映画に関するコンテンツ。「キネマトグラード」(映画都市)と名乗るからには、ここを最も充実させていく所存であります。

■FritzLanger!フリッツランガー!■

□ラング映画を話す。
現在までに私が観ることのできたフリッツ・ラング監督作品の感想です。

■ 日本映画のこと■

□石井輝男映画vs鈴木則文映画 やさぐれ総括バトル!
日本映画のあらゆるジャンルを縦横無尽に駆けめぐった二人の、ちょっとカルト入った映画に関する感想を集成。

■essay for cinema■
映画に関するエッセイ。
11/24「美の祭典」11/25「バッファロー66」11/26「シックス・センス」11/29「DEAD OR ALIVE〜犯罪者」11/30「プライド〜運命の瞬間」12/01「I LOVEペッカー」12/20「山中傳奇」1/16「ポーラX」1/24「ナビィの恋」2/7「九十九本目の生娘」9/24「マルコヴィッチの穴」9/26「パトリオット」10/1「ボーイズ・ドント・クライ」10/9「クレイドル・ウィル・ロック」



《essay・10/9》ゆりかごは揺れているか?「クレイドル・ウィル・ロック」

 1930年代という狂騒の時代の中、ひとつの社会派演劇をめぐってわき起こる表現者たちの一大群像劇。
 上演を中止させようとする権力側とそれに抗う貧乏俳優たち、観客たち、オーソン・ウェルズ。いまどき珍しい、こんなに骨太な熱いハナシを持ってきながら雑誌などの寸評がイマイチ冷たいのは、メイン・ストーリーの演劇「クレイドル・ウィル・ロック」が、社会主義リアリズム演劇であり、主人公たちの行動が共産主義運動と切り離せずには語れないものを持っているからかもしれないし、あるいは寸評する人が単にキャラがいっぱい出てくる群像劇がキライだったのかもしれない。いずれにせよ、私自身は熱く涙してしまった。なにしろ、社会主義はともかく、群像劇が好きなタチなもので‥‥。
 もちろん、ティム・ロビンス監督の意図はこの映画によって世界共産革命に資するということではなく、表現する者の「不屈の意志」とでもいうべきものを訴えかけることなのはあきらかだ。オーソン・ウェルズの爆発的な情熱(あまりに過剰なんで、登場するたびに爆笑しちゃうけど)、反共勢力に立ち向かう劇場支配人の誠実さ、芸術家を金で飼い慣らそうとする支配層に唾するリベラの絵筆‥‥平行して語られるこれらは、恐慌の30年代という同時代の枠を突き破って、好景気に湧く現代アメリカに突きつけられる、誇りという名の拳なのだ。
 ストーリーも画も実に分かり易く直接的なので、インテリ好きのする映画ではないだろうし、小林よしのりとか愛読してる人にも(笑)多分不快なんだろうけど、わかりやすい映画が嫌いな人でなければ感動できることでしょう。ちょっと我々一般日本人にとっては不親切ともいえる知識的前提が多いけれども、この映画の登場人物たちと同じ空気を吸い、同じ鼓動を共有する根性さえあれば、多少の設定のわかりにくさはクリアできることと思う。実際、ブレヒトとかハーストとか何の説明もなく出てきたりするので、1930年代の文化に全く興味のない人には少々ツラい部分もあるかもしれない。(隣の女の子は始終時計を見ていた)オレもディエゴ・リベラとかフリーダ・カーロについてはパンフ読まさせていただきました。


《essay・10/1》切ないながらも輝く「ボーイズ・ドント・クライ」

 悲惨な映画である。一片の救いもありはしない。が、私は感銘を受けた。
 1993年のネブラスカ州フォールズ・シティという小さな街の、小さな仲間内で展開する悲劇。その舞台の中心に立っているのは一人の「少女/少年」だ。
 女の体でありながら心は男、髪を短く刈り込んで男の外見をして、恋した女性に近づいた彼は、その女性の親族から変態、化け物と呼ばれ、訴えられる。いきなりやるせない展開だが、そんな時に出会ったフォールズ・シティの若者グループは、彼を女性と知らないままに仲間として迎える。行き場の無い町、壊れかけたバランス、だがそこは彼にとって心地よい疑似家族のようだった。彼が「恋」をするまでは。
 アカデミー賞当時のマスコミ報道では「性同一性障害」の主人公、というコトバでくくられてしまっていた本作だが、ドラマの中のヒラリー・スワンクに「悲劇のヒロイン」じみた感じは微塵もなく、特殊な境遇をカタルシスのネタにする野島伸司ドラマ的タチの悪さは感じられない。
 社会に疎外された者たちが、性的に疎外された者をさらに疎外していくという展開の切なさは、「あっちの趣味」の人達の悲劇なんぞという枠にとらわれず、むしろ人間一般の切なさとして迫ってくるのだ。あくまでも「性」はドラマの引き金であり、映画は危険なバランスの中でとにもかくにも生きようともがく人々の姿を正面から捉えている。この視線が素晴らしい。悲惨だが、そこに光るものを見つけずにはおられない映画である。


