俺はすっかり忘れていた。
今日が、バレンタインだということを。
その事を思い出したのは、14日の夕方だった。
ピンポーン…。
生まれてから何回聞いたか分からない、耳に馴染んだ音が響いた。
「はーい」
返事こそしたものの、マルチはやっぱり夕食の支度で忙しそうだ。
「ああ、俺が出るよ」
俺はマルチに声をかけると、玄関へと向かった。
「はい、誰ですか?」
ガチャッ。
扉を開けると、にっこり笑顔のあかりがいた。
「こんにちは、浩之ちゃん」
「おう、あかりか。ま、あがれ」
俺は居間へ向かおうとしたが、あかりが慌てて呼び止めた。
「あ、ここでいいの。今日はこれだけだから」
そう言って何か小さな包みを差し出した。
「ん? 何だ?」
「浩之ちゃん。今日はバレンタインだよ」
あかりの頬が少し赤い。
「…あ、そう言えば…そうだったっけ」
「もう、浩之ちゃん。いっつも忘れてるんだから」
あかりは笑ったが、やっぱり少し照れているようだ。
「受け取って…くれる?」
「お、おう…受け取ってやる」
あかりが俺にチョコレートをくれるのは、今に始まったことではない。
『バレンタイン』という行事を知った歳からずっとくれている。
それでもやっぱり渡すときには照れがあるらしい。
俺の方も、やっぱり照れる。
それで、毎年バレンタインにはこんな変な会話をする羽目になっている。
「ありがとう、浩之ちゃん」
にっこり笑顔のままのあかり。
気のせいか頬に赤みが残っている。
「あ、ああ…こっちこそありがとよ」
「じゃ、今日はこれだけ。また学校で会おうね」
「ああ、またな」
…バタン。
あかりは終始笑顔のまま帰っていった。
あかりが俺にくれるチョコレート…それはもちろん市販されているものではない。
料理上手なあかりが丹精込めて作ってくれるお手製チョコレートだ。
そう言えば、去年は豪華なチョコレートケーキを焼いてくれたっけ。
今年も…多分手の込んだ立派なチョコレートなんだろうな。
そんなことを考えながら、俺は居間に戻った。
「浩之さん、お夕食の支度が出来ましたー」
「ああ、今行く」
「浩之さん、どなたがいらしたんですか?」
夕食中、マルチが聞いてきた。
マルチはロボットだから物を食べられないが、俺が食事をとる間、いつも側にいてくれる。
おかわりなどをつぐため…というのもあるが、一番の理由は、こんなふうに話をするためだ。
「ああ、あかりが来たんだ」
俺は口の中の物を全て飲み込んでから言った。
そうしないとせっかくマルチが作ってくれた物を飛ばしてしまう。
「あかりさんが来られたんですか? 何の御用だったんです?」
「バレンタインだから、チョコレートをくれたんだ」
「バレンタイン…? あの、女の子が好きな男の子へチョコレートを渡さないといけないという日のことですか?」
「…まぁ、チョコレートを渡すってのは間違っちゃいないが…。別に強制されるような事でもないと思うぞ」
「えええー? それって、今日だったんですか?」
驚いた風なマルチ。
「ああ、今日だったみたいだな。それがどうかしたのか?」
「た、大変です! 私、何にも準備してません!」
いきなりあわてだす。
「おいおい、別に強制じゃないって言っただろ?」
俺は落ち着いた声でマルチに言う。
「は、はい…」
「無理にくれなくてもいいよ。マルチさえいてくれれば、俺はそれで満足なんだからさ」
なでなで。
「…はい、ありがとうございますぅ…」
マルチも一旦は納得したようだった。
だが…。
マルチがいつまでたってもキッチンから出てこない。
もう夕食を終えて二時間以上経った。
「おーい、マルチ、何やってんだー?」
「は、はい、えーと…お夕食のお片づけですー」
…嘘つけ。
片づけなど、普段なら一時間もあれば余裕で終わる。
たった一人分の片づけだけなんだから。
だいたい…。
「なぁ、マルチ。なんか甘い香りがしないか?」
「え、そ、そうですか?」
……。
今マルチが何をしているか…。
ま、マルチが自ら何かをするというのはいい傾向だ。
マルチが自分から行動するというのは、そうそうあることじゃない。
しばらくはほっとこう。
俺はそう結論を出した。
さらに一時間後。
「マルチぃ、まだ片づけてんのかぁ?」
いまだキッチンから出てこないマルチに、再び声をかけてみた。
「……」
だが、マルチからの返答がない。
「マルチ?」
「…っく…ぐすん…」
「マルチ? …泣いてるのか?」
俺はキッチンへ行ってみた。
「…うっ…ひっく…」
やっぱりマルチは泣いていた。
何故か鍋を前にして。
「マルチ? どうしたんだ?」
俺の声に驚き、振り返るマルチ。
「…ひ、浩之さん…。い、いつからそこに…?」
「今来たとこだよ。それより、泣いてるのか、マルチ?」
「え…は、はい…」
マルチは目を伏せた。
「…どうしたんだ?」
「……」
マルチは何も言わず、コンロにかけられたままの鍋を見た。
俺も見てみる。
「…?」
鍋の中身は、何故か黒ずんでいた。
それに、甘い匂いはここからするような気が…?
「マルチ…?」
俺がマルチに視線を戻すと、マルチも俺を見ていた。
「…すみません、浩之さん…。私、浩之さんに喜んでもらいたくて…、それで、勝手に…」
その言葉で、俺には大体分かった。
おおかた、冷蔵庫にあったチョコレートを溶かして、少しでも手作りの味がするチョコレートを作ろうとしたんだろう。
それが失敗して、鍋の中で溶けたんだな。
「本当に、申し訳ありません…。すみません…ひっく…」
マルチはまた泣いている。
…馬鹿だな。
…泣くことなんてないのに。
「マルチ…泣かなくていい」
俺はマルチの頭を撫ぜると、鍋からチョコのかけらを一個手に取り、口に入れた。
「あ…」
「…うん、うまい」
また、マルチの頭を撫ぜてやる。
「で、でも…。上手くできなくて…」
「マルチ。バレンタインのチョコレートってのは、上手く作ることが大事なんじゃない。
好きな人にチョコレートを贈りたいと思う、その気持ちが大事なんだ」
「…気持ち…」
「そうだ。心、と言ってもいい。このチョコレートは…、確かに見かけはよくないけど、でも、マルチの心がすごく感じられる」
「私の、心…」
「だから、俺はすごく嬉しい。ありがとう、マルチ」
「は、はい…」
「だから、そんな悲しそうな顔するな。マルチにそんな顔してられると、俺まで悲しくなってくる」
俺は笑って言った。
「な? マルチ?」
それまでずっと暗い顔をしていたマルチも、ようやくいつもの明るい笑顔を見せた。
「はいっ、浩之さん」
「ん、それでこそマルチだ」
俺は改めて鍋を見た。
「しっかし、すごい状態だな。一体どんな調理法をとったんだ?」
「あ、はい。前に志保さんからお聞きしたやり方でやってみました」
「やっぱり志保か…」
俺は頭を抱えたくなった。
「あ、あの浩之さん…」
「いや、いいんだマルチ。来年頑張ってくれよ。な?」
「は、はいっ! 頑張ります!」
意気込みを新たにするマルチ。
来年のバレンタインは…期待できるかな?