ママの厚意

ある商社マンの言葉

なにもタイトルをつけるような話ではない。実は要旨しか憶えていない。「とにかくある国を知るにはその国へ行って、1ヵ所にとどまってじっくり見なくちゃだめだ」「観光地なんか行ったってなぁんにも見えない」「まぁ1ヶ月はいなくちゃ」。。。。それから、「今の商社はそういう経験のある、猿岩石みたいなヤツを求めてる」最後のこれはどうでもよかったが。そんな話をカラオケがガンガン鳴るところで聞きながら、もうなにがなんでも韓国へいくんだという気になった。

そのスナックへ行く2ヶ月ぐらい前、つまり毎週末にドライブする相手がいたころの末期に、もういろんな点が気に入らなくなっていたころに、なんだかやたらに感動した唄があった。この唄は歌詞が気に入っていまでも唄うことがある。例によって助手席でグーグー寝ているバカ女をヨソに、FMラジオから流れてきた。Yellow Monkeyの「JAM」という曲であった。この歌詞はその事情や背景をなにも教えてくれないから、 自分で勝手に想像しなければならない。が、すぐに異国の女とつきあう男の唄だと思った。そして無性にもう1度聞きたくて、バカ女を送ったその夜、CDレンタルへ走った。もうもう、ただただ感動してしまった。テレビで後日、イエモンを初めて見たとき、ちょっと笑ってしまった。自分を感動させた男は、まるでパンクみたいな風貌(それともパンクなんだろうか?最近のジャンル分けにうといので)の若いやつだった。それでもいい。こんな唄をよくぞ唄ってくれた。そして、あのバカ女が外国人なら、いろんなことが「国の違い」として許せるのにと思った。ちょっと脇へ外れた。

1ヶ月の休暇はいくらなんでもムリだった。まぁ頑張って2週間。それでもそんなに休暇を取るのは勇気が要る。1人で行くのも勇気が要る。なんせ韓国で日本人であることがばれたら、囲まれて袋叩きにあうと思っていたのだから。これはちょっと大げさだが、それに近いイメージがあった。実家で「韓国へ行ってきた」と言ったらお袋は案の定同じことを言った。年の割に革新的思考のできる我が母ですらこれである。コチコチ頭の世間のオバハンだったら虐殺シーンまで連想するだろう。現に職場でも「よく無事で帰れたなぁ」なんていう人がいる。自分の抱いていた韓国のイメージは、日本人としてそれほど平均からはずれてはいないと思う。

段取り

ツアーを探す。高い!日数が短い!コースがつまらない!どれも気に入らなくて、パンフレットを抱えてス ナックへ行った。実は以前からママも「1度韓国へ行ってごらん」と言っていたのだ。ただ、ママが連れて行ってくれると日程はいつになるかわからず、たぶんそれは会社員にはムリな日程のはずだった。パンフレットをパラパラめくったママは目を丸くした。「なんでこんなに高いの!飛行機代だけでいくらなの」自分が飛行機代を(格安チケットでなく)言うと、怒ったような顔でなにかの雑誌を取り出して「ここに電話してごらん」この雑誌、韓国関係の雑貨屋やレンタルビデオ屋で、ただで配っている情報誌である。これはママ一家がよく利用するビデオ屋で配っていたものだったが、このビデオ屋は先日「韓国地下銀行」として摘発されてしまった。不法滞在者を対象に送金業務を行っていたと新聞に書いてあった。ママにはそっちの方は関係ない。

宿をどうするのか。とにかくホテルはいやだった。なんで韓国で万国共通みたいな、しかもめちゃくちゃに 高いホテルに泊まらねばならないのか。そういうホテルに泊まることを考えたら、オフのツアーはかなり安 い。3泊ぐらいで満足ならツアーもいい。でもGWはオフではないのだ。検討の結果GW開始の2日前に出 発することにした。宿は?宿は旅館を探す!とリキんでみたが、行ったこともないのに無謀だ。「うちに泊 まりなさいよ。うちのハラボジ(ママの父)はヒマだからちょうどいい」結局このママの言葉に従った。ハ ラボジの名前を画用紙に書いて空港で持っていろと。で、ママの実家に好きなだけ泊まれと。これはなんだ かすごいことのように思えた。一般家庭で寝起きするなんて。理想に近い韓国体験旅行である。初めて行っ てそこまで深い経験ができていいのだろうかという気持ち。そして、反日感情がもっとも強そうなハラボジ とハルモニ世代への警戒感。いまでは頭を下げて謝りたいような先入観だった。ずいぶん考えた。考えたけ どママをすっかり信用している自分には、周囲が「無鉄砲」と評する結果しか出せなかった。

さてここからは実に忙しかった。初めてのときは何かと過剰な準備をするのである。パスポート取得、有休 の届け、ガイドブックを念入りに読んで、成田空港すら初めてだからその案内を読んで、もちろんNHKハ ングル講座の録画を見直したり、トランク買ったり新しいGパン買ったりでめまぐるしかった。すべて自分 で準備する。本当はこんなことがイヤで海外旅行に行かなかったのかも知れない。職場では秘密である。な ぜか言いたくなかった。韓国語の勉強も旅行も言いたくなかった。ニュアンスとして、「教えてやりたくな かった」というのが正しい。中堅精密機械メーカーの研究所である。海外旅行経験者は実に少ない。仕事で 行くことはあっても、プライベートでは新婚旅行のハワイで日本語だけ使ってきた程度の連中である。自分 しか知らない韓国、自分が努力と運と無鉄砲で獲得した、この自分にとって重要な韓国旅行を、また韓国語 の知識を、そんなやつらに教えてやるのがイヤだった。うっかり得意になって披露して、「なんでまた韓国 なんか」みたいなことを言われて会社で喧嘩するのがイヤだった。

最初の旅行から帰って少し経って、職場からインターネットで韓国関連のHPを見つけた。検索したりリン クを辿ったりすると、出てくる出てくる。最初は掲示板ものはほとんど興味がなかった。どうしてもオタク 的においを感じるのである。そんな韓国の細部を知っててもロクにしゃべれなければ意味がないではないか というのが当時の、全身トゲだらけにして周囲に威嚇光線を(椎名誠風)発していた自分だった。だから、 もっぱらHPのメインを読んでいた。(いまじゃ掲示板だけブックマークになっているが)

恐る恐る、某掲示板に書き込んでみたのはそれほど前のことではない。その後、あちこち書き込むようにな って精神的にかなり落ち着いたのである。仕事の合間に盗み見ていたインターネットエクスプローラーのウ インドウを、人が通るとさっと計算ソフトのウインドウで隠す。読んでるときはいいが、書き込んでるとき はあわてふためく。このHPの画廊の絵のいくつかは、そんな状況で生まれた。 また脇道だ。なかなか韓国へ行けない。

旅行1−1
旅行1−3
帰ろう

この旅行記1−2は1度消えました。1−6に同じ名前をつけて保存し、そのままアップロードしてしま うというドジを踏んだためです。気づいたのは1997年11月30日午前4時ごろのことでした。某掲示板 と某チャットルームをお騒がせしました。あんな時間に起きていて調べてくれた皆さん、ありがとうございま した。そして、テキストにして送ってくださった

本間加奈さん

ありがとうございました。このページの復活はあなたのおかげです。