《essay・9/26》ブレイブハートもひどかったが‥‥「パトリオット」

 「あっ、またメル・ギブソンのアップだ!ヤメテー!
オレに対する嫌がらせかとすら思える、ワースト俳優とワースト監督のタッグ(ケビンコスナーとワースト12を争います)。これでエメリッヒいつものSF大作なら見なかったと思うが、なにしろオレの弱いジャンルを突いてきやがったもので、つい見てしまった。そう、この手の近世歴史劇に弱いのである。池田理代子の「エロイカ」とか好きな人は、エメリッヒということは重々承知しつつも、ちょっとは見たいと思った‥‥でしょ?
 しかしまあ、やはり予想どおりの浅薄な映画なのであった。大体メル・ギブソンみたいなヤツに「家を守るために立ち上がる父親」なんて役がつとまるはずもなく、ただ叫んだり泣いたり目ぇカッ開いたりしてるだけで、全然胸に迫るモノがない。これ見てると、ロン・ハワード監督の「身代金」でのあのキャラは、別にシナリオがショッキングだったわけではなく、単にメルギブには頭の壊れた父親役しかできなかっただけだったのかって気も。
 拾いモノとしては悪役のジェイソン・アイザックスのしなやかな悪役ぶり。これはなかなかヨロシイ。もうちょっとセンスのある監督の映画で、悪辣貴族とかナチの将校とかやっていただきたいものです。
 さて、SF映画から一転して歴史劇のエメリッヒ監督ですが、この大雑把な話で唯一気を使いそうなのがこの時代の黒人の描写。どうすんのかなーと思って見てると話の後半でのとあるシーン。
「なんかこういうシーン見たことあンな‥‥あっ、ジェダイの復讐だ!」
さすがオタク監督。黒人=イウォーク族で問題解決ってことか‥‥って大丈夫なのかこの程度で。


《essay・9/24》かなり入りたい!!「マルコヴィッチの穴」

 "Being John Malkovich"
というイカすタイトルの後、何が始まるのかとワクワクして見ていると、始まるのはバルトークのコンチェルトに併せた人形劇。
ちょいと「ふたりのベロニカ」を思い出してしまうこの入りに、ウーン、やっぱりアート・フィルムなのかな?と思うとガンガン話は浅薄な私の予想を逸脱し、奇々怪々な方向へ突っ走っていくのだった。
 盛大な悪ふざけか?哲学的実存的ストーリーか?
 どう結論づけるかは観客の勝手だが、とにかく破格、縦横無尽の面白さ。
困るのは、次の日学校で友達に「ビーイング・ジョン・マルコヴィッチ見たよ!」と嬉々として言っても「へー、どんな話なの?」と聞かれると「ウッ、それは」と二の句が継げなくなるということだろうが、考えてみれば、二分で話が要約できる映画が大手をふるこのご時世、そんな映画を見に行けるということだけでも幸いと思え!とにかく行け、この野郎!と叫びながら友達の首を絞めるべし!
 まあ、たとえストーリーを説明するのに成功したとしても、まさかそんなストーリーだと友達は信じてくれないだろう。「頭大丈夫?」って聞かれるかも。とにかく、そんな具合にブットビのストーリーなのだった。
 ちなみに、ジョン・マルコヴィッチ大ファンのオレとしては、マルコヴィッチ・ネタ(笑)の方でも大いに笑わさせていただきました。本人の演技も堪能。こんな風に自分をネタにした映画に嬉々として出るあたり、まったくイキな男よ、マルコヴィッチ。


