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*「相模田名民家資料館」 住 所 相模原市中央区田名4856−2 電話 042−761−7118 開 館 日 木・金・土・日の週4日間(正月・盆は休館。また、祝祭日についても休館の場合あり) 開館時間 午前10時〜午後4時 入 館 料 無料 2階展示室は開館時間中自由に見学できます。一階和室の利用には事前に予約が必要です。 その他、詳細につきましては、資料館までお問い合わせください。 ![]() |
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![]() 2月の初めての午(うま)の日である初午はお稲荷さんを祀る日です。皆様もよくお分かりの通り、稲荷には集落など地域全体で祀る大きな神社から各家庭にある屋敷神(やしきがみ)までさまざまなものがあり、人々に大変親しまれている神の一つとして初午には多くの稲荷社で祭礼が行われています。ちなみに今年の初午は2月9日(土)でした。 今年の初午の9日には、民俗調査会の会員とともに秦野市今泉に鎮座する白笹稲荷神社にお伺いしました。民俗調査会では、「博物館の窓」でこれまでも紹介しているように、市内をはじめとして各地のフィールドワークを行っており、機会を捉えて市域の様相と比較することを目的として市外の地域も訪れています。秦野市の白笹稲荷は、一説に関東の三大稲荷に挙げられるほどの有名な神社であり、相模原市内でも例えば当麻地区の宿集落では、明治45年(1912)に防火の神として白笹稲荷から分霊を受けて日枝神社の社殿に合祀しており、東林間地区の東林間神社境内にも、大正6年(1917)に分霊され、この地域の新開(しんかい)としての開発の歴史を物語る稲荷社が祀られています(『平成さがみはら風土記稿 神社編』平成5年 市教育委員会発行)。また、地区内の講中や同族等で祀る比較的小さな稲荷社では、初午に市外の稲荷神社に代表者がお参りに行くことがあり、この行き先としても白笹稲荷が多かったようです(『相模原市史民俗編』)。
※陽石(ようせき)とは男根の形をしたものをさします。
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![]() 今年のどんど焼き・団子焼きは12日〜14日にかけて市内の各地を回りましたが、12・13日は火に当たっていると汗ばむほどの陽気で、大変和やかに行われました。ところが14日は一転して数年ぶりの大雪となり、特に午後からは短時間に雪が降り積もりました。この日は事前のニュースでも大雪の予報が出されており、調査も若干の躊躇がありました。それでも少し回ってみて、中止や延期の場所が多ければそこで終わりとの心積もりで行ったところ、予想よりも多くの場所で行われていたのに出会いました(もちろん翌日などに延期となった所も確認しました)。 実施していた地区で「この天気の中、大変ですね」と声を掛けたところ、すべての所で「これは14日にやることになっているので仕方がないですね」とのご返事をいただきました。改めて、昔からやっている行事の意義について考えさせられるきっかけとなりました。写真の1〜3は平成25年1月12日、4〜13は1月14日の様子を紹介しています。なお、14日は、民俗調査会の五十嵐昭さんと千葉宗嗣さんに同行していただきました(民俗担当 加藤隆志)。
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![]() 中央区上溝3〜7丁目付近の県道に沿った地域は、かつて市場が開かれていた場所です。上溝市場は主に生糸や繭などの取引を目的として明治3年(1870)に開設され、毎月6回、3と7の付く日に開かれた六斎市(ろくさいいち)です。市日(いちび)には糸や繭を買う商人などをはじめとして多くの商人が集まり、露天も出て大変に賑やかだったと言います。また、多くの商店も立ち並び、相模原の中心的な商業地となっていました。 この地で今年の1月13日(日)に行われたのが「だるま市」です。元々、上溝にもだるまを作る職人がいて1950年代の前半までだるま市が行われていましたが、その後は職人がいなくなったこともあって行われなくなりました。それを平成元年(1989)に復活させたのが現在のだるま市で、7月の夏祭り(上溝の天王祭)と11月の酉の市とともに上溝の三大イベントを構成するうちの一つとなっています。ちなみに今は相州だるまが売られています。
