、日陰をもとめて、えっちらおっちら。---帰宅後、4時間あまりぶっ倒れていた。仕事に疲
れて、というのなら格好もつくけれども、なんとも情けなくって、「父ちゃん涙がでてくらぁ」状態だ。
ここしばらくの体調の不安定さは、悪循環に入りそうでこわい。と同時に、自分はなんでこんなに
体が弱いんやろか、と弱音をはきたくなる。いっそ、養命酒でも飲もうかと思うけれども、およそ酒
と名前のつくものを常飲することあたわず、どうしたもんか。
- 2004/06/14(月)
晴れ。梅雨にはいってから、晴れの日のほうが多いような気がする。今年は空梅雨になりそうな
予感。日差しがきついので、今日から通勤に帽子を持っていくことにした。
駅から会社までのほぼ直線の道には、日陰がいっさいなく、ちょうど真東に向かって歩くことになる
ため、強烈な日差しを真正面にうける形になる。真夏ともなれば、このわずか5分程度の直線で、
一日の体力の60%くらいは奪われているんではないかと思うほどだ。
そこで、せめてもの防御としての帽子なのだが、私服ならまだしも、背広姿に似合う帽子というのは
非常に難しい。去年から私が、導入しているのは、登山用の帽子で、ツバが全方向にあり顔に直射
日光があたることはない。しかし、これがまたアンバランスなのだ。自分で鏡でみて思うくらいだか
ら、他人から見ればなおのこと。(しかし、あの5分の行軍のまえには、もはやなりふり構っていられ
ないのが実情。)
デパートにいって紳士服の売り場をみても、背広にあわせた帽子など売っているブランドはひとつも
みたことがない。カンカン帽のようなやつなら、かろうじて合うような気がするが、クリケットをしにいく
英国紳士くらいしか似合わないような気もする。いわゆる制服というものには、びっしっと決まる制帽
があるのに、会社員の制服たる背広にびしっときまる帽子がないのは、不思議な気がする。私の見
聞不足で、実際はそんなことはないのかもしれないが、街中で見る限りは、ほとんど見かけないのだ
から、あながち違うとも言い切れないと思う。
誰か、お洒落ですまーとな、背広もしくはYシャツ姿に似合う帽子を紹介してくださると幸い。
- 2004/06/13(日)
大阪府合唱祭。なんとか体調復活が間に合った。会場が大阪の南、堺よりも南の貝塚なので、
京都からは電車で2時間もかかる。中途半端な体調ではたどり着くことすら難しいのだ。昨年の
合唱祭は、たしか暑くてじめじめした天候だったが、今年は日差しはきついものの、カラッとして、
風もあり、すごしやすい。
朝は寝てしまったので、午後から出発。志津屋でかつサンドを買い、阪急の売店でお茶を買う。
私は、ペットボトルの市販のお茶は買わない主義なのだが、そこにあったのが、例のすごく売れて
いるらしい「伊右衛門」だったので、思わず買ってしまった。だって、CMで宮沢りえに「伊右衛門
はんで良かった」とかいわれて、しなだれかかられたら、買いたくもなるだろう。(妄想入ってる)
飲んでみたとき思ったのは、「伊右衛門おもえもか」ということ。たいしておいしいわけでもない。
ああ、やっぱり売れてるのはパッケージやらをディレクションした人のせいだなぁと思わずにはいら
れなかった。いや、商品戦略そのものはすごいなぁと素直に感心している。だいたい自分が買っ
たのも「CMを見て」だからなぁ。ひとにおいしいよっていわれて買ったわけじゃない。
わたしは、好き嫌いが激しく、珍味とか高級な食材とかもだめなほうなので、あまり味に関しては、
自信はないのだが、その反動か、普段食べたり、飲んだりするコメや、お茶のようなシンプルな
食べ物に関しては、結構うるさいのだ。ペットボトルのお茶を買わないのも、家で沸かすお茶の方
がはるかにおいしいからで、わざわざお金をだして、家で飲めるものよりも「あじない」ものを買うの
は馬鹿らしい。
(ひとりぐらしをするようになっても、おちゃっぱは、実家からもらってくるし、コメは、実家でひいきに
している米屋さんに、まったく同じコメを届けてもらっている。)
まぁ、例外として、夏になると六条麦茶だけは買う。実家では夏に麦茶を飲む習慣がなかったのだ。
なので、あの味はおいしいと思っている。しょせんそんな程度のこだわりだったりする、私のお茶事
情。