《essay・2/7》ヤバイ系伝奇モノ「九十九本目の生娘」

 題名でピンとくる方も多いと思いますが、大蔵時代の新東宝映画である。若き日の菅原文太が主演、ヒロインは三原葉子(ばっかりですが)、曲谷守平監督。
 それにしても「九十九本目の生娘」とは、「何なんだ?」と首をひねらずにはいられない強烈なサムシングを放つタイトルだが、映画を見てみれば「なーんだ」と思うことであろう。原作小説は「九十九本目の妖刀」で、刀じゃ客は来ないからってんで「生娘」に変えたってだけなんだろーけど、生娘を「本」で数えているようにみえるあたり、謎を秘めたレトリックに思わずヴィデオを手にとってしまう…とったオレがタワケでありました。
 でもまあ、そんな崩壊的につまらない映画ではなく、ボチボチ面白いんですが、困るのは内容のヤバさである。
 冒頭、人里離れた山奥の藪で、棒を持って何者かを追う二人の男が登場。「こンの 野郎!」とようやく捕らえたのは、髪ボーボーですげえ顔した婆さん。もう冒頭から読み物系キワモノ臭がプンプンしてますが、この二人の男の連れだったバーの女給(笑)が行方不明となった事件と、この婆さんが関係あるらしい、というセンからストーリーが展開していき、やがてこの婆さんが住んでいる山奥の部落の血塗られた迷信が明らかになっていく…という伝奇伝奇した内容。麓の村の人々に誹謗されているこの部落の人々が、実際血塗られた伝統のもとに犯罪的行為におよんでいる、というあたり、部落問題レベルでかなりヤバいんじゃないかと思いますけど。しかもクライマックスは「インディジョーンズ魔宮の伝説」ばりに、弓矢と刀で武装した部落の住民と、カービン銃&拳銃による警官隊の銃撃戦で、部落の人たちは掃討されてしまうのであった。ほとんど西部劇のインディアンvs騎兵隊のノリで、なかなか他では見られない画ではないかと思う。「けだもの部落」が出てくるという理由でビデオがお蔵入りになっている本多猪四郎の傑作「獣人雪男」より、こっちの方が全然マズいんじゃなかろうか。
 全編さしたるショック描写もなく、けだるいムードの中進みますが、こういういかもの系のノリが好きな人にとってはそんなに退屈じゃないんじゃないかと思います。後ろから首を締め付けられた人が「あッ、苦しいッ!」と叫ぶところと、警官役の文太が婆さんの部落を探すべく聞き込み中に婆さんの写真を見せてまわるのだが、その写真に映った婆さんが、正面からのフラッシュに驚いてシェーみたいなポーズをしてるところには爆笑させられた。
 おそらく売りの一つであるはずの女給ヌードは超ロングショット。ほとんど「あ、脱いでるな」という程度しかわからず、当時映画館に足を運んだエロ親父たちは羊頭狗肉気分を満喫したことでありましょう。


《essay・1/24》最高にハピネスな大傑作「ナビィの恋」

映画をいっぱい見てる人から、普段ぜんぜん見てないんだけど・・って人まで、見た人の誰も彼もが「いい」って言ってる映画、中江裕司監督の「ナビィの恋」を見てきました。
「どれほどのもんなのかねえ・・」なーんて気持ちで。
そしたら、あなた、どうよ。
鼻水出るほど泣けましたですよ。
しかも、それがあまりにもハッピーすぎて泣ける。キャプラ監督の映画が好きな人は多分感覚的に分かると思うけれども、映画を見てて、これほど幸せな感動はありません。
なんか話題のなり方が、やれ沖縄民謡とか、老人の恋とかいうから、なんかフォークロア系とかマイナー系とかドキュメンタリー系とか、いらぬ先行イメージがつきまとっちゃうんだけど(というかオレにはつきまとってたんだけど)、
そんなん全部チャラ。
「正月映画どれか一本見るとしたら何かな」と迷っている人は多いと思いますが、他は全部見る必要なし。
これ一本です。

 花の匂いと陽の光に満たされた縁側でうたたねしていると、おじいさんのつまびく三線(さんしん)の歌が聞こえてくる、そんな導入部だけですでに充分幸せなのだが、もうその後の幸せぶりときたら、それどころじゃない。冒頭30分だけで、「なんだ、この底抜けにパラダイスな場所は!?」と、すっかり舞台の粟国島に恋してしまう。この島は、花の島、歌の島、牛の島、神の島、祖霊の島、そして何より愛の島。海の向こうのアイシテルランド(笑)から、異人さんがフィドル片手に渡ってきてしまうほど、素敵な島なのです。
そんなパラダイスでつづられる、不思議な恋の話。
詳しくは申しません。
沖縄民謡、ケルト音楽からマイケル・ナイマンまで、どれがメインと言うことすらできないほどどれも素晴らしい音楽、
金子修介監督の映画を数多く手がけた邦画界きっての撮影監督、高間賢治の幸せな光と色に満ち溢れた画面。
どう考えてもこれまでのベスト演技を見せる西田尚美と、彼女だけ見ていても飽きないというのにそれを上回る素晴らしい沖縄のおじいさん、おばあさん、子供たち。

