「クラシック音楽」と云うものが(私見ではありますが)、割合に一般の方々からは敬遠されがちで、とっつきにくいもの、難しいもの、退屈なものとして捉えられている様に思えるものですから、このページでは仙台、その他の地域で行われた各演奏会のざっくばらんな個人的批評と私個人の体験等を交えながら、少々お話をさせて頂きまして、少しずつクラシック音楽にも親しみを感じて頂けるようになるとよいなぁと思っております。



キーロフ・バレエ (マリインスキー劇場・サンクトペテルブルク)
管弦楽:サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場管弦楽団
指揮:ヴィクトル・フェドートフ
1998年日本公演 (1998年12月3日 宮城県民会館)



 "キーロフ劇場"の名の由来は、1935年に、その前年スターリンの手下(?)によって暗殺された、レニングラード共産党書記のセルゲイ・キーロフを記念して付けられたものだそうだ。
 この名は、旧ソ連時代の56年間にわたり使われていたのだが、歴史の流れにより、1991年にはこの"オペラとバレエの為の劇場"の正式名称は、元々の"マリインスキー劇場"(ロシア皇帝の妃の名で、「マリヤの」という意味。)に戻っている。
 しかし、海外公演では、常に、"キーロフ"の名を通しているようである。

 仙台では、チャイコフスキーの三大バレエの中の一つ"くるみ割り人形"を披露した。
これは、ドイツ・ロマン主義の作家で音楽家でもあるE・T・A ホフマン(1776ー1822)の童話 「くるみ割り人形とはつか鼠の王様」(1815年)を、フランス人作家デュマが訳したものに基づいて、振付師マリウス・プティパが、台本を書いたクリスマスのメルヘン・バレエである。
 余りにも有名なこの作品は、1892年12月に、チャイコフスキー52歳の時に初演されたが、音楽の素晴らしさに較べ、肝心の振付の方がそれほど評価されず、以後、様々な振付家が改訂を行ってきたらしい。この日のキーロフ・バレエ団は、1954年にワシーリイ・ワイノーネンが振付演出し、更に自身が手を加えたエピローグ付き三幕の作品を使用した。(この演出が、今日最も親しまれているそうだ。)

 今回の公演を観て、非常に感心したのは、(これは当日のパンフレットでも触れていたが)舞台の上が、すっきりと無駄の無い構成だった事だ。良い意味で、計算され尽くした立体的造形美が醸しだされていた。又、演奏会用組曲としてもよく知られている"ロシアの踊り(トレパック)""アラビアの踊り""葦笛の踊り""花のワルツ"等は、このバレエの最大の見せ場と云っても過言ではない場面なのだが、(しかも、皆が楽しみにしている場面だ。)それが、主役のマーシャと王子(くるみ割り人形が、魔法で王子に変身させられている。)を食わない程度の演出にきっちりと抑えられていたのには、驚いた。(それでも充分に、技術的にも素晴らしく魅せるものだったのだけれど。)ソリスト達の細部にまで気を配られた美しい演技に惹き付けられたのは勿論だが、このような劇の全体像にまで行きわたる緻密さには、本当に頭が下がってしまう。大勢で一つのものを創り上げていくその過程には、どれだけの試行錯誤があった事だろう。
 パンフレットには、「雅」とか「品」とか「貴族的」とは、即ち古典的な美を崩さない事であると書いてあったが、これはそのままクラシック音楽にも通ずる事だ。

 話は変わるが、1992年と1997年に来日した女流バレエ・ダンサー、シルヴィ・ギエムのインタビュー記事にこのような談が載っていた。
 「外に発散させるというより、他者とのコンタクトが必要なのだと思います。それは、目で表わすもので、舞台ではとても大切な要素。ルドルフ・ヌレエフの目は、全てを語っていて、そこからは、恐怖、激しさ、誇り、愛、憎しみといったあらゆる感情が伝わってきました。踊りとは、そういうものだと思います。演技の中に視線がなければ、そこには魂はなく、ただの動きになってしまう。目で物語っていない人は、自分の感情を内側に隠す事になる。ただ振付通りに動くのではなく、その踊りに身を委ねて表現しなければなりません。しゅう恥心は、普段の生活の中ではありますが、そういう気持ちを持ったまま舞台には立てません。舞台では、全てをさらけ出さなければならないのです。」
 表現者としての強烈な主体性をもったシルヴィ・ギエムの発言には、大変に説得力がある。

 又、同誌に掲載されてある歌舞伎役者、阪東玉三郎のインタビュー記事には、次のような語りがある。
 「過去の作品は、他の役者の為に創られたもので、それを現代の俳優達が演じていくわけですから、自ずと違ってきます。先代の規格をどう乗り越えるか、どう飛躍させる事が出来るかが、私達役者に与えられた課題です。」

 今回のキーロフ・バレエとこの二つの記事が、直接関係があるかどうかは分からないが、"芸の厳しさ"に関しては、共通項が大いにあると思う。


 最後に、マリインスキー劇場管弦楽団の生演奏も、素敵だった。実際の踊り手を観ながら、息を合わせていくヴィクトル・フェドートフの巧みな指揮ぶりも流石であった。



ながーいPS

 とても素晴らしかったーと感想を述べたものの、この文章、なんだかもの分かりが良すぎて、(というか、お利口さんぶってて)正直な所、自分では不満だ。
  敬愛するウラディーミル・ホロヴィッツのレコードを聴きながら書いたせいか、こんな事を思うのかも知れないが、古典的な整頓された(客観的な)バランス感覚よりも、やはり私は、もっと遊び(?)のある、ふるいつきたくなるほど本能的な、多分にひとりよがりな、破壊的なものの方が、好みだッ!凡人の努力なんか大っ嫌イ!なんてったって天才が好きだ!!そして、天才には、「基礎が何か」なんてしらけてしまうタネ明かしなんぞ必要ないッ。いついかなる時も、人の心にストレートに入り込んでくるものなのだ。(理屈抜きにネッ。)

 誤解のないように書いておくが、今述べた事と、当日のキーロフ・バレエの内容とは、何の関係もない。…………………………………………………悩むッ。



参考資料:
       キーロフ・バレエ 1998年日本公演のパンフレット
       チャイコフスキー記念東京バレエ団1997年全国縦断公演のパンフレット
                                 (客演 シルヴィ・ギエム) 他

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 以上をもちまして、"音楽の楽しみ"は、終了させて頂きます。
少々お休みを頂きましてから、次回からは、新企画"Poohのちょっと辛口(?)音楽談義"を連載いたします。



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