********
合唱祭から帰宅して、四条烏丸の交差点に降り立つと、どこからか祗園囃子が聞える。祗園祭りは
7月だから、商店街がフライングして、テープをかけてるのかなぁと思っていたら、ちょうど四条烏丸に
ある、長刀鉾の会所の2階で練習している風景が見えた。そこから聞える、生の祗園囃子だったの
だ。考えてみれば、7月まであと2週間。夏本番は、もうそこなのだった。
- 2004/06/12(土)
朝、早く目覚める。といっても休日にしては、と言う程度。起きぬけの状態で、体温を測ったところ、
平熱に戻っていた。気分も悪くないし、食欲もちゃんとある。最後の山を越えられたようだ。昼頃に
はふたたび、熱が上がってきたが、気分の悪さもないので、なにコラの練習にはじめから出ることに
した。
練習場につくころには、汗だくになっていて、くるんじゃなかったかな?と後悔もしたが、歌っている
うちに気分が落ち着いていった。いつまでも部屋に閉じこもっているよりは、多少なりとも動いて、
汗をながしたほうが、肉体的にも、精神的にも良いのだということが改めてわかった。そして、それ
がなにコラの練習であるとなると、効果も倍くらいにはなるのだった。
演奏会後、いろいろと重なって、心身ともに参ってしまっていて、大阪までいって歌うことがなんだか
つらかった。直接的にはなにコラと関係あったり、なかったりなんだが。だが、今日無理してでも練習
に行ったことで、はずみがついたように思う。こうなったら、前に転がり続けるだけでしばらくは止まら
ない、と思う。
体が、元気になってくると、精神の方も活発になってくるようで、それが逆にあれやこれや、悩みの
種を復活させることにもつながるみたいだ。今は...、自分の精神的な充足とはどういう状態なんだろう
か、と考えたりするようになっている。今の生活を維持することに充足を感じているのか、その先にあ
る充足をただひたすら待っているのか、それともなにかブレークスルーを起こすことを狙っているのか
、整理しようにも良くわからないので、そのままにほっている。
***
昨日、体温計の話を書いたが、友人からのメールで、水銀体温計派にも2つの派閥があるというのを
思い出した。舌下派と、腋(脇)下派である。わたしの場合、半々なので中立。子どものころは、わき
のしたオンリーだったのだが、あるとき我が家に「舌下用体温計」というのがやってきてからは、必然
的に舌の下派になってしまったからだ。昨日買った体温計は、「兼用型」とあったので、両方の方法で
はかってみたが、舌の下のほうが若干高めに出るようだ。
水銀一派ではないが、電子式のなかに、近年、家庭用「耳の穴」式体温計が安価で登場してきたの
は電子・水銀を問わず、腋下派、舌下派どちらにも脅威かもしれない。家族で共用するとはいえ、異
常なまでの潔癖症である現代人の衛生嗜好を考えると、家族といえど、他人との接触が極力すくな
い「耳の穴」派の台頭は時間の問題ではないかと思う。
(実は、うちの実家にはすでに2〜3年くらい前からあるのだ。ほんと、あたらし物好きである。)
- 2004/06/11(金)
こどものころ、体温計を使って、熱をはかることは、魔法の技だと思っていた。そして、その技が使
えるのは親だけで、子どもの自分にはできないことだとわかっていた。そんな簡単なことでも、親は
やっぱりすごいなぁと思わずにはいられなかった。
なんのことかというと、水銀体温計の目盛りを読むのは難しい、ということだ。子どものころはまだ、
すくなくとも小学校の低学年くらいには電子体温計がなかった。水銀柱の光りは、ちょっと傾けた
だけで、かんたんに姿がみえなくなってしまう。親から、「ほら、熱あるで」と目盛りを見せられても、
ただただ透明な管と目盛りが見えるだけで、何が体温を示しているかさっぱりわからなかった思い
出がある。
朝になっても熱っぽさが引かないので、体を押して薬局に行き、体温計をかった。水銀体温計だ。
電子体温計は高いのと、温度が上昇していく「プロセス」が見えないので、なんとなく信用できない
(笑)という単純かつアナクロな理由からだ。
自分で計ってみて、目盛りを読もうとするが、水銀柱が見える視野範囲というのはやはり狭くて、
これなら子どもが読めないのも納得がいく。まして、熱があるときなどは。
「37度」
