ギャルゲー擁護
   
2000.2.29
 はいはい、ようこそいらっしゃいましたお客さん。
 本日のテーマは「ギャルゲー擁護」、これでございます。
 ゲーム業界の中でも異端のジャンルとして、日夜魔女狩りにも似た不当な弾圧を受け続けているギャルゲーを、ギャルゲーを愛してやまないギャルゲーマーであるぼくが、少しでもその地位を正当な物とすべく擁護してみようという趣旨で書こうと思います。
 全然関係ありませんが、前回のテーマが「ドラクエ批判」で今回が「ギャルゲー擁護」なので、タイトルだけ見ると頭の悪いギャルゲーオタクが感情論をわめき散らしているようにも見えますな。
 …誰だ、その通りだとか言ってるヤツは。
 
 …コホン。
 気を取り直して先を続けます。
 さて、ギャルゲーが批判されるときに最もよく使われる言葉は、
「ギャルゲーなんて、所詮二次元じゃないか。虚構の世界で架空のキャラクターに『好きです』って言われて嬉しいのか?」
 これでしょう。
 ギャルゲーマーなら、どっかこっかでこのような言葉を目にしたことがあると思います。
 ですが、この言葉はある意味では正しいのですが、大筋において間違っています。
 …ってゆーかこの言葉を肯定したらギャルゲー擁護にならない。
 以下そう考える根拠を列挙します。
 なお、本項はシナリオ重視型ギャルゲーを対象として書いています。
 ときメモのようなシステム重視型はまた別なので、誤解なきよう。
 
 まず正しい点。
「ギャルゲーなんて、所詮二次元じゃないか」
 この言葉は全くその通り。
 あまりにも正論過ぎて反論の余地など存在しません。
 さすがにギャルゲーを批判するだけあって、頭の良いことをおっしゃってます。
 んなこたぁこちとら百も承知の上でギャルゲープレイしてるんだけどな。
 …おっと、つい口が滑ってしまいました。
 
 では間違っている点はどこかと言いますと、
「虚構の世界で架空のキャラクターに『好きです』って言われて嬉しいのか?」
との後半部分です。
 ここがどう間違っているかを言う前に、まずギャルゲーというもののスタンスを再確認しておきます。
 
 この世に存在するギャルゲーのほとんどは、
「プレイヤー=主人公」
となり、主人公がヒロインと結ばれるようにシナリオを追っていくタイプの物です。
 当然プレイヤーは主人公と視点を同一にします。
 つまり、主人公の一人称でゲームを進めていくわけです。
 また、「あかりシナリオ」「マルチシナリオ」「晶シナリオ」等の言葉で表される通り、それぞれのヒロインにはしっかりしたシナリオが存在します。
 すなわち、「プレイヤーは」「主人公の一人称で」「ヒロインのシナリオを見ていく」わけです。
 勘の良い方なら、ぼくが何を言いたいのかもうおわかりでしょう。
 そう、この形は「主人公の一人称でストーリーが綴られる恋愛小説」と全く同じなんですね。
 特定の主人公を持っている恋愛映画や恋愛演劇、三人称視点の恋愛小説などにも似通っている。
 これらの「恋愛を盛り込んだ架空の物語」の見せ方をゲーム用にアレンジした物が、いわゆる「ギャルゲー」なわけです。
 だから、冒頭の
「虚構の世界で架空のキャラクターに『好きです』って言われて嬉しいのか?」
という言葉。
 それを言うのであれば、全く同じ理由で恋愛映画や恋愛小説なども批判しなければならないのです。
 そうでなければ道理が通らない。
 ギャルゲーと恋愛映画・恋愛小説は、架空の世界での恋愛劇を主人公の視点で描いているという点で全く同じものなのですから。
 
 …と、以上のような理由により、ぼくは
「ギャルゲーは批判されねばならないような物ではなく、従来小説や映画でしか描かれていなかった『恋愛』という物をゲームのストーリーに盛り込んだ、新たなゲームジャンルである」
と声を大にして言います。
 まぁ今更偉そうに言うほどの事でもないかもしれませんが。