佐竹氏(さたけし)   佐竹氏トップに戻る

佐竹氏の始まり(1999/08/29)

佐竹征伐(1999/08/29)

南北朝時代(1999/08/29)

佐竹の乱(1999/08/29)

戦国大名(1999/08/31)

一族の内紛の恐ろしさを知った義舜は,佐竹家法二十三条を制定し,一門の完全な統率をはかった。
本城との位置関係から「東家」,「北家」,「南家」と呼ばれた義舜の子弟たちとその子孫は, 戦国期を通して本家との鉄の結束を守りつづけた。
いわゆる「三本の矢」と同じ逸話なのだが、毛利氏の伝説に先んじること半世紀前のことである。
こうして一族の協力を得た義舜とその子義篤は, 府中石岡城の大掾氏,小田城の小田氏,結城城の結城氏,下妻城の多賀谷氏らと常陸の覇権を争い, 佐竹再興の基盤を築いた。

義篤の子が義昭である。
義昭は奥州白河結城氏に攻め入り,芦名・結城連合との戦いに勝利した結果,結城領をほぼ支配下に収めてしまった。
また常陸国内においても,水戸城を拠点にしていた守護代江戸氏を破り麾下に加え,常陸南部を支配していた小田氏, 府中の大掾氏や真壁氏を相手に着々と領土を増やしていった。
関東においても,下野の小山氏や那須氏と争い,宇都宮家当主広綱に娘を嫁がせ家督相続を後押しするなどして, 下野に親佐竹の地盤を作り上げた。
この頃,小田原の北条氏との戦いに疲れた鎌倉管領上杉憲政は,義昭に対して上杉姓と管領職を譲ろうと要請した。
これは,義昭の戦いぶりをみて,北条と戦えぬけるものと見込んだためでもあるが, 十二代佐竹義人が上杉氏の出であり,佐竹氏と上杉氏の血筋が近くなっていたことが主な理由であろう。
しかし,佐竹氏は「清和源氏」であり,上杉氏は「藤原氏」である。
義昭は源氏の姓を捨てるわけにはいかない,としてこの申し出を断っている。
ちなみに上杉姓と管領職は,こののち越後の長尾輝虎に譲られた。 管領上杉輝虎は,のちに上杉謙信と名乗り数々の伝説を残すことはは周知の事実である。
義昭は,この後も相馬氏と争うなどし,その戦いぶりから豪勇な武将として関東・陸奥で名をあげていたが, 身体を壊し,16才の嫡男義重に家督を譲ると,その3年後に35才で没した。

鬼義重(1999/08/31)

関ヶ原(1999/08/31)

その後の佐竹氏(1999/08/31)

佐竹氏系譜(GIF:16299Byte)(2000/01/01)


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