シャワー周りで気に食わないことがもう1つある。それは湯船の排水孔が下水管につながっておらず、とりあえず浴室のタイルの上にジョロジョロと流れるようになった構造である。シャワーを浴びるときはそれでもいいのだが、簡単に手だけ洗う(洗面台がないのだ)ようなときに気をつけないと、うっかり湯船からの流れ出し口付近に足を置くと、靴下がビショビショになってしまうのだ。細かいことだが、これが実に不愉快なのである。
それにトイレに関しても不満がある。シャワーよりもこっちの方がやっかいなのだ。(すみません。だんだん汚い方向へ進みますので、食事前・食事中の方はいったん読むのをやめてください)これも前に書いたが、モノがなかなか流れて行かないのである。もちろん紙なんか流していない。「なんだそんなの、韓国の下水事情を考えたら当然さ」と言う人もいるかも知れないが、ちゃんと流れるところでは流れるのである。これまでいろいろ泊まったが、流れが悪いところでもせいぜい2回流せばなんとかなったのだ。ところがここでは5回流してもすっきりしない。とくに散らばって浮遊しているものは、たぶん10回流しても残ってしまうだろう。
まだそれでも自分はモーテルの移動をためらった。早目にいろいろ買物をしたために、荷物はかなり重くなってしまって、これを担いでしばしの間でもうろうろするのは厭だった。が、そんな自分が顔色を変えて荷物をまとめてモーテルを引っ越す決意をさせる事故が起きる。(食事前・食事中の方、本当にもうやめたほうがいいです。)
少なくとも5回は流さねばならないことは書いた。このトイレの特徴をもう1つあげれば、それは便座が---いや、便器そのものが---小さいのだ。なんでも大作りな韓国で、なぜこんな小さな便器なのかわからないが、とにかく小さい。それはつまり、仕事が終わったあとでいったん席をはずさないと「拭けない」ということを意味する。実際は大丈夫かも知れないが、自分は万が一を考えて---ああ厭だ、書きたくない(泣)---しかし書かねばなるまい。つまり便座から離れて「拭く」のである。立って拭くか座って拭くか寝て拭くか(まさか!)は想像に任せるが、いやいや、想像しなくていい。とにかく自分はそうしていたので、その朝もそういう態勢に入ったのだが、紙をまだ準備していなかったので、手を伸ばしてトイレットペーパーをガッと手繰った・・・手繰ったはずだった。
♪いーとーまきまき いーとーまきまき---という感じで紙を巻き取り始めた瞬間、なぜかペーパー本体が宙に舞ったのである。宙に舞ったものがそのままジッとしていてくれればいいのだが、急に解放された新品に近いペーパーの本体は、放物線を描いて、というよりも何か邪悪な意志を持つかのように、5回のうちの1回もまだ流していない人工の湖に身を投げたのである。
あとは思い出したくない。思い出したくないが、自分はたぶん無我夢中で最低限の処置はしたはずである。そして、気づいたときにはモーテルの玄関前に立って、次なる寝床を探す態勢に入っていた。
さて、部屋はこれから掃除を始めるというので、手荷物だけ抱えて外に出る。チェックインにはちょっと非常識な時間帯でもある。午後からに備えて栄養をつけておこう、と思って歩いていると、これまで何度か通りかかっては素通りして来た路地を思い出す。まだしっかりと決心したわけじゃないが、とにかく信号を渡って以前のW2万旅館の裏手に回る。この辺りは「補身湯(ポシンタン)」の看板が目につくのだ。
これまで「犬の肉」と聞いただけで、条件反射のように顔をしかめて「うへぇ」などと言って来たのだが、最近なぜか「食べてみよう」という気持ちになっている。旅行記1に書いたこととは明らかに矛盾しているが、「食べてみよう」という気になったのだから仕方がない。法律に触れるわけでもないし、誰かを傷つけるわけでもないし、かつての我が愛犬だって、たぶん天国で「オレの肉じゃないけんね」と知らん顔をしていることだろう(ホントか?)
