静かだ…。
俺の家って、こんなに静かだったんだ…。
マルチがいないというだけで…。
朝。
一日の始まりを告げる、さわやかな季節。
俺はいつも通りの時間に目を覚ます。
そして、いつも通り布団に潜り込む。
そうすれば、いつものように、マルチが俺を起こしに来る…。
………。
そこまで考えて、思い出す。
マルチは、いないのだということを…。
誰も、俺を起こしに来てはくれないのだということを…。
大学へ行く。
同じ学校のあかり、雅史とも会う。
だが、二人が言うことは同じだ。
「浩之ちゃん、元気ないね」
「浩之、元気だしなよ」
彼等の気遣いに感謝しつつ、ほんの少しだけ、その無神経さに腹を立てたりする。
マルチがいない。
俺は、元気を出せるはずもない。
今日も気怠く一日を過ごす。
帰宅途中、マルチの妹を見かけた。
さすがに大ヒット商品で、あちこちで見かける。
マルチも、妹を見つけるたび、声をかけていた。
だが、姿形は同じでも、笑顔を見せるのはマルチだけだ。
妹達は、いつも同じ表情。
そんな彼女達を見るたび、マルチは複雑そうだった。
「妹達は、幸せなんでしょうか?」
俺にそんなことをきいてきたこともある。
その時、俺は何も答えられなかった。
ただ黙って、泣いているマルチを抱きしめるだけだった。
夜。
俺は帰宅する。
ドアを開けると、一瞬、笑顔で出迎えてくれるマルチの幻が見える。
そして、すぐに消える。
…もう、マルチはいないんだ。
哀しい事実を再認識させられる。
そして、俺は眠りにつく。
マルチがいた、幸せだった頃を思いながら…。
マルチの夢をみられるように、と願いながら…。
翌日も、同じだった。
朝。
誰も起こしに来てはくれない。
誰も、温かい朝食を作ってはくれない。
俺はトースターで簡単に朝食をとる。
高校の頃に編み出した食べ方だ。
そして、マルチを思い出す。
もういない、俺の大事な女の子の事を…。
昼。
あかりが俺を心配する。
「浩之ちゃん、大丈夫? 元気出してよ。マルチちゃんなら…」
「…」
俺は黙ってあかりを見た。
「…浩之ちゃん」
「…頼む。マルチの事は、言わないでくれ…」
「浩之ちゃん…」
あかりも、それ以上何も言わなかった。
夕方。
俺は、帰宅する。
今日は上手く時間を潰せなかった。
マルチがいた頃は、できる限り早く帰るようにしていた。
だが、もうそんなことをする必要はないんだ。
家に帰っても、誰も待っていないんだから。
笑顔で迎えてくれる、優しい女の子はいないんだ…。
家に長くいると、マルチとの日々を思い出してしまう。
それがつらくて、俺は毎日外で時間を潰している。
今日はそれもできなかった。
ビデオでも見ていよう。
俺はそんなことを思いつつ、ドアを開けた。
すると…。
ぱたぱたぱた…。
「おかえりなさいませー」
…いやに鮮明な幻が見えた。
目の前のマルチは、とても幻とは思えないほど鮮明で、いつも通りの笑顔だった。
「…よせよ。これ以上、感傷に浸らせないでくれよ…」
視界が滲んできた。
今まで我慢していた物が切れたようだった。
「感傷? どうしたんですか、浩之さん?」
マルチの姿がぼやけてきた。
「…はは、ほら、やっぱり幻じゃないか…」
俺はマルチに手を伸ばした。
…温かかった。
「浩之さん。私、幻じゃないです。ちゃんとここにいますよ」
マルチは俺の手を自らの胸に当てた。
とくん…とくん…とくん…
優しく脈打っていた。
「マルチ…」
俺はマルチを抱き寄せた。
「浩之さん…」
マルチは、温かかった。
その温もりに、マルチが帰ってきたことを実感した。
五分後、居間。
「マルチ。いいのか?」
俺はマルチに尋ねた。
「はい。あちこちのスタッフの方も一生懸命手伝って下さいましたから」
笑顔で応えるマルチ。
「そうか。よかったな、メンテナンスが無事終了して」
「はい。セリオさんのスタッフの方も手伝って下さったおかげで、四日かかるところが二日で終わりましたから」
「寂しかったぜ、マルチ。これからもよろしくな」
「はっ、はいっ! こちらこそよろしくお願いします!」
マルチがいる。
それだけで、毎日が希望に満ち溢れているようだ。
俺は心の穴が消えていくのを感じた。