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![]() 昨年の「民俗の窓」のNo25とNo26において、南区当麻の原当麻地区と南区古淵地区で行われている道祖神の小屋作りについて記しましたが、市内ではこのほかにも何か所かで同様のものが今でも作られています。今回はそのうちの一つである中央区田名の清水地区の事例を紹介します。
市内で今も作られているこうした「道祖神の小屋」は、作ったものを翌年までそのままにしておく所(南区当麻の中・下宿や緑区寸沢嵐道志)やその後に燃やしてしまうもの(原当麻や古淵)があり、清水地区は後者の事例となります。特にこのムロは、一年のうちわずか一〜二時間しか姿を表していないことになり、その時に現地にいかなければなかなか分からないと言えます。今回紹介した事例は、市民の方からこうしたことがあるとご連絡をいただいて調べることができたものです。団子焼きに限らずこうした情報があれば是非博物館にお寄せください(民俗担当 加藤隆志)。 ![]() |
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![]() この冬も団子焼き・どんど焼きの時期がやってきました。今年は成人の日と日曜日の関係で12日(土)から14日(祝)までに行われた地区がほとんどで、昨年に比べて短期集中となりました。例年通り、いくつかの地区を回らせていただきましたが、まず南区新戸の上地区のどんど焼きについて紹介します。 南区新戸は市内でもっとも南西部にあり、水田に乏しい市域の中でも相模川に面した比較的田の多い所です。今回取り上げるのは新戸の北側にあたる、荒井耕地西・荒井耕地東・上新・中央・新道の五つの自治会が合同で行っているどんど焼きで、毎年五つの自治会が順番に準備などに当たることになっており、今年は荒井耕地西自治会が担当しました。
その後、午前11時30分頃から行われたのが道祖神の幟立てです。この地区では、現在行事を行っている場所から200mほど離れた、集落が並んだ四つ角の場所に道祖神などの石碑がありますが、そこに「奉納道祖神 明治二十二年一月十四日 上講中」と記された幟を自治会長が中心になって立てました。市域各地で盛んに行われているどんど焼きのなかでも道祖神の幟がある地区は今のところ他には確認できず、大変珍しいものということができます。この幟は翌日のどんど焼きの終了後に片付けます。そして、午後5時からは道祖神の石碑に灯明やお神酒などを上げて、自治会長と荒井耕地西自治会の代表の方々が拝礼し、12日の準備は終了しました。
博物館で、この行事(団子焼き・どんど焼き・サイトバライ)の調査を市民の皆様と一緒に調べ出して今年でちょうど10年になります。この間、さまざまなデータを得ることができた中で、今回の道祖神の幟のように初めて分かった事例もあります。今後ともさらに調査を続けて、市域の状況の様相と変化について捉えていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。 ![]() |
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![]() 『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)によると、2月8日と12月8日は「事八日(コトヨウカ)」の日で、この日には全国的に各種の神や妖怪が訪れるとされ、特に疫病神が来ることを恐れる伝承が東日本の広い範囲に見られます。神奈川県内ではこの日を「ヨウカゾウ」あるいは一つ目小僧が来る日なので「一つ目小僧」などと言い、2月と12月の両方、あるいは2月か12月のどちらかだけの8日とする場合があります。また、県内では広く見られる伝承であるものの、三浦郡と津久井の藤野町や相模湖町では伝承が希薄であることが指摘されています(『神奈川県民俗分布地図』神奈川県立博物館。1984年刊行なので地名はそのまま記載しました)。
