「浩之ちゃん。今日は三月三日、おひな様の日だね」
「…ああ、そういえばそうだな」
 
 大学からの帰り道。
 いつものように、あかりと一緒に帰る。
 俺達の側を吹き抜ける風が、暖かさを感じさせる。
 …もう、春なんだなぁ。
 深い意味もなく、感慨に浸る。
 
「浩之ちゃん。どうしたの?」
「ん…ああ、何でもねーよ。もう春なんだなって思っただけだ」
「うん、そうだね。だんだん暖かくなってきたよね」
 
 微笑むあかり。
 
「…で、ひな祭りがどうしたんだ?」
「えっ?」
「いや、さっきお前、おひな様がどうとか言ってただろ。ひな祭りがしたいのか?」
「や、やだなぁ、浩之ちゃん。もうひな祭りはしないよ」
「そうなのか?」
「うん。毎年、おひな様を飾ってはいるけど、ひな祭りはしてないよ」
「ひな祭りをしないのに、飾るのか?」
「そうだよ。毎年一回、ちゃんと飾ってあげないと、おひな様がかわいそうだよ」
「ふーん、そんなもんかねぇ…」
「そういうものなの。…あっ、そういえば浩之ちゃん、昨日…」
 
 ひな祭りの話は、それだけで終わった。
 俺達はその後も軽い雑談をしながら、帰路を辿った。
 
 
 
「お帰りなさいませっ、浩之さん!」
「おう、ただいま、マルチ」
 
 玄関の扉を開くと、いつものように、マルチが笑顔で迎えてくれた。
 掃除の途中だったのだろう、マルチの手には、はたきが握られていた。
 俺はマルチと一緒に居間へ向かうと、ソファーに身を沈めた。
 
「浩之さん。今夜のお夕食は何にしましょうか?」
「…うーん、昨日色々買ってきたよな?」
「はい、昨日はたくさんお買い物しましたよね」
「じゃあ、適当に作ってくれ」
「はい、分かりました」
 
 そう言うと、マルチは再び掃除に取りかかった。
 ちょうど居間を掃除していたらしく、あちこちにはたきをかけている。
 ふと見れば、窓も開けてある。
 俺はそのまま、何をするでもなく、ぼんやりマルチを見ていた。
 マルチは、実に楽しげに掃除をしている。
 掃除好きなところは変わっていない。
 そんなマルチを見ているだけで、俺も穏やかな気持ちになってくる。
 
「…なぁ、マルチ」
「はい、何ですか?」
 
 マルチは笑顔を浮かべ、俺を振り返る。
 
「…えっと…」
 
 …困った。
 何も言うことがない。
 何故俺はマルチに呼びかけたりしたんだろう。
 言葉に詰まる俺を見ても、マルチは何ら不思議がったりせず、ただ微笑んでいる。
 そんなマルチを見ていて、ふとさっきのあかりとの会話を思い出した。
 
「マルチ。ひな祭りって、知ってるか?」
「ひな祭り、ですか? 三月三日におひな様を飾る行事のことですね」
「そうそう。マルチもやってみたいか?」
「はい、やってみたいです。…でも、お家におひな様があるんですか?」
「…ああ、そうだった…。うちにはひな人形がないんだった…」
 
 俺は自分の間抜けさを後悔した。
 わざわざ希望を持たせるようなことを言っておきながら…。
 
「ごめんな、マルチ。うちにはひな人形がないんだ…」
「いえ、いいんですよ、浩之さん。浩之さんのお心遣いだけで、十分です」
 
 マルチはそう言って優しく笑い、掃除を再開した。
 
 
 
 マルチはああ言ったが…。
 俺は、やっぱり何とかしてやりたかった。
 年に一度のことなんだ。
 特にマルチにとっては生まれて初めてのひな祭りだ。
 何とかしてやりたい。
 
「あかりの家から借りてくるってわけにもいかないしな…。
 あかりの家でやったんじゃ、マルチが主役とは言い難いし…」
 
 俺はしばらく思案し、ある事を思い出した。
 子供の頃、あかり・雅史と一緒に折り紙でひな人形を折った事があった。
 あまり見栄えのいい物とは言えないが、何もないよりはマシだろう。
 俺は折り紙の本を探しに、物置代わりに使っている部屋へ行くことにした。
 ここまで考えて立ち上がると、居間にマルチの姿がない。
 俺は気にせず、二階へと向かう。
 
