エリック・ハイドシェック ピアノ・リサイタル(1998年12月20日掲載)



エリック・ハイドシェック ピアノ・リサイタル (1998年10月26日 仙台市青年文化センター)



 ハイドシェックは1936年、フランス北部の古都ランスに生まれた。父は有名なシャンペン醸造元シャルル・エドシークの主で、アマチュアチェリストでもあり、又、母もアマチュアのピアニスト。5歳からピアノを始め、名ピアニスト兼名教師のアルフレッド・コルトーの勧めで、8歳でパリ・エコール・ノルマルに入学。10年後、パリ音楽院を首席で卒業。その後、国内でリサイタル・デビューし、24歳の時にアメリカで、リサイタル・デビューしたのを皮切りに、以後、旧ソ連、イギリスをはじめ、世界各国で、著名なオーケストラとの共演も行っている。特に、氏のモーツァルトの演奏には定評があり、ピアノ協奏曲等、レコーディング数も多い。
 しかし、1970年代後半からは、リヨン音楽院教授としての後進の指導に当たる時間の方が増え、それまでのめざましかった演奏活動の方はめっきり減ってしまっていた。現在のような完全復活を果たしたきっかけは、1989年に、愛媛県宇和島市在住の1ファンが同地でのリサイタルの実況盤を敢行し、それがクラシックCDでのベストセラーになった事によるようである。
 前述の名ピアニスト、アルフレッド・コルトー直伝の個性的な表現法を得意とするハイドシェックは今世紀最後の巨匠と云われている。この秋、彼は、ベートーヴェン・ピアノソナタ全曲連続演奏会の第1期として、日本を訪れた。

 仙台でのプログラムは、ベートーヴェンのピアノソナタ第7番Op.10-3、第14番Op.27-2(月光)、第23番Op.57(熱情)。いずれも有名な作品であった。又、当日のパンフレットの曲目解説もハイドシェック自身が書いたものであり、氏のベートーヴェンへの並々ならぬ傾倒ぶりがうかがえた。会場の仙台市青年文化センターは、音の残響時間が約2秒と長い為、ヴァイオリンや声楽の演奏にはそれ程支障をきたす事がないにしても、ピアノの演奏には余り向いているとはいえないホールである。が、この日のハイドシェックの音の立ち上がりが素晴らしく良く、まさに”弘法筆を択ばず”と云う感であった。
 表現法は独特で、誰もが(こうではないか)と抱いているベートーヴェン像とはかなり異なる箇所が多く見られた。作曲家の意外な面や、その時代、瞬時の微妙な心の揺れまでをも、身体全体で包み込み、それへの具体的な表現を研究し続けていく作業は、並大抵の経験だけでは到底、行えなかったはずだ。(ハイドシェックは外見的には屈託がなく、決して深刻そうには見えなかったけれど。(無造作なようでいて、氏は、実はかなりのおしゃれさん。))1970年代後半から約15年間程、いわゆる第一線での活動からは遠ざかっていたそうだが、その沈黙の時期に得たものが、現在の氏の音楽に影響を与えているのではないだろうか?師と仰いだフランスのアルフレッド・コルトーと、ドイツのウィルヘルム・ケンプ。この二大巨匠から授けられた偉大な音楽感とハイドシェック自身の作曲家への熱い共感とを融合させるのには、強靭な体力と精神力に加えて、多くの時間が費やされたのに違いない。

 ハイドシェックの境地にまで到達するのは、不可能だけれど、この日、一つだけ大切な事を教わったような気がする。それは、あるものに対しての思い込み(固定観念)が、純粋な勉強を邪魔してしまう事。本質が何なのかを自分の頭を最大限に使って一生考え続けなければならない事。要するに、不遜にも分かったようなつもりになってしまっては、その先の道が絶たれてしまうと云う事なのだ。

 余談だが、アンコールで聴いたシューマンの”ウィーンの謝肉祭の道化”Op.26のインテルメッツォがとても素敵だった。シューマンが氏の人間性に特によく合っているのではないだろうか。
 出来るものなら、もっともっとひたすらシューマンを聴いていたかった。



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