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2003年09月のサイト鑑賞

Re:段落

2003.09.09

先の文章[see 段落]について,趣味のWebデザインの備忘録で反論が。

また論点を整理しないとわかりにくいし,しかも長い。なので,分けて。というか,長くなりすぎたので,CSSでQ要素を矩形表示にしていることの言い訳も書こうと思ったけど,止めた。

文章とデータ

小節を明示できないことに何か問題があるのでしょうか。

ありますとも。ブロックレベル要素を内包できないp要素が、単にマークアップされていないというだけの理由で、本来ブロックレベル要素であるべき小節(=デフォルトで改行によって区切られる小節)を内包することは許されません。ですから、p要素=形式段落と考えるのは誤りで、あくまでも最小の節をp要素とみなすべきだと私は主張するのです。

文章の構成とデータの構造を同じレベルで考えてはいけません。

文章をマークアップするという行為は,即ち文章をデータ化するということです。データ化する際には,徳保さん自身もp要素の下にブロックレベル要素を置けない以上,p要素をどのレベルで用いるかによって,文書構造明示のレベルが規定されてしまいますと書いておられるとおり,どの細分レベルまでのデータ化が必要かを検討する必要があります。HTMLにおいては,その検討結果がH1要素,P要素,ADDRESS要素等といった基本となる要素だったということでしょう。

なので,P要素としてマークアップされたparagraphに,それ以下のレベルで細分できるものがあってもデータ化できません。データ化する必要がないと判断されたのだから,データ化できなくて当然なのです。

P要素に内包される細分構成物があるかないかは別の問題ですが,物事のデータ化の際にデータ化されない事項があっても問題はないのです。何から何までデータ化して,処理しきれなくなっても困りますもん。

ブロックレベル要素と整形

ブロックレベル要素とインライン要素の違いは何か? という問いへの回答として,Formattingが現れていることに注意すべきです。デフォルトでブロックレベル要素と行内要素は異なる整形結果を与えられる......その例として唯一挙げられているのが,ブロックレベル要素は新しい行で始まるということなのです。

表示方法によって文章の内容が変わるわけではない,って話しは先にも書きました[see 段落の表示]が,ブロックレベル要素とは何かを検討する上での材料の一つとしての提示と考えてよいでしょうか。

ただ,それにしても判らないことがあるンですが。

ここで問題になるのは,デフォルトとは何か? ということです。私は,原稿用紙に手で書く文章を想定すればいいのではないか,と考えます。マークアップ前の手書きのテキストにおいて自然に改行される箇所で(最小単位の)ブロックレベル要素が切り替わる,というのが私の主張です。もちろんそれは,日本語の形式段落とは異なってきます。なぜなら,形式段落は単なる改行では終了しないからです。

徳保さんは形式段落は単なる改行では終了しないとおっしゃいます。しかし,小学校では,段落(形式段落)は改行で表現する,って教えてますよね。日本の手書きの一般的な表現では,改行は形式段落だと思うンです。

もしかしたら単なるって部分が重要で,字下げもするとか,天声人語みたいに改行で表現しない場合もあるとか,そういう意味でしょうか。

徳保さんのマークアップ前の手書きのテキストにおいて自然に改行される箇所で(最小単位の)ブロックレベル要素が切り替わるって主張を素直に読むと,P要素は形式段落だって意味にしか読めないンです。

勿論,私はそう思っているのでそういう主張は願ったり叶ったりなンですが,どうもこの後ろの主張と辻褄が合わないので,話が繋がってこないのです。この辺りを説明願えると幸いです。

ただ,一部気になる箇所が。

形式段落を最小の節と考える人は形式段落をp要素とすればよく,形式段落はいくつかの小節からなると考える私は,読点で終わるp要素を問題としない。自分はどうなんだろう,と悩む人は,HTMLのことはいったん忘れて,紙に手で文章を書いてみればよいのではないか,と思うのです。

データ化する内容が人の考え方次第で変わっては,データ交換の上で障害が起きそうですが。というか,恣意に據ると言ふのであれば,議論は全くする意味がないわけですが。

さて,私が段落の中の段落で書いたことは,それが正しい文章表記ではないことは知っておかないといけないということです。この類いの表現は,芸術やら随想やら日記やらならば,著者の心情を表現する手法として問題ないとは思っています。そして,口語的なものをそのままHTMLで表現するのには,HTMLは向いてないことが多いというのにも同意です。

