車がない、ヒョンとヒョンチング1が車でどこかへ消えた、つまり自分は置いて行かれた、ということがなかなか飲み込めない。まさかそんなことが、何も言わずに行ってしまうわけがない、いったいどういうことなんだと、頭の中は高速回転で状況判断に努めるが、自分の価値観では理解ができない。 ちょっと近所に車を置きに行ったか、路上駐車を注意されてその辺をグルッと回って戻ってくる途中なのか、もっとも自然な答えは、あの衣類の荷物を目的地に届けに行ったか。それにしても何か自分に言ってから行ってもよさそうなものだ。ちょっと呆然と立っていた自分は、自販機で紙コップコーヒーを買ってタバコをくわえて考える。 とにかく車と一緒に2人が消えたのは事実で、最悪の場合は1人で蚕室まで戻らねばならない。幸い自分のズタ袋は手元にあるから、車に残した薄手の上着さえ諦めれば、このまま鐘閣へ戻ってもいいのである。「少し様子を見よう」と決めて、と言うよりそうするしかないのだが、再び店内に戻った。
店内をまたゆっくり見て回り、裏口から正面入口、その前のワゴン売り、また正面入口から裏口、通りでヒョンの車を待ち、ぶつぶつ言いながらまた店内に戻り、さらに建物の周りをグルリと歩いてまた店内に戻り、「このまま自分が消えてしまえば、今度はヒョンが困るだろう」という意地悪なことを考えつつ、また欲しくなったシャツを2枚選んだ。 そこへふいにヒョンが現れた。
「そこにいろ」とだけ言い残して、ヒョンはまたどこかへ消える。今までの置き去りについてなんとか説明するでもなく、詫びるわけでもなく、なんだかこっちが勝手に消えてヒョンが自分を探し回っていたかのような雰囲気である。ちょうど気に入ったシャツを手に取ったタイミングでなかったら、自分はかなりムッとして説明を求めていたことだろう。 「ま、いいや」と、自分はレジに並ぶ。そこへヒョンチング1がやって来て、なにごともなかったように「お、たくさん買ったな」などと言う。「2人がいなくなったから、退屈でこんなに買ってしまった」と言うとカラカラと笑っている。日本のデパートで2人を置き去りにして自分が消えたら、そうやって笑っていられるか?と言おうとしてやめた。
想像した通り、あの荷物を目的地に運んで降ろして来たのだそうだ。これは今になって考えることだが、その目的地は立派なデパートではなく、自分には見せても自慢にならない、それどころかヒョンの感覚からすると自分に見られると恥ずかしいような、雑然としたマーケットみたいなところだったのかも知れない。もちろん最初っから自分を2001 OUTLETに置き去りにするつもりではなく、たまたまあのとき車に戻ったらヒョンチング1が「やつは買物中だ」と言い、それなら今のうちに行って来ようという気になったのだろう。 メウンタンの店を開いていたころに比べて、ヒョンがいまの商売について多くを語りたがらないように感じるのは、自分の思い込みかも知れないが、この1日のヒョンの様子から自分は「ヒョンがいまの商売を気に入ってはいない」ということを感じたのだ。もちろん、ただ約束時間に遅れそうになったから、急いで荷物を届けに行っただけかも知れないし、自分もその方がいいのだが。
「俺達が逃げたと思ったか?」運転しながらヒョンが言う。「逃げても大丈夫。1人で帰れるから」と返すと、笑いながら「そうだろう。俺達よりお前の方が韓国のあちこちに行ってるから、心配しなくても大丈夫だと話していた」・・そういう問題じゃないだろうと思ったが、もう自分はどうでもよかった。山奥や離島でなければ、韓国のどこかで置き去りにされてもなんとかなるという自信はある。置き去りの件は、それだけ自分が「お客様」から「帰省して来た弟」へと昇格した証拠だと考えることにした。
ラジオから「さらんg うる うぃはよ」が流れる。一緒に口ずさんでも、もう驚いてくれない。こっちも期待はしていない。韓国の唄なんか必死で覚えても、大不況の中で女房のため、子供のために気に入らない仕事であっても、なんとか働こうとする韓国のお父さんにとっては、どうでもいいことなのだ。
タッカルビにスンデクkという、自分1人ならまず注文しないであろうメニューに、焼酎が出て来た。不味くはない。しかしどうしても食べたいというほどでもない。タッカルビに飯を入れてベチャベチャにすることを除けば、まぁ美味い。乾杯してから自分が改めて「日本の弟」として紹介される。ここで自分が韓国人なのか日本人なのか、ということをまず訊かれるのが常である。「日本にどのくらい住んでいるのか」という質問に、最近は「33年」と答えることにしている。 隣りに座ったヒョンチング4は、仕事でよく日本に出張するんだそうだ。東京の地名をチラホラ言ってくれるが、日本語会話というほどではない。「日本語しゃべってごらん」とヒョンスが自分に言う。「あんたが日本語しゃべってるの聞いたことがない」・・日本語が通じるならしゃべるが、通じないじゃないかと思ってヘラヘラとごまかしていたが、何度も催促されるので「でもこんな風に急に日本語で話したってさっぱりわからないでしょう」と早口の日本語で言うと、一瞬ポカンとした。 そして「ゆっくりしゃべらないとダメだ」と言われたが、ゆっくりしゃべっても同じことだろう。とにかく初対面の人には自分が「オリジナル日本人」だとわかってもらえたようだ(笑)