相模原地域の大沼や古淵・上溝などでは、12月8日に来る一つ目小僧が村人の誰を悪病にするかを書いた帳面を道祖神に預けて2月8日に取りに来ると言ったのに対し、正月14日の団子焼き(どんど焼き・サイトバライ)の火で道祖神の家が火事になって帳面を焼いてしまったのでどの人を病気にしたら良いか分からなくなって、その一年は病気にならなかったとする、ヨウカゾウと正月の団子焼き行事の由来との関連を説く伝承などもあります。今回の根小屋中野ではそうした話は伝えられていないようですが、市内でも年中行事に関わるさまざまな伝承が残されています。これからもいろいろな行事を取り上げていく予定です(民俗担当 加藤隆志)。 ![]() |
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![]() エビス講は、各家での年中行事の中でも大いに行われていた行事の一つで、『相模原市史民俗編』や『相模湖町史民俗編』などをはじめ、これまでにも市内各地からの多数の報告があります。エビス講は、福の神であるエビス・大黒にいろいろなお供え物をして祀る行事で、基本的に一年に2回、正月と秋(10月か11月)に行われます。特に商家のほか、農家でも盛んに行われていました。この行事もほかのものと同様に近年ではあまり見られなくなっていますが、「民俗の窓」に何回も登場いただいている、緑区根小屋の菊地原稔さんの家では現在でも行っているということで、写真を撮らせていただきました。
当家では御当主の祖母に当たる方がこうした信仰に熱心で、例えば、路傍の道祖神などの石仏に納められている(どんど焼きで燃やすためにおいてある)エビスや大黒像を貰い受けて来て、酒を供えて「この家のために働いてください」と言ってお祀りしました。ちなみに祖母は御札や達磨などもどんど焼きで毎年焼くのではなく、「御札が千枚集まれば長者になる」として保管していて、今も御札などはたくさん残されているとのことです。 この棚の下側にテーブルを置き、灯明と魚、膳をエビスと大黒の分として二膳お供えします。魚は鯛で、皿に腹合わせに載せます。ただし、昔は鯛などはなかなか買えなかったため、鯵が多くてサンマだったこともありました。膳には箸のほか、お神酒、小豆飯、柿、野菜の煮物を付け、小豆飯はうるち米を焚いたもので、エビス講の時にはもち米を蒸かした赤飯は使いません。柿は「掻き取る」ということで供えますが、あまり他の家で供えているのを見たことはなく、野菜の煮物は大根・ニンジン・ゴボウ・里芋を煮て、その上には油揚げが一枚載せられていて、これは根小屋辺りではよく作られているそうです。このお供え物は当日はそのまま置き、翌日の朝に下げて食べることになります。なお、エビス・大黒がお金を稼いできたためエビス講には財布や金を一升枡などに入れてお供えするという話もあるものの、当家では金を上げると働かなくなるといってやりませんでした。
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![]() 復活後21回目を迎えた藤野村歌舞伎が、今年は神奈川県立藤野芸術の家クリエーションホールにおいて10月14日(日)の午後1時から行われました(藤野村歌舞伎の復活の経緯については、「祭り・行事を訪ねて4(平成22年11月)」をご参照ください。)。今年(平成24年)の演目は、第一部が「忠臣蔵七段目 一力茶屋の場」で、第二部が恒例の「白波五人男 稲瀬川勢揃いの場」でした。
途中、突然に兄に殺されそうになって驚き、また、夫が死んだことを知って嘆き悲しむおかるの姿をはじめとして多くの者に親しまれてきた名場面であり、当日は約1時間に渡っての熱演が見られました。 第二部の白波五人男は、10名の子どもたちによる演目で毎回人気があり、今年は藤野南小の3年〜6年生の8名と藤野中2名が見事に演じて小銭を包んだ多くのおひねりが舞台に投げ入れられました。
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![]() 7月の天王祭から引き続き、8月から9月にかけては各神社で祭りが行われます。こうした祭りに行くとまず目に付くのが、鳥居の両脇に建てられた幟(のぼり)です。幟は大きなものや小ぶりなものもありますが、神社が祭りであることを周囲に示す重要なしるしとなっています。 幟は、元々は神を招いたり神が訪れたことを表した旗飾りで、「依代(よりしろ)」と考えられています。古くの日本の神は社殿に常在するのではなくて祭りの時に迎えるものであり、そのために神が降臨するためのものが必要で、それは天然の樹木や岩・山のほか幟などの柱を立てることもあります。幟の先に榊などの葉を付けるのは単なる飾りではなく、神を迎える装置としての意味があったとされています(『日本民俗大辞典』)。