しかし,それが正しい文章表記ではないことは知っておかないといけないということに変わりはありません。

ブロックレベル要素とマークアップ

自分の主張の説明ばかりで反論をしていないので,ちと反論を。

p要素=形式段落と考えるのは誤りで,あくまでも最小の節をp要素とみなすべきだと私は主張するのです。

えっとですね,この考えだと,P要素にブロックレベルの要素を含めるようになるのは問題がありませんか。

xHTML2.0では,P要素にブロックレベルの要素を含めるられる仕様としています。これによって口語的なものをそのままHTMLで表現することが可能になると思います。それ自体は,そういう表現方法がある以上しょうがないね,と思っています。しかし,だからといってそれが正しい文章表記だとは思いません。だからこそ,そういったことを知っておかないといけない,と私は主張しています。

しかし,徳保さんの主張のようにあくまでも最小の節をp要素とみなすべきとすると,そもそもP要素にブロックレベルの要素を含む必要はない訳で。

というか,これまではそういう表現をしようとしたとき,例えば一つの文の中に引用文を入れようとしたとき,徳保さんの主張では引用文の前でP要素が途切れ,BLOCKQUOTE要素が現れ,そのあとにP要素が新たに始まってよいことになります。具体的には次のとおり。

<p>hoge</p>
<blockquote>hogehoge</blockquote>
<p>hoge</p>

しかし,同じものをxHTML2.0でマークアップすると,P要素が途切れることがありません。

<p>hoge
<blockquote>hogehoge</blockquote>
hoge</p>

P要素そのものの性質が変わったわけではない(HTML4.01でもxHTML2.0でも"paragraph"をマークアップすることに変わらない)のに,マークアップ結果が変わるってのは,おかしいと思いますが。

私の考えは次のとおり。そもそもP要素の中にブロックレベル要素を含むのは文法としておかしい。だからこれまでのHTMLではそういう仕様だった。しかし,言葉の乱れにより文法にそぐわない表現方法も増えたため,時代の流れには逆らえず,そういう表現もマークアップ出来るようにHTMLが進化した。今までの主張とも矛盾はないと思います。

ついでに小ネタ。

そもそもW3Cの仕様書を見れば,カンマで終わるp要素こそないものの,日本語の形式段落の発想とは相容れないp要素の異様な小分けが随所に見られます。DDTさんの主張では,こうしたことを説明できないように思われます。

えっと,英語の文法上はあり(なのかどうか知らンけど)の小分け(例えば":"で終わる文)について,日本語文法では説明できない,って話でしょうか。そりゃあ,そうでしょう。

ブロックレベル要素の内容

W3CのHTML4.01の仕様書に,ブロックレベルの要素はどれも,一つの完結した文として成り立っているものだといった記述は見当たらないようです。

仕様書には記述が無いから,完結した文として成り立っている必要はない,と考えている,と解して良いのでしょうか?

先にも書いたとおり,私は,ブロックレベルの要素はどれも一つの完結した文として成り立っているものだ,と解釈しています。そこでその理由なぞ。

仕様書を読むとCertain HTML elements that may appear in BODY are said to be "block-level"とあります。BODY要素とは,すなわち文書の内容のことですし,文章を書くにあたっては文章そのものとなります。

文章として書くことが出来るのがブロックレベルの要素だけである以上,少なくとも複数のブロックレベル要素をもって文章は完結していなければなりません。

さて,ブロックレベルの要素のうち,文章を構成する要素はと謂うと,BLOCKQUOTE要素,DL要素,OL要素,P要素,UL要素,PRE要素(DIV要素は除きます。)です。このうち,リスト系の要素は当然それ自体で完結します。整形済みテキストについても,図形と同等と考えるべきでしょうから完結しているものです。また,引用文を含まない文章もあることを考えると,P要素の集合のみで文は完結することになります。

ところで,文章以外のブロックレベルの要素を考えると,FIELDSET要素,FORM要素,HR要素,TABLE要素と,いずれもそれ自体で完結しているものです。また,BLOCKQUOTE要素については,ブロックレベルの引用文をマークアップする要素ですから,ブロックレベルの要素とは何かを考える際には除外して問題ありません。

