Division2 "Diary"

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電波暗室 2003/07

  • 2003/07/31(木) 「寝過ごす」

    病み上がりなのに、個人の努力ではさけられない仕事というものはあるもので、15:00〜21:30
    まで、途中休憩10分!で、ほとんどぶっ続けで取引先と話をしていた。商談ではなくて、技術
    的なレビュー。こっちがレビューされるほうでないだけ良かったが、レビューするほうも当然気が
    抜けない、というかこちらが手を抜くと、そのしわ寄せがのちのち自分にくる。というわけで、帰り
    は結構くたくた。気がつくと降りる駅を過ぎていた。

    中学、高校ともバス通学だったので、帰りのバスではよく寝過ごした。気がつくと車庫にはいっ
    いたりしたこともある。京都なので、ひとつくらい乗り過ごしてもたいした距離ではないが、定期
    の範囲を超えるときっちり料金を取られるのが痛かった。大学のときはなぜか寝過ごしたこと
    は一度もない(と思う)。異常に時間に厳しいクラブ(グリークラブ)に入っていたせいか?

    社会人になって寝過ごしたのは今日がはじめてではない。JR山陰線ではよくやった。ローカル
    線なので、帰りの電車がくるまでに40分とかあったりして、冬などは死ぬかと思った。その点、
    通勤を阪急に変えたことは良かったと思う。それにしても寝過ごすときの睡眠の心地よさといっ
    たらない。反面気づいたときの気持ちの動転具合は、その比ではないので、なぜか損した気分
    である。いつまでも寝過ごし続けられる通勤列車というのがあればいいのだが。あ、阪急伊丹
    線などは、駅数がすくなくひたすら折り返し運転なので、最適かも。


  • 2003/07/30(水) 「お菓子」

    結局、寝ている羽目になった。

    今日先月なくなった大伯父のきみあけだった。親が大伯父のうちからたくさんのおもりものを
    持ち帰った。その中からいくつから選ぶと、「う〜む、ええとこもっていくな」と変なところで、
    感嘆されてしまった。そう、わたしは和菓子には鋭い嗅覚を有しているのだ。昔から洋菓子より
    も和菓子派。洋菓子は嫌いではないが、クリームなどが、胃にもたれるのであまり食べられな
    いのだ。(でもコーヒーゼリーは好き。)

    和菓子で好きなのは、やはり水無月。それから水羊羹。なかでも竹筒に入っていて、錐で空気
    穴を開けて、ちゅるっと吸い出すタイプは最高だ。最近は、プラ容器に竹の絵がプリントしている
    やつがあるので、注意が必要。あとはそば饅頭、あじゃり餅など。割合にたんぱくな味が好みだ。

    むろん嫌いなものもある。月餅がまずだめ。いろいろ入りすぎてるのがちょっと。それからきんつ
    ば。あまりおいしいと感じない。あとは最中がだめ。小豆はすきなのだが、最中のぱりっとした皮
    あれが、クチのなかでもしゃもしゃして、水分が、水分がぁすいとられるうぅぅぅ感覚がだめなの
    だ。そういう点では、わたしのなかで洋菓子のクッキーと同系列にある。お茶がないと食べられ
    ないのだ。お菓子はああ、これにお茶がつくといいね、くらいがいいもので、「お茶でくちをゆすぐ
    」ようなのは独立したお菓子としてはどうかなーと思うのだ。まあ、これは個人の好み。

    和菓子の欠点は、単価が割合高いこと。日持ちしないことがある。だから会社の休憩のときに
    おはぎを食べている人というのはあまり見かけない。会社が町中にあればそんなこともできる
    のだろうが。いやそれどころか、会社のデスクでは飲食が実はできない。休憩室にいかないと
    だめで、みんなが休みそうなときには、たいがいごった返していて、とてもそんなところで優雅に
    茶などすすってられない。

    坪庭なりをながめて、極楽のあまり風でも吹く町屋のなかで、あるいはごった返すデスクのなか
    でうずもれながらも、ほっとひといき、お茶の時間、というのが良い。近代化されすぎたビルで
    は、なかなかそういうことができないのがつらいところである。

    わたしの定位置は、6階の売店の外の非常階段わきの大きな窓のそば。そこから外を眺める。
    別にたいしたものは見えない。山であり、工場であり、町である。別段きれいなわけでもない。
    目を休めながら、野菜ジュースを一缶。せめてここらから見える風景がもうすこし風情のあるも
    のであればなあ、と思いながら休んでいる。


  • 2003/07/29(火) 「ダウン」

    仕事をしていると、急に熱っぽくなり、頭が重くなってきた。どうやら、風邪をひいてしまったらし
    い。前にも書いたが、自律神経失調気味だったこともあり、突然発熱したり、微熱がつづくことは
    よくあった。で、普段ならそのまま無理をして仕事を続けていたと思うのだが、今日はすっぱり
    仕事をやめて、帰ることにした。案の定、帰るにつれ症状が悪化。あのまま続けていたら帰るに
    帰れなくなっていたに違いない。

    4月に大きく体調を崩して休職するはめになってから、こういうちょっとした兆候に敏感になった
    ように思う。以前であれば限界がどこにあるのか見えなかったのが、これは「ヤバイ」「これは大
    丈夫」の境界線がずいぶんとはっきり自覚できるようになったと感じる。そういう意味では病気を
    したことは(まだ完治していないが)自分の体にとっても良かったのかもしれない。仕事のやり方
    をすこし変える転機にもなった。転んでもただでは起きない、くらいの精神が必要だなあと思う。

    というわけで、薬を飲んで小康状態のうちにこれを書いている。さて、明日はどうなるか。


  • 2003/07/28(月) 「お生花(おしょうか)」

    夕ご飯を食べ、玄関に行くと仕事を終えた母が花を生けていた。「どうや、このお生花?」と、言
    うので見てみると、見慣れぬ花だ。少し幅のある分厚いささのような緑の葉(万年青と似ている
    と思ったが、少し違って、葉がしゃきっと立っている。)に、オレンジ色のつつましやかな花がつい
    ている。

    この花は、「緋扇」という。緋という名前なのに、花は緋色ではないのが不思議だ。母によると、
    京都でしか生けられない花であり、しかも祇園祭の期間しか生けないものだという。(よく誤解さ
    れていると思うのだが、祇園祭は7/1〜7/31までの一月間が祭りの期間である。)しかし、祭りも
    終わりというこの時期になって、なぜ?と聞くとどうやら、祇園祭ピーク時には花の値段が高いそ
    うなのだ。どうりでいままで生けてるのをみたことがないと思った。

    今日生けていたのは、患者さんの花屋さんに「センセのとこやったら花生けたはるから」ともらっ
    たものらしい。患者さんさまさまである。生け終わってから、ここが正面や!と解説される。ここが
    天、地、人、この天のところに肩をたらす...などといわれるがさっぱりである。ただ、流れる線の
    美しさだけは理解できたのと、書道の筆遣いのようなものが華道にはあるらしい、ということは
    わかった。

    しかし、生まれてからずっと京都に住んでいるのに、いまごろそういうことを教えられるとはおも
    わなかった。この分だと、まだまだ知らない京都の流儀というものがありそうな気がする。
    「お月謝はろてくれたら、(華道も茶道も)なんぼでも教えたげんで」と言われたが、身内だと容
    赦がないような気がするので母にならうのはコワイ。

    たしかに、今この時期にそういうものを身につけるのは悪くないなと最近思っている。私達は、
    安易に国際化を語るほど、日本の文化を知らないと思えるからだ。華道も茶道も、ただ花をいけ
    たり、お茶を立てるだけのものではなく、総合芸術といえるほどのいろいろな和の要素を含んで
    いる。それらは、日本の文化の結晶なのだろう。

    しかし、いまは合唱で手一杯なので、なかなか新しく始める気にはなれないのも事実。あいか
    わらずずぼらなのだった。


  • 2003/07/27(日) 「宝塚II」

    世界一になってしまいました、なにコラ。

    今日は、宝塚2日目のグランプリコンクール。合唱団まい、Ensemble Vine、Taipei Male Choir、
    Moravian Chamber Choir、そしてなにコラの順に演奏。この演奏は20分以内で、さらに自身が
    出場したカテゴリー以外のジャンルから、5分以上曲をやらないといけないという規定。

    なにコラは、Beati Mortui,Die Nacht,Dalvi Duoddar Luohtiを加えた計6曲。さてどうなるか?
    と思い、順に聴いていった。合唱団まいは、昨日のシェーファーと、ルネッサンスの曲。これが
    すごい。いきなり「心臓の耳のあなを耳掻きで掃除してもらっている」ように心臓にひびいてく
    るすばらしい歌声とハーモニー。いやあ、こっちのジャンルの方が真骨頂だったのか。もちろん
    シェーファーももう一度堪能。

    さて、ほとんど身内のVine。う〜む、非常に心地よい。耳をすませて、このまま休んでいたい。
    そんな優しさ。主張しすぎない、どこかが突出しない、パートに乱れがない、バネのようなゆる
    やかなで、確実なつながり。昨日の演奏の曲から大きく変わることはないけれど、それが逆に
    安定感を感じさせる。こころなしかリラックスしてたかな?実は私は昨日、最前列に座っていて
    (そこしか空いてなかった、と言い訳)、今日は意識して同じ席に。なんとなくそこがいいような
    気がして。あとから、メンバーに聞くと、「同じ席にいてくれてなんだか安心した」とのこと。ただ
    の聴衆のひとりだったのに、どうやら役に立てたらしく、こちらもうれしい気持ち。

    さて、さてこのあとはTaipei Male Choir。とにかく活きがいいのに、乱れず。はじめからおわりま
    で倍音に包まれていた。彼らとは、表彰式のあと、会場の外でVineを中心に歌の交流会やら、
    写真撮影とすっかり仲良くなってしまった。なにコラがその場で歌った、「斎太郎節」の楽譜を
    送って欲しいとのことで、日本の曲をいくつか送ることに。それにしても、彼らは積極的だ。Vine
    の女性メンバー(仮称:Tさん)に、「わたしと一緒に写真をとってくれませんか?」と日本語で、
    話しかけて、2ショット写真を。さらにすかさず名刺まで差し出している。(ぬおー)これが皮切り
    になって、なんだか双方で撮影会合戦に。いやー楽しかった。

    おつぎは、Moravian Chamber Choir。あちらの国ではおそらくセミプロだと思われる。演出も
    うまい。ただ、今日はちょっとプログラムビルディングで損をしたかな?という印象。うまい合唱
    も、同じ調子が続くとすこし飽きてくる。しかし、ここの合唱団には昨日大変お世話になったの
    だ。前に書いたが、いまやっているスロヴァキアの曲を朗読してもらってそれを録音させても
    らった。今日はお礼に、相撲の浮世絵扇子と、唐草模様の手ぬぐい、そして「侍」Tシャツをお
    土産がわりに差し上げた。とくに「侍」Tシャツが大うけ。いやー喜んでもらえてよかった。

    さて、なぜかとりをつとめるなにコラ。演奏が始まる。お、今日は力が抜けて良い感じにまとま
    りができている。実は昨日の宴会の席で、「どうせ海外二団体が、上位2つを独占する。なら
    ば、ここは、でれるだけでもめっけもん。開き直っていこう」という方針を採択したのだった。

    昨日の曲につづき、Beati,Die Nacht。良い雰囲気に会場が包まれているのがわかる。そして、
    飛び道具、Dalviの登場。この曲、とても文章では説明できない。でもソロがとても重要な役割
    を占める。今日は、例によってM川氏とK賀氏。突然、フィンランド帽子を取り出すM川氏、びっ
    くりする客席にかまわず、何語からわからない言語(笑)でなにやら人探し。おや、K賀氏をみつ
    けたようだ。無理やり帽子をかぶらせる。嫌がっていたK賀氏が豹変。「レオー、らいらー、レオ
    ラらいらら、らいレオらいらー」と高らかにうたい始めた!客席に問いかけたり、挨拶したり、その
    間も音楽はすすむ。きわめつけは、強力ベース金○氏によるホーミー発声!!