宗教の話になった。ヒョンチング1のヒョンスが、しきりに自分の宗教を知りたがったからだ。「僕は天よりも自分自身を信じる」と答えるしかない。それから、日本でまじめに何かを信仰している人は少ないと説明した。ちょっと暴論かも知れないが、「お祈りしてる時間があったら働く」と言っておいた。これには納得できない様子で、「お前ねぇ・・」という調子でヒョンチング1のヒョンスが、「信仰の大切さ」みたいな話を始めた。 何を言われたってこっちは無宗教なんだから平気だ。信仰が大切でまじめに「お祈り」していれば幸せになれるのなら、どうしてIMF時代になんかなったんだ?ということが喉まで出掛かったが、危うく飲み込んだ。ヒョンチング4がしきりにフォローしてくれたので、自分もそれ以上トゲのあることは言わないでおいたのだ。
サッカーが始まっていた。日韓戦である。店のテレビをつけたら開始早々に韓国が先制点を入れていたので、みんなで歓声を上げる。ここで自分は生まれて始めて、日本に勝ってほしいと思った。もともとサッカーは好きでも嫌いでもなく、テレビで見ることがあれば「豪快なシュート」とか「巧みなセンタリング」とか、プレイそのものを楽しんで、勝負はあまり気にしない。どこの国の選手だろうと「うまい」プレイを見せてくれればそれでいい。 だからサッカー経験があろうがなかろうが、ルールの知識も怪しいような連中が集まってワイワイ騒いでいるのが不快でたまらず、ついつい日本の国際試合は敵側を贔屓することが多かった。「みんなで日本を応援しよう」みたいなことを押し付ける実況のアナウンサーも嫌いだが、何より鳥肌が立つほど嫌いなのが「ニッポン!ニッポン!」というおなじみの応援である。
そんな自分が、さすがにこんな場ではナショナリズムに目覚めたのだ。どうしても勝って欲しい。この人達とケンカするつもりはなく、仲良くしたいし楽しく過ごしたいが、それでも勝ってくれ! 「ここの勘定は負けた方が出すようにしよう」とヒョンが言う。それはあまりに不公平だが、ヒョンス2人は「私らは日本側でいい」と言うのでちょっと考えたが、ヒョンがここの勘定を自分に払わせるようなことは絶対にあり得ないので、何も言わずに軽く笑いながらトイレに立った。
トイレの帰りにテレビの近くで画面を見ると、なんだか知ってる顔の選手がいない。自分は日本代表の中でもとくに有名な選手しかわからないが、それにしても知らない顔だらけだ。あとでわかったことだが、これは19歳以下の試合だったのだそうだ。「**が試合に出ていたでしょう?」と会社の後輩に言われたが、その**を知らないのだからどうしようもない。 そのうち日本が得点して同点になった。それまでヒョン達は、「いや、最近は日本の方がうまい」とか「日本がこのまま終わりはしない」などと余裕の発言をしていたが、そこからサッカーの話はしなくなった。 が、しばらくして韓国が勝ち越すと、急にやんやの歓声をあげた。何だかんだと言いながら勝負を気にしているのだ。「これは最後まで一緒に見ない方がいいですねぇ」と冗談を言ったら、「最後は日本が勝つさ」と、ヒョンチングのうちの誰かがまた余裕の発言をする。 「勝て!日本!」自分は胸の内でつぶやいた。自分でも信じられないほどに応援している。
「お茶を飲んで帰る」というヒョンス2名と別れて、男達は再びビリヤード場へ。ここでもテレビのサッカー中継である。オジサンばかりだから大騒ぎして応援するわけではないが、ビリヤードそっちのけでテレビを見ている人もいる。パスがつながって韓国の攻撃がうまく行くと「くろっちぃ!」「くろっちぃ!」(そうだ!という意味)の連発である。 ゲームを始めたヒョン達はサッカーよりもビリヤードに夢中のようだった。自分は「くろっちぃ!」の中で腕組みをしてテレビを見据えた。もう時間がない。「なんとかしろ中田!」と思うが、中田はいない。井原もいない。「誰でもいいからシュートを打て!」声にできない応援をしばらく続けて、結局敗戦の瞬間を見てしまった。 周りは「勝って嬉しい」というよりも「やれやれ」という溜め息で一杯だった。自分はもちろんオーバーアクションで悔しがったりできないから、ヒョン達の方を見て苦笑いをしながら首を振った。手に汗をかいている。
ハラボジはかろうじて起きていてくれた。もう恰好は寝る直前のようだが、ニコニコと迎えてくれた。ハラボジに会うには、早朝か夕食時以降に訪ねなければならない。「元気か?」「はい」程度の会話しかしなかったが、ハラボジが元気で自分も元気ならそれでいい。 サッカーなんか(どうせ負けてしまうのなら)見ていないでもっと早くビルラに戻ればよかったと後悔しながら、長居はせずに立ち上がった。右も左もわからないときに受けた親切は、一生忘れません、なんていう言葉がいつも恥ずかしくて言えない。他人には言えるのにハラボジにはなかなか言えない。今回もとにかく元気な姿だけで満足して、1年半前より少しは気の利いた挨拶をして、ビルラをあとにした。たった1日の帰省(?)であった。