つまり,P要素以外のブロックレベルの要素は,(BLOCKQUOTE要素とDIV要素を除いて)すべてそれ自体で完結しているものということになります。

ここから類推したとき,ブロックレベルの要素について,P要素以外はそれ自体で完結するが,P要素だけはそれ自体では完結しない,若しくは,完結しなくても良い,とするのは不合理だと考えます。テキストレベルの要素と対比してブロックレベルの要素を定義する必然性がありませんから。

ちなみに,P要素が明示するのは文節だとした場合,P要素は一つの文節で終わる短文(例えば,「誰だ!」といったようなもの)でなければ,必ず複数のP要素でもって一つの文を形成しなければならなくなります。広辞苑によると,今朝,朝顔が庭に咲きましたという文は4文節から成るそうです。少なくとも私は,そういう使い方をしているHTML文書を見たことはありません。

段落

2003.09.08

先の文章[see 段落の中の段落]に,趣味のWebデザインの備忘録で反応を頂いた様子。

論点がいくつかあるので,分けて書きます。[continued,next Re:段落]

意味段落

形式段落はマークアップできても、複数の形式段落からなる意味段落はマークアップできない、という問題は文章の整理では対処できません。

意味段落はH1要素からh6要素を記述することで存在すると看做される階層構造で表現されます。JIS-HTMLではDIV1要素からDIV6要素で明示されるものがそれにあたりますし,xHTMLでは(見出しを含みますが)SECTION要素が同等のものとなります。そのへんは,徳保さんもこれはXHTML2.0以前のHTMLにおける致命的欠陥だと私は思うと書かれておりますので,ご存じのことかと思います。

さて,HTMLの要素はマークアップすることで発生するものではありません。もともとあるものをマークアップすることで明示しているに過ぎません。分かり易い例で謂うと引用ですが,文章の特定の箇所をQ要素やBLOCKQUOTE要素でマークアップしたから引用になるわけではなく,引用箇所をQ要素やBLOCKQUOTE要素としてマークアップしているのです。

段落も同様で,そもそも文章中に存在するものです。マークアップできないからといって意味段落がなくなる訳ではありません。あくまでも,文書文章の整理によって意味段落は作られるのです。

徳保さんの主張が,意味段落はマークアップしなければならない,なのでしたら意味段落をマークアップする要素がないHTMLは欠陥と言えるでしょう。しかし私は,別に意味段落をマークアップしなければならないとは考えていません。以前にも書いたことがあります[see xHTML論議近辺]が,見出しをマークアップすることで人間に判るようになっていれば十分だと考えています。

なので,意味段落をマークアップする要素がなくても問題とは思いませんし,P要素にブロックレベルの要素を内封出来ないことが欠陥とも思いません。

段落とマークアップ

p要素を段落と捉えると、小節を表現できなくなります。p要素はブロックレベル要素を内包できませんから。小節は明らかに、インライン要素ではないはずです。要は、文書構造のどのレベルまでブロックレベル要素とみなすかという話ではないのですか。

私はP要素を,形式段落を明示するものと考えています。

徳保さんはそれでは小節が明示できないので問題である,とおっしゃいます。しかし,私は問題とは思いません。小節を明示できないことに何か問題があるのでしょうか。

先にも書いたとおり意味段落は,xHTML2.0以降はSECTION要素で明示できますが,それ以前のHTMLでは明示できません。しかし,明示できないだけで文章の中に問題なく存在します。形式段落の中にも,意味段落同様に明示されていないだけで,細分すればいくつもの文や単語があるでしょう。しかし,それら全てを明示する必要はないと考えます。だって,明示する必要なんてないでしょう。そんなものの明示が必要だってンなら,当然一つの形式段落の中にある句点で区切られた文一つ一つも明示の必要が出てきます。そんなもの明示してどうするんでしょう。それこそ句点で判るし。まぁ,機械処理にはマークアップしておいた方が楽なのかもしれないし,自明な範囲だからこそ,当然マーク付けを行うとかって発想もあるのかもしれないけど。