沖縄の神様お願いです、私を粟国の牛にして下さい。と思わず願ってしまう映画。
生まれてこのかた、この映画しか見たことがない、っていう人がいても、それはそれでいいやと思っちゃう。
だまされたと思って見に行きましょう。ホント。


《essay・1/16》CM的ハイソから文豪的穴蔵への先祖帰り?「ポーラX」

 相当ワケの分からない映画と聞いていたので、こっちも全面分析態勢で臨んだおかげで、比較的見通しよく見ることはできたが、その分「アタマの良い人が撮ったアタマの良い映画」程度に見えてしまったきらいがあって、いまいち愛着を感じることができなかったのは個人的に惜しまれるものの、期待以上のものは見せてくれた。
 主人公のギヨーム・ドパルデューは冒頭、最悪にイヤな人間である。郊外の城館(シャトー)に住んでて、母親のカトリーヌ・ドヌーヴ(しかもこいつ、母親の事を「姉さん」と呼びやがる)と二人暮らしなのだが、こいつの、恋人とのデートといいシャトーの生活といい、いちいちこちらの神経を逆撫でしてくれるようなイヤミったらしいものだ。一言で言えば、俗受けテレビCMに出てくる「ハイソな暮らし」的なものからの、コラージュの洪水なのである。デート・シーンはどう見てもどっかのDCブランドのCMにしか見えないし、母親にピアノを弾いてあげるシーンもウイスキーのCMかなんかみたいである。ドヌーヴはいきなりゴージャス風呂入ってるが、もう60にもなろうというババアには思えないおっぱいを除けば、ほとんどシャネルかなんかのポスターだ。
 こいつらの生活は一見貴族のものだが、ヴィスコンティが描くような、貴族の出自というベースに裏打ちされたものではなく、あちこちのポスターやらCMからコラージュしてきただけのハリボテおフランス城館生活。軽薄で無内容で鼻つまみである。
その絶頂は主人公が書いている小説。
アラジン著「光の中で」…ペンネームもタイトルも最悪だ。
その書き方といえば、パソコン辞書からテキトーな同義語を検索していろいろ言い換えてみて、ちょっとスカした言い回しを工夫とかするというていのもの。こんな野郎が母親に対して「姉さん、僕が醜かったらどうする?ホラホラ」とか言って片輪のマネゴトをするに到って、観る者は怒髪天を突く。
「この野郎、できるだけ早く、犬のように死ね!」と思う他はないのだ。
 もちろんこうしたキャラ造型は、後で強く否定するためにカラックスが準備したもので、CM的なものの抜粋も意図的なものである。話は進み、この主人公がある日いわゆるジプシー(ロマ)の女の子と出逢い、本当の自分探しのために家から出ていくという展開になる。しかし、この女性ののたまう事といったら「私はあなたの姉よ」とか言う頓狂なもの。そうして自分の体験を述べるのだが、さっぱり意味不明である。まあこれは、意味不明なことをまくしたてるのがこの監督の趣味なんだと思ってほうっておく他はない。
 彼はこの姉と名乗る女性とパリに出てくるが、「薄汚い女を乗せるな!」とのたまうトルコ人のタクシーの運ちゃんをはじめ、周囲と始終ぶつかり合うことになる。こうした差別と疎外は「白人>イスラム教徒(トルコ人)>ジプシー」といった欧州によくある人種偏見の構図が頭に入っていないとちょっとピンと来ないと思うが、そのへんから発するうだうだが色々とあるのだが、そこを経過して、主人公は怪しげな宗教団体に身を寄せ、小説を書き始める。
 彼の手にはもうパソコンはなく、その書き方はゲホゲホ言いながら汚い小部屋で赤ペンを一生懸命走らせるというやり方なんだが、これは冒頭のCMコラージュめいた世界とは対極で、ほとんど19世紀の文豪って世界である(ちなみに映画の原作はハーマン・メルヴィルだ)。話はどんどんデタラメになっていき、何の解決も見えそうになくなるが、その中でひたすら彼は赤ペン小説を書く。もちろん19世紀文豪的マンネリズムの通りその小説は認められないし、書く者が、書いている内容に取り込まれるかのごとく、自滅的道をたどるあたりもまったく前世紀の味だ。
 レオス・カラックス監督が主人公に何をやらせたかったのかというのは、おそらくこういう、前半の華やかだが軽薄な世界と、後半の暗くてゴシックで濃密な世界との対比を通して、はじめてすっきり見えてくるのではないかと思った。