私が訪れたのは幟を片付ける幟返しが行われた2日で、作業が開始される午前8時30分には40名ほどの男性が集まり、挨拶と清めの酒を飲んでから幟返しが始まりました。当社の幟には、両方ともに幟枠という龍が彫られた立派な木製の彫り物(ちなみに片方は10年近く前に盗難にあい、残った方を見本に作り直したということです)が取り付けられており、まずこれを外します。そして、「鎮守 御嶽神社 昭和五十八年九月一日 氏子中」と書かれた幟を下げて竿から取り、幟枠の上部の飾りを外していよいよ竿を倒し始めます。幟竿はかつてはもっと大きかったようですが、現在の一回り小さくしたものでも10mほどの長さはあるとのことで、倒す方向とは反対側では急に落ちたりしないように縄で引っ張り、梯子で枠を支えながらゆっくり倒していきました。そして、約1時間で二本の幟を片付けることができました。ちなみに幟立ては梯子で支えながらなのでもっと大変で、約2時間ほど掛かったそうです。 最初にも記したように、祭りに当たって氏子が寄り集まって人力で大きな幟を立てることは古い形式を残しており、また、大勢の氏子の方が集まることは、地域の祭りの一環として意味あるものとして位置付けられていることが分かります。それでも実際に仕事に当たられる立場からは、作業が大変なこともあって常設のポールを設置する意見も出されているとのことで、今後の推移を見守っていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
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![]() 境川近くの地区の神社の多くは川沿いに見られ、中央区上矢部地区の鎮守である御嶽神社も同様に常矢橋のすぐ西側に鎮座しています。御嶽神社の例祭は日取りがいくつか動いた後に現在は9月の第一土曜日となり、この日には相模原地域ではここだけである湯花(ゆばな)神事が行われています。 湯花神事には境内の社殿の前に笹竹を四方に立てて注連縄を張り、その中央に三本の丸太を組んで大釜を据えます。また、地元でカツンボと呼ばれるニワトコの木を13本編んで棚を作り、この棚は社殿の向かって右側にある柱に設けて桶を乗せておきます。かつては川原にあったカツンボは無くなってしまい、最近では参道の脇のところに植えたりしているそうです。
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![]() 8月を代表する年中行事と言えばやはりお盆を挙げることができます。古くからの行事が廃れていく中、盆行事は正月行事と並んで簡略化されながらも今でも続けられていることが多いものの一つです。 ところで、神奈川県の盆を代表する行事としてよく紹介されるものに「盆の砂盛り」があります。県内の各地では、スナモリとかツカ・ツジなどと言って、盆の入りの13日に屋敷の入口や屋敷前の道端に土や砂を盛り上げて土壇を作り、中には何かが登るためなのか階段を付けたりすることもあります。そして、この砂などを盛ったところに線香を立てて造花などの花をさし、その脇で迎え火や送り火を焚きます。砂盛りは、静岡県や多摩地方にも見られるとも言われますが他県ではほとんどないとされており、その意味で神奈川県を代表する民俗として捉えられています。 しかし、この砂盛りはもう一つの重要な特徴があります。それは、砂盛りを作る地域は県内では東西に帯状に広がっていることが分かっており、三浦半島では希薄であり、相模原市でも緑区や中央区ではほとんど作られていないということです。この点を『相模原市史・民俗編』によって確認すると、市域での名称は一般に「線香立て」と呼ばれており、地域としては下溝・当麻・磯部・新戸・上鶴間にあり、特に磯部や新戸には色濃く見られます。また、例えば下溝では、大下集落では作るものの古山集落では行わないというように地区内すべてにあるわけではなく、当麻や上鶴間も同様の傾向があります。中央区になりますが上溝や田名では、やっていた家もある一方で一般的ではなかったとのことです。つまり、県内を帯状に分布するこの砂盛りは市内でも南部地域では作られ、特に新磯地区に顕著というように地域差が顕著な民俗であるということができます。 今年の8月17日にこうした地域の一部を回ってみたところ、さすがに現在では土や砂を固めて作ったのは少なく、鉢や缶・箱に砂などを詰めて線香立てとしているものが多くありました。また、中には石製で盆のたびに出してそのまま使っていると思われるものがあったり、階段付きも確認できました。ちょうど送り火の翌日でしたので隣りには送り火を焚いた跡があり、砂盛りとその近くには、線香を立てる竹筒や盆棚に供えてあった造花やナスとキュウリの馬、アライアゲといって刻んだナスとインゲンに洗った米を混ぜて里芋の葉に載せたもの、アライアゲに水をふりかけるのに使うミソハギ、オガラ(麻幹)などが置かれていました。