    終わった瞬間、大絶賛。この拍手だけで、今日歌った甲斐があるんじゃないかと思えるほど。
    表彰式のあと、金○氏はタイペイのメンバーにサインぜめに合ったらしい。

    結果。一位、なにコラ、二位タイペイ、三位Vineという大どんでん返し。これはメンバーの分析な
    のだが、各ジャンルの曲の歌いわけについて、なにコラが比較的うまかったのではないか、とい
    うこと。それからやはりDalviで会場を沸かせたことが、有利に働いたのではないか。

    いずれにせよ、こんなに音楽的に充実した2日間はこれまでなかったように思う。聞いているほ
    うも歌っているほうも、体の奥底まで、音楽の素が染み込んでいった、そんな日だった。つかれ
    ているのに活力があふれてくるのはなんとも不思議だった。

    課題はあるけれど、宝塚メンバーはお疲れ、おめでとう。そして、ありがとう。
    Vineメンバーもお疲れ、おめでとう。ありがとう。


  • 2003/07/26(土) 「宝塚」

    今日は、宝塚国際室内合唱コンクール、通称「たからづか」の日。今年から、カテゴリー区分
    がかわり、ルネッサンス・バロック、古典・ロマン派、近・現代部門というくくりに。わがなにコラ
    も出場。(私は歌ってません。)さきに書いたように、アンサンブルVineも出場。

    いやあ、宝塚をちゃんと聞くのははじめてだったのだが、とにかく濃密な時間だった。合唱連盟
    の全国コンクールなどだと、聞いていてつまらないな、と思う演奏がわりあい多いと感じるのだ
    けど、宝塚はどの団体もとてもいい音楽を聞かせてくれる。技術的にシビアにみれば、うまい団、
    それなりの団、とあるのだけど、それぞれの合唱団の持ち味のようなものが、どの団もよく表現
    されていて、聞いているほうも、それが感じられて実に楽しかった。一団、一団じっくり感想を
    書けるくらい、どこも印象に残っている。

    近・現代の演奏だけでいうと、一番印象に残っているのは、合唱団まい。シェーファーの、
    "A Garden of Bells"という曲だった。とても不思議で、軽やかな曲をとても素直に表現していた
    のが良かった。技術的なものも相当高かったとも思う。あとは、Vine。関係者が多いという身び
    いきを抜きにしても、よい演奏だったと思う。他の団体が、よくもわるくも「日本的な合唱」であっ
    たのに対して、いっぽぬきんでていたように思う。まさに磐石のソプラノ、決して支えを失わず
    それでいて重くないアルト、このふたつに、男声が違和感なく溶け込んでいる。普通なら、女声
    が鉄壁すぎると、男声は相容れないものだ。

    さて、結果だが意外にも、近現代で、なにコラが金。(ほか2団体あり、海外の招待団体。)
    そして、まいとバインが銀(まい、はルネサンスで金を受賞。)だった。なにコラはわが団なが
    ら、悪い演奏をしていたわけでもないし、きちんとした演奏だったが、賞をいただくほどのもの
    か?というのが正直な感想。バインの上を行ってしまったのが不思議だ。やはり混声が続くな
    かの男声ということで、それが有利に働いたのかな?

    しかも、なにコラ・バインとも、明日のグランプリ・コンクールに出場が決まってしまった。
    いや、ありがたいことなのだが、今日、みんな宴会で酒飲めないじゃん!明日は明日で、次の
    日仕事だから飲めないしなぁ。うれしいやら、かなしいやら、大変です。

    聞くほうも疲れたー。明日も頑張って聞きに行くぞー。


  • 2003/07/25(金) 「絶対」

    日曜から作っていたVineのCDを焼いているときに気づく。「あれ、INDEXひとつ多い?!」。
    あわててCDにかけてみると、1曲だぶっていることが発覚。「○△%$&#!!」。
    幸いまだ6枚だ。やり直せる。いちから出直しや!と思い、ダブっている曲を削除したとき、
    さらに気づいた。「あれ、この曲削ったら...一枚に収まるやん...。」

    実は、昨日どうやってもCDが焼けないので調べると、7分弱オーバーしていたのだ。くそー、MC
    ながいんだよっ!ジャケットもうつくったじゃん!ということで、泣く泣く2枚に分けたのだ。しかも
    2枚に分けたので、そこから2枚目のジャケット+1枚目の修正をかけた。もうやけくそ。

    しかし、実は...というわけで、無力感倍増とどっと自責の念が。(○川さん、一瞬でもうらんだりし
    てごめんなさい。)気づいた時点で、ジャケットは全部プリンタで刷ったあとだったので、もういち
    ど、修正前の1枚目を刷って、切って、折る気にはなれなかった。Vineの皆さん、ごめん。

    しかし、なぜ昨日はまったく気づかなかったのか不思議だ。ものごとには絶対というものは、ない
    のだとつくづく思った。「絶対間違っていない」と思うこと自体、間違いの始まりなのだ。人間は、
    ミスをする。これまで仕事でもいやというほど経験してきたはずなのに。忘れてしまうのもまた、
    人間なのだよ、とごまかしてみたりする。

    さきほど、絶対はない、と言い切ってしまったが、新潟の工場に出張すると、これまで100%の
    確率で、立ち上げが遅れて、電車がなくなり、直江津に泊まるはめになっている。絶対はある
    ような気がしてきた。こんな絶対はいやだ。

    おまけ
    VineのCD、Vol.1,Vol.2のジャケット


    ちなみにロゴマークは、Vineのひとに頼んで、わたしは色だけつけました。


    表は色違いで、手抜きと言わないで。


  • 2003/07/24(木) 「いいちこ」

    いいちこが好きなのである。酒はのめないが、いいちこが好きだ。正確には、いいちこのポスタ
    ーが好きだ。2〜3ヶ月に一回、駅に張り出されるA0のポスター。どこか見知らぬ風景、海、船
    のへさき、いいちこが一瓶。そして短いことば。「雲の行く方へ」。

    大きな画面にほんの少しの言葉。さがさないと見つからないようなちいさな瓶。なのに、これほ
    ど印象に残る広告がほかにあるだろうか。これほどさわやかな風がこころを通りぬける広告が
    あるだろうか。

    わたしにとって、いいちこのポスターはもはや広告ではなく、都市の風景である。春夏秋冬、か
    わりつづける都市の風景。


  • 2003/07/23(水) 「LAST EXILE」(C)Victor Entertainment

    今日のタイトルはまんまアニメのタイトル。このアニメにはヴァンシップという小型飛行艇やら、
    空中機動艦隊やらが出てくるのだが、そう世界観でいうと「ラピュタ」そのものだ。おそらく製作
    しているひとも意識したであろうし、オマージュのようなものを感じる。産業革命時代のような、
    いかにもメカメカ、エンジンエンジン、蒸気蒸気、六分儀六分儀した世界、そして、空を自由に
    飛ぶこと。そんなこんながギュっとつまっている。

    私自身、空を飛んだ経験はないし、夢のなかでも飛んだことはないはず。車を運転しないのに、
    運転する夢はやたら見るのだが。こわがりだし、高所恐怖症なので、およそ空を飛ぶ憧れとい
    ったものとは無縁に思えるのだが、こういうアニメを見ると、心が躍るのは、いったいどういう
    心の作用によるものなのだろうか。そういうふうに思わせた時点で、製作者の勝ち!で、すな
    おに白旗を上げたい気持ちになる。

    自動車だって運転には相当高度な技術を要すると思うのだが、昨今はオートマ車が増え、イグ
    ニッションですら、ボタンひとつのものが出てきた。こうなると、もう機械を自在に操る感覚という
    ものは薄れ、子供でだって動物でだって運転できそうな気がしてくる。

    それに比べると、三次元航行が可能な潜水艦や、ヘリコプター、そして飛行機というものは、
    そうは簡単にいかない。三次元にありながら、三次元を把握することの難しさは、高校時代、
    体育の時間にやった「展開跳び」でいやというほど経験した。だから、機械を自在に操るさまを
    たとえアニメであっても見せ付けられると、「より高度なもへ挑戦すること」への本能的な敬意
    と憧れが沸き起こるのだと思う。

    機械を自在にあやつるということは、操縦する自分自身を操るということに他ならない。どうすれ
    ば、自分の体が動き、どこまでが限界なのか、そういうことをつきつめる。これは合唱がまさに
    そうだと思う。自覚して、声をだすということ。それが思うがままにできるのが理想だろうと思う。
    元手はいらないのだから、まずはやってみるかと思う。


  • 2003/07/22(火) 「日時の表記」

    この暗室の更新はだいたい22:00〜23:00が多いのだが、ときには日付が変わってからと
    いうこともある。合唱の練習のあとそのまま飲み会に行った場合などは、たいがい午前様に
    なるので、金・土はそうなることが多い。

    しかし、日付が変わってからの更新であっても、更新日は前の日付にすることにしている。
    これには理由というか、自分で決めたポリシー?があるからだ。つまり絶対的な時間で、日時
    を測るのではなく、生活時間を基準にして考えるということ。簡単にいうなら、起きている間は、
    「今日」であり、寝てしまって以降は「明日」なのである。

    この考えは、深夜帯のTV番組、特にアニメ番組の時間表記に顕著に現れている。というのも、
    深夜1:50や、2:30、ときには3:25などという時間帯に始まる番組の宣伝をするとき、「明日1:50」
    などとやると、あれ?これっていつ?と瞬時に判断しにくい。今日の昼なのか、明日の晩なのか
    それとも明日の昼なのか。そこで、こういう場合、「25:50」というようにあらわすのである。あくま
    で、今日という時間のつづきであることを示して、わかりやすくしているのだ。

    なんだ、そんなこと、と思われる方もいるかもしれないが、深夜生活が多い、「大きなお友達」
    にとっては今日というのは、だいたい27:00ごろまでなので、生活感覚に密着した合理的な時間
    表記といえる。

    ふだんの生活でも、深夜0:00をすぎて寝る前に、さあて明日の天気は?とか、明日の予定
    は?というように考えると思う。0:00をすぎたからといって、急にさて今日の天気は?と考え
    なおしたりしないと思う。

    ところが、これを律儀にやっている人たちがいる。NHKである。(ほかの報道機関もそうかな?)
    0:00のニュースを見るとき、さて今日はどんなニュースがとこっちが思っていると、「昨夜」とか、
    「昨日未明」などと、11:55のニュースとはきっぱり読み替えてくれるので、調子がくるってしかた
    がない。まあ、なかには0:00から一日が始まるという生活習慣のひともいるだろうから、文句を
    いう筋合いはないのだけれども。

    追記:Vineのジャケットづくり完了。あとは印刷・切り・折りだけだー!