 という訳でいろいろと手練手管を使ってるとは思うが、「いい映画」ということでいうなら、同じテーマでやってても実際に単身ジプシーの生活世界の中に入っていく「ガッジョ・ディーロ」の方がずっと行動的だし感動的である。「ポーラX」の主人公は、確かに自分を変え、欺瞞に満ちたハリボテ生活空間からの脱出を試みてはいるのだが、その経路はあくまでも文化の枠を踏み出すものではない、単なる先祖帰りにしか過ぎないのではないかとすら思えてくる。
 もう一つ気になるのはその方法だ。彼は情報化と商品化にまみれた生活の中で見知らぬジプシーの女と出会い、彼女らを連れ歩く生活に入ることで自らの世界を変えようとするわけだが、自分のケツを拭くのにジプシーという要素をただ利用しようとするだけの白人的奢りが、この映画のカラックスにはあるように思えてしまう。それは自らを語ることが既に社会への反抗となり得るジプシー映画作家への羨望が生んだものかも知れないが、やっぱり鼻につくやり方としか思えないのであった。

 笑えるところもある。最も素晴らしいバカ・シーンは何といっても怪しい宗教集団のライブであろう。直立不動でエレキを鳴らすカルトギタリストの集団演奏は、「黒い家」における大竹しのぶの「ヘタクソー!」なみに爆笑できます。丁度このあたりでストーリーにつきあいきれなり、ひさびさに映画館で時計を見たりしてしまったが、そんな折りにこの片腹痛いシーンの挿入はなかなか気が利いていたと思う。


《essay・12/20》なんなんだ?「山中傳奇」

 とりあえず古典からおさえにかかるクセのあるオレは、比較的弱い中国語圏の映画を見ていくにあたって、まずはキン・フーから攻めていくのが筋だろうと思い、ここのところ数本集中して見ているのである。で、中には「侠女」のような傑作もあるのだが、この「山中傳奇」は実にヘンな映画だった。
 「侠女」や「ドラゴン・イン」(旧作)などの武侠映画の監督として知られるキン・フーだが、この映画はアクションというよりは一種の怪奇モノ。とは言え、ラストの妖術合戦でいろいろと爆発するんで、ちょっとしたアクション性はある。とにかく何を投げても爆発するのは謎だが…。ひょうたんを出した時はやはり敵が吸い込まれるのかと思ったら、これすら爆発したんで驚いた。
 お話はいかにも中国の伝奇ものって感じで、「山中傳奇」とゆータイトルから想像できるようなだいたいそんな話。綺麗な女に化けた妖怪がありがたいお経を盗み出すべく、主人公に言い寄るというパターンである。妖怪に写経本を狙われる写経者が、あまりにも易々とたらしこまれたり、用事の途中で酒飲んだりとナマグサぶりを爆発させているのがおかしい。仏罰あたらねえのか。
で、妖怪の女とそうとは知らずに契って寝るとこが出て来るんだけど、ちょっとハダカの腰とか足とか一部分だけがナマメカシイ照明の中映って「あ、見せられるギリギリまで見せてるのかなァ」とか思ってると、いきなりトンボが交尾しているカットが入ったりしてかなり爆笑させられる。トンネルに汽車が入っていくとかに比べて、あまりにも簡潔な比喩といえよう。
 ヒロインが華原朋美と倍賞智恵子を足して二で割ったみたいで可愛いのであった。


 《essay・12/01》パチリ、パチリの「I LOVEペッカー」

映画サービスデーの一本は迷わずこれでありました。
 まず、ツカミが素晴らしい。
 まず、ウォーターズ監督愛しのボルチモアが映ります。そんで、たぶん地元歴史上のエラ〜イ人なんだろうなあと思われる彫像が、下からのアングルでどーんと映ります。
この像、右手を前に突きだして前方を勇ましげに指さしているのですが、下からのぞくアングルなんで、その手が、なんか腰のあたりから生えてるみたいに見える。
 ん、なんか、別のモンみたいだナ、と、思ってはいけないことを思ってしまうとすかさずタイトルが…

Pecker(チンポコ)