いつからこういう気持ちになったのだろう?と考えると、理由は2つある。1つは、ポンデギ(蚕のサナギの茹でたもの)を食べたりスンデ(腸詰め)を食べたり、一般的日本人の視点からはゲテモノに属するようなものを食べて来たのだから、もうこの際何でも挑戦してやろうという気持ちから。もう1つは、「犬を食う。それもよく食う。しょっちゅう食う。」と最初に考えていた韓国人のイメージが、知人が増えるたびに崩れてしまったことに起因する。生まれてから1度も犬を食べたことがない、なんていう若者はザラにいる。ジョンシクなんか犬はおろか、魚も嫌いで、サシミなんかまったく食えないのだという。ちょっと待てよこら!という気持ちになる。それなら自分が韓国人以上に韓国人を演じてやろうじゃないかと・・・だんだん論理が怪しくなって来た(笑)。とにかく、犬を食べられない、食べたがらない韓国人が意外に多いことを知るにつれて、自分は「じゃぁオレが食ってやろう」という気になって来たのである。
しかしそれでも、まぁ躊躇うのである。30分ぐらい同じ道をグルグル歩いて、補身湯の看板の前でちょっと歩調を遅くしては通り過ぎるのを繰り返す。「ああ時間の無駄だ!早くどこかの店に入ってしまえ!」と自分を煽るのだが、「だって犬だよ、犬!!」と別の自分が半泣きで(嘘)訴える。そんな目に見えない葛藤の末、とうとう1軒の専門店に入る。正直に言うと自分から飛び込んだのではない。ちょうど店先に立っていたアジョッシに「どうぞどうぞ」と言われ(もちろんこれは意訳)て、ようやく腹を決めたのである。
客は自分と、年配のアジョッシ2人組みだけ。自分は迷わず---迷うほどメニューはない。煮て食べる(補身湯)か茹でて食べる(スユク)かだけ---補身湯を注文する。理由は、補身湯の方が安いからと、いろいろな調味料で煮込んでくれた方が違和感がなさそうだから。注文はしたが落ち着かない。もしも、まさに「犬だ!」という匂いがしたら、とても食べられそうにない。不安だ。こんなに緊張して料理を待つのは初めてかも知れない。
いろんな料理でよく見る器に入った、グツグツ煮立った補身湯が運ばれて来る。それに少しクセのある香りの、ゴマ味噌のようなものが小皿にのっている。これはどうするんだろうか?・・わからないので店のアジョッシに食べ方を訊く。なんでも犬の肉をつまんでこのゴマ味噌(?)につけて食べるらしい。初めて食べるとか日本から来たとかいう、ありがちな世間話をしながら、とりあえず口に運んでみる。「ああ、おいしいです!」と元気に言ってはみたものの、正直あまりうまくはない。いや、歯ざわりが牛スジのようでいてところどころコリコリして、うまいのかも知れない。が、自分の頭と心がひっきりなしに「犬だ犬だ犬だ犬だ・・・」と念仏を唱えるので、なんとも変な気分なのだ。スープまですべて平らげて、勘定を払って表に出てみると、今度は胃腸が「犬だ犬だ犬だ・・」と唸り始める。うまかったのか?まずかったのか?と考えて見てもよくわからない。もう1度食べることがあるだろうか?・・・それもわからない。
オリンピック第1体育館が会場だという。自分はてっきり総合運動場(チャムシル球場のあるところ)だろうと思っていたのだが、話を聞きながら地下鉄の路線図で調べると、まるで違う。それが悪いことに、「とりあえずチャムシルで降りてタクシーで行こう」などと提案して、ジョンシクの抵抗を封じ込めて、地上に出てしまってから気づいたのだ。どうりでジョンシクがしきりに「地下鉄で行こう」と主張していたわけだ(笑)。そのあとすったもんだしてタクシーでようやく会場近くにたどり着く。会場に、ではなくて会場近くに、である。広大な公園に点在する建物のうちの1つが、今日のコンサート会場である。
タクシーを待つ間、ジョンシクがかなりイライラしていたが、その姿が自分には非常に興味深い。「アー」と「ハー」の中間ぐらいの溜息みたいなものを繰り返し、「イーッシ!」の短いやつにつながる。この最後の「ッシ」のところが不快の表現なのだが、自分もパラムさんも目上であるから、やや遠慮した言い方になってしまう(たぶん)のだ。この辺りを使いこなせると、韓国人もどきを演じるにはかなりの武器になる、と自分は思っている。ドラマでも勉強できるが、テレビの場合はちょっと大袈裟に演じている可能性があって、やはり本物が目の前でやってくれるのが一番である。
この日は前日までとうって変わって肌寒い。しかも今朝シャワーを浴びてしまったので、いかにも風邪を引きそうな状況下、前売り券を座席番号付きの券に換える列に並ぶ。それにしても平均年齢が低いこと。我々3人の中で最年少のジョンシクですら、スムーズに溶け込める年齢層ではない。ここで子供が1人でもいてくれたら、周囲を気にすることなく堂々と並んでいられる(つまり子連れのお父さんとして)のだが・・