  • 2003/07/21(月) 「スロバキア語」

    今日は、いま練習しているスロヴァキア語の曲の発音を調べに市立図書館へ行ってみた。
    合唱連盟のハーモニーという雑誌に、チェコ語の発音講座が載っているので、これを参考に
    しているのだが、発音法則を読んでみても読み方がわからないものが多いのだ。

    さっそく辞書コーナーに行く。一冊だけチェコ語日本語辞典があった。ほかの言語に比べると
    かなり薄い。ある程度予測はしていたのだが、発音記号がない。うーむ。ま、ないよりはなし
    と思い、訳だけでもとおもい、楽譜をひらいて作業にとりかかる。

    それから3時間。半数以上が空白。原因のひとつは単語が載っていないこと。題名にある単語
    ですら特殊な言葉なのか載っていない。もうひとつは、ヨーロッパ言語によくある格変化だ。
    名詞、形容詞、比較級、動詞、あらゆる場面で規則、または不規則に変化する。規則変化の
    バリエーションだけでも、5x2=10格くらいあるようなのだ。辞書を引く前にまず、文法を理解しな
    いといけないことを痛感。なにコラの翻訳を手がけている前○さんは、やっぱりすごいと思う。

    とにかく格変化?と思われるものは単語の前後の意味などから類推してメモしていく。しかし、
    これはやっかいだ。辞書のまえがきにあったが、1994年にこの辞書がでるまで、チェコ語の
    日本語辞書は存在しなかったそうである。そんな具合だと、スロヴァキア語の辞書があるか
    どうかはかなり疑わしい。この辞書が出る前は、チェコ語英語辞典を使っていたともある。
    しかし、市立図書館ごときにそんなものがあるとは思えない。これはやっぱり大学図書館か、
    国会図書館へ行かねばならないか...。

    以前スウェーデン語の発音がわからなかったとき、なにコラでは大学の留学生を捕まえて、
    テープに発音を吹き込んでもらったり、ネイティブのひとをつてのつてで、探し出して発音指導
    してもらった。今回もそうなるのか。今日使った辞書は京都産業大学出版会のもので、ここに
    は、チェコ語の教室(日本では最初に開講)があるらしいので、そこをたずねることになるか。
    チェコやスロバキアの文化というものは、文学・音楽ともに日本に結構入ってきているのに、
    その言語を知る手段があまりにも貧弱なのは、なんとももったいないことだと思う。

    断片的な単語の訳でわかったのは、この曲がどうやら、民族の独立をうたったものではないか、
    ということ。「魂」「炎」「農奴」「悲しみ」「訴える」「親愛なるひと」「力」そして、「われわれの国」
    という言葉続く。チェコとともに、ハンガリー、オーストリア、ドイツ、マジャールといった国、民族
    に支配され続けた国。演奏会でもやったエストニア語の曲でも、民族の願いといったものがこ
    められていたように思う。そういった国々には力強い、そしてすぐれた合唱曲が多いような気が
    する。ヨーロッパの複雑な国家の成り立ちと、合唱音楽というものは、深いかかわりがあるのだ
    ろう。


  • 2003/07/20(日) 「編集」

    今年春3月に録音したアンサンブルVineの演奏会テープを編集する。4ヶ月も経っているが、
    Vineは活動が不定期ということもあっていままで伸ばし伸ばしにしていた。今年、宝塚室内
    合唱コンクールに出場するので、それにあわせて渡せれば、と思い編集を始めた。

    編集という作業は実に地味なもので、DATデッキで演奏しながら、PCでWAVE録音をする。
    いっぺんに録音すると、PCがハングするので、一曲ずつ演奏しては録音、ファイル名つけ、
    保存を繰り返す。拍手の部分と演奏の終わりが重ならないよう、気をつけながらヘッドフォン
    で曲を聴く。音楽が終わり、拍手までのわずかな間、空気が弛緩する雰囲気を聞き取り、
    切れ目を入れる。これがなかなか難しい。よく知らない曲だったりすると、曲中のわずかな
    隙間を曲の切れ目と勘違いする。(2回くらい失敗)

    こうやって全曲WAVE化すると、曲が16、MCが16となった。ちょっとMC多い...聞いてて
    わかってたけど (^ ^;.MCが多いと実は大変。

    で、これで編集が終わったわけではなく、WAVEファイルを再生して、録音レベルをチェック。
    しかるのち、前後の余分な部分をカット。これを全32ファイル。ううっ、やっぱMC多いよ〜。
    これを順番にならべて、CDに焼いてマスター完成。

    この後が問題。今現在、まだできていないのだが、ジャケット作りが控えている。タイトルだけ
    ならべたお気楽なジャケットでは、録音請負人としては納得がいかない。自己満足の世界な
    のだが、きちんとしたジャケットがあるのとないのとでは、受け取った人の印象が段違いなの
    だ。インデックスシートにタイトルだけ書かれたCDケースでは、ほかの一般CDとならんだとき
    見劣りがするし、その他大勢に紛れこんでしまう。せっかくの演奏のCDなのだから、ライブラリ
    の一部として棚にならんで欲しい。そういう思いがある。

    しかし、今回の演奏は3月。タイトルは「春が来たよコンサート」。う〜むである。時期を完全に
    逸してしまった。いまさら桜をモチーフにしたものなど使ってよいもか?あるいは季節感を感じ
    させないデザインにしてみるか?「マドリガル」「日本の歌」「現代曲」からはなかなかイメージ
    がわかない…。Vineはぶどうだよね、となると葡萄デザイン、と考えると、合唱団「葡萄の樹」
    ともろにかぶってしまうし。

    いずれにせよ、明日くらいには仮デザインをしないと来週の土曜日に間に合わない。当日より
    も前日の方がいいかな?とか思うともっと急ぐ。なにせCDは手焼きの8倍速。ジャケットは
    家庭用のインクジェットでしこしこ印刷したあと、ケースサイズにきりとりきりとり、山折り山折り
    の作業が待っている。このあたり同人で突発コピー本を作っている気分になる。しかもひとり
    で。ああ、どうしよっかなー。誰かいいアイデアください。さて、今から画像ライブラリでつかえ
    そうなのを探すとするか。

    (おまけ)
    葡萄の樹でこれまで作成したジャケット画像をば。自分では結構気に入ってます。
    デザインはもろ素人ですが、ないよりかはあったほうが。なにコラではなぜかここまで
    気合が入らないんだよなあ。(笑)





  • 2003/07/19(土) 「夏のはじまり」

    夏というものがいつ始まり、いつ終わるかと問われれば、私の場合、今日始まって、8月の
    17日に終わる、と答えるだろう。(理由は図書室にて。)

    さて、今日はふらふら歩いているうちに心斎橋のロフトにたどり着いた。というか、トイレを
    さがしていたので、ラッキー!と思いさっそくなかへ。用を済ませた後、上から順に見て回る。
    あったあった、夏コーナー。浮き輪、水鉄砲、花火。さがせば蚊取り線香もあるやもしれぬ。
    夏の風物詩というのは、他の季節とちがって、どれもきらきらと輝いて見える。

    いろいろ見て回ったあと、文具コーナーで絵葉書をみつけた。あさがお、金魚鉢、すいか、
    ふうりん、昆虫採集(?)、いろんな図案。「そうだ、暑中見舞い書こう。」(JR東○みたい)
    気に入ったものを2枚買う。ひとつは自分用。ひとつは送るため。

    いつ送ろうか?どこから送ろうか?あれこれ考えて、私の「夏」の最盛期に送ることに決め
    た。場所は、そう上野・谷中・根津・千駄木のどこかから。気の向くまま、汗だくになりなが
    ら歩いた後、銭湯にでもはいって、コーヒー牛乳を飲んだあとにしよう。

    はがきを一枚送るだけなのに、なんだかわくわくしてきた。


  • 2003/07/18(金) 「デジカメプリント」

    金曜日というと、"I just ごまぁ〜金のごまだれ〜"のCMを思い出してしまう。どこかのメーカ
    ーで、傑作CMばかり集めたDVDなど作ってくれないだろうか。地方CM編、だじゃれ編な
    ど、いろいろバリエーションができそうだ。

    さて、水曜日の宴会で撮ったデジカメ映像をプリントするために、烏丸のKinko'sへ行く。フジ
    フィルムの回し者ではないが、これだけデジカメの画像がきれいになると、「画像」から
    「写真」にしてみたくなる。デジタルなものは、うつろいやすい。これから何年、何十年ったあ
    とに、今のデジカメの画像フォーマットがPCに表示できるという保証は必ずしもないだろう。
    1995年に、CASIOのQV10が登場したが、このフォーマットが表示できるツールは、もはや
    公式には存在しないはずだ。(いまのデータはたいがいJPEG、つまり国際標準なのでそん
    な心配はないかもしれないが。)

    印画紙というアナログなものに固定された画像は写真へと変わり、特別な装置がなくても、
    ずっと見続けることができる。いつでもどこでも見ることができる。そんな安心感が心地よい。
    デジタルBOOKの規格ができて、ずいぶん経つけれども、なかなか普及しないのは、紙の
    本に打ち勝つだけの安心感がないからだろう。

    さて、デジカメプリント、それこそ最近ではあちこちでできるようになったが、その質に関して、
    ものによってかなり差があるのを感じている。街で見かけて、おすすめできるのは2つくらい
    しかないと思う。ひとつは、フジ純正のデジカメプリント。これはもう画質、印画紙、どれをとっ
    ても文句のつけようがない。時間が経っても色あせないのはもちろん、紙がまったくゆがま
    ない。