「あ、浩之さん」
「おう、マルチ」
 
 思った通り、マルチは階段の掃除をしていた。
 俺はマルチの邪魔にならないよう気をつけながら二階へあがると、物置部屋の扉を開いた。
 
「…お、これは…」
 
 しばらく来ていなかったので、埃が舞っていてもおかしくないと思っていたのだが、
 そんなことは全くなかった。
 ここも、マルチがきっちり掃除していてくれたのだ。
 
「…マルチ、ご苦労さん」
 
 俺は小さく呟き、目的の本を探した。
 以外にも、折り紙の本はあっけなく見つかった。
 マルチがきちんと整理しておいてくれたおかげだ。
 俺は本を手に取ると、裏表紙を開いてみた。
 俺の記憶では、余った折り紙を本の裏表紙に挟んでおいたはずなのだが・・・。
 
「…よし、ちゃんと残ってる」
 
 あまりたくさんあるわけではなかったが、この際仕方ない。
 俺は本を閉じると、居間へ戻ることにした。
 
 
 
 本を片手に、早速おひな様を折ってみる。
 
「うーん…結構難しいんだな…」
 
 子供の頃、よくこんなの折れたもんだ。
 いや、子供だから折れたのかもしれないな。
 そう言えば、俺、上手く折れたっけ?
 あかりが折ったおひな様は上手くできてたのを覚えてるけど…。
 俺は…どうだったかな?
 …おっと、考え込んでる場合じゃなかった。
 再び折り紙に集中する。
 …一枚目で出来たのは、どう見てもおひな様とは言い難い、謎の物体Xだった。
 …二枚目。
 …三枚目。
 回を重ねるごとに、少しずつではあるが、それらしい形を作れるようになってきた。
 だが…。
 
「これが最後の一枚、か…」
 
 俺が上手く折れるようになる前に、折り紙のストックが切れてしまった。
 それは、きれいなピンク色の折り紙だった。
 
「絶対に、失敗できないな…」
 
 俺は細心の注意を払い、できる限り丁寧に折った。
 その甲斐あってか、今までで一番上手く折ることができた。
 やや不格好ではあるが、おひな様に見えないこともない。
 
「…よし、まぁこんなもんだろ」
 
 俺が一息ついたとき、ちょうどマルチが居間に戻ってきた。
 
「お掃除、終わりました、浩之さん」
 
 マルチはいつも、優しい笑顔を浮かべている。
 
「ご苦労さん、マルチ。ちょっとこっちに来てくれないか?」
「はい、何ですか?」
 
 マルチは素直に俺の隣に座った。
 
「マルチ。これ、俺が折ってみたおひな様なんだけど…」
 
 マルチに、さっき出来たおひな様を手渡す。
 
「えっ…」
 
 マルチは、おひな様を見た。
 …何も言わない。
 ただじっと、おひな様を見ている。
 
「…マルチ?」
「…うっ…」
 
  ぽろっ…。
 
 俯きかげんにおひな様を見ていたマルチの瞳から、涙がこぼれた。
 
「ご、ごめん、マルチ。そうだよな、やっぱこんな不格好なのじゃ嫌だよな。
 やっぱり、ちゃんとしたやつの方がいいよな…」
 
 俺は慌てて謝ったが、マルチは俯いたまま、首を振った。
 涙の雫がこぼれる。
 
「…違うのか? じゃあ、どうしたんだ?」
 
 マルチは何も言わず、俺に抱きついてきた。
 
「…マルチ?」
「うっ…、嬉しいです…。あ、ありがとうございます…。わざわざ、私のために、折って下さったんですね…」
 
 マルチはそれだけ言うと、また涙を流した。
 
「いいんだよ、マルチ。俺には、これくらいしか出来ないんだから…」
 
 マルチの頭を優しく撫でた。
 
「はい…。ありがとうございます、浩之さん…」
 
 マルチはそのまま、しばらく泣いていた。
 
 
 
「落ち着いたか、マルチ?」
「はい…。どうもすみません…」
 
 マルチの目は、まだ少し赤い。
 
「いや、いいさ」
「はい。…あの、浩之さん…」
「ん?」
「このおひな様、一人だけなんですか?」
 
 マルチが、俺が折ったおひな様を見て言った。
 
「ああ。他のは、上手く折れなかったんだ」
「…そうなんですか…」
 
 マルチはじっとおひな様を見ている。
 
「…そうだな。これから折り紙を買いに行くか?」
「は、はいっ! …あ、でもお夕食の支度が…」
「たまには外で食おうぜ、マルチ。毎日食事の支度してたら、疲れるだろ」
「は、はい…。そうですね…」
 
 その時マルチは微妙な表情をしたが、俺は気付かなかった。
 
「よし、じゃ早速行こうぜ、マルチ」
「はい、おでかけしましょう」
 
 俺は先に立って、居間を出た。
 だから、マルチの小さな声は、俺には聞こえなかった。
 
「そんなことないです…。浩之さんが食べて下さると思えば、疲れたりしません…。
 すごく嬉しいんですから…」