ちなみに。私が意味段落を必ず明示しなければいけない,とは思わないのは,見出しが明示してあれば機械的に十分判断できるものであるから,人がわざわざ機械の為に明示してやる必要を感じないためです。しかし,形式段落の中の文や単語までも明示する必要はない,と思うのは,機械に不必要なデータを与えて処理を重くする必要はないから。意味合いは違いますが,どちらも,必要なデータだけを十分な量だけ与える,という私の思想の基から外れるものではないため,矛盾はないと思います。

段落の表示

引用部分をブロックレベル要素風に表現した方がわかりやすいのならば、その引用部分はそもそもブロックレベル要素としてマークアップされるべきです。

DDTさんがCSSで表現した結果を見れば、DDTさんはq要素で引用している部分をホントはブロックレベル要素にしたかったということがわかるし、CSSで無理にそれを実現してしまったから、結果的にマークアップされない匿名ブロックが登場しています。これはおかしいのではありませんか。

読点で終わる匿名ブロックはよくて、読点で終わるp要素はダメだという感覚が私には理解できない。

えっと,CSSのレンダリング上現れる匿名ブロックが,何故に文章の構造に関係するのか判りませんが,それはさておき。

表示方法によって文章の内容が変わるわけではありません。内容が変わらない以上,マークアップは見栄えに左右されるわけもありません。あくまでも,文章の中身に拠ってマークアップされるべきものです。

表示方法が単独の矩形表示になろうが,前後の文章と区別なく連続して表示されようが,それによってマークアップを変えなければいけない訳ではありません。引用であれば,引用文が単独で完結している(一つの形式段落を形成している)のであればBLOCKQUOTE要素になりますし,一つの完結した文(一つの形式段落)のパーツとして引用されているのであればQ要素となるだけです。

引用部分の明示のためには、インライン要素のq要素と、ブロックレベル要素のblockquote要素がちゃんと用意されている。それなのにどちらもdisplay:block;としてしまったら、ソースを見なければ、blockquote要素をclassで分類した場合と区別がつかない。q要素をdisplay:block;するCSSはおかしい。q要素をdisplay:block;するならblockquote要素にすべきで、とするとDDTさんも読点で終わるp要素を検討せざるをえないのではないか。

視覚的にと限定したならば,独立した文なのか,別の文のパーツなのか,どちらかが判断しにくい,というのはそのとおりでしょう。

しかし,一文章書きとしては,視覚やマークアップではなく,文章を読んで,自分の読解力をもって判断してほしい,と思っています。普通の読解力があれば十分に判断できるように文章を書いているつもりですし。

もしそれが判断しにくいというなら,それは私の文章力が足りないせいでしょう。精進します。

いずれにしろ,別にどうしてもQ要素を矩形で表示したい訳でもありませんし,CSS消すなり,ユーザスタイルシート使うなり,ご自分の見やすい環境で閲覧をしていただければよろしいかと。というか,そういう人たちの為にも,見栄えのためにマークアップを変えることを検討なんかしてはいけないものと思っております。

句読点

蛇足ですが。

私の主張は,ブロックレベルの要素はどれも,一つの完結した文として成り立っているものだ,ということです。テキスト要素は逆に,それのみでは完結しないもの,と捉えています。句点と読点の用途を考えれば,読点で区切られた箇所で文は完結しませんから,そこでブロックレベルの要素が終わるのはおかしいという判断です。

徳保さんの主張が,ブロックレベルの要素はそれ単独で完結している必要はない,というものでしたら問題ありませんが,もしそうでないなら,句点と読点の用法をご確認いただいたほうがいいかも。

段落の中の段落

2003.09.07

「読点」って文字に引かれて読んだ文章で,思わぬ方向で興味をそそられたので。Web系日記 : 2003年8月の#id0823-2のNote …というかより。

読点をまたいでの blockquote というのは,アリなのですかね。頭の中では,<p>hoge,<blockquote>hogehoge</blockquote>hoge。</p>こういう感じなのだけれど,これだと文法違反以前の問題として,頭の中で描いたとおりの意味としては解釈されない。で,あるならば,q タグでもって同一段落内に内包させるのが適切な感じもするけれど。強引に<p>hoge、hoge。</p><blockquote>hogehoge</blockquote><p>hoge。</p>こうすると,丸く収まる。けれど,意味付けのために語群を変えるのは本末転倒というか。

