三月十四日。
二講目が休講となったため、退屈しのぎにロビーでコーヒーを飲んでいたら、雅史に声をかけられた。
俺と雅史は、大学こそ同じだが、学部が違う上、雅史はサッカー部の期待のホープなので、昼休みや放課後はサッカーの練習に追われ、なかなか会う機会がない。
「やあ、浩之」
「おう、雅史」
妙な挨拶だが、気心の知れた俺達にとっては、これだけで十分通じる。
聞けば、雅史も次の講義が休講になったとかで、紅茶でも飲もうと思ってロビーに来てみたと言う。
お互い時間もあることだし、久しぶりにゆっくり雅史と話をした。
「…そう言えば、浩之。今日はホワイトデーだね」
「ホワイトデー?」
苦笑気味に話す雅史。
「そうだよ。浩之、たまにはあかりちゃんに何かお返しをあげたら?」
あかりが俺にバレンタインのチョコレートをくれるというのは、半ば当たり前となっている。
幼なじみの雅史なら、当然知っている事だ。
「お返し、ねぇ…」
「たまにはあげてもいいじゃないか。あかりちゃん、きっと喜ぶよ」
「うーん、そうか?」
「そうだよ」
俺は一瞬その事について考えを巡らせ、そしてあることを思いだした。
「…あ、そうか。お前、毎年姉さんになにがしかのお返ししてるもんな。道理で、そういったイベントに敏感なわけだ」
「うん。いつも凝ったチョコレートくれるしね。何だかんだでもう十年以上かな」
雅史、それはある意味変だぞ。
……と俺は思ったが、口には出さなかった。
その後も雅史と軽い雑談をかわし、三講目が始まる前に分かれた。
大学からの帰り道。
今日は、あかりは一緒ではない。
あかりはまだ講義があるのだ。
普段ならあかりの講義が終わるまで待っていたりするのだが、今日は一人で帰ることにした。理由はある。
さっき雅史に言われたように、たまにはお返しでもしてみようと思ったのだ。
あかりと、…そして、マルチに。
俺はある大手デパートへと寄って帰ることにした。
とりあえず、デパートを一巡りしてみたが…。
はっきり言って、何を買えばいいのかよく分からない。
バレンタインの時は、チョコレートを買えばいいわけだし、特設売場さえ設けられている場合もあるというのに、ホワイトデーにはそんな特別扱いはしていないらしい。
これは、俺にとって、非常に困った事態だ。
「大手デパートにでも行けば、何を買えばいいのかわかるだろう」とたかをくくっていたのが、見事に外れてしまった。
うーむ…。
やむなく俺は、手持ちの僅かな知識を総動員し、解決策を編み出す事にした。
再びデパートを一巡りしてみる。
…。
……。
………。
何とか、あかりへのお返しは決まった。
『クマのブローチ』だ。
小さいが、なかなかの細工が施してあり、見栄えも悪くない。これなら、あかりにも
喜んでもらえると思う。
だが…。
マルチへのお返しが、どうしても決まらない。
たとえ何を送ったとしても、すごく喜んでくれるだろうが…。
………。
その後、もう一巡りしてみたが、やはり良い物が見つからなかった。
やむなく、一旦帰ることにした。
いつものように、駅前の繁華街を通って帰る。
バス停、ゲームセンター、ヤックなどが並ぶ、この街で最も人が多い場所だ。
かつては、この道を通るだけでもつらかった。
一人でこの道を歩くことが。
そして、俺がどんな思いであろうと、全く変わらず賑やかなこの場所が。
…少々物思いに耽りながら歩いていると、珍しい物を見かけた。
「…そこ行くお兄さん、ちょっと見ていかないかい?」
…出店だ。
さっきも言ったように、ここは人通りが多いので、夜になればラーメン屋なりなんなりが出店を構えるのが常なのだが、まだ日がある内に出ているのは珍しい。
しかも、売っている物がまた珍しい。
こまごまとしたアクセサリーを主体としているのだ。
どう考えても、出店する場所を間違えている。
事実、俺が前を通りかかった時、客はゼロだった。
「どうだいお兄さん、いい品物だろ?」
俺が足を止めた事で脈ありと見たのか、売り人らしい若い男が積極的に声をかけてきた。
普段ならもちろん無視して帰るところだが、今日は何故か見ていく気になった。
「ほら、ちょうど今日はホワイトデーだよ。お兄さんなら、彼女の一人もいるだろ? 何か買っていってよ」
「…そうだな…。何か買ってみるか」
「よっ、そうこなくっちゃね」
俺はあらためて売り物を眺めてみた。
イヤリング、ネックレス、ロケット、指輪、ブローチ…。
アクセサリーの定番どころが並んでいる。
「で、お兄さん、何を買ってくれるんだい?」
「うーん…」
困った。
はっきり言って、何を買えばいいのかまるでわからない。
「うーん…、なぁ、なんかお勧めのとか、ないか?」
俺は男に聞いてみたが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「お勧めの物かい? …なくはないよ。でも、彼女にとって大事なのは、『何を贈るか』ではなく、『誰が贈るか』ではないか?
僕が選んだお勧めの物より、たとえどんな物だろうと、君が選んだ物の方が、彼女はずっと喜んでくれると思うが」
「………!!」
俺ははっとした。
男の言う通りだ。
バレンタインの時だって、そうだった。
マルチの作ってくれたチョコレートは、…確かに形は悪かったが、俺はすごく嬉しかった。
すごく甘かった。
それは、マルチが心を込めて作ってくれたから。
マルチの『想い』がいっぱいに詰まっていたからだ。
「…そうだな。確かにあんたの言うとおりだ」
「分かってくれたようだね。…おっと、それで何を買ってくれるんだい?」
「そうだな…。うーん…」
俺はかなり迷ったが、ネックレスを買うことにした。
シンプルなデザインだが、マルチによく似合いそうだ。
「お兄さん、いいセンスしてるよ。毎度ありー!」
「ありがとよ。…じゃあな」
帰り際、売り物を眺めてみた。
どれもマルチに似合いそうな物ばかりだ。
…気のせいだろうか。
浩之が去った後、一人の男がその店を訪れた。
「…長瀬主任、どうでした?」
「うむ、なかなかの名演だ。これなら、研究所をやめても役者として食っていけるんじゃないか?」
「そうですか? 照れるなぁ…」
「…冗談だ。大根役者」
「あー、ひどいなぁ、その言い方。…でも、主任も粋なことしますね」
「…ふ、かわいい娘のためだよ。君だってそうだろう?」
「まぁ、そうなんですけどね」
二人は素早く店をたたむと、近くにとめてあった車に乗り、去っていった。
浩之は知らない。
そのネックレスが、本来は相当価値のある物であることを。
そして、その内側には、ほんの小さな文字で、こう彫られている事を。
『愛する我が娘達へ』