地域に伝えられてきた民俗はそれぞれの土地によって違いがあり、人々が担っている文化であることから単純に行政単位では区切れない面があります。一口に「相模原の民俗」と言っても県内の中で位置付けると、似たような状況にあるものや特徴のある分布を持つものなどがあり、さらには今回の「盆の砂盛り」のように市内の中でも違った様相を示すものなども見られます。『相模原市史・民俗編』ではこうした民俗についての細かい記載がありますが、この欄でもさまざまな観点から市域の民俗や祭礼行事を取り上げていきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
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![]() 8月5日の日曜日に、民俗調査会では「八王子祭り」の見学を行いました。毎月第二水曜日に活動する民俗調査会Aと第四土曜日を活動日とする同Bの合同の見学会で、民俗調査会では市域を中心に各地のフィールドワークを行っていますが、さすがに暑い盛りの8月は長い距離の外歩きは危険ということで、毎年、さまざまな祭礼の見学をしています。今回の見学会も相当の暑さの中、総勢36名の会員が参加しました。 「八王子祭り」は8月第一の金・土・日(今年は3・4・5日)で、民俗調査会では5日午後にまず八王子市郷土資料館で学芸員の方から、祭りの歴史や移り変わり、見所などのご説明をいただき、その後、八王子の町のメインストリートである甲州街道(国道20号線)に移動し、華やかで勇壮な御輿の渡御や山車巡行を見学しました。
八王子祭りの大きな見所に、八幡八雲神社及び多賀神社の宮神輿の渡御と並んで各町内から出される山車があります。八王子の山車は上側に人形を飾ったり、全面に彫刻を施した彫刻山車の祭りとして江戸時代から著名でした。しかし、昭和20年(1945)の八王子空襲によって多くの山車が焼失してしまいました。それでも焼け残った山車や人形を修理したり新たに再建するなど、今では19台の山車が祭りに参加し、賑やかな囃子を奏でながら自分たちの町内や甲州街道の巡行を行います。
相模原市内でも中央区上溝をはじめとして各地に山車が出る祭りがありますが、上溝・本町の山車は明治40年(1907)に八王子の横山町から譲り受けたものといわれ、大正初期頃に撮影された上部に天照大神(アマテラスオオミカミ)の人形を乗せた山車の写真が『市史民俗編』に紹介されています。また、緑区中野上町の山車は、大正13年(1924)に八王子の八日町一・二丁目から譲り受けたもので、雄略天皇を乗せる人形山車の形態です。八日町一・二丁目にあった山車は、明治10年代に作られた八王子でも古い形態のものとされ、八王子ではその後の空襲で多くの山車が失われていますので、中野上町の山車は八王子の山車を知る上でも重要なものと言えます。今回の見学会でもこうした八王子と相模原のつながりに注意して実施したのはもちろんで、市内の祭り・行事や民俗をより深く理解するためにも、このような周辺地域との関係や異同などを調査し、検討していく必要があります。今後とも、機会を捉えて周辺地域の状況を含めて紹介していきたいと思います(民俗担当 加藤隆志)。
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![]() 南区下溝の古山集落は下溝地区のもっとも北側にあり、集落の神社として十二天神社を祀っています。この十二天神社の祭礼が、今年(平成24年)は7月21日(宵宮)と22日(本宮)に行われ、集落の中を大人の御輿と子ども御輿2基、囃子連を乗せた屋台(山車)が巡行しました。この御輿は天保10年(1839)製で市内に残る御輿でも古いものの一つとされ、屋台も古くは慶応年間(1865〜1868)に上溝で再造したものでしたが、現在は新しく作り直したものを使っています。 