この感覚は正しい。

更にsecurecat の日記 (3946)のRe: Web系日記 : 2003年8月より。

q要素を使うのがスジと思いますが,まあ,
<blockquote>hogehoge</blockquote>
<p>hoge,hoge。</p>
と書いても通じるのでは。

口語的なものをそのままHTMLで表現するのには,HTMLは向いてないことが多いわけで,であれば同じ文意を満たすが違う書き方へ推敲するなどの作業が必要だと思われ。

この感覚も正しい。

しかし,次に挙げる備忘録030801-31/趣味のWebデザインの平成15年8月24日はどうだろう。

脱線したので話を戻すと,p要素を日本語でいうところの段落ではなく,最小の節単位とみなせば,別に読点でp要素が終わってしまってもかまわない。

以前にも書いたことがあります[see HTML]が,なぜ頭の中で飛躍した思考経路を文章でそのまま書くことが正しいと思えるのかが理解できない。

話はちょっと違うけど,最近注視している論争でこんな発言があった。

縦書きの文章を「縦書きの儘」「横書きにして」引用することは「原理的に不可能」

縦書きの文章をわざわざ「横書きにして」引用する必要なんぞありはしない。縦書きのまま引用すればよい。出版物なら,本文の余白にコラム(箱)を設け,そこに引用文を入れる。そして本文で「夏目漱石はかう書いた。<コラムA参照>」とやれば宜しい。インターネットなら,引用部分を独立させて本文からリンクを張り,縦書き表示ブラウザで読むやうに指示すれば宜しい。この程度の手間を惜しんで「原理的に不可能」とは,ちよつと横着すぎませんか。

主張の内容も何も全然違う話ではあるが,根は同じだと思う。引用するなら横書きに表記変更すればいいし,縦書きのままで表記したいなら別文を参照するような文章を書けばよい。引用に限った話ではなく,図形でも同じことだろう。

目で見たもの,頭の中で考えている事柄,そういった物事を整理して論理づけて文章は書かれるものだ。そのときに無理に見たまま,思考経路のとおりに表現する必要はない。いや,整理しているのだから,そのままでは困るのだ。自分の中で咀嚼して,文章として成り立たねばならないのだから。

ただ,話すときは,考える時間が短いせいもあってか,その辺の整理が完全に終わらないうちに言葉にしなければいけないときもある。そういうときに,完結していない段落の途中で別の段落を挿入してしまう,若しくは,完結させるための言葉を省略してしまう,といったこともあるだろう。そして,そういう場合の言葉を,そのまま文として書いてしまうこともあるだろう。

この類いの表現は,芸術やら随想やら日記やらならば,著者の心情を表現する手法として問題ないとは思う。しかし,それが正しい文章表記ではないことは知っておかないといけない,と思います。というか,一文章書きとして,知っておいてほしい,と切に祈ります。

[see 段落]

文章読解力

2003.09.01

ここんとこ,GNOばかりやってて殆どサイト鑑賞してなかったンでかなり遅れ気味だけど,興味深かったので。

この文章の前提に,次に挙げる過去のサイト鑑賞がありますので,そちらもご覧下さい。

さて,今回は「掲示板荒らし」野嵜健秀、泣きつく。という文書を見ての感想。これは,要するに,アレクセイ氏が管理する掲示板に個人情報が度々載せられ,それについてプライバシーの侵害だとの指摘を受けてもアレクセイ氏は意に介さなかったため,掲示板の提供元であるティーカップに申し入れをしたところ,ティーカップから削除指示が入ったって話。で,その顛末をアレクセイ氏自身が紹介している文書です。

前文は,アレクセイ氏から見た状況説明らしく,傍観していた私には全く判らない状況判断をしているなぁ,って感じの説明になっています。

で,本題はそのあとです。ティーカップからのメールと,それに対するアレクセイ氏の返答を全文掲載しています。

先ずはティーカップからの警告メールで,誹謗中傷とプライバシー侵害との抗議が届いているから,期日までに個人名および類推可能な名称すべての書き込みを削除しなさい,って話。更に同時刻に緊急として,掲示板を一時停止したとのメールも。

