ウラディーミル・アシュケナージ ピアノリサイタル (1998年7月10日掲載)



ウラディーミル・アシュケナージ ピアノリサイタル (1998.5.26)宮城県民会館(仙台)


 (プログラム)
モーツァルト ソナタ 第8番 K.310
ベートーヴェン ソナタ第21番 「ワルトシュタイン」 Op.53
ショパン 夜想曲 第15番 Op.55-1
幻想曲 Op.49
2つのマズルカ 第37番 Op.59-2
第32番 Op.50-3
スケルツォ 第2番 Op.31
 ウラディーミル・アシュケーナージは1937年ソ連のゴーリキーで生まれた。
 1955年のワルシャワでのショパン・コンクールで2位、その後ブリュッセルのエリーザベト王妃コンクール、モスクワでのチャイコフスキー・コンクールで優勝し、確固たる名声を得た。
 1963年、複雑な事情でソ連を離れ、妻と共に一時はアイスランドに移り、現在は家族と共にスイスに居を構えている。
 世界屈指の名ピアニストであるだけでなく、指揮者としても高い評価を受けている。欧米の主要な交響楽団とも共演し、着実に視野を広げつつある真摯な音楽活動は、世界中で絶賛されている。

 実はアシュケナージのピアノには、私自身、非常に思い入れがある。
 はじめて生の演奏を聴いたのは、1975年に来日した時だった。
 素朴で小柄な体躯(まるで刑事コロンボを演じたピーターフォークのような)からはとても想像出来ないような豊かな音楽と、余裕を持って弾かれた素晴らしいテクニックに感心したのを覚えている。以来、彼のレコードを色々買い集めたり、来日した折りのリサイタルには何度も足を運んでいるのだが、いつもながらの期待を裏切らない心温まる演奏に、ただただ頭が下がるばかりである。
 しかし、今回のリサイタルに限っては、なにか従来の彼のイメージとどこか違ったように思うのだ。思い入れが強すぎる分、正直な所、変化(?)してしまった理由が見出せないのだが、その日、感じた通りに率直に書かせて頂くと...。長年の活動で彼は、本当にプロのコンサート・ピアニストになってしまったのだなあと思った。余裕を感じさせる人なつっこいステージマナーも、35年以上にもなるピアニスト人生の中で自然に培われてきたものなのだろう。
 まあ、こまかい感想は後に述べるとして、音楽評論家の吉田秀和氏の昔の記述にアシュケナージに対しての、次のような一文がある。- アシュケナージは、元来が、色と響きの豊麗さで音楽を作ってゆく人なだけに、線のもつ意義 - それはいわば肉体的官能的なものに対する精神的意志的なものともいえるが - が日陰に入りつぶされやすくなる。アシュケナージ自身は、それでは不充分なことをよく知っている。だから、彼はそれをダイナミックの次元で解決しようと努力する。だが、それではある種の曲にある複雑に錯綜した、そうして巨大な緊張力は、充分に論理的に表出されきれないのである。 - 以上だが、今回のリサイタルの鍵は、このあたりにあるのではないだろうか?
 アシュケナージの人間性をそのまま反映しているような温かく円みを帯びた艶のある音の響きには誰もが魅力を感じていると思うが、ただ一つ問題なのは、この種の美しい楽音をそれ程までに必要としない楽曲も少なからずあると云うことだ。それは、ともすると、(ある意味で)説得力に乏しい演奏になりかねない。(即物的な表現の方が、むしろ作曲家の真意を伝える場合もある。)多種多様な人間が居るように、各楽曲の要求しているものは実に様々なのだ。
 現代のコンサート・ピアニストにとっての一番の課題は、各楽曲の全く異なる様式、語法を弾き分ける事。昔は"モーツァルト弾き""ショパン弾き"等と銘を打たれたいわゆる"オーソリティー"が存在したのが、コンクール世代(加えて余計なマスコミ時代)である現代においては淘汰されてしまうのが、オチなのだろうか? アシュケナージはどんな難曲でもやすやすと弾いてのけるだけの抜群のテクニックを持っているが、私の想像する限りでは、彼は精神的な面では"なにかのオーソリティー"の分野の方が本質的に向いているのではないかと思うのだ。