この地域の伝承を調べた『古山の集落と土地利用』(相模原市教育委員会が刊行した)によると、かつては古山の中には十二天神社のほかに八坂神社と日枝神社があり、それぞれ3月(十二天神社)・7月(八坂神社)・9月(日枝神社)というように年に三回の祭礼を行っていました。それが明治30年(1897)に、八坂神社と日枝神社が十二天神社に合祀されて祠がなくなり、その後も二社の祭りはあったようですが、昭和に入ると三社合わせて7月に祭りをすることになりました。このように本来の十二天神社の祭日ではなく、地域の神社の祭礼として合祀された八坂神社の祭礼日の方を行うようになったのは、やはり御輿や屋台を出す華やかなオテンノウサマの祭りの魅力が強かったと考えられます。 また、以前は古山は集落の内が丸(マル)・上(カミ)・下(シモ)というように三つに大きく分かれ、例えば葬式があった際にはそれぞれの中で手伝い合ったりしており、祭礼の御輿も丸と上から7名、下から7名が出て(実際に担ぐのは12名で残りの2人は御輿を乗せる台を担ぐ)、これ以外の人は手出しをしたり途中で替わってはいけないなど、厳しい決まりがありました(現在ではこうしたことはもちろんありません)。一度担ぐと集落のもっとも下側の家に行くまで御輿から肩を抜いてはいけないということで、途中出される酒も担いだまま飲んだとか、御輿が重くて肩の皮が剥けているため翌日にうっかり鍬を担いだりするとあまりの痛さに鍬を畑に投げ出すほどだったなど、祭りに関するさまざまな話が残されています。 今年(2012年)の本宮は、22日の午後1時から式典を行い、2時から御輿と屋台の氏子回りとなりました。鎮守の森に抱かれた神社の正面から御輿が出て行く様子は見ごたえがあり、その後を子どもが一生懸命に小さな御輿を担いでいきます。御輿を担いでいる時や休んでいる間も絶えずお囃子が奏でられ、祭りの雰囲気を一層高めます。古山の囃子は上手で、当麻や上溝などに教えに行ったとも言われています。
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![]() 今年も市内各地で夏の風物詩である天王祭(オテンノウサマ)が行われました。今年は土日の巡り合せの関係で(第五の土・日曜があった)、日程が分散する傾向も見られたようですが、いろいろな地区で大人や子どもの御輿に加え、お囃子を奏でる昔風の山車(屋台)や囃子の子どもを乗せた自動車などを見かけることができました。天王祭は、元々は人々が恐れる疫病を免れるために病気が発生しやすい夏場に行われ、日本を代表する夏祭りである京都の祇園祭(祇園会)も同じ目的をもったもので、この祇園会が長い歴史の中で全国に広まりました。御輿や山車などが連なり、にぎやかなお囃子にのって巡行する形式は京都の祇園祭の影響と考えられています。 市内の同様の祭礼としては「上溝の夏祭り」があまりに有名ですが、『相模原市史民俗編』に拠ると天王祭は新磯地区を除く地域で行われており、津久井地域でも各地で行われています。この「民俗の窓」でも、昨年は上溝の本町と五部会、当麻地区を取り上げ、今年は「民俗の窓」No37として22日に行われた下溝・古山集落のオテンノウサマについて記していますので参照していただければと思います。ここでは今年(2012年)訪れることができたいくつかの地区の写真を掲載します。これからも各地の天王祭を紹介していく予定です(民俗担当 加藤隆志)。
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![]() 〜南区新磯地区の「相模の大凧」〜(平成24年6月)
新磯地区の大凧は江戸時代の後半には行われていたとも言われ、現在見るような大凧が本格的に揚げられるようになったのは明治中頃からとされています。新戸では、日清戦争の戦勝祈願か凱旋記念で揚げた凧が最初の大凧と言われ、もともと5月のお節供に各家で凧を揚げ、特に男の子が生まれた初節供には一間ほどの大きさの凧を揚げていたのが、次第に大型化して地域全体で行うものとなりました。 大凧に記された題字は昔から漢字二文字で、今年は“潤水都市さがみはら”になぞらえて「潤風」でしたが、これは昨年に東日本大地震が起こって大凧まつりが中止になってしまったために、昨年選ばれていた「潤風」が改めて用いられました。今年は4日の日は午後から雨が降るなど天候に恵まれなかったものの、幸いにも5日は天気も回復して気持ち良い風が吹くなど、絶好の大凧揚げ日和となり、一番大きな新戸の八間凧も揚がって勇壮な姿を見せました。関心のある方は是非、大凧まつりに足をお運びください。5月の気持ちの良い風の中、地域の伝統や関連して行われる各種のイベントに触れることができると思います(民俗担当 加藤隆志)。 *ここに掲載したのは、博物館の民俗調査会でボランティアとして活動している市民の方から提供していただいた新戸地区の大凧揚げの写真です。これからも市民の方が撮影したさまざまな行事等の写真を紹介していきたいと思います。