この状態でまだ37度ということは、昨日の熱はそうとうなものだったろう。仕事なんてしてる場合じゃ
なかった。もちろん、今日だって仕事できるはずもなく、職場に電話を入れた。
この文章を書いている今、現在の体温は、36.8度。解熱剤を飲んで寝て、を繰り返してはいるが、
これ以上、下がらないみたいだ。平熱が36度程度しかない私(新陳代謝が悪い)にとっては、まだま
だつらい。(ちなみに解熱と下熱、意味の違いわかりますか?辞書によっては解熱しかのっていない
ようですが。)
明日は、なにコラ。あさっては大阪府合唱祭。とりあえず、寝床で楽譜を見上げながら、フィンランド
語の発音を繰り返している。
体温計買いにでたとき、コーヒー牛乳と明日の朝飯を買っておけばよかった。
- 2004/06/10(木)
しごとちゅうにねつがでてきた。ざんぎょうできるじょうたいではないので、きたく。じめんがふわふわ
して、からだがちぢむようだ。まんしょんのえれべーたーにのったが、ぜんぜんうごかない。よくみ
ると、1Fのぼたんをれんだしていた。そうとうひどい。なにもかかないのは、きになるので、なんとか
これだけかいた。ねりゅ。
- 2004/06/09(水)
今、通勤電車の行き帰りで、鹿島茂(フランス文学者)の「セーラー服とエッフェル塔」というエッセイ
を読んでいる。あまりに面白いので、電車を降りてからも歩きながら読んでいるくらいだ。どういう内
容かというと、著者が疑問に思ったことに対して、仮説を立て、それを検証していくという筋立てで、
テーマ自体(「SMと米俵」「セミとキリギリス」「ビデ」「皮と革」「由緒正しい戦争」など)の面白さはも
ちろんなのだが、何より魅かれるのは、著者の学者らしい洞察の深さである。
一見すると、奇抜で、すこしエロティックに見えるテーマに隠れてしまうのだが、文献や歴史を丁寧に
さかのぼり、論を展開していく様は、立て板に水の如しで、その文章はあたかも著者の思考を追体験
するかのようだ。他人の頭のなかを見たい、そう思うことがある。それを実現できるような本である。
読了していないのに、これほどいれこんでしまうと思わなかった。著者は、別の著作でサントリー学芸
賞を受賞しているのだが、わたしはこの賞をとっている人の本には、無条件降伏してしまう性質があ
るようだ。(文春文庫、524円)
***
今朝の読売新聞の朝刊、よみうり寸評だったとおもうが、梅雨に入ったということで、雨に関する詩が
いくつか紹介されていた。そのなかに、八木重吉の「雨」があった。男声合唱をやっていた人なら、聞
いたことがあるかもしれない。多田武彦が曲をつけたあの詩は、読むもののこころになにものかを残
さずにはいられない。ひさしぶりに目にふれたので、紹介しておきたかった。
「あめのおとがきこえる/あめがふっていたのだ/あのおとのようにそっと、よのためにはたらいて
いよう/あめがあがるようにしずかにしんでゆこう」
***
無意識にハミングしていることがある。声に出して歌が歌えないような場所で、メロディを楽しみたい
ときにはそうだ。それが突然、大きな音になって耳に届くことがある。そう、ホールでもない、街の中
でだ。もともと響きやすいとはいえるが、地下街の通路や、職場の空きスペースなどでである。実家
の自分の部屋でもそうだ。
どこでもひびくわけではなくて、ある一点で音を出したとき、すごい共鳴が得られることがあるのだ。
偶然にその一点を見つけられたときは、にやっとしてしまう。意味もなく、そこで、ハミングを繰り返し
たりすることもあるが、その一瞬だけを楽しんで、さっと通りすぎることもある。今日、烏丸の駅の東
口と西口を結ぶ通路の一点で、その場所を発見した。
ハミングをしながらポイントを見つけるさまは、まるでアクティブソナーを打つ潜水艦のようで、思い出
すと自分のことながら笑ってしまった。いや、さがしてたわけじゃない。偶然見つけたんですよ。偶然。
- 2004/06/08(火)
数日前に買ってきた電池が机のうえにほったらかしにしてある。電池の名前は「オキシライド」。
Panasonic(松下)の新しい乾電池である。パッケージが変わったとか、ネーミングが変わった
わけではなく、マンガン電池、アルカリ電池に続く、まぎれもなく、新しい乾電池なのだ。TVCM