 それにしても、彼を日本に招聘した大手の音楽事務所の考えなのだろうが、今回のチケット代は一寸高すぎる。因みにS席が¥14000、一番下のランクのC席でも¥8000だ。即ちアシュケナージを、いくら値段を吊り上げても聴衆を惹き付けられるカリスマ性のあるコンサート・ピアニストに仕立て上げようとしたのであろうが、商売とはいえ、余りにも演奏家を、又一般市民をも馬鹿にした遣り口ではないだろうか。
 それに、当日の曲目も解せない。大衆を意識して、彼の膨大なレパートリーの中から、ポピュラーな選曲をしたのであろうが、アシュケナージだからこそ、私はもっと表面的には地味で良いから、作曲家の違う面を垣間見せてくれるようなマイナー路線の選曲もして欲しかった。(アシュケナージは、たとえ一見駄作でも、それを良心的に把握して、素敵な楽曲に仕立てる術を心得ているから。)

 この日弾かれたモーツァルトとベートーベンのソナタには正直な所、あまり心惹かれなかった。(気分的に調子がいまひとつだったのかもしれないが...。とは云ってもアシュケナージだから、よく要所要所をまとめていたけれど...。)休憩をはさんで後半のショパンは、2番目に弾いた「幻想曲」が面白かった。テンポをゆっくり目に取って骨太な主張を一貫させたのが、果たしてショパンの意図していたものかどうかはともかくとして、「こんなアプローチの仕方もあるのか。」と勉強になった。とにかくありがちな病弱なイメージのショパンとは、一線を画していた。アンコールは、ショパンの夜想曲第17番 Op.62-1 と、ラフマニノフの前奏曲 Op.32-12 。結局、ラフマニノフが一番自然で無理がなくてよかったように思えたが...。

 前述の吉田秀和氏の指摘は、正解だと思う。ほかならぬアシュケナージ自身が、それを一番痛感しているのだろう。だからこそ、彼は、オーケストラの分野(指揮)を勉強したり、視野を広げるものすごい努力をしているのだと思う。(勿論、恵まれた資質があればこそ出来る事なのである。)
 ただ、今回のリサイタルを聴いて少し心配になったのは、彼は余りにも性急に結論を出そうとしすぎているような気がした。大きなホールでの音響を意識したのか、彼本来のものとは思われない叩き付けるようなタッチを繰り返したのも、まだ整理しきれていない現在の彼の試行錯誤のあらわれだったように思われる。彼が納得する"ある結論"に達するまで、これからも色々な変化があるだろう。
 過去の自分の録音は、一切聴かず、作曲家の意図したものを、ひたすら考え続ける天才かつ勤勉家のウラディーミル・アシュケナージ。どうか無理をせず、健康で長生きして下さい。又、何年後かに、新しい境地に至ったところを聴かせて下さい。楽しみにしています。その日までさようなら...。


 もし、よろしければ、ご意見等なんでも結構ですのでお寄せください。よろしくお願いいたします。

Mail Address


参考資料
ウラディーミル・アシュケナージ、ピアノリサイタルのパンフレット(1975年、1985年、1994年、1998年、他)
レコード・ジャケット等の解説
吉田秀和著「世界のピアニスト」等、他


次回は、演奏会の批評ではなく、"子供のピアノのおけいこ"についてまとめたいと思います。


P.S
 少しまえの録音ですが、ウラディーミル・アシュケナージの弾いたシューマンのクライスレリアーナ Op.16、フモレスケ Op.20、ダヴィッド同盟舞曲集 Op.6のCDは絶品だと思います。
 是非お聴きになって頂きたいCDです。




戻るアイコン