佐竹氏(さたけし)   佐竹氏トップに戻る

佐竹氏の始まり(1999/08/29)

佐竹征伐(1999/08/29)

南北朝時代(1999/08/29)

所領が返還されたとは言え,常陸における佐竹氏の勢力は大きく減退していた。
佐竹氏が再興するのは,その後の「建武の動乱」においてである。
八代佐竹貞義は,足利尊氏が鎌倉幕府との対決姿勢を見せたとき,足利氏の元に帰参した。
その後,尊氏が後醍醐天皇に反逆してからも,その忠誠は変わることなく奮戦し, 貞義の五男義直,六男義冬が討ち死にするなど,一族から多くの犠牲者を出している。
しかし,佐竹氏はその功をもって,尊氏の信頼を得ることとなった。

佐竹貞義が足利尊氏に帰参した直後,一度は足利軍にやぶれた北条時行ら鎌倉幕府の残党が鎌倉に攻め寄せた。
世にいう「中先代の乱」である。
鎌倉将軍府を守っていた,足利尊氏の弟直義はあえなく敗退したが,この軍勢に佐竹一門がいた。
佐竹貞義の五男義直は,足利直義を守って武蔵国鶴見の合戦で討ち死にを遂げている。
その後,北条時行は京から急行した足利尊氏の軍勢に一蹴された。
しかし,この尊氏の行動は後醍醐天皇の許可無く行われ,このことが原因で尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻すこととなった。

鎌倉の足利軍は,京から攻め寄せる新田義貞軍と 陸奥国から西上する北畠親房・顕家親子の軍勢に挟撃される危険が有った。
そのため,佐竹貞義は一族を二分し,自分と六男義冬が常陸に残り北畠軍と戦い, 次男義篤・三男義春・七男師義を 尊氏が北朝方の将軍位を得た後,南朝の主将,北畠親房の軍勢が常陸に攻め寄せた。
北畠勢は,常陸小田城を拠点に関東に強大な南朝勢力を作り上げた。
南朝勢の猛攻に合い,太田城を追われることとなった貞義は,西金砂山城で親房と対峙した。
南朝勢の西金砂山城攻撃は数年に及んだが,貞義はこれを守りきり, ついには高師冬率いる北朝勢の来援により関東から南朝勢は駆逐された。
この功をもって、佐竹氏は常陸守護となり、支配地を常陸全土に広げることとなった。
こうして,佐竹氏は関東八家のひとつに数えられるほどの勢力を持つに至った。

佐竹の乱(1999/08/29)

戦国大名(1999/08/31)

鬼義重(1999/08/31)

関ヶ原(1999/08/31)

その後の佐竹氏(1999/08/31)

佐竹氏系譜(GIF:16299Byte)(2000/01/01)


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