佐竹氏の始まり(1999/08/29)
佐竹征伐(1999/08/29)
南北朝時代(1999/08/29)
佐竹の乱(1999/08/29)
戦国大名(1999/08/31)
鬼義重(1999/08/31)
関ヶ原(1999/08/31)
当主となった義宣は,南部三十三館を謀殺し,常陸全土を掌握した後,
常陸54万石の経営を重視し,本拠を太田城から水戸城に移した。
その後起こった関ヶ原の戦いでは義宣は重要な役割を持っていた。
その後の佐竹氏(1999/08/31)
また,豊臣大名として京都屋敷で生活をする中,上杉景勝や石田三成と親交を結んでいった。
宇都宮家が太閤検地において石高を偽ったために改易となったおり、縁戚である佐竹氏も連座しそうになったが,
石田三成との交友関係が佐竹家を救っている。
こうした中,豊臣秀吉が没した。
天下の簒奪をねらう徳川家康と豊臣家の執事としての石田三成の関係が急速に悪化するなか,
加藤清正や福島正則ら武断派武将による石田三成襲撃事件が起こった。
身の危険を感じた三成は,義宣に助けを求めて佐竹氏の伏見屋敷に身を寄せた。
義宣は三成を追ってきた諸将を,「三成に私心なく,公職を全うしたに過ぎない。しかし,諸君らの憤りは私憤ではないか。」
と叱責している。
また義宣は,三成と徳川家康の中を取り持ち,三成は家康の元に保護されることとなった。
この事件により,義宣は三成との友誼を深めたと同時に,家康からも「律義者」との評価を得た。
会津の上杉景勝征伐と称して江戸を立った徳川軍を,上杉軍とともに挟撃する。
あるいは,信濃の真田昌幸と協力して,徳川の領地に攻め込む。
どのような作戦を取ったとしても,佐竹氏の軍事力は東軍西軍ともに無視できるものではなかったのだ。
関ヶ原の直前,三成から作戦の全容を伝える書状が義宣に何度も届いていることからも,
真田昌幸同様,三成が関東地方の西軍勢力として,佐竹氏をいかに頼りにしていたのが判る。
また,徳川家康からも詰問状と称して佐竹氏の東軍への参加を何度も促されている。
こうした状況下,義宣は会津征伐に参加する名目で京から常陸の所領に戻るが,ここで誤算が生じた。
先代義重は家督を譲ったとはいえ,家中に強い影響力を残していた。
この義重が,豊臣の代官として佐竹家と接してきた三成に不信感を持ち,
重臣たちと共に,東軍につくべきと義宣と意見を対立させたのだった。
一族の中でも,東軍・西軍と意見が分かれ,一族の結束が壊れることを恐れた義宣は,
会津の上杉に援軍を送ると同時に,江戸に一門衆佐竹義久を送るという方策を採った。
上野滞陣中の家康を夜襲する案も出されたが,
積極的に兵を動かすことができぬまま,関ヶ原において東軍勝利が決まった。