で、人の乗ったモーター駆動の小型車を2本の単三乾電池で駆動するというのをやっているよう
に、持続力とパワーがアルカリの数倍あるという。
近所のカメラ屋で買ったのだが、値段はアルカリと一緒の単三2本で300円。ちょうど、マグライト
の電池が切れていたので、それに使うことにした。さぞかし、明るくて、長持ちするに違いない!と
期待しつつ帰宅。そして、丹念にパッケージの裏を読む。
話がそれるが、わたしはこの手のパッケージなどの注意書きが好きなので、くまなく読む。注意書き
にも良し悪しというものがあって、それは注意事項をきちんと伝達できているか、という観点ではなく
いかに、活字中毒者の目を楽しませてくれるかの一点で、評価が決まる。つまり、ありきたりのPL法
の注意事項しか書いていないようなものは、読むに値しない、というか退屈だ。
その点、このパッケージには普通ではないことが書いてあったので合格点だ。ひとつは、「世界初、
土に還るパッケージ このパッケージはトウモロコシが原料の植物系生分解性プラスチックからでき
ています。」おお、これはすごい。(なんだか、この電池の宣伝をしているみたいだ!まあ良し。)
ふむ、ふむ、まだあるな。注意事項に目をやる。「この電池はパワフルであるため、豆球式ライトに
使用しないこと。豆球寿命が短くなる場合や、豆球取り付け部が高温になり、変形するおそれがあ
る」。
なにー!!マグライトに使うつもりで買ってきたのに、使ってはいけないと!?
というわけで、そのまましばらくほってあったのである。ほかに特に電池で駆動するものがないという
か、パワーを実感できるものがないのだ。乾電池式のラジコンなどあればいいのだが。しかし、なんと
なく、やってはいけないといわれればやってみたくなるもので、日に日に積もった好奇心が、コップい
っぱいになったので、実験することにした。豆球が切れたから買えばいい。変形したら、どうしよう。。
というリスク覚悟で。
おお、明るい。あかりをつけた室内でもその光りがばっちり見える。さいわい、一瞬光って、球がきれ
るということにはならず、安心。寿命の方はわからんが。しかし、よく考えると、比較対象となるものが
ないので、本当にアルカリよりパワフルなのかわからない。我ながらまぬけだ。科学者(的精神の持
ち主)としては、ここはきちんと「計測」し、アルカリと比較せねばなるまい。照度計はないが、カメラの
露出計ならある。アルカリの新品を買ってきて実験してみようと思う....が、よくよく考えれば、この電池
のパワフルというのは電圧の問題ではなくて、連続放電電流量なのだ。となると、やはりモーター製
品で確かめるのが筋なんだろう。マグライトで確かめるなら、点灯時間計測ということになる。
うーむ、なにかてっとりばやく、両者の違いを実感できる比較法はないものか。大電流を使うようなも
の。思案中。
- 2004/06/07(月)
わたしの住んでいるマンションの界隈には、都市部なのでやはりマンションが多いのだが、夜、
帰宅するときに気になるのが、窓の明かりである。単純に、蛍光色か、電球色かどちらかという
ことを見てしまうのだ。
昔から、蛍光灯の色は好きではなかった。蛍光灯のあかりのなかにいるときは、そうでもないの
だが、外からそのあかりを見ると、なんとなく「うら寂しい不安な気持ち」に駆られる。蛍光灯の光り
は、基本的に太陽のひかり、つまり昼の光を模しているはずなのだが。色そのものよりも、周りの
闇との対比において、そう感じるのかもしれない。蛍光灯のあたる部分とあたらない部分では、
電球色の場合のそれとくらべ、コントラストが高いのだろう。その分、闇が引き立ってしまう。
昔から、こわがりなのだ。
私の部屋のあかりは、そういうわけで電球色のボール型電灯(数十ワットで、100ワット相当のや
つ)である。部屋で、デジカメで本の写真を撮ったりする場合、補正が必要になることをのぞけば、
やはり、こちらの方がいい。ところが、「景観」的に見た場合、蛍光色が多いマンションの灯り、ある
いは、電球色が多いマンションの灯りよりも、両者が適度に同じ程度にまざった灯りの「景色」の方
が、より美しく感じるのだ。私の場合。
マンションの窓というのは、どの部屋でも基本的には同じつくりなので、個性がない。だから昼間