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![]() 〜南区磯部・勝源寺の六本庚申〜(平成24年6月) 南区磯部の勝坂集落の中ほどにある勝源寺(しょうげんじ)は、千手観音をご本尊とする曹洞宗の寺院です。そして、本堂の一角に本尊とともにお祀りされているのが、今回紹介する青面金剛(しょうめんこんごう)像で、第二次世界大戦前の養蚕が盛んだった時期には、手が六本あるため六本庚申(こんしん)あるいは千体庚申と呼ばれ、養蚕に効験のある仏様として市内ばかりか広範囲からの信仰を集めていたことが知られています。 この像を祀る縁日は4月の初申の日あたりで、養蚕を行う多くの人がお参りに訪れました。この時には多くの露店も出て賑やかで、露店では木の枝に丸や繭の形をしたものや小判などを付けたお宝というものを売っており、それを買っていくと蚕が当たると言われました。また、本堂にはお姿をかたどった焼き物のミニチュアが1000個もあり、これを縁日にお参りに来た者が借りていき、養蚕の期間中は家で祀って秋に養蚕が終了すると返しに来ました。このミニチュアのお姿は、関東大震災の時に棚から落ちて多くが割れてしまったものの、今でもわずかにごく一部が残されています。
六本庚申の信仰がどのあたりまで広まっていたのを示す資料として、ミニチュア像を貸し出した際の帳面があり、それによると市内の磯部や新戸・当麻・下溝・淵野辺・上鶴間地区とともに、現在の町田市や座間市・海老名市・愛川町・厚木市・伊勢原市などの住所が挙げられています。また、ミニチュア像の中には裏側に奉納した者の名前や住所が記されているものがあり、それにはこうした場所のほかに綾瀬市や藤沢市・横浜市などの地名も見えます。帳面などはかつてはもっとたくさんあったようですが、それでも地元の磯部地区を中心として主に南側の地域に信仰が広がっていたことが分かります。
庚申信仰は、60日に一度回ってくる庚申の日に徹夜しておこもりするのが本来で、市内でもかつては各地で行われており、庚申講が実施されたことを示すものが庚申塔です。このような庚申に対する信仰が養蚕信仰となっているのは他の場所ではほとんど聞くことがなく、かなり珍しい事例と言うことができます。市域が県下でも養蚕が盛んな地域だったことや、多くの神仏が養蚕信仰に「現世利益」化していったことを示しており、地域の特徴をよく表すものとして注目されます(民俗担当 加藤隆志)。 ![]() |
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![]() 〜南区相模大野・蚕守稲荷神社の大題目〜(平成24年4月) 小田急線相模大野駅そばの、行幸道路と国道16号線の陸橋が交わる所の角に小さな鳥居が見える神社は蚕守(かいこもり)稲荷神社で、上鶴間の谷口集落の中の山野講中の家々によって祀られています。この稲荷には、嘉永7年(1854)に京都の伏見稲荷神社から出された古文書が残されており、文書には「正一位蚕守稲荷」とあることから(「蚕守」の文字は右横に書き添えられています)、この時期にはその名の通り、養蚕の神として祀られていたとも考えられています。祭礼は、2月初午、4月17日の大題目(おおだいもく)、7月24日の御命日(ごめいにち)の三回で、このうち特に春の養蚕が始まる前に行われる大題目には、豊繭を願って近隣から大変多くの参詣者がありました。
市内の各地に見られる稲荷社は元々養蚕にご利益があるとされ、その中でもこの蚕守稲荷神社は養蚕守護の信仰に特化して絶大なる人気を集めました。しかし、こうして近隣にも著名であった蚕守稲荷神社の大題目も、養蚕がすっかり見られなくなった現在では他地区からお参りに来る人もなくなり、現在では地区内と氏子の家内安全と招福除災を祈って地元の皆様によって行われています。このような地域に残る神社と行事が伝える養蚕に関したさまざまな民俗や文化について、これからも長く語り継いでいきたいものです(民俗担当 加藤隆志)。 ![]() |