    わたしはお気に入りの写真を、パソコンの液晶モニターの保護パネルと本体の間に差しこん
    で、立てているのだが、他のプリントが熱や湿度でカールしてくるのに、フジプリントだけは、
    まったくたわまず、直立のままなのだ。欠点は時間がかかること。早くても2時間、場所によっ
    てはラボにだすので、中1〜2日かかるようなところもある。

    一押しなのが、意外にもCASIOの"Let'sPhoto"という青いベンディングマシン。本当に意
    外だったのだが、まず画質。発色がかなりいい。ほかのマシンでありがちな画面の「くすみ」
    がほとんど見られない。これだけでかなり○。そして、10種類以上のメディアに対応している
    ところ。SDカードがあるのがうれしい。それから忘れられがちな点だが、メディアからの画像
    読み込み速度が、他のものの256倍くらい早い。いらいらしないのだ。ちょっと余所見してい
    る間に一覧表示されている。

    もっとほめるぞ。あとは、プリントが早い。一枚6秒弱しかかからない。合唱団の写真などは、
    結構たくさんの人にあげるので、助かっている。あと、結構どうでもいいことなんだが、写真
    を入れる専用のエンベロープが、用意してあること。ビニールの袋よりもしっかりしているし、
    ひとにあげるときに重宝する。さいごに、このエンベロープに印刷されているマスコットキャラ
    の、「くまちゃん」(名称不明なので勝手に命名)のイラストがラブリーであること。なごみます。

    なんだが、雑誌のレビュー記事みたいになってしまった。まあ良し。さて、今日プリントした
    写真を、合唱団の皆に渡す。ふふっ、と笑みがこぼれる。つられて私もふふっと笑う。やっぱ
    り写真はいいなと思う瞬間。


  • 2003/07/17(木) 「ひとかどの」

    『ひとかどの人物ならば、ひとかどの文章を書くものだ』。丸谷才一の著書の中で、丸谷氏の
    師匠か、友人かが語った言葉が載っていた。

    毎日、新聞を読んでいるなかで、必ず目に留まる記事がある。人生相談というやつで、400字
    くらいの相談に、日替わりで作家や映画監督といった相談員が回答するというもの。ここによ
    せられる相談というのは、それはもう「未だにこんな考えのひとがいるのか」とか、「なんてば
    かな相談なんだろう。」と思うものが少なくない。記者の創作なんじゃないかと疑いたくなる
    ときもある。それに律儀に応えなければいけない相談員は大変だ、と思う反面、もうちっとま
    しな回答はないのもか?と、相談よりも回答が心配になるときもある。

    相談員は、作家、映画監督、弁護士の回り持ちで、弁護士の先生のときは、法律相談が主
    であり、回答も明快だ。あとは、男女夫婦の関係のもつれ、子供・親の話、少年少女の悩み
    が多い。どれも答えにくいものだが、作家というような文章を生業にしている人の回答ほど、
    あまりぱっとせず、精彩を欠く。読んでいるほうは、相談と回答のくだらなさにダブルパンチを
    受けた気分になる。

    そんな記事なのだが、ある期間だけ、読むのを心待ちにしていたときがあった。半年ほどの
    短い期間だったが、ある相談員の回答が、実に明確かつ、合理的、理知的、それでいて「読
    み応えのある」文章で、少年少女の悩みには共感を持って接し励まし、バカな親の質問には
    一刀両断、溜飲の下がるすがすがしい叱咤を下し、常にその文を読むひとを、相談するひと
    だけでなく、部外者までもをも、感嘆させ、共感させ、引きつけさせ続けた。

    その相談員の名は、藤原正彦。お茶の水女子大学教授。数学者。その明晰な文章は、数学
    者だから、というものあるだろうが、もとより氏には文章の才能があり、ある著書では賞も受
    賞している。その素養は、やはり親譲りのものか、氏の両親は、新田次郎、藤原ていのふた
    りである。

    新田次郎はもとより作家だったわけではない。作家の前の職業をご存知だろうか。気象庁の
    ある部署の課長で、あの富士山頂レーダー設置の指揮をとった人物だというのだから驚く。
    息子の正彦氏同様、文章とは違う畑のひとであったのだ。

    『ひとかどの人物は、ひとかどの文章を書く』。藤原氏の文章はまさにそうなのだ。また、文書
    だけでなく、NHKの人間講座「天才の栄光と挫折、数学者列伝」での講義は、文章以上に
    表現に富み、氏の豊かな人間性を感じさせるものだった。

    ほかに、本業が文筆業以外で、そういう人というと、資生堂名誉会長の福原義春氏が思い
    浮かぶ。氏の文章は明細で、赫々としていて、読むものの襟を正させるような清廉さを備え
    ているように思う。さすが日本を代表する企業の長たる人であるなと思う。

    果たして、自分の会社の「ひとかどの立場にある人々」は、それほどの文章や、語りをもって
    いるのだろうか?それをわれわれに示していてくれるだろうか。「ひとかどの文章」に出会う
    たび、そう思わずにはいられない。


  • 2003/07/16(水) 「お箸の国のひとだもの」

    今日は、祇園祭の宵山。過去、これほど宵山が涼しかったことはないというくらい、気温が低
    く、風が気持ちいい日だった。お祭りということもあいまって、浴衣姿の人が多かったと思う。
    しかし、見惚れるほどの浴衣姿(もちろん女性)っていうのは、いままであまりお目にかかった
    ことがない。どこかちぐはぐしたものを感じる。それは、今日、お祭りの日だけ着てみました!
    という感じがありありと見えるからだろうと思う。だから、普段着と違う、ハレの衣装(本来は
    違うが、今日的には)のはずなのに、かえって普段着の方がきれいなんじゃないかなーと、
    思えたりすることがある。

    宵山だからというわけではないが、今日は合唱団の仲間と小宴会(中、大宴会もある)をして
    いた。そこへ、近くに来ていた、同じ合唱団のある女性が顔を見せに立ち寄った。彼女が姿
    を見せた途端、息を飲む。見惚れた。ハッとした。どきどきした。きゅんとした。どんな言葉も
    うまくいいあらわすことができないくらいの感情。彼女は、藍地に桔梗(?違う)の花柄の
    浴衣に、緑と黄色の帯、そして指には水風船という姿だった。

    きりっとした立ち姿、ぱりっとした浴衣地。でも窮屈そうじゃない。本当に彼女と浴衣が息を
    ぴったりあわせているかのように自然で、無理がない。でも艶やか。

    彼女は着物の会社に勤めていて、普段でも機会があると着物を着て練習に現れたりする。
    会社がそうだからという以上に和装が好きなのだ。だから、良く似合う。着物だからといって
    重たく着ない。とても軽やかに着る。今日は浴衣だから、余計に軽やかだけど、でも同時に、
    きりりと締まっている。相反する要素をほんと何気ないふうに同居させる。すごいことだと思う。

    姿形で人は判断できないとはいうけれど、姿形にはその人の人となりがよく現れる。
    彼女の一面を、めいっぱい感じることができて、私も含めてその場皆が幸せな気分を感じて
    いた。(普段着もきれいなんですけどね。)

    はっ!宴会のことを全然書いていない。まあたまにはこんなのもありかな。


  • 2003/07/15(火) 「声明」

    私の部屋は2階の一番奥にある。家の裏側は10年くらい前から駐車場である。音の流れ
    というものがあるのか、家の裏の通りの物音はほとんど、この駐車場にまで聞えてくる。
    当然うるさいのである。朝は、うらの真向かいの家の子供から親からがあわただしく、
    昼間は、おばちゃんが井戸端会議をし、夜は青少年がたむろしたりする。だからたまにある
    平日の休みなどでも窓は開け放たず、なるべく閉めている。

    しかし、そんな対策をいともたやすく通りぬけてくるのが托鉢の声明である。家から自転車で
    10分ほどのところに、臨済宗の総本山「妙心寺」がある。そこの托鉢僧がときどき巡回して
    くる。「お〜〜、お〜〜」と腹の底から声明をひびかせながら、托鉢僧はやってくる。子供の
    ころは、編み笠を目深にかぶったそんなお坊さんたちが、非常にこわくて、おっかなびっくり
    で、おもちや、100円玉を渡していたものだ。

    托鉢僧が回ってくると、さあ今日は休みだし、ゆっくり朝寝でもと思って、全然眠れない。夢
    の中まで聞えてくる。そんな声なのだが、ここしばらく聞いていると、あることに気づいた。
    なんとなく声が浅い。そして、高い。子供のころに聞いた声とあきらかに声質が違うのだ。
    妙に甲高くて、線も細い。重量感が希薄である。

    思うに、日本人男声の声質というものが、変化してきているのではないだろうか。それも
    高いほうに。5〜6年前、どこかの大学の先生が、男性歌手、女性歌手の歌のキーを調べ
    たところ、男性はあきらかに高く、女性は低くなっているという結果が出たと新聞に書いて
    いた。ちょうどスピッツや、ミスチルが流行ってたころだと思う。その傾向はいまでも変わっ
    ていないように思う。

    高いのが悪いわけではないけれど、お坊さんの声明はやっぱりある程度、どっしりとして、
    艶があって、すこし低めの方が聞いていて気持ちがいい。どこから声だしてるんや!と思
    うような声明を起き掛けに聞くのはちとつらいものがある。

    さて、声明のない日と、平日の休みが重なった日であっても油断はできない。毎月1回、
    我が家の菩提寺の和尚が、お参りに来るのだ。我が家の仏間は、私の部屋の真下である。
    和尚の声だけならまだしも、木魚に鉦のパーカッションがついて、たっぷり30分。知らずに
    休みをとって、さあゆっくり寝るぞと思うとたいがい当たる。そういうときは合掌したくなる。


  • 2003/07/14(月) 「天気予報をみない」

    今日は、ひさしぶりに普通の体調だったので、調子にのって仕事をしていたら、眉間が
    痛くなってきた。まだ無理はできないなあと思う。以前、定時後に5時間も仕事をしていた
    なんて自分でも信じられない。というわけで、いつもよりちょっと遅めに帰る。

    さて、昨日の晩も今日も非常に涼しく、たいへんありがたい。明日はどうなんだろうか。
    そういう時は、天気予報でも見れば良さそうなものだが、わたしは昔から天気予報を見な
    い人間なのである。べつに天気予報を信じていないとかそういうのではなくて、日常の生
    活で、明日は雨が降るとか降らないとか知ってもあまり動じないたちなのだ。予定があれ
    ば雨でもでかけるし、予定がなければ家にこもっているだけの話。

    そもそも通勤鞄には必ず折りたたみを入れている。持っていないときほど、直撃弾を浴びる
    ので、晴れていても持っていく。天気予報を見ない理由はもうひとつあって、TVをあまり見
    ないからだ。特に朝は絶対に見ない。

