4.プラトン神学の絵画への影響とその変転・凋落

 さて、このようにして新プラトン主義の基礎的な世界観はお分かりになったところで「プラトン的愛」というものと絵画の関係について説明を加えましょう。
 そのようにして「プラトン的」なものの考え方が広まったルネサンスの絵画は、よくプラトンの対話篇に登場するギリシア神話の神々を取り上げるようになりました。
 もっとも有名な例としてはボッティチェルリの「春」「ヴィーナスの誕生」があります。
 この2枚はともにヴィーナス(またはアフロディテ)というギリシアの美の女神を描いたものですが、その中心人物であるヴィナスの描かれ方は違っています。これらはプラトニック・ラブの理論における愛の2つの形式を書き分けたものである、ということが現在、パノフスキーやエドガー・ヴィントなどの20世紀の美術史家によって明らかになっています。

4-1ティツィアーノ「聖なる愛と俗なる愛」
A. A.ティツィアーノ「聖なる愛と俗なる愛」も、実はこうした愛を二つの形式に分けて、それぞれ描写するという「二人のヴィーナス」というテーマに従った絵画です。
 さて、どちらが「聖なる愛」で、どちらが「俗なる愛」なのでしょうか?
 現代のわれわれにはこうした絵を読解する手がかりがあらかじめ与えられていませんから、分からなくても気に病むことはないのですが。服を着ていないほうがちょっとエッチに思えるので「俗なる愛」かなあ、と思うくらいがせいぜいだと思います。
 しかし実は逆で、服を着ていないほうが天上に近い愛=「聖なる愛」で、服を着ているほうが「俗なる愛」です。
 これがはっきり分かるのは、着衣の女性の背後にお城があり、裸の女性の背後に教会があることですね。いうまでもなく教会は天上の権威の象徴であり、王権=城は地上権力の象徴ですから、それらを背負うことで二人の役割はハッキリと示されているわけです。

 他にもこの図像に示されているものはたくさんあります。裸の女性が手に持っている炎のつぼは、その炎が殆ど見えないことによって「見えざる力」=天上の力を象徴しています。全裸であることにも意味がありまして、裸であるということによって何も隠すものがない、真実の状態を表しているわけです。ほど示しましたボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスも全裸でありますから、これも「真実」であり「天上的愛」を表していることがお分かりになるかと思います。あとは、着衣の女性の抱えている壺は地上の財宝を示し、持っている花が「はかない美」とか「地上の快楽」を象徴しているとか、まあ色々な意味が込められています。
 で、著者の若桑氏はこの絵の最大のポイントはこうした天上的な愛と地上的愛が、上下ではなく同じ平面の上に並んでいる点にある、と言っています。 これこそフィチーノの説いたプラトニック・ラブのポイントである「(2つの愛=)2人のヴィーナスは、たがいに一つの原理でむすばれている」というものです。
 つまり、中世やバロック、反宗教改革期の芸術では神的なものと人的なもののヒエラルキーがバッチリ決まっていて、ぜったい、神的なものは人的なものと同じ地面に立ったりはしないんです。
 ところが、新プラトン主義的には、神と人は流出〜回帰の愛の流れでつながっていて、常に変転しているんです。人は愛の力によって高みにのぼることが出来るし、神は人にどんどん愛を与える。「対話」の関係がここにあります。

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