 バカだ!バカだ!(笑)
 画面が切り替わると、満面にシマリのないお天気バカ面のエドワード・ファーロングがニヤニヤ笑いながらこれをパチリと撮る。絶妙
映画のテンポはつかみで決まると誰かが言っていたが、この映画の心地よいドライヴ感はまさにこの「パチリ」が決めている。ペッカーがパチリ、パチリとシャッターを切るたびに話が転がる。ヘン〜な人々が、パチリで笑いパチリで泣く、この軽快なテンポ。「ピンク・フラミンゴ」みたいな「この映画、オレ達をどこに連れていこうというのだろう」というような不穏さはなく、軽快なテンポとルンルン気分で快速に見れるのも、このテンポをきめているシャッターの音がパチリ、パチリと軽〜く響くからだろう。
途中で、リリ・テイラーのギャラリー主人から貰ったAFのごついニコンをペッカーがいじった時に鳴る「ギュイ〜ン、ブバシャァッ」みたいな異様なモーター音に、「何だよコレ〜」とオレ達もペッカーと同じ気分になったのは、やっぱりいつのまにかペッカーの「パチリ」のテンポがオレらのノリを決めていたのだなぁ、と感じ入った次第。ウォーターズって、やっぱりただの悪趣味な人ではないなあと思ったのであった。
でも、変な野郎はこれでもかと出てくるのでご安心(笑)特にペッカーの妹役の女の子「キャンディ食べたい、キャンディ食べたい」の女の子の砂糖ジャンキーっぷりには唖然とさせられる。ここんとこ、「スターウォーズ」のジェイク・ロイドといい、「シックス・センス」のよく知らないけどうまい子役といい、「オトナ顔負け」な子役ばかり見てきたが、ここにきて、なにやらガキ特有の異様さを爆発させた「恐るべき子供」の存在感を持ったこの砂糖食いの登場には福音を感じた。って何を言っているんだ、オレは?!
 ラストのどんちゃんのあまりのハピネスっぷりには、インド映画の影響が感じられる。(ウソです!)
 とにかく、変な人を見ても卒倒しない自信のある人なら(まあ、ジョン・ウォーターズ監督が言うには「自分よりもよっぽど世間の方が悪趣味になってしまった」そうだから、たぶん大抵の人は大丈夫と思うが)ハッピー気分に浸れる映画ではないかなぁと思いました。


《essay・11/30》アメリカも天皇も斬っちゃった「プライド〜運命の瞬間」

 この映画が公開された時は、映画を見に映画館に行ってるというより、政治的デモンストレーションで映画館に行ってるよーな人たちが集まって涙したり「けっ、右翼どもが!」とか思ってるのかと思うと気持悪くて、結局行かなかったのだが、気になっていたのは伊藤俊也が監督ということである。
 伊藤俊也といえば、東映の組合運動の急先鋒で、代表作「女囚さそり」シリーズでも国家権力への怨念の歌を歌い上げたバリバリの左翼である。それが転向でもしたのか?と思ったが、最近読んだ「さそり」シリーズについてのインタビューを読む限りでは、撮影当時の闘争の様子をノスタルジーたっぷりに熱っぽく語っており、ちっとも懲りちゃいない(笑)ようだった。だったら、いったいどういうつもりで撮ったのか謎だったのであるが、最近になって、どうやらこの映画が巧妙な仕掛けアリの一筋縄ではいかない映画らしいと知り、見てみる気になった。
 ポイントは、東條英機自身の「プライド」の根拠である、冒頭でもでてきた天皇(菊の御紋で象徴される)への忠誠が奪われるシーンであろう。それまで平板な家族描写で、こういう人だったのかも知れないが共感はできないなあと思っていた津川東條、電流が走ったようにバビーンと直立、胃潰瘍みたいに胸を抑えて「コケーッ!」とかなんとか叫びを発し(違ったかもしれないが)、ドデーンとずっこけてドアに頭をうちつける。はっきりいってオーヴァーアクトには違いなく、東條英機より津川雅彦を感じるのであるが、この時点で、東條は天皇制から切り離され、個人の意地だけで被告席に立たざるを得ない状況となる。
欺瞞に満ちた東京裁判を斬るというのはこの映画の主目的の一つであったことは間違いない。普通の刑事裁判だったら変な状況証拠と不完全な証人の積み重ねによる訴求が、この裁判が裁判と言うよりは占領国側の政治的な見せしめであったことを物語るように、映画はできている(というか、ほぼ、それ以上の事は言わないように注意が払われている)。これが、東京裁判の欺瞞性を暴くことで、「日本国家のプライド」を取り戻そうというアジテーションを歌い上げた映画と誤解されたゆえんだが、肝心の主人公である東條英機は、そんな「日本国家のプライド」にザックリ裏切られてしまうのだった。そこが、「人間としての東條英機」を描くというこの映画が目指す、真の目標だ。この「コケーッ!」な瞬間こそ、東條にとって「運命の瞬間」であったわけである。己の責任を回避するためには、それに殉じた人物の「プライド」を難なく奪ってしまう国家、そして直接的には天皇制を斬った映画なのであった。
 まあお金が右方面から出ているらしいので、そのあたりを巧妙に、バカにわかんないように仕掛けたわけなようで、まあその後はご存じの通り右方面の人が、実は天皇制を斬るという一番右翼的にやっちゃいけない事をやらかしているこの映画に踊りまくってしまったわけであるけれども、問題は、左翼の人もこの映画が理解できなかったことだろう。…だが、東條が絞首台に立つシーンすら映してくれず、映るのはインドのパール判事が「バカヤロー!」とか言いながら水ごりをするという謎のシーンであるというあたりも、何か東條に対する共感を妨げるやり方じゃないのかなあ、と右翼の人も思ったんじゃねーかという気がするが。
 ラストのトラックのシーンを見ると、何か黒澤明の「わが青春に悔いなし」のラストシーンで、組合のトラックに乗る原節子を彷彿とさせるのだが、なにしろこっちはインドだというあたり、何か監督自身の、日本の戦後に対する挫折感の表明になっているような気がしたりしたのであるが、ちょっとそれは深読みしすぎかも知れん。
 でもまあ、映画としてはそんなにオレ的には面白くもなかったが、ようはイデオロギー周辺を映画の評価に含むかどうかの問題なのだろう。そこも含めて言えばよくできた作品である。