    朝、おきてから会社に行くまでの行動はパターン化されている。なぜパターン化されている
    かというと、会社に間に合うぎりぎりの時間まで睡眠しているからだ。至極単純な理由。
    だから、パターンが狂うようなことはあまりできない。秒単位で管理しているわけではない
    が、だいたい駅には同じ時刻につくし、会社にも1分以内の精度で到着するから不思議だ。

    が、朝のTVというものは、どうも私の体内時計と合わない。TVの「音声」を聞き流している
    つもりでも、あっという間に時間がたっていく(気がする)。わたしは、朝家で目覚めた時点
    では完全に覚醒しておらず、通勤で時間をかけているうちに目覚めていく。そして、その
    覚醒の度合いと時間の関数は非常に傾きが緩やかな一次曲線でないといけない。
    ところが、ここに外的要因が入ると、脳が急激に活性化するのか、体と脳がうまくあわない
    のか、自分のなかの時間と「外」の時間のずれが大きくひらいてしまうように感じるのだ。

    これはTVに限らず、家族が複雑なことを話しかけてきたり、近所の人が急にきたり、患者
    さんから予約の電話が入ったり(我が家は鍼灸院なのだ)しても同じで、なるべく朝はそう
    いうものからとおざかりながら起きていく、という非常にとっつきにくい人間になっている。

    これが休日であると、まったく別で、予定があると非常にびしっと、しっかり目が覚める。
    でもTVはつけない。休みの日、朝早くでかけるときに、家族が起きてきても、寝床に追い
    返してしまう。一人で、食事を食べ、予定にあわせて出かける。なんのことはない、休みの
    日でも自分の違うリズムがあるだけで、自分のリズムをくずしたくないだけなのだ。特に
    朝は。だから、休みの日の前日でも当日でも天気予報はめったに見ないのだった。


  • 2003/07/13(日) 「左手右手」

    風呂に入っているときに、「そういえば今日は出かけなかったので歯をみがいてないな」
    と思い、風呂で歯を磨くことにする。いつもは朝しか磨かないのだ。そのとき、ふと思いつ
    いて、利き手の右手ではなく、左手で磨いてみる。

    とうぜんながら慣れていないというか、良く考えると生まれてこのかた、左手で歯を磨いた
    こが一度もないので、磨き方そのものがわからない。いつもなら、なにも考えずに右手が
    パターン化された動きをするのに、左手になった途端、力の入れ加減から、持ち方、動き
    の順番まで、まるでちぐはぐになってしまう。

    素振りというものがある。スポーツの世界にいた人ならだれでも経験したことがあるはず。
    あれは何も知らないひとが見れば、無駄な努力みたいに見えるのかもしれないが、パタ
    ーン化したうごきというものを完全に体にしみこませてしまうと、局面局面に応じて、体が
    自然に反応し、無敵化するらしい。思考的な部分を、戦略とか、もっと高度な部分に、集
    中できるというわけだ。「声に出して読みたい日本語」で知られる斉藤孝氏が、学生時代
    ずいぶんと研究して、運動部の友達にアドバイスしていた、とどこかで読んだ。

    歯磨きのパターンは、何かにすごい役立つということはないだろうが、普段使い慣れない
    利き手とは逆を使うというのは、脳細胞の活性化には良いのではないかと思う。体の右
    側の運動をつかさどるのは左脳である。左脳は言語や論理的思考をつかさどるという。
    反対に左側をつかさどる右脳は、イメージや芸術的な部分をつかさどるといわれる。左利
    きの人は、わたしがこれまで見てきた人たちのなかでは、どこかしら異彩を放っていて、
    天才肌ですごい才能の持ち主とかが多かった。左脳とか右脳の働きと無関係というわけ
    ではないと思う。左利きの人はたいがい子供のころに右利きの矯正を受けるらしく、両利
    きであることが多い。そうすると左脳も右脳も使っているので、なんだか昔からうらやまし
    かった。(いろいろ苦労があるようなんですが。)

    といっても、最近はパソコンで文字をうったり、プログラムミングするには、両手を同時につ
    かうので、それなりに左手は使っていると思う。しかし、これはそれほど繊細な動きではな
    い。歯磨きから初めて、ゆくゆくは箸、つぎは文字を書くレベルまでいけば、ものすごく右脳
    を使うのでは?と単純なことを考えてみる。


  • 2003/07/12(土) 「思い立ったが」

    早いもので、もう7月の中旬である。日増しに高まる祭りの予感。祇園祭の主役、山鉾の
    鋒建てが始まった。今日は夜風が気持ちいい。

    さて、今日も今日とて合唱の練習の前に本屋にいったわけである。特にめぼしい新刊は
    先週買ってしまったので、今日は本棚をじっくり眺めてみる。ひょっとしたらすばらしい出会
    いがあるやも知れぬ。

    そこで目に留まったのが、赤瀬川源平著の「路上の神々」。赤瀬川氏は作家であるが、
    路上観察学会の創始者のひとりとしても名高く、「超芸術トマソン」など、日常生活空間の
    なかに、「何か」を見つけてしまう達人である。手に取り、まずはまえがきを読む。おもしろ
    い。平易な言葉で、「神」と、われわれが常日頃歩いている「路上」の関係と、それを写真
    に収める自分との関係をつづっている。(くわしくは図書館で)

    この本はフォトエッセイみたいなもので、類似の書籍を氏は何冊かだしている。不要不急の
    本である。今日どうしても買わないいけない理由もない。いちど棚にもどし、ほかの本をあさ
    りはじめる。どうにも、まえがきの印象が鮮烈で、気になって集中できない。一度そういう状
    態になったら、とまらない。結局、目線がその本の前にもどって、再び手に取っていた。

    本というものは、今度買えばいいや、というのが一番危険である。その本をもう一度みつけ
    られる保証は実はあまりない。日々出版される本の数に比べて、本屋さんのスペースは
    圧倒的に足りないのである。本というものは一部をのぞき、取次ぎから本屋に渡され、売れ
    残るとそのまま取り次ぎに返本される。本屋が買い取るわけではないのだ。つまり、場所ふ
    さぎの本は、期間がたつと、「ハイ、それまでよ」なのである。

    それに、初版が出たあと重版がかかる本というのは結構限られている。初版かぎりというは
    めずらしくない。たいがいは売り切れたらおしまいである。だから、この本欲しい!と思ったら
    親や友達に借金してでも、その場でその本を買わないといけない。苺、もとい一期一会なの
    である。買わずに後悔するより買って後悔せよなのだ。身銭を切ることで選別眼がやどるよ
    うになる。このあたりは、骨董の世界に通ずると思う。(もともと本には「古書」というジャンル
    もあり、そちらは新刊なんぞよりもっとシビアである。)

    本屋は収穫を待つぶどう畑といえる。われわれは刈り取り人である。ひとつひとつ丁寧に、
    でもすばやく収穫しなければならない。そして、豊穣なワイン(知識・情報・教養・ひまつぶし)
    となるよう、本の神様に祈るのだ。収穫のときを誤らぬよう、今日も私は本屋に通う。


    『愛する人とめぐりあえたら、握りしめた腕をゆるめてはいけない』
    "しあわせについて" by さだまさし



  • 2003/07/11(金) 「名簿」

    合唱団の名簿が配布された。名簿の改訂は久しぶりである。わたされた瞬間、みんな下
    を向いて、読み始める。そう、どんなに普段、本を読まないようなひとであっても、名簿には
    ひとをひきつけて離さない魔力がある。学校名簿くらいの規模になると、2時間くらいゆうに
    読んでしまう。暇つぶしの王者である。

    最初は、気になるあの娘の住所をさがし、つぎは誰か家の近所の人はいないかとなり、次は
    おっ!こいつとこいつスゴイ家近いとか、同じ住所や、あ兄弟か!とか、ああこの住所やった
    らこういう通勤・通学経路か、などと楽しみ方は無限大。

    名簿の種類によって、特色のあるステータス欄があり、それも楽しみのひとつだ。合唱団の
    名簿には「学生」欄がある。う〜む、こうやってみると学生が多い。そしてAltoにはひとりし
    か、学生がいないな。それから携帯メール欄も面白い。みんな迷惑メールよけに、PCメー
    ルにくらべるとかなり工夫を凝らしている。また、アドレスから携帯電話のシェアがわかったり
    もする。

    そもそも、なぜ学校は名簿を配るのだろうか。サークルや合唱団はわかる。連絡がとれない
    と困るから。でも学校はたいがいみんな毎日、学校に来て顔をあわせるし、年賀状を送るくら
    いしか、使い道がないように思う。名簿は読むと楽しいけど、ひとによっては知られたくない
    情報もある。どこにわたるかわからないという不安もあるし。

    大学のとき、ある先輩が言っていた。DMなんかで、自分の名前や住所がどこから漏れたの
    か?を調べるために、住所や名前に連番をつけてみようと。たとえば、「山D○○A」「山D○
    ○B」というように、書くたびに末尾を変えるのだ。公的な書類に使えないのと、場合によって
    は相手が気をきかせて削ってしまうことも考えられるので、実現性は低いが。でも名前に(C)
    とか、TMとかついてたらみんなびっくるするだろうなあ。いまでは「娘。」なんてものもあるが。

    ところでふと思ったのだが、外国の学校や、サークルにもこういう名簿というものはあるのだ
    ろうか?洋書というものは、丸善にいけば売っているが、さすがに名簿はうってない。
    日本みたいにDM向けの「名簿屋」なんてあったりするのだろうか。未だ見たことがない。


  • 2003/07/10(木) 「トゥルーマンショーとマスコミと視聴者」

    どうにも安直なタイトルをつけてしまった。今日、BSシネマでジムキャリー主演「トゥルー
    マンショー」をやっていたので途中から見た。(以下ネタばれあり。)

    あらすじはというと、ごく普通のサラリーマン、トゥルーマンは毎日規則正しい生活を送り、
    愛する妻もいて、幸せな生活を送っている。だが、実はトゥルーマンが住む「世界」は巨大な
    セットのなかで、彼の生活は24時間生中継で全世界に放送されていた!そして、それを知
    らないのは彼一人。彼の妻も、親友も、両親さえも「役者」だったのだ...。あるとき、死んだは
    ずの父親を街で見かけた彼は、この「世界」に疑問を抱き始める。

    ラストは、想像がつくように、トゥルーマンがこの世界のおかしさに気づき、脱出する。ここま
    でストーリーを言っても、この映画の面白さは失われないと思うので、あえて書いた。つくら
    れた世界から脱出する主人公、ということで一見、感動スト−リーのように思われるだが、
    そうではないのは明白。マスコミと視聴者に対する痛烈な批判が込められたブラックな映画
    なのだ。