はのっぺり見える。ディティールの凝っているところはそうでもないが、少数だ。ところが夜になる
とその画一性が消えて、個人個人の「灯りによる個性」がともりだす。これらはまったくランダムで
あって、予想しえないものだけに、ときとしてすばらしい全体を生むことがある。窓の形は同じだが、
異なる色が並ぶという、統一と非統一が同居する不思議で、美しい景観。(と私は思う。)
古都と呼ばれる京都において、マンションは常に景観上の敵とされている。それにはむろん同意
するべき点が多いけれど、夜、その姿を見たとき、「美しい灯りの配置」を見つけられたとき、すこし、
マンションも捨てたものじゃないでしょ、と本当に控えめな主張をしたくなることがある。
- 2004/06/06(日)
午前中TVをつけると、「各地で梅雨入り」というニュースがあり、ざーざー雨が雨が降っている映
像が。それをみたわたしは「あぁ雨かぁー、どこもでかけられへんなぁー」と単純に考えてしまった
のだが、よく外を見ると、京都は雨どころか、晴れていたりするのだった。あぶない、あぶない。
目の前の事象を見ずに、TVの映像を現実と一瞬でも信じてしまったのは、寝惚けてたからとは
限らない。
で、晴れていたので、あるカメラのテスト撮影のために出かけることに。場所は宇治の三室戸寺。
紫陽花や、蓮の花で有名なお寺。いままで、行ったことがなかったのと、BKの練習にこのまえ
きていた京グリ出身の新人が、「ひまなもんで、自転車で行ってきました。蓮が好きなんですよ〜」
と言っていたのが耳に残っていたから。
京阪宇治線の三室戸駅から徒歩15分。気になったのだが、ところどころのローマ字表記が、「み
むろど」であったり、「みむろと」であったりで、統一されてない。いったいどっちなんだ。とそんな
些細なことが気になるほど、まわりには何もない。私が普段撮るような写真は、山や花のような
自然写真ではなく、都市のなかの古びた遺物であったり、化石であったり、知り合いのポートレー
トであったりする。その点からして、ここにやってきたのは失敗だったかも知れない。
花や、山の写真というのは、あとで見ると、「ふーん」で終わるようなものが多い。見て感動するよ
うな自然写真というのは、壮絶なロケハンのもと、誰も見たことがないポイントを最初に見つけた
ひとだけの特権みたいなもので、誰もが行くようなところで、それほどの写真を撮るには、よほどの
観察眼がいると思う。私の意見だが。山の写真を見て、哲学的な思想を思い描くよりも、その人物
や時に思いを馳せたり、都市のなかで、誰とも知らぬ人が作り上げた遺物をみて、その過去を思い
えがいたりするほうが私には向いている。
三室戸寺につくころには、梅雨どころか、カンカン照りで、帽子を持参すべきであった。寺の拝観料
500円。紫陽花は確かにきれいだし、蓮(花はまださいていない)も壮観ではあったが、よくできた
ジオラマみたいにみえてしまって、自分的には得るものがなかった。というか得ようという気持ちに
ならなかった。
暑さによる疲れと、失意のうちに適当に道をあるいて、京阪宇治駅へ。宇治橋からみる宇治の山々
は美しく、それだけが唯一の救いだった。でも、山の写真は撮らず、逆行のなかにそびえる二本の
煙突を撮った。美しい...とはいえないかもしれないが、写真を撮らねばならないのは、なぜかそちら
だと、私の視神経が囁いた。(←ちょっとかっこつけてみた。)
- 2004/06/05(土)
昨日の不整脈(心室細動)の後遺症で、最悪の目覚め。血の巡りがおかしくなるようで、全身
肩こりみたいな感じなのだ。むろん、合唱なんて無理なので、NCは休むしかない。だいたい
大阪までいく体力がないのだぁ。
夕方まで、薬を飲んでは寝るの繰り返し。ちっともよくならないが、おなかはすくので、でかける
ことにした。米を研ぐ元気もなければ、48分待つのもつらいのだ。ご飯を食べるまえの栄養補給
にカメラ屋に行き、中古品を眺める。「ボーナス入ったら、M3に手が届くなぁ」と、頭のなかで、
ひとりごちる。
2年ほどまえ、金沢に撮影旅行に行った際、まちの定食屋で夕飯を食べていると、隣の席に、
若い女性がやってきた。そしておもむろに、カウンターにおいたカメラを見ると、なんと!ライカM6