《essay・11/29》DEAD OR ALIVE〜日本映画へのシャウト

 中野武蔵野ホールで「DEAD OR ALIVE〜犯罪者」を見る。超かっこよすぎる予告編を見て、こりゃ、よく知らないけど、香港ハードアクション系ノリが爆裂した脳天直撃映画か?と思って行ったのだが、ちょっとその思いこみには若干の修正が必要だった。これは自称「日本映画のテポドンミサイル」三池崇史監督が日本映画にブチ込む、シャウトのような映画だったのである。
 三池の映画的手腕は非常に熟達しており、いくらでも、テーマだのドラマだので、社会派やアートな方面のテイストに展開させることのできる力量を持っていることをハッキリ見せてくれるのだが、三池はそんな方面には進まない。いろいろな先行ジャンルの傑作、ラングの「ビッグ・ヒート」やら「ターミネーター2」やらへのオマージュも感じられるが、映画おたくが喜ぶサンプリングムービーにするつもりも彼には毛頭ない。
 では、どこへ行こうというのか?それは「娯楽」である。
 この映画の最後の見せ場は、"対決!哀川翔vs竹内力"という、Vシネ方面では珍しくもなんともないカードなのだが、それでも、あらんかぎりのケレンと火薬と見せ場をそこに投入する三池の執念はすごい。つまり、それが娯楽というものだ、という信念が感じられるのだ。「ブラック・レイン」ばりの無国籍都市として新宿を演出したり、在日中国人第二世代出身の犯罪者集団という社会派的ネタを出してきたり、墓そのものが埋め立てられた墓地という何か未来的な空間を出してきたり、すべての手練手管は、社会問題だの芸術だのに対する色気をまったく持つことなく、まっすぐラストの対決を盛り上げることにしかつながっていない。
 だから、見た後に何も残らないのである。
 だが…それこそが映画ではないか?
 このクソ根性からは、娯楽としての映画に賭ける心意気が聞こえてくるのである。ぶっちゃけた話、コラ日本映画!ヤーシブのミニシアターでアート気分に浸ってんのがイイトコなのか?もっとアツいものはねえのか!という叫びであると言えよう。…ってこれはオレの心の叫びか?
 だが、映画はどうかというと、ちょっとラストがねー(笑) 最近の「衝撃のラスト」流行に対して「バカヤロー!」とぶつけるカウンターパンチのような、ある意味反則な(いや、反則そのものか…?)「衝撃のラスト」なのだが、けっこうこれが賛否分かれると思う。
 オレとしては、やっぱそれはどうかと思うよ…って感じであった。が、「この映画の結末は、見ていない方にはお話にならないで下さい…つうか殺すぞ! 竹内力」というテロップを最後に流してくれたら拍手してたが。
アクションは燃えまくり。ボルボvsトヨタのカーアクションは超カッコイイっす。燃えまくります。後、出演陣もすごい。竹内力・哀川翔の他に、寺島進・ダンカン・大杉漣・田口トモロヲ・石橋蓮司・本田博太郎と、今出てほしい人はほとんど全部出ている。「梟の城」の百倍豪華キャストです。ってオレの物差しですが。