    ラスト5秒にこそこの映画のメッセージがこめられている。トゥルーマンの脱出により、突然
    放送は終わる。それまで、脱出しようとするトゥルーマンを熱狂的にTVの前で応援し、脱出
    したときに喝采を挙げた人たち。彼・彼女らは、その後どうしたか?「TVガイドはどこかな」。
    ここで、映画は唐突に終わる。

    放映されている間、視聴者はトゥルーマンの日常を見て笑い、トゥルーマンが困難に立ち向
    かおうとすると、ともに興奮し、その姿に涙した。でも、番組が終わった途端、それまでの感
    動はどこかへ行き、別のTV番組を見始める。

    なんだか、その当時の、いやいまの日本のTV番組とそれを見ている人と同じだと思った。
    当時、私はこれを映画館で見たが、そのとき感じた気持ちと今日感じた気持ちは同じだっ
    た。当時、TVでは確か猿岩石の世界一周の旅などが、放映されていて、TV番組の主流
    は「人に(むりやり)感動を与える」ことだったように思う。

    TVを見ているひとは、自分はなんの苦労することなしに、「感動」の上前をはねているのだ。
    だから、TVが終わった瞬間、その感動は自分のものでないことを知り、忘れてしまう。そし
    てマスコミは懲りずに決まりきった感動ストーリーを演出し、これが「感動」と押し付けてくる。
    これはいまでも変わらない。素人をバスにのせ、世界中を旅させて、恋愛させる、そんな番組
    がある。トゥルーマンと違って、彼らはそれが放映されていることを自覚している!そのうえで
    「恋愛」とか「友情」を放映する。たちが悪い。

    映画が公開されてしばらくして、雑誌に「ジムキャリーが熱演するも、感動は少な目」などと
    書かれて憤慨した。「感動」するための映画じゃない!マスコミには、この映画がマスコミ
    社会に対する批判だとは気づいていないのだ。そして、なんでも「枠」に押し込めて理解しよ
    うとする。それは、「愛」であり、「友情」であり、「涙」であり、「感動!」といった「枠」だ。枠を
    超えるものを、ゆがめ押し込めてしまって、正しく理解しようとしない。

    そしてわれわれ視聴者も、それにまんまと乗せられる。他人が汗水たらしてえた情動を、
    すくいとって、自分のものにしてしまう。

    では、真の感動とはなんだろうか?映画を見て、泣いたり笑ったりすることは「本物」じゃな
    いのだろうか。ドキュメンタリーを見て、読んで、悲しんだり、喜んだりするのは「ニセモノ」な
    んだろうか。その答えは難しい。境界線がどこにあるのか、それともないのか、うまく説明で
    きない。でも、答えらしきものを考えると、その感動が、自分が得たその感動が、そのひと自
    身にとって、何かきっかけになるとき、何かの行動をうながすようなとき、なにかエネルギー
    となるとき、それは上前じゃない、自分の感情、自分の感動なのではないかな?と思う。

    「つぎ」につながるか。そこで終わってしまわないか。それが違いのような気がする。

    ここまで書いてきて、私は、非常におこがましいことを考えていると思う。正解なんてありは
    しないのだろう。人の数だけ考えや感情や感動があって、それを追究すること自体、「枠」に
    押し込めている。でも考えてしまう。考えるのをやめられない。感情を素直に受け入れられ
    ないひねくれた人間なのだろうか?


  • 2003/07/09(水) 「坂道」

    今日、NHKのニュースの終わりに、渋谷の交差点の模様が映っていた。私は渋谷があまり
    好きではない。街そのものが怪しげで、好きになれないといった類のものではなく、いや、そ
    れも少しはあるのだろうが、地形的なものだ。渋谷駅前は、いろいろな通りが交わっている
    のだが、それら通りの一番下の部分、つまり坂の真下に位置する。

    だから、渋谷駅からどこかへ出向こうとすると、ほとんど必ず坂を上らねばならない。そして、
    釜の底ともいうべき渋谷には人が密集し、さらに底へ底へと、ひきずりこまれるような錯覚を
    覚える。ひきずりこまれないためには、上らねばならない。上った先になにかあるか?という
    と何かがあるわけでもない。そこで何か閉塞感のようなものを感じて息苦しくなる。

    私は、坂の底よりは、坂の上から見る景色が好きなのだ。そして、坂の底にいても、坂のうえ
    に上れば何か明るい景色が見えるだろう、という希望があるとき、渋谷で感じるような閉塞感
    はない。東京でいうならば、神楽坂や、駿河台の風景は都市にありながら、一種の枯山水の
    ような土地の造形が、私のこころを和ませる。

    京都のような、北部と南部で20mほどの高低差しかない、平坦な土地に長年すんでいると、
    時として、坂道のある街に強くあこがれる。坂道のうえから見る景色を想像し、毎日その景色
    をみながら、通勤する自分を想像したりする。その分、坂に対する注文もうるさい。渋谷のよ
    うな「釜の底」はなんとなく受け付けないものがある。

    他の土地でいうならば、やはり神戸や、横浜のような海が見えるところが最高だ。いままで
    で、とりわけ気に入ったのは、なんといっても尾道である。尾道水道を望むその町並みと坂
    は、とても穏やかで、きつい坂ばかりにもかかわらず、人を安心させる何かを感じさせた。
    迷路のような道であっても、常に上と、海の方向に空が開けているから、不安を感じない。

    いつかは、そういう場所に住んでみたいと思う。でもなかなか京都という土地を離れることが
    できない。愛しながら、憎んでいるといったところだろうか。都会にあこがれるといったものと
    はまた違う、私の憧憬のひとつ。それが坂道。


  • 2003/07/08(火) 「映画館あれこれ」

    京都朝日シネマがなくなって、しばらく経つ。この映画館はわりと思い出深い。いわゆる、
    ロードショー映画とは違う、単館系映画を上映する映画館として、15〜6年前?に京都に
    登場した。それほど頻繁にではないが、高校時代から足を運んでいた。

    ここの映画館で好きだったのは、待合所の壁だ。隙間がないほど、貼られた映画のポスター
    やチラシは、ひとつひとつ見るだけで楽しく、時間つぶしにもなったし、次はこの映画をみよう
    かな、といろいろ想像したりもした。この「壁」は、大学構内の掲示板のようで、商業的なセン
    スよりも、同好会的な雑食精神が優先された感じがして、とても活き活きしていた。同じ単館
    系の上映が多い、恵比寿・梅田ガーデンシネマの雰囲気とは違う、素人っぽさが好きだった。

    チケットやパンフを売っている人たちは、それほど愛想が良いわけではなかったが、それは
    「映画好き」の人にありがちな、「シャイ」の裏返しのようなもので、感じが悪いと思ったこと
    はなかった。むしろ時間をかけてお友達になりたい、というような人が多かったと思う。

    ロードショー系の映画館に行ってよく思うのは、働いている人たちの情熱ややる気のなさだ。
    はっきりいうと、品がない人が多い。アルバイトが多いのか、正社員でもあの程度なのか、
    言葉遣いだけ丁寧で実がこもっていない。愛想がいいわけでもない。とにかく事務的で、
    コンビニの店員と大差ない。映画を見てお客さんに喜んでもらおうという精神が微塵も感じ
    られない。彼らはプロフェッショナルではないのだ。

    映画を映画館で見るという行為には、家でビデオを借りてみるのと違いさまざまなリスクが
    伴う。途中でトイレにいきたくなっても一時停止はできない。せっかくいい席を確保した、と
    思っても、映画の途中でやたら座高が高いうえに、背筋をぴんと伸ばした人が前に座ったり
    する。映画の内容がわからなくて、隣のひとに質問する人もいる。頭上の2階席からジュース
    が振ってくることもある(昔、松竹で実際にやられた。)

    そういうリスクを回避できるかは運次第。でもそれが全部クリアされて映画も良かったときは
    本当に気持ちがいい。映画を見るということは、映画館にいって帰って来るまですべてを
    ひっくるめた行為だと思う。それがわずらわしいこともあるけれど、やっぱり家でみるよりも
    「見たー!」という満足感とかが段違いだ。

    だから、せめて運に左右されない部分ではもっと気持ちいい度合いを高めたい。高めてもら
    いたい。DVDやビデオレンタルのせいで、映画を見る人が少なくなった、とは結構昔からい
    われていること。でも、そうなる原因は映画館側にもあるんじゃないかと思う。設備の老朽
    化はあたらしくすれば済むけれども、そこで働くひとたちのマインドは、どうだろうか?
    映画館を経営するひと達は、一度現場を見て欲しいと思う。

    映画が好きで好きでたまらない!そういう人がやっている映画館へもう一度行きたい。


  • 2003/07/07(月) 「暑いの禁止」

    私はどうもホメオスタシス、つまり恒常性維持の機能がひとに比べて弱いみたいだ。特に
    運動後の体温の上昇からの回復が遅い。もともと暑いのに弱いのだが、回復が遅いとなる
    と、この季節は非常に体力を消耗する。運動といっても、普通に移動したりするだけなのだ
    が。ちょっとうごいただけですぐ体が火照って汗をかく。そしてそれが冷えて、こんどはおなか
    の調子を悪くする、というのがパターンである。だから、暑くて汗をかきつつ、おなかが痛くて
    冷や汗をかく、という器用なことができる。あまりうれしくない。

    で、暑いからといって、冷たい飲み物を一気に飲もうとすると、これも鬼門なのだ。どーも、余
    計なところだけ、繊細にできていて、一気にクールダウンすると、心室細動という不整脈をお
    こす。学生時代はこの発作が起きても、30分くらいで直っていたのだが、歳を経た今、完治
    するのに、12時間以上かかる。もうその間は地獄の苦しみ。心臓のリズムがおかしくなるの
    で、もうばっこんばっこん、ずんどんずんどん景気よく心臓がうごくものだから、息ぐるしくて、
    仕方がない。頭に血が回らないので、眠くなり、体は石の様に重くだるくなる。

    根本的な治療はなく、ただ寝て、収まるの待つしかない。で、直ったとしても、全身が疲労し、
    動けない。だから次の日も寝てるしかない。難儀な体である。

    だから、涼しいのが好きだし、寒い方は割合平気というか好きだ。会社でも期限ぎりぎりまで
    夏服のままでいる。冬服の間も、両腕はひじ上までまくって、なるべく冷却効果を高めてい
    る。かといって家でバンバン冷房をきかせているかというと、おなかが弱いので、そうでもな
    い。

    電車の冷房には敏感である。弱冷車はちっともすずしく感じないばかりか、息苦しさを感じる
    ほどなので、ほとんど乗らない。そして、この前京阪電車に乗っていてあることに気づいた。
    関西の電車冷房は、関東のそれに比べて、あまり冷やしていないのでないだろうか?
    私は夏の盛りに毎年、京浜東北線に乗るのだが、それはもう快適のひとことなのだ。恒常性
    の弱い私でもすぐにクールダウンし、しかも冷えすぎない。関西の列車であの爽快感を味わ
    ったことはほとんどない。

