これはあまり面白くない旅行記である。スナックで知り合ったママの実家を訪ねて、1997年のGWに初めて韓国へ。ママとの出会いから初めて韓国へ旅行するまでを記録する。1996年の暮れまで韓国語などほとんど知らなかった自分が、いかにして1人旅を決意し、いかに収穫を得たかを語る。

あまり面白くないと書いたが、実は見る人が見れば面白いはずである。が、他人の旅行記というものは得てして面白くないものだ。ましてや素人の文章である。「読め読め」と押し付けるわけにはいかないが。。。

それでも韓国深入りの記録として書き進むのだ。
きっと書き進むつもりである。
書き進めるだろうか?
進むのである。
うーむ・・・

韓国へ行くのだ

スナック

1996年12月下旬、先月から連絡を取り合っていない女とは完全に終わったのだと自覚した。ふったのでもふられたでもない。互いに連絡をせずに平気でいられるなら、それは終わったのである。で、よく言うと自由の身となったので、ちょっとぐらい悪いところで遊んでもいいのである。いいのであるが、いつも結局、ちょっと高い店で飲む程度で終わってしまう。

その日は近所に住む会社の先輩と、夕方から焼き鳥屋で飲んでいた。クリスマス直前、30過ぎの男2人はほろ酔いで「スナックに行こう」ということになった。場所は都心からやや離れた『国際都市』である。ボーナスもまだかなり残っている時期である。しかしなぜか我々は、刹那に数万円を費やすことができない性格なのである。そのため「え〜い!もう今日はとことん行っちゃうぜ!」などとわめいても、せいぜいスナックなのである。

しかし「スナックに行こう」も年に数回しかないので、なじみの店などはない。2人はいたずらに徘徊するだけで店が決まらない。自分はできたら外国人の働く店がよかった。日本のスナックのお姉さんが苦手なのである。まず話が面白くない。面白くないから乗らないでいると、「お客さん静かね〜」「まじめなんだぁ」等と必ず言う。客が自分を嫌がっているということには考えが及ばない。。。。まぁスナック論はやめておく。腹が立ってきた。

外は寒いから早くどこかに決めたい。「じゃぁこのどれかにしよう」と、道の角に立つ。パッと見えるスナックが3軒。「ここはクリスマスの飾りなんかしてるから大丈夫でしょう」という自分の意見で、1軒のドアを開けた。後日談だが迷った3軒はいずれも韓国人経営の店であった。店の名前や外観からはまったくわからないが、どこに入っても韓国へのドアだったのだ。・・・・いや、そうではない。あとの2軒は韓国クラブだったのだ。そうなると勘定が高くて、何度も通うのは不可能であったから、やはり自分の選択こそが韓国へのドアであったのだ。カウンターだけの店。先客はオヤジが2人。カウンターの中に2人いた女の片方が声を張り上げた。「いらっしゃいまっせー」。。。すべてここから始まった。

韓国のイメージはそれまであまりよくなかった。韓国でも北朝鮮でも一緒だった。高校が横浜にあったので、ずっとよい噂は聞かなかったからだ。要するに、とても友達になりたいなどと考えられない連中が多かった。直接の被害者になったことはなかったが、とにかくひどい話ばかり聞いていた。そういったことのルーツは「日本が悪い」にしても、我々の世代はそんな歴史を勉強するより前に一発かまされるのであるから、大人になった今ならともかく、当時は「高校生のオレたちが高校生のオマエらになにをした!」という怒りの感情しかなかった。しかしそもそも、それらを韓国や北朝鮮という国のイメージとして捉えてしまうのが間違いで、つまりそのくらい、それらの国に対して関心がなかったのだ。

それでもそんな韓国のイメージを少し変えるCFがあった。KDDの「ゼロゼロワンダフル」であった。あれは明洞だろうか?女子学生風の超美人が登場して、国際電話の宣伝をする。このあいだそのCFを古いテープの中に発見して、えらく感動したのである。「なんて言っているのかわかった!」---当時、国番号82を「回してください」と言っていたのだが、今の電話機なら「押して」と言うべきだろう---あのモデルさんは一時人気者になって来日し、シャンプーのCFに出ていたはずだが、いまどうしているのだろう?そう言えばあのモデルさんへの憧れから、テレビのNHKハングル講座を1回だけ見たことがあった。確かに1回だけ、見た記憶がある。でも続かなかった。あのモデルさんは出演していなかったから。

そのスナックが韓国の店とわかって、まず頭に浮かんだのは不良高校生とKDDのCFモデルだった。実際その程度だったのである。1時間ぐらいしてママが登場した。その時に聞かされた身の上話に、自分は何かを感じたのである。しかし、「離婚して幼い娘を連れて日本に来た」とか、「チマチョゴリのアガッシをたくさん使う店に疲れて、いまは気楽に安く飲ませるスナックをやっている」云々に感じたのではない。日本語をほとんど勉強せずに日本にやってきて、飛び込んで少しずつ憶えるうちに、ここまでしゃべれるようになったという話に、男も女も関係ないバイタリティを感じて「うーん。。。」となったのだ。後日、新規の客には同じような話をすることに気づいてちょっとしらけてしまったが、こんなママのいる店が気に入ってしまったのだ。それから、カウンターの中でほとんど何もしない、無口なアガッシも。

まず断っておくが、このあと無口なアガッシ目当てにここに通うことになるが、自分はそのアガッシともママとも親しくはしているが何もない。無口なのはウソで、日本語が不自由だっただけである。スナックに通ううちに、実はママの長女であることがわかった。日本語は、今ではかなり上達している。美人だなぁと思っていたのだが、ソウルへ行ってその何倍もきれいな子をたくさん見てしまい、「あまりたいしたことないんだな」とわかって以来、酔っても「明日ヒマ?」などと聞くことはなくなった。