それに対して,アレクセイ氏の返答。先ず法に基づいて強制措置を取るとのであれば,当然,その「正当な根拠」が必要だと思うのですが,それを具体的に示していただかなくては,不公正だと思いますとの主張。が,先のティーカップからのメールには平成14年5月27日施行の「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」の規定に基づきと思い切り書いてあります。これ以上何を書いてほしいのかがよくわかりません。条番号でしょうか。ただ,その後の文章を読むかぎり,プロバイダ規制法を読んで,内容を確認はしていないみたい。大人の契約関係を主張するなら,相手が根拠として出してきた法律くらい確認したほうがいい気がします。

まぁ,後段に「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」など国家による情報統制と,それによって規制をうける「基本的人権」としての「言論・表現の自由」に深くかかわる問題であり,私としてはこれを個人的な問題としてあだや疎かにするつもりはありませんと書かれているので,そんな法律に従う気はないから読まない,という主張なのかも知れないけど,それが大人の契約関係っていうのも凄いなぁ。

で,ティーカップからは案の定,利用規約にも載ってるでしょ,って返答。

通常、無料掲示板の削除につきましては、ご利用規約に反するものであれば弊社裁量の範囲内(無料掲示板ご利用規約第14条(その他の禁止事項)の(3)違反)となります。ただし「実名表記」のため上記法律のプロセスを取らせていただいております

でこれに対するアレクセイ氏の回答が次のもの。

今回の件は『利用規約に反するもの』ではなく、『「実名表記」のため』に「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」に引っ掛かったのだということですね?

えっと,そうかなぁ。ご利用規約,つまりはティーカップとアレクセイ氏の間の契約内容にも該当するけど,それ以前にもっと強制力がある法律にも該当していますよ,って私なら読むンだけど。まぁ,確かに判りづらい文章ではある。

でもまぁ,ここまではいいのです。問題はこのあとから。

で、問題はその『実名』とは「どの名前を指すのか?」ということです。

この人が自ら書き込みに使っている「名前」であり、そのために他者がこの人を指す時に使う「主語」であって、これを「法律違反」というのであれば、電子掲示板上には本人といえども「実名」を書くことが出来ない、ということになります

いや,だからさ,初めに誹謗中傷云々って書いてあったじゃない。どうして本人が名乗った名前が関係するのさ。誹謗中傷・プライバシー侵害で使われた箇所に決まっているでしょうに。

まぁ,この辺の内容については,地獄の箴言 掲示板での木村氏の言葉がわかりやすい説明になっている。

えーと、アレクセイこと沖泰光さんは、上記の文章を正氣で書いてゐるのでせうか。それとも社會常識の無さを天下に曝したため恥づかしくて誤魔化してゐるのでせうか。

ティーカップからお目玉を食らひ、たうとう掲示板そのものhttp://8048.teacup.com/aleksey/bbsまで取上げられて仕舞つたのは、あなたが現在は公開されてゐない野嵜さんの履歴を掲示板で繰返し公表したからだと思ひますよ、常識から考へて。本名で投稿しただけで、「プライヴァシー上問題だから削除せよ」なんて文句をつける掲示板運營會社がどこの世界にありますか。それならこの掲示板の私の投稿も全部削除ですか。

まぁ,これに対するアレクセイ氏の自分の掲示板での返答もあるンだけどさ。

バカですね。そんなわけないから、『野嵜健秀』という『実名』を削除せよと言ってきた『ティーカップ・コミュニケーション』社に、私は上のように迫ったんじゃないですか。……こんなこと、中学生でも読み取れると思いますが、木村さんは「新字新かな」で書かれていると、文意が読み取れなくなるのでしょうかね(笑)。

さて,最近私が読んでいる途中のサイトにカエレ!〜招かざる厨房たちへ〜というサイトがあります。ここ読んでて思うンですが,人の話を理解できない,文章の中身を読みとれない人って増えているのかなぁ,とか思うのです。どうも,若い人だけじゃなく,このサイトでは親厨と呼ばれている,人の親でもそういうのがいるみたいで。

私も学生時代国語が得意だったわけでも,真面目に授業を受けていた訳でもないので偉そうなことは言えないけど,もうちょっと世の中の人が文章を読む力を身につけないと,日本の今後は危ないンじゃないか,とか大げさに思ってたりします。

まぁ,それよりなにより,先ず文章を読む忍耐力が必要だとは思うけど。説明書とか解説とかくらい読んでから苦情を言ってくれ,ってことが仕事で結構あったりするので。これは余談ですが。

文責,その他

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