    もしかしたら冷房の質というよりも、空気の違いなのだろうか?とにかくじめじめした盆地や、
    風の吹かない都市部が多い関西にくらべ、海の近くを走る京浜東北線では空気が違うの
    かもしれない。それが冷房の質になってあらわれるのかも。案外、神戸のあたりの電車に
    のれば、快適さを感じるのだろう。

    あと、列車の色の違いもあるのかも知れない。関西の電車は暖色系の塗装が多い。阪急の
    マルーンなどは、夏には不向きなイメージだ。それに比べると、京浜東北線はブルーだ!
    見るからに涼しげ。はっ!京急は真っ赤だがどうなのだろう?今年の夏、体感すると決めた。

    (追記)
    後で思い返したのだが、京阪の普通車両は思いっきり、グリーンで寒色。また、京浜東北線
    は、銀地にブルーラインで、座席がブルーです。今日はちょっと疲れ気味。すいません。


  • 2003/07/06(日) 「アンサンブル」

    今、日本の学生合唱団のなかで、もっとも「アンサンブル能力」が高い団はどこか?とと
    われれば、「佛教大学混声合唱団」と言い切ってしまえると思う。

    今日は、佛教大学混声合唱団、通称"ぶっこん"のサマーコンサートが、京都文化博物館
    別館ホールで行われたので聞きにいって来た。通常、この時期に行うコンサートというと、
    ほぼ間違いなく、ジョイントコンサートなので、単独というのは非常に珍しい。そして、その
    プログラムも、愛唱歌などのステージがあるわけではなく、(おそらく)すべて新曲で19曲
    もあるのだ!

    その内容だが、1〜3stageと、サブサブ指揮、サブ指揮、正指揮のステージで、4stageが、
    客演。1stは大中恩の「つまらない」と木下牧子の「おんがく」。まだ指揮者になって半年
    というサブサブ指揮者だが、かなりどうどうとしたもの。白状すると、「おんがく」の冒頭の
    数小節で、わたしは『震え』を感じた。これは他のひとだとまた別の感覚かもしれないし、
    ひょっとしたら同じなのかもしれないが、心が震えるような音楽を聴いたとき、自分のまわ
    りの温度がすぅーっと下がって、ぶるぶるっと本当に震えてしまうのだ。

    この感覚が一度でもあると、この演奏会に着て良かったーっと思えるのだが、それをはじ
    まってわずか二曲目(オープニング除く)で感じたことはこれまでの最短だと思う。まったく
    感じないこともあるので、自分史上これはすごいことだーと思った。2stはコダーイ小作品集。
    混声合唱団の選曲としては渋すぎるよ、アンタ。だれの影響かなー(笑)。3stは北欧・東欧
    の現代曲で、Mocnik,Sisask,Kvernoなど。どこかで聞いたことあるなー。でも良い。

    彼・彼女等の演奏は、なにがすごいかというと、根性とか、合唱にありがちな「頑張ってる!
    頑張ってる!」感がみじんもないこと。これは熱意がないという意味ではもちろんない。ど
    ういことかというと、決して無理な発声がないということなのだ。そして、各パートが主張
    しすぎない。くわしく言うと、音楽におけるパートの役割をはっきり理解している、もしくは
    「耳」で聞いて感じ取っている。だから、いっけん声を張り上げないとでないような音域や、
    音楽上のもりあがりの部分であっても、無理がない。和声やカノンのなかで、それぞれが
    役割を果たせば、声を張り上げる以上の音楽的効果があるということをわかっているのだ。

    むろん、個々の技量による部分もあるのだが、各パートが補いあって、そして「引き出しあ
    って」いる感覚があった。これについては4stの客演演奏(伊東恵司)で顕著だった。4stは
    English folk songs。folk songとはいえ、その編曲はかなりマニアックで、難しい。そして、
    これは私自身も実感しているのだが、英語の曲は、歌詞をうまく歌うことが難しいのだ。

    だから、聞いていて怪しいなあと思う部分が正直いくつかあった。主にテナーだが。それで
    も音楽としてすごいなと感じたのは、主としてメロディーラインを担当するソプラノが、非常に
    強固で、ともすれば停滞しそうになる音楽(イギリス民謡は特にそう。)を常に前へ前へ推進
    させ続けていたことであり、それに呼応して、他パートももてる力を出しすぎず、出し惜しみ
    せず、絶妙のバランスで音楽の骨格が水平線を保っていたこと。「ジオン脅威のメカニズム」
    (byバンダイ)である。いや、もっと適切な言葉を同じ合唱団のシロ村田君がいってくれてい
    る。「屈指のアンサンブル能力」と。

    最後にアンコールで「ロンドンデリー」の日本語訳が演奏された。聞き終わったとき、あふれ
    でたその音楽が、しゅわーっと、私の体の中心に集まって、そこに吸収されていく感覚がし
    た。(本当です!)音楽が私の体のなかで、エネルギーに変わっていく瞬間だった。「至福」
    を感じた。

    学生合唱団の常で、来年はいまの4回生が抜けてしまう。だから、技量的な部分で不安が
    ないわけではないが、ぜひともいま、このときの「音楽の遺伝子」を引き継いでいってもらい
    たいと思う。


  • 2003/07/05(土) 「探索者」

    今日、練習後の飲み会で、向かいに座ったバリトン歌手、I原さんに「山Dさんのその時計、
    EPOS違います?」と言われて驚いた。普通のひとは、ましてや日本では向かいの人の
    時計をぱっとみて、そのブランドがわかる人はいない。いや、正確にはROLEXとOMEGA
    以外の時計ブランドに関する認知が低すぎるのだが。

    その時計ブランドのなかで、EPOSはドマイナーの直球をゆくブランドだ。EPOSとはスイスの
    時計会社のひとつで、もともとはOEMの会社。その強みを生かして、廉価ながら非常に品
    質の高い時計を最近つぎつぎと発表しており、好事家の間では評価の高いブランドなのだ。
    カメラの世界でいえば「フォクトレンダー=コシナ」みたいなものだろうか。え、たとえがわか
    りにくすぎる?すいません。

    I原さんに話を聞くと、EPOSの時計がどうしても欲しくて、あちこちの時計屋さんにたずねて
    情報を仕入れているらしい。EPOSのカタログまで持ち歩いているのだから相当な入れ込み
    ようだ。ところで、なぜ時計屋さんをいろいろさがす必要があるのだろうか?

    時計、それも機械式腕時計の場合、クォーツと違って機械部分が多いため、3年に一度くら
    いの頻度でOH(オーバーホール)が必要となる。ムーブメントを分解し、油を差しなおすと
    いった作業だ。それを繰り返すことで、その時計は子、孫の代まで動き続ける。そういう
    一見、めんどくさくて、しかもO.H.代金もかかる行為をしてまで、得られるものは何か。

    機械と人間との信頼関係、ではないだろうか。永続的なものと、非永続的なものの対話だ
    ろうと思う。得ようとして得られないものに対する憧憬でもある。機械式時計の世界は、
    哲学なしには語りえないのだ。

    だから、商品を売って、はいおしまい、では困るのだ。時計に対する限りない愛と、その哲学
    を解する奥深さのないお店では買えない。機械対人間のまえに、人間対人間の関係がいる
    のだ。なぜなら、その時計を通じて、一生つきあうことになるかもしれないから。

    ひとりひとりのお客さんとそんな付き合いをしていたら商売として身がもたないかもしれない。
    でも、確実に、そんな付き合いができる時計屋さんは存在するのだ。だから探す。自分のな
    かで、納得の得られるそんな時計屋さんを探す。

    時計と真剣に向きあうにはそういう覚悟が必要だ。そういう覚悟は音楽にも共通するものが
    あると思う。実体がないだけにもっと抽象的で哲学度が高いのだろうが、ひととひとをむすび
    つけるという点で、近い存在なのでは?と無理やりこじつけてみる。

    おなじ時計を追い求める同志がいることを知って、よき日であった。


  • 2003/07/04(金) 「ソロモンと花」

    税制の改正があり、賞与から控除される額がこれまでより大幅にアップした。だから、額と
    しては基本給に基づいて計算されるために、昨年より増えたものの、手取り金額としては
    かなり減ってしまった。健保・厚年・雇用・所得だけで、10万円をこえるってどういうことで
    すか?もう、「ぷんぷんぷんぷん、ぷんぷんぷーん」(←かっぱのカーたんの真似で)である。

    昨日までのワクワクさんはどこへやら。ついでに現在の給料の税金も調べてみた。5万円
    もある。率としては給料の方が高いのだ。これに組合費とか保険を足すと実に6万円。
    家を出た場合の家計をもう一度シミュレートする。月の残業を20h(申告時間)つけられれ
    ば、貯金もできてなんとかなるかな?というレベル。しかし、家族持ちだと生活できるのか
    と疑いたくなる。

    私の職場では私より1〜5年若い連中が、最近ばたばたと結婚している。どう考えても共働
    きじゃないとやっていけなさそうだが、必ずしもそうでもないらしい。いったい皆さんどういう
    ふうにやりくりしているのか?ぜひ教えて欲しいものだ。しかし、週2回合唱団に通って、
    写真が趣味で、毎週何か本を買って、という人間には無理な気がしてきた。

    いや、減らせる項目をさがしてみよう。な○コラ交通費。うむ、これは土日回数券に切り替え
    よう。それから、梅田から本町まで歩けば、地下鉄代が節約できる。ぶ○う交通費。うむ、
    河原町から丸太町まで歩こう。だって帰りはいつも歩いてるしな。etc,etc...