のブラック(高いカメラ)。ライカのことをご存知の方には説明不要なことだが、M3からM5へと続く
"ライツ社"のカメラと、"ライカ社"のカメラであるM6は同じようで違う。ただ、やはり高いカメラがはな
つ威圧感のようなものがあって、そのおねいさんに「M6触らせてください」といってしまいそうだっ
たのは憶えている。
後に、大阪のカメラ屋で、M3、M6の両方を触る機会があったが、手で感じる質感そのものからし
て、両者の間にそうとうな隔たりがあった。M3のほうが古いから良い、というわけではなくて、M3
の遺伝子が、M6では完全に絶たれているような感じがした。似て、非なるもの。書割のような。
非連続であることが問題ではなくて、いかにそのものの持つ、命脈を保つかということが大切なの
だと思う。その良い方の例が、日本のコシナが作る、「ドイツのフォクトレンダー」なのだろう。
その後、主食たる本屋へ赴く。写真集コーナーを物色していると、エスカレーターホールから、女性
の大きな声が聞えてきた。「もうっ!あんな本読んでるなんてっ!信用できひん!」ときた。最初は
ふざけあったり、照れ隠しみたいなものかと思ったが、口調からして、本気で怒っているようだった。
一緒にいた男性が何か言ったかどうかまでは聞き取れなかった。ここは、ジュンク堂4F。理工学書、
数学書、コンピューター書、建築書、音楽書、藝術書。その上の5Fは学習参考書のコーナーだ。彼
女を怒らせるような本がこのなかにあるのか?「信用できひん」という言葉も気になった。宗教書の
類なら、下の階のはずだ。想像をめぐらすといろいろと楽しそうだったが、少し朦朧としていたので、
それ以上の詮索はやめた。
手にしていた武田花のエッセイの立ち読みを続ける。母親の武田百合子ゆずりの味わいのある文章
にくすりと笑ってしまう。購入してから、喫茶コーナーで少し読む。気がつくと、目の前のガラスにうつっ
た自分がとても穏やかな顔をしているのに気がついた。いつの間にか、しんどさがなくなっていた。
だから、本屋が好きだ。
- 2004/06/04(金)
おかげさまで、「電波暗室」一周年です。
自分というキャラクターを日常的な側面からしってもらおう、と半ば、いやいまでもそうですが、
ほとんど内輪むけにはじめた暗室も、一年経ってしまいました。わたしは文章を書くのに時間
がかかるほうなので、この暗室で、スピードアップの訓練をしようなどと当初は考えていまし
たが、気がつくと、会社から帰宅後のほとんどをここに費やしていたりしたこともありました。
ごらんのように「日記」のような、考察のような、弱音のような場所ですが、毎日ここを覘いて
いってくださる方があるおかげで、今日も更新しよう、明日も書こうという気持ちになれました。
ありがとうございます。これからも、気が向いたら寄って行ってくださいませ。
そして、たくさんの方に見ていただいているなか、申し訳ありませんが、代表して、ハーボットに
いつも足跡を残していってくれる、"なつこ"さん、"あいしん"さん、に特に感謝を。本当にありがとう。
あなたがたの足跡があると、いつもほっとします。
管理ができないので掲示板を置いていません。これは!、と共感できるネタなどありましたら、
メールをいただけると幸いです。近くの方は、むろん、直接話していただいても結構です。
みなさん、これかもよろしく。m(_ _)m
今日の雑感
おNEWのメガネで、BKに行ったのだが、練習前後はおろか、宴会でも「あっ新しいめがね!」
と声をかけてくれた人がひとりもいなかったのは悲しかった。いや、YKのKatoponさんは気づいて
ましたが、BKメンバーからひとこともないとは。メガネ部がひとりもいなかったからかなぁ。
悲しみのあまり(うそ)、この文書を書いている途中で、持病の心室細動になってしまいました
(マジ)。苦しいので、寝ます。風呂上りのアイスは危険。
- 2004/06/03(木)
一日、NEWめがねをかける。なんとか仕事はできるレベルになったが、やはりつらい。朝、頭痛薬
を胃薬なしで飲んだのがいけなかったのか、アリナミン7との食い合わせが悪かったのか、目の疲
れの相乗効果もあってか、会社のトイレで吐いてしまう。最近、いろいろあって、胃にストレスがか
かりっぱなしだったのを忘れていた。明日からは胃薬は必携である。
