ある静かな夜。
「浩之さん、お休みなさい」
「ああ、お休み、マルチ」
俺とマルチは同じベッドの中で、一日最後の挨拶をした。
そう、俺とマルチは、一つのダブルベッドで眠る。
変な意味じゃない。
俺達にとって、別々に眠ることの方が変なんだ。
そうして、俺はいつものように、心地よい眠りへと誘われていく。
マルチの温かさを感じながら…。
だが、この夜は、いつもとは違った。
一度眠りについたら朝までぐっすり眠れるはずの俺だが、この夜に限ってはそうではなかった。
夜中、ふと意識が戻ったのだ。
時計を見るのさえ億劫だが、窓の外がまだまだ暗いことから、夜明けまでだいぶあるらしいことが分かる。
そのまま目を閉じてしばらく待ってみたが、やはり眠れない。
珍しいこともあるものだ。
かと言って、起き出す気もない。
俺がぼんやりしていると…。
「…ひっく…ぐすん…」
マルチの声が聞こえた。
その声に促されるように、マルチを見た。
…その時。
光る物がマルチの目から流れ、ベッドに落ちた。
…それは、マルチの涙だった。
「…マルチ?」
…ぽたり。
マルチは、また涙を流した。
眠っているはずのマルチ。
…なぜか、悲しそうな顔をしている。
…眠ったまま、涙を流し続ける。
「マルチ? …どうしたんだ?」
俺は小さな声で問いかけてみた。
マルチがすぐ起きるようなら話を聞き、眠りが深いようなら、わざわざ起こす必要もないと思ったのだ。
「…」
マルチは、ゆっくりと目を開いた。
その瞳には、…いつもマルチの心を表す瞳には、たくさんの涙がたまっていた。
「…あ、ひ、浩之さん…」
「マルチ? …怖い夢でも、見たのか?」
俺は優しく言った。
「…ひ、浩之さぁぁん!」
マルチはいきなり抱きついてきた。
「お、おいおい、マルチ、どうしたんだ?」
「…ひ、浩之さん…うっく…」
マルチはまだ泣いている。
「マルチ…」
俺もそれ以上何も言わず、マルチを抱きしめた。
「ひ、浩之さん…浩之さんですよね、ちゃんとここに居て下さいますよね…」
「ああ、マルチ…。俺はここにいる・・・。どこにも行きはしない…」
マルチの頭を優しく撫でる。
「浩之さん…。浩之さぁぁぁん!!」
マルチはそのまま、しばらく泣き続けていた。
「…私…夢を見たんです…」
「夢? どんな夢なんだ?」
マルチも、いくらか落ち着いたようだ。
マルチの頭を優しく撫でる。
「とっても…悲しい夢です…」
「泣きたくなるくらいにか?」
「はい…。浩之さんと、お別れする夢でしたから…」
そこでまた、涙を一滴流す。
「俺と…?」
「私が、浩之さんとお会いして…そして、お別れする夢です…」
「…高校の頃の話だな」
「はい…。でも、違うんです。私、笑顔でお別れできたのに…。夢で見たときは、あんまり悲しくて、笑顔でお別れできなかったんです。
私、たくさん泣いちゃいました…。
スタッフの方達の所へ行きたくないって、我が儘言って、浩之さんを困らせてしまいました…」
「マルチ…」
「浩之さん。私、おかしいんでしょうか? あの時は…、つらくても笑顔でお別れできたのに…。今はもう、できないんです…。
浩之さんと離ればなれになってしまうと思っただけで、悲しくて悲しくて、涙があふれてきちゃうんです…」
…ぽたり。
マルチはまた涙を流した。
俺は胸をつかれ、マルチを強く抱きしめた。
「馬鹿だな、マルチ。おかしくなんか、ない。それが普通なんだ」
「…」
マルチを抱きしめる腕に、マルチの涙が滴る。
温かい、涙だった。
「俺だって、そうさ。絶対にマルチを俺以外の奴の所になんか行かせない。そんなことになったら、俺も悲しくて悲しくて、どうしていいか分からなくなる。
だから、絶対マルチは俺のそばから離さない」
俺はマルチを抱く腕に力を込めた。
「…はい…ありがとうございます…ふふっ…」
マルチは泣いていたが、少しだけ笑った。
「…マルチ?」
「夢の中の浩之さんも、同じ事をおっしゃいました…。
いつか絶対会えるから、そうしたらもう絶対離さないからな…。
そうして、泣いている私を、優しく抱きしめて下さいました…」
「マルチ…」
…俺も、少しだけ泣いていた。
俺の涙は頬を伝い、ベッドへと落ち、マルチの涙と重なった。
「ああ、俺はマルチと一緒にいたいから…。だから、絶対に離さない。たとえマルチが嫌だって言っても離さないからな…」
「…はい…。ずっと、おそばにいさせて下さい…」
静かな夜。
優しい時間が、俺達を包んでいた。