    仕事中に節約のことばかり考えていたせいか、今日はあまり仕事がすすまなかった。
    (言い訳)しかも、定時退社日なのでなおさらだ。せっかくの定時退社なので、帰りがけに、
    Joshinによってみる。しかし、節約が頭をよぎってしまい、購買意欲がことごとく萎える。
    めぼしい商品がないからか?という錯覚がしてくる。本当はSTAR TREK TNGのDVDBOX
    が欲しかったのだが、「見る時間ないし」とか言い訳してみる。

    なんだか楽しくない気分のまま家に帰る。昔買ったDVDを見直す。

    だめだなー。こんなんじゃだめだ。いままで、豪遊してたわけじゃない。余裕のある範囲で
    最大限、自分の趣味を楽しんできたはずなのだ。自分で堀を埋めてどうする。そうだ、明日
    は大阪に行く。商都大阪、くいだおれ大阪、来た見た買うた〜!の大阪だ。これまでどおり、
    自分で選んで自分で買うんだから余計な心配は止める。節約はする。すこし考える。それ
    でいいと思う。

    「明日のことをおもいわずらうな。」と聖書にもある。(こんなときだけ引用してすいません。)


  • 2003/07/03(木) 「ヘッドフォン、物欲の彼方」



    明日は賞与支給日である。そうなるとどうしても物欲というものが沸いてきて、妙にワクワク
    してしまう。買うかどうかわからないのに、インターネットであれこれカタログや商品のレビュ
    ーを読んでしまう。過去の例を検証すると、どうやらわたしには3つの方向性があるようだ。

    1.時計 2.カメラ 3.オーディオ、である。1については、すでにお店に頼んで「売約済み」に
    してもらっているものがある。1940年代のアンティークの手巻き式腕時計だ。LEMANIA
    というメーカーのもの。LEMANIAと聞いてもわかる人は少ないと思うが、OMEGAのムー
    ブメントをつくっていた会社だ。ムーブメントって何?といわれそうだが、その名の通り、時計
    を動かす機構のこと。時計の価値はこのムーブメント(キャリバーともいう)で決まる、といっ
    ても過言ではない。この時計、アンティークなので、そんなに高くないが、一生モノに値する。

    2のカメラに関しては、いまはあまり食指が動いていない。むしろ落ち着いて、撮影の方を
    楽しむフェーズにあるようだ。しいていうなら、OLYMPUS PEN-F用の交換レンズが欲しい
    ところ。PEN−Fってなんですか?とまた言われそうだが、ハーフサイズの、ペンタプリズム
    がない一眼レフカメラだ。ペンタプリズムってなんですかって(以下略)

    さて、3である。この方面はながらくご無沙汰していた。と思ったらよく考えると今年に入っ
    てBOSEのスピーカーを買ってるから全然ご無沙汰じゃないことが判明した。まあ、いい。
    あれは衝動買いだったし。さて、上の写真は、ヘッドフォンである。見ればわかりますな。
    しかも、すごく普通のヘッドフォンに見える。これは数年前に買った、SENNHEISER社
    のHD580というヘッドフォン。定価50000円。高っ!

    これは、ヘッドフォン欲しい症候群にかかったときに、店頭で試聴して一番気に入ったもの。
    実は、試聴した店では買わなかった。なぜなら先に書いた値段だったから。もうひとつの
    候補だったSONY MDR-CD900STは店頭価格18000円くらいだったので、差がありすぎ
    た。では、なぜMDR900を買わなかったか?MDR900はそれはもう非のうちどころが
    ないくらい、原音に忠実で、プロの世界のモニター用として絶大な信頼があって、自分の耳
    にもすごくあっていた。

    しかし、あきらかにHD580はその上をいっていた。MDR900にくらべると、POPS系など
    立ち上がりの早い音楽には少し弱い感じがしたのだけど、弦楽器系の高音での艶や、音の
    伸び、ひろがりは、「原音に忠実」なMDR900にはないものを持っていた。このあたりは、
    本当に自分の好みにあうかどうかなので、他のひとには参考にならないと思うが、店頭で
    見かけたらぜひ試聴していただきたい。

    で、結局どうしたかというと、インターネットで調べて、アメリカのヘッドフォン専門商社から、
    約24000円くらい(関税+送料込み)で買った。半額以下である。日本の代理店はいくら
    とってるんだ...。しかし、最近調べてみると日本でも同じくらいの値段で買えるようだ。後継
    機のHD600を売り出しているせいか、HD580の値がだいぶ下がったらしい。

    で、ここから本題。このヘッドフォンは単体でもすごいのだが、ヘッドフォンアンプと組み合わ
    せるともっとすごさが引き出されるらしいのだ。ヘッドフォンアンプっていうのは、おわかりの
    ようにヘッドフォン専用のアンプなのだ!普通のひとにしてみれば、ヘッドフォンに専用の
    アンプなんかつけるか?アホちゃう?の世界なのだろうが、物欲のうえ、「音欲」にとりつか
    れた人間にはそんな常識は通じない。

    このアンプ、3〜15万円くらいが相場なので、給料ではきついが、賞与となると俄然やる気
    が出てくる。というわけで、前振りが長かったが、目下どれがいいのか調べている最中だ。
    買い物の常として、買う前の調査の時間というのが一番楽しく感じるものだ。だから、ここで
    寸止めにしておいて、実際に買うのはもうちょっと先になるかも、という予感がある。

    引越しするつもりなら、DVDレコーダーとか、そもそもTV持ってないんだからTV買え!自分
    という気がしないでもないが、物欲の羅針盤はくるくるまわって、なかなか止まりそうにない。


  • 2003/07/02(水) 「医食同源」

    今日は大阪出張で直帰だったので、早く帰宅した。で、普段はほとんど見れない「クローズ
    アップ現代」を見ることができた。昔はもっと放送時間が遅かったから毎日見てたのに、NH
    Kはときどき、理解不能なことをするので困る。

    今日のテーマは、中国北京のSRASによるWHO勧告解除までの道のりを追ったものだっ
    た。中国の場合、患者数の公表隠しなどによって感染者が激増したという苦い経験から、
    SARS駆逐に関しては、徹底した人海戦術による早期隔離政策がとられるようになったそ
    うだ。

    そのひとつが、突貫工事で立てられた白山湯病院(だったと思う)。医師・看護師はすべて、
    人民解放軍なので、命令系統なんかはしっかりしているようだし、なにより院内感染ゼロが
    目標ということで、その防護の徹底ぶりはすごかった。

    このなかで、一番関心したのは、隔離患者への食事である。食事はすべて北京の有名ホテ
    ルのコックたちが作るのだ。見るからにおいしそうで、病院の食事とは思えなかった。
    ナレーションによると、治療法が定かでないSARSに対しては、とにかく患者に免疫力を
    高めてもらおうという方針だったらしい。食事にはコックの名前と電話が記されていて、患者
    は直接料理をリクエストできたそうである。これは患者にとっては外界との接触を唯一もてる
    ということで、精神的にも良かっただろうし、特に触れられていなかったが、北京のホテルは
    キャンセルが相次ぎ、コック達も仕事がなかったろうから、一石二鳥だったのだろう。

    このなかで、コックのひとりが、「人間の基本はやっぱり食事だよ」といっていた。免疫力を
    高めるために良い食事を提供する、という方法が国家によって行われるほど、中国という
    国には、「医食同源」の考えが浸透しているのだな、と思った。(まあ、感染者を増やして
    しまったのも国という皮肉はあるけれど。)

    かつての日本にも、中国と同じように、医食同源の考えはあったはずなのだ。旬のものを
    食べるという行為だ。夏はトマトやきゅうりなどの野菜が旬となる。これらは体の体温をさげ
    る働きがあることが昔から知られていた。つまり暑い夏にはぴったりの食材なのだ。旬とい
    うのはそういう生活のなかで培われた経験則のかたまりの結晶なのだと思う。

    明治以降の西洋医学によって、東洋医学が日本からはほとんど駆逐されたのと同じように、
    こういった食習慣すらもつぶされていったのは、惜しい限りである。いまでは「旬だから」と、
    通人を気どっって「旬」のものを食べたり、「旬」のものが手に入りにくい、高いというような
    時代になってしまった...。健康増進法という法律ができたが、食に関して何かやっていくと
    いう取り組みはなかったような気がする。(分煙は推進してほしい。まわりですわれると、
    本当に食事がまずくなるから。)

    私は、子供のころから好き嫌いが激しかったが、歳をとるにつれて、味覚も変わり、食べられ
    るものも増えてきた。それはおそらく、「医食同源」を体自身が知っているからだろうと思う。
    体のほうが、必要な栄養を求めているのだ。体の要求に応えられるように、私はもっと食に
    関して、見聞を広めないといけないなと思う。

    でも、納豆は絶対食べない。(←体にいいらしいのですが、やはりちょっと、ダメなんです。)


  • 2003/07/01(火) 「引越し思案」

    私は学生時代から実家に住んでいる。で、いい加減ここらで家を出たいと思い、引越し先
    をいろいろと考えている。

    通勤の都合を考えると阪急沿線である必要があり、必然的にもより駅は、大宮、烏丸、河
    原町のどれかになる。不動産屋の広告雑誌をながめると、○○駅、歩○分と書いてあり、
    わかりやすいが、この条件でさがすといい物件を見逃す可能性がある。京都は阪急・京阪・
    地下鉄・市バスが狭い場所に密集している。だから最寄り駅が京阪○○駅であっても、
    1分違いで、阪急の駅にいけたり、地下鉄の駅にいけたりする。

    そこで、頼るべきは住所である。京都の町は、皆さんご存知のように碁盤の目のように通り
    が東西南北に走っているため、東西の通り名と南北の通り名を組み合わせることで、座標
    位置がわかるという便利なシステムになっている。そこで住所も大概通り名であらわされる。
    だから、地図をひっぱりださなくてもだいたいの位置が把握でき、周辺環境などの推測もしや
    すい。ちなみに通りごとに特色なんかもあって、二条どおりは薬屋さんが多いし、夷川通りは
    家具屋さん、室町・新町通は呉服関係の商店が多いし、三条通りは、古い洋風建築が多く
    立ち並ぶ。

    何度も、京都へは観光でいってるという方には、ぜひどこか、一本の道をずいずい進んでみ
    ることをお薦めする。共通する何かを見つけたり、新しい発見があったり、いわば京都観光
    中級編的な楽しみができると思う。

    さて、場所がわかるとつぎは間取りである。今の部屋は4畳半のうえ、窓・窓・ベッド・押入れ
    で四面を埋められているため、本を置く場所がない。だからすくなくとも2面は壁が欲しい。
    そして、そこにはずらーっと本棚を並べてみたい。部屋の大半をブックタワーが占める生活
    だと、せっかく買った本が化石になることがままある。数年後発掘して読む、というあまりうれ
    しくないスタイルが定着しつつあるのだ。

    さて、もっとも重要なのが家賃である。5万円以下と区切ると、ほとんどユニットバスになって
    しまう。ホテルのようなひろびろなユニットバスならまだしも、狭いのはいやだ。セパレートだ
    と6万円がぎりぎりラインだ。で、めぼしいところに○をつけていく。一番良いなと思う物件は、
    11畳セパレートで、6万円。間取りも京都らしく、うなぎのねどこ風に細長くて好みである。

    最後に、現在の給料から、税金、天引き貯金、積み立て、奨学金の返済、をひいて、そこか
    ら家賃・共益費・光熱費をさらに引く。そして、さらに合唱の練習へ行くための交通費、日々
    の昼食費や雑費をひいていく。で手許に残るお金は...

    「これでは本が全然買えん!!」ということになった。貯金が多すぎるのか...。奨学金の返済
    が微妙につらい。セパレートにして、銭湯に通うべきか?もう一度よく考えてみよう。

    『じゃ、本買わなきゃいいやん』という選択肢はありえない。ありえない、ありえない(エコー)。


2003年06月の電波暗室

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