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![]() 〜中央区田名・堀之内の蚕影神社と蚕影山和讃〜(平成24年4月)
田名・堀之内地区の蚕影山の祠は堀之内自治会館の敷地にあり、隣りには男根型の大きなサイノカミ(道祖神)が並んでいることでも有名です。蚕影山の祠の中には金色姫(こんじきひめ)という女神が舟に乗っているお姿の像が祀られているのが特徴で、こうしたものをお祀りするのは他の地区にはあまり見られません。この像も養蚕の神として有名で、明治末から大正頃に八王子方面から買ってきたとも言われており、元々は4月18日と10月18日がお祭りで今ではこの縁日に近い日曜日に行われています。やはり『市史民俗編』によると、お祭りは春はその年の蚕の豊作を祈願し、秋は豊繭を感謝するもので、堀之内の念仏講中によって行われてきたのが昭和40年代に絶えてしまいました。しかし、蚕影山の和讃(わさん)は講中の女性たちによって続けられ、昭和51年(1976)には自治会の行事として復活して、午前中に和讃をあげ、午後からは自治会主催のお祭りを行うという現在の形になりました(ただし、秋には和讃のみが行われます)。 蚕影山の和讃の内容は蚕の由来を説くもので、金色姫という天竺(てんじく)の帝の姫君が継母のいじめに遭って孤島に追いやられたり土中に埋めたりとさまざまな苦難を受け、姫の身を案じた帝は桑の木で舟を作って姫を乗せて海に流します。舟は常陸の国(今の茨城県)の豊浦という地に流れ着いて権の太夫(ごんのたゆう)という土地の者が介抱したものの、ついに長路の疲れによって姫は亡くなってしまいます。すると姫の体は虫となり、その虫が桑の葉を食べて成長して繭を作って絹ができたというあらすじで、この物語が哀調を帯びた独特の節回しで唄われます。今年の蚕影山和讃は、新築されたばかりの自治会館の二階で自治会長や自治会婦人部の皆様が立ち会う中、13名の女性の方々によって午前10時30分前から約20分ほどの時間で行われました。
以前は春の祭りは養蚕の準備に忙しいため祈願が中心であったのに対し、秋には一年の感謝として盛大に行われ、余興として周辺の一座を呼んで芝居をしたり、青年団が歌や踊りをすることもあったといいます。現在では、午後から地元の皆様による模擬店などが出るほか、カラオケや子ども会の囃子・景品が当たるくじ引きなどが行われています。 相模原は養蚕が大変に盛んであった地域であり、多くの養蚕に関わる行事や信仰が見られました。今では産業としての養蚕はすべてなくなってしまいましたが、今回紹介したような行事は、これからも地域の文化を伝えるものとして長く続いていっていただければと願っています(民俗担当 加藤隆志)。 ![]() |
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![]() 南区磯部の国指定史跡である勝坂遺跡(国指定史跡)は勝坂遺跡公園として整備されていますが、その段丘崖の下の湧き水が流れる一角に鎮座している石祠が有鹿(あるか)神社です。有鹿様というと海老名市上郷の鳩川が相模川に合流する地点にある神社が有名で、ここは神奈川県最古の神社とも称されています。そして、海老名にある御本宮に対して奥宮と位置付けられているのが勝坂の有鹿神社です。 この有鹿神社には大変興味深い伝承があります。かつて4月8日の有鹿神社の祭りは「有鹿様のお水もらい」などと言って、海老名から御神体を入れた神輿を担いで来てそのまま帰り、6月14日に改めて御神体を迎えに来たといわれ、この時には白い大蛇がよく見受けられたため神様が現れたといったそうです。勝坂はたくさんの湧水が湧き出す段丘の下に位置し、それらの水が鳩川に流れ込んで海老名に広がる水田の水源となっていたために行われた行事ではないかとされ、また、御神体が勝坂に渡御するに際しては、海老名と勝坂の途中にある座間の神様ともいろいろと係わりがあったとの話も伝えられています。
このような一連の行事に見る、水をめぐる海老名と勝坂の二つの有鹿神社の深い関係のあり方は、市内ばかりでなく相模川や鳩川流域に係わる広い地域の歴史や文化を考える際に重要な資料であり、注目される行事と言えます(民俗担当 加藤隆志)。 ![]() |
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