実は韓国語をカタカナで書くのは嫌いである。ネット上で親しくなった人の機嫌を損ねないように、ときには使うが、本当はハングルで書きたいところである。韓国語を勉強する人がすべてこういう気持ちかどうかわからないが、音がまるで違うのにムリにカタカナで書く意味があるのか。
しかしその日はそんなことを感じる日が来ることを予想もしてなかった。その無口なアガッシに名前を聞く。メモ帳に書かれた名前は日本にはない漢字だった。カタカナでルビをふってくれたので「ハングルでは?」と訪ねる。この日メモに書いてもらった彼女の名前と「カmサハmニダ」が、初めて教わったハングルである。いきなり韓国語を学ぼうなんて考えたわけじゃない。相手がどこの国の人であれ、はるばる日本に来て頑張っているのである。ほんの一瞬でも母国の言葉を使う機会をあげたかったのである。中国人に対してもフィリピン人に対しても自分はずっとそうだった。欧米人だったらどうだろう?英語圏のひとは頼まなくても勝手に英語を使うから、あまりやさしい気持ちにはなれないだろう。
やさしい気持ちなんて書くと、暗黙のアジア差別を吐露してるみたいだが、現実の自分の行動をここで見せられないので「いやオレはそうじゃなくて。。。」なんて書かない。そう思うならそれでいい。

その日はかなり飲んだ。あまり豪勢とは言えなかったがしゃべって唄って食べた。有り合わせで作ってくれる韓国料理やキムチ(これはあとでふれるが、こんなものを本場キムチだなんて思ってた自分がバカだった。ソウルで味わったキムチはまったく違う。韓国人が漬けようが日本人が漬けようが、日本の料理屋で出されるキムチはほとんどまずい。そしていやに辛い。)は辛かったがうまかった。
翌日、さっそく教科書を買う。ちょっと憶えたらスナックへ行く。しゃべってみる。笑われても気にしない。「は?」「なに?」と何回も聞き返されても使う。いよいよ困ったら日本語でいいし。そこからは「いつやめたっていいや」という気持ち半分に、NHKハングル講座を見る、辞書を買う、テープを買う、韓国雑貨屋で在日韓国人に無料で配ってるパンフをもらう、。。。異常なくらいはまって行った。

始めてから1年弱でこんなものを記して回想するのは早すぎるかも知れない。ちょっとしゃべれるとは言っても、韓国ではまだ不便だらけだからである。でも1年続いた記念が1つあってもいいと思う。こんな文章 消そうと思えばいつでも消せるが、3年経っていまの気持ちを書こうと思っても書けやしないのだ。

飛行機も乗ったことないのに

海外旅行に行ったことがなかった。行きたくもなかった。でも海外ルポ風の読み物は好きだった。落合信彦や椎名誠(この2人を並べていいんだろうか?いいのだ。)はずいぶん読んだものだ。
旅行をするなら向こうの言葉を覚えて、団体さんとしてでなく行きたい。この団体さんというのが自分は嫌いである。1人じゃ危険なところはしょうがないけど。とくに団体でペンションにやってくる連中が嫌いで ある。もうムードもへったくれもなくなってしまうのである。じろじろ見やがって男20点女70点などと勝手に採点してるに違いないのである。なんでオレが20点なんだ!そのうちペンション論も書く。

すぐ脱線するが、しかしどんな経験がどこで役に立つかわからないのであるから、無関係とは言いきれない。いまのところ関係がない韓国語と自分の業務だってそうだ。うちの会社からソウルへ派遣されている人はかなり切実に日本に帰りたがっている。自分は営業職でないから交代してもなにもできないが、営業から技術への転身はないが、技術から営業への転身はうちの会社ではあり得る。

そんなわけで韓国どころか海外旅行経験もなく、いまどき飛行機すら乗ったことがなかったのである。(現時点でも国内便は乗ったことがない。)韓国語は面白くて勉強する。スナックには韓国人がいる。別に韓国 に行かなくてもいいように思っていた。ところが、このスナックの常連(100%オヤジ)はみな韓国に行ったことがあって、顔を合わせるといろいろ教えるのである。慶州がどうの、ソウルの道幅がどうの、韓国 語できないくせにイッチョマエに教えるのである。自分は常連のほとんどを無視していた。自分は韓国人に韓国語を使いたくて来ているのに、なぜオッサンのツアー体験など聞かねばならないのだ。それでもみな悪 い人じゃないから、こっちも友好的に話しかけられていつまでもブスッとしてはいられない。聞いてるうちに勉強だけしてもダメだと思うようになった。行った経験がなければこんなオヤジに「なんだぁ行ったこと ないのかぁ、じゃわかんねぇだろなぁ」などと言われて「えへへへ」なんて愛想笑いしてなければならない。「じゃ韓国の唄を教えてやるから」ってカタカナ・ハングル両方の字幕が出る唄を聞かされたりしなくて済む。「この唄は早いから、憶えてヨソで唄ってみな。オレはいつもこの唄ですごいすごいっていわれるぞ」なんてトロットを教えられなくて済む。いまだったらそのオヤジも仰天するだろう。DJ・DOCが唄えるか?パク・サンミンが唄えるか?カタカナ字幕なしで。あ、カラオケそのものがはいってないか。とにかく行ったことがないのはよくない。ゴルフなら打ちっぱなしで上達したらコースにでなきゃ。テニス ならストロークもボレーもある程度できたら試合にでなきゃ。
そして、あるテニス関係の飲み会で大手商社のオジサンに聞いた話で、ついに「韓国へいくのだ」という決意をしたのだった。細かい事情はもっとあったが、大きくはこの2つである。

旅行1−2
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