《essay・11/26》アメリカ映画の二つの告白。(承前)

 さて、美学から切り離された現代の「男」の途方に暮れた状況を描いた「バッファロー66」に対して、「シックス・センス」では誰が途方に暮れているのかといえば、それはあの母親である。あの家は母子家庭なわけだけれども、この家庭の風景は、これまでアメリカ映画で数限りなく見せられてきた離婚、訴訟、別居という過程を通して、最大限にミニマムになったなれの果て、という感じにみえる。
 このお母さん、とにかく子供の眼を見て話す。"HEY!HEY!"と言っては子供の眼を自分の眼に向けさせる。このお母さんは子供をしつけるのに暴力を使わないようにしようと頑張っているのだ。子供と自分とのコミュニケーションをダイレクトにしようと努力する上で、とにかくお互いに眼を見て話すことに気をつかうというのはとても説得力がある。
 その母親が医者に「子供を虐待してるんじゃないのか?」と疑われる時こそ、この映画のヤマの一つだ。彼女にとっては、この疑いこそ一番かけられたくない疑いであることを我々は知っているから。しかし、子供の腕には確かに虐待の痕にも見える傷がついている。この時、大きな悩みにとらわれる母親の気持ちに我々は最大限に同調する(‥‥とか言いながら、この映画の「秘密」は何かな〜と下手な探偵気分だったオレは、本当は虐待していた、というヒッチコック映画みたいな展開かと勘ぐってしまったが)。彼女の努力はまったくの無駄かもしれないのだ。子供は本当は心を開いてくれていないのかも知れない。自分がかつて母親に心を開いていなかったように。
 そんな彼女が、ラストで、愛されていないんじゃないかと思っていたあの世の母親が本当は自分を愛していたんだ、と自分の子供から知らされて涙するあのシーンの感動こそ、この映画が伝えたいものなのだ。「家族」の規範を失い、次々に起こる児童虐待のニュースに囲まれ(この映画の中にさえ実例が登場する)、どうしていいのか分からず途方に暮れている全米のシングル・マザーたちにとって、この映画は福音になったことだろう。言うなれば、「バッファロー66」は「男」を失った男が癒される話だったが、「シックス・センス」は「家族」を失った家族が、癒される話であったわけである。…まあ、その後の「衝撃のラスト」でその感興はフッ飛んじゃうわけだが…(笑)。
 とはいうものの、だからといってこの映画のウリが「衝撃のラスト」であることにイチャモンをつける気にはなれない。単に母子の関係を描く、という話では、ミニシアター系配給の映画になるほかあるまい。メジャー系で「当てる」には押しが足りないのである。そこで、本来このようなベーシックな人間関係を描いた話に、ゴースト・ストーリーと驚きのラストという娯楽映画として楽しめる要素をふんだんに盛り込み、誰もが映画館で楽しめる映画に仕立てた監督のカンの良さをこそ誉めるべきであろう。たしかに一見あざといやり方かも知れないが、前世紀的なハーレクイン・ロマンスを豪華客船の沈没と大量の人間の死というスペクタクルで粉飾した、ジェームス・キャメロンの戦法に比べれば、あまりにもフェアプレイである(オレとしては「タイタニック」も嫌いな映画ではないのだが…)。また、お母さんと子供とのシーンが、すごく日常的な雰囲気で撮られているのに対して、ウイリスと子供とのシーンには何かゴシックな、不穏な雰囲気があったあたりも、この監督の映像感覚の良さで、単に都合でゴースト・ストーリーを撮っているわけではないことが伺われるが、とはいうもののいかにも物欲しげな「個性的な画」なんか全然狙ってないあたり、ますますオレとしては好感度高い、ナイスな映画なのである。


《essay・11/25》アメリカ映画の二つの告白。

 メジャー系で大当たりの「シックス・センス」、ミニシアター系で大当たりの「バッファロー66」。この二本を見ていると、なんだか今のアメリカの人たちが何について自信が持てないのか、ということの