子どものころから、どうも平衡器官が弱いらしく、乗り物酔いをよくした。いまの状態は、まさにそんな
感じだ。前のめがねに変えたときも、しばらくは慣れなかったが、あのときは院生になる前の春休み
だったので、助かっていたようなものだ。
乗り物酔いするのはきまって車だった。電車ではよほどのことがないと酔わなかった。あと、乗ると
確実に酔うのだが、船は好きだった。いまでも好きだ。特に大きな船だ。大人になると知恵も付き、
お金もあるので、乗るときは必ずアンプルタイプの酔い止めを乗船時間分必ず用意して乗る。車に
しても、船に乗るにしても、こどものころは薬なんぞ買うお金はないし、「しんどい」などというと親に
怒られる(!)ので、ずっと我慢して死にそうになっていたものだ。子どもの身分では、しんどくても
旅先から逃れるすべがなかった。
人間誰しも、子どものころは早く大人になりたい、と一度は思ったことがあると思うが、私の場合、
その理由は、酔うものから逃れる、逃れられないときは薬を準備する、それが自由にできる、その
ために大人になりたかった。渇望していた。院生になって、グリーを離れ、自由な時間とすこしの
お金ができたとき、私はとにかく、旅行した。とつぜん決めて、突然出発し、自分の行きたいルート
で行き、疲れたら休み、おなかがすけばご飯を食べた。これが、旅行なんだ!乗り物酔いを回避
しながら自由に楽しめる、これが旅行なんだ!と、あのとき、旅の楽しさを実感したような気がする。
この文章を読んでいる人で、パートナーや、子どもが、乗り物酔いになったら、決して怒らないで
あげて欲しい。やさしくしてあげてほしい。いやな顔をしないであげてほしい、と思う。屈折した大
人になってしまうから。旅の楽しさを分かち合えないから。乗り物酔いから逃れるために、大人に
なりたいなんて欲望を持つのは、子どもには辛すぎる。
- 2004/06/02(水)
有給休暇。
散髪に行く。非常に混んでいる。店員さんに聞くと、この土日の暑さで、切りに来る人がどっと増えた
とのこと。
めがねを買いに行く。すいている。今かけているものと同じ度数にしてもらったのだが、やはり、
レンズの厚さや、目からレンズ面までの距離、視野率なんかがかわって、違和感がある。目が疲れ
る。せっかく、けいぶんしゃ一乗寺店までいったのだが、本をじっくり見ることができず、早々に帰宅
する。本当は、このあと映画を見に行くつもりだった。6/4までだったので、もう見ることができない。
目薬をさし、保冷剤で目を冷やす。じょじょに慣らしていく。
めがねは、道具でもファッションでもない。顔の一部でもない。体の一部である。臓器移植をした場合
と同じように、以前の「組織」(旧めがね)になれた体は、新しい組織に対して、免疫作用が働かせる。
つらくても免疫を克服をしなければ、新しいめがねとは一体になれない。免疫抑制剤(目薬、保冷、頭
痛薬)を服用しながら、そのときを待つ。そうすれば、血が通い、骨となり、ともに人生を歩む仲間とな
る。
- 2004/06/01(火)
月が替わったという感慨があまりない。6月はつゆの季節であるが、5月にはすでに大雨がつづい
ていたし、冬のような寒さであったり、初夏であったり、真夏日であったりしたので、6月だから!と
おもい起こせる季節感が乏しい気がする。かつては衣替えの日として、いやいまもニュースなどで
は取り上げられるが、最近では6月をまたずに衣替えする会社なども増えてきた。わたしなどは、極
度の暑がりであるので、早々に夏服に着替える性質であるが、今年はその見極めができずに困っ
たが、結局6月を待たずに夏服にしてしまった。
これで6月に空梅雨だったりした場合、6月はどういう位置づけになるのか心配である。6月では、
まだ祭りには遠い。泳ぐには早い。行楽にでかける休みもない。映画もぱっとしない。6月に何か
ないか?- 何かある。何もないように見えるときにこそ、大事ななにかがあるはず。小説の惹句
みたいだけれど。
6月に誕生日の友人がいる。自分の方法で、その人に何かしら、喜んでもらえることができれば、
その人にとっても、自分にとってもいい6月をすごせるような気がする。
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