4-3ブロンヅィーノ「愛のアレゴリー」
 さて、時代は下ります。盛期マニエリスムの作品、1546年ころ(?)と考えられていC.ブロンヅィーノ「愛のアレゴリー」に話を移しましょう。
 この絵の主題はこれまでのように2人ではなく、数々の謎めいた登場人物がひしめいているので、複雑な印象を与えます。
 主人公に見える、キス中の2人はヴィーナスとその子であるキューピッドですが、本来子供であるキューピッドが年頃の少年に描かれていることで、これは母子愛のカモフラージュをされた快楽的愛である、と考えられます。右にいる子供は「快楽」の象徴ですが、投げかけようとしているバラには根がなく、快楽がはかなくて虚しいものであることを伝えていますし、子供の足下にある仮面は「いつわり」を示していて(仮面は常に真実の顔を隠すいつわりの顔です)、所詮はこの快楽も不確かなものであることを伝えています。
 快楽的愛に対する不吉なメッセージはさらに続きます。2人の背後にある暗がりでは、「嫉妬」を表す老女が頭を抱えて絶叫しています。老女は愛がいずれ衰えることの象徴でもありましょう。

 そしてこの画中最も怪奇な存在は、「快楽」の後ろから顔を出している緑色の服の少女です。これは少女のように見えますが実は人間ですらなく、よく見れば緑色の服の下からウロコに覆われた下半身をさらけ出しています。そして蛇のような尻尾が地面に垂れているところも見えます。彼女は右手で蜜蜂の巣を持ち、左手ではサソリを持っていますが、さらに見ると右腕についている手が実は左手であり、左腕についている手は実は右手になっています

 この不気味な仕掛けは西欧的伝統における「右=正義、左=悪」の価値基準が混乱していることを示しています。パノフスキーは次のように書いています。

 「この像は、一見その「善い」手と見えながら、実際は「悪い」手で甘いものを差し出し、一見「悪い」手と見えながら、実際は「善い」手に毒を隠しているのである。ここに、それまで画家が企てたうちもっとも巧妙な錯綜した二重性の象徴が提示されているのだが、それは現代の人間にとってすぐには掴むことのできぬほど奇妙な象徴なのである。」(「イコノロジー研究」訳書80p

 以上のように快楽の背後には様々な不吉な象徴がさらけ出されているのですが、それは画面の上に描かれている2人の人物、「時」の老人とその娘「真理」によってさらけ出されたのだ、というのがこれまでの解釈でありました。
 それまでこれらの否定的要素は青いヴェールの後ろに隠されていたが、そのヴェールがこの2人によってはぎ取られ、後ろのものたちが明らかになったわけで、これは地上的快楽に溺れる愛に対する警告を表現した、反宗教改革時代的な道徳的教訓を描いたものである、というのがパノフスキーらの主張です。
 しかし若桑氏はこの解釈に別見解を加えます。「真理」をあらわす娘が、実は仮面をかぶっているということが最近の研究によって明らかになったためです。(確かに「真理」の娘の表情は不自然にこわばり、目もおちくぼんでいますね)

 若桑氏は、本当にこの2人は「ヴェールをはぎ取って」いるのか?むしろヴェールをかぶせて真実を隠そうとしているのではないか?と解釈します。
 しかしながら、これほどまでに意味が複雑に入り組むと、最終的にこの絵が「全体としては何をいいたいのか?」などといった統一的意味を確定するのは難しいのではないかと思われます。
 「ここでは、ティツィアーノの「聖愛と俗愛」や、ミケランジェロの「勝利」の群像におけるような、「意味」と「形態」との間の調和が失われており、この間にはげしいねじれがあって、われわれに二重の印象を与えるのである。ここにこそ、まさにマニエリスムのもっとも典型的な表現がある。彼らの記号体系はこみいった、むずかしい、錯綜しきったものであり、そのサークルを外れたもの、そのエポックを外れたものにはほとんど意味をなさない。意味はそれと普遍的に了解できる形体と合致していない。ブロンヅィーノは優雅な逸楽を描きながら、逸楽は悪であり、愚かしいことであると伝えているのだ」(114p)

  ついには、哲学的解釈をもたらさない、謎に満ちた意味の迷宮に、絵画は迷い込んでいきます。ルネサンス時代では、芸術には少なからず市民が見てわかるような公共性がもとめられていました。しかし芸術は共和制の崩壊と軌を一にして徐々に難解になっていき、マニエリスムになると宮廷の貴人たちの知的遊びの対象となっていきました。プラトン的愛の理想型からかけ離れて、真実の愛のあり方を一言で言い表すことを止めたマニエリスム絵画は、その退廃性のゆえに後世の美学者たちに否定され、存在を忘れられていくことになります。

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