3人ともよくわかっていなかったシステムが、やっと明らかになる。席順は一昨日、第一銀行で買った時点で決まっており、それ以前に数週間前に大々的に売り出した時に、良い席は売れてしまっていたのだ。だからこの日はもう慌てる必要はなく、のんびり昼ご飯を食べてから来てもよかったのだ。最初からわかっていれば、3人であーだこーだと言い合わずに済んだし、ジョンシクもイライラせずに済んだものを。
公園を出て少し歩いて、食堂を探す。16時開演のコンサートに、午前中からウロウロしているので、空腹でたまらない。しかも寒い。サッサと熱くて辛いものが食べたいのだが、食堂探しも容易ではない。やっと見つけた食堂で、自分はユッケジャンを注文する。このユッケジャンは、某ガイドブックには「激辛」と紹介されているが、自分はそうは思わない。そもそも韓国料理に「激辛」なんかあるのだろうか? もちろん、個人の好みでコチュカルを大量にぶち込めば、それは「激辛」に違いないが、食堂で普通に注文して出てくるものに、「辛過ぎて食えない」ものはないはずだ。(すべての料理を食べ尽くしたわけじゃないから、何か自分の知らない「激辛」があるかも知れない、ということを付け加えておく)
食事を終えて体育館近くまで戻って、人の列に驚愕する。どうも入場するための列らしい。最後尾がどこにあるのかまったくわからない。仕方がなく列を逆行して最後尾に向かう。歩いても歩いても先が見えない。公園の構造上、野を越え山を越え、という感じに列は続く。何が馬鹿馬鹿しいって、いま歩いているこの距離を、あとでまた歩いて来なければならないのだ。3人でそんなことを話しながら、だらだらと後ろを目指す。最後尾に着く頃には、入場が開演に間に合わないのではないか、と不安になってくる。「昨日のスンチョルのコンサートは、こんなに歩かなくてもよかったのに」自分はこればっかり繰り返す。
ほぼ16時きっかりに席に着く。舞台を見ると、ずいぶん遠い。観客の入場はまだ続いている。蛍光色に光る細い棒を、執拗に売りに来る。この棒売りは、コンサートの後半になってもまだ売りに来て、鬱陶しくてたまらない。会場が暗くなると、どこからともなく「エスイーエス!」というコールが起こる。起こっては止み、起こっては止むうちに、やっとS.E.S.の3人が現れる。今日がS.E.S.の初のコンサートだということは、この時になって知る。
感想1:まず、やはりパダちゃんは唄がうまいなぁということ。まぁ、自分は素人だから「うまい」「ヘタ」を決めつける資格はないのだが、とにかく声量がバッチリなので、安心して聴いていられる。将来S.E.S.が解散してパダちゃんがソロになって、そこそこオバサンになった頃に、もっとゆったりした気分でコンサートを観たいと思う。いまはとにかく、遠い。遠過ぎる。
感想2:舞台演出がきれい。これはもう、オジサンが見ても素直に「きれい!」と言える。レーザーやらスモークやら花火(?)やら、これは前の方の席で見ていたらよくわからないだろう(負け惜しみ^^;)
感想3:S.E.S.が日本語で唄って会場全体が湧いたとき、想像もしなかった感激が込み上げたのである。堂々と日本語で唄うS.E.S.と、日本語の唄に湧く韓国人の観客を見て、無性に感動してしまったのだ。日本語で口ずさむ客もいる。それも妙に嬉しい。そんなことが自分にとって嬉しいことだとは、その時まで知らなかった。たとえば自分は、S.E.S.の1人が「日本からもファンが来てくれました」と言って、前の方の団体が「ワーッ」と湧いた時には、「け!」という気持ちしかない。「日本から」と言われても、彼らとは何の共感も持てないし、たぶん野球やサッカーの応援でも同じだと思う。しかし、それらを受け入れる韓国側集団の見せる友好的な姿勢には、素直に感動すると思う。この日の新発見が、自分にとってS.E.S.コンサートのすべてであったのかも知れない。
帰りにポスターを無料で配っていることに気づくが、なぜか欲しくならない。パダちゃんも他の2人も好きだが、コンサートを観たからと言って、急に熱心に応援しようという熱意も生まれない。まだ自分の中には昨日のイ・スンチョルが生々しく残っている。狭い会場ではあったけれど、いや、狭い会場だったからこそ感じることのできた心底からの熱狂が、少しも褪せずに残っているのだ。S.E.S.をたとえ一番前で観たとしても、スンチョルに対する思いを超えることはできなかっただろう。
帰りは道を間違えて、出口を求めて延々と歩く。地下鉄に乗ってカルビの食い放題の店に行く。そこでまた自分の韓国語につっこみが入るが、自分はいい気分である。理由は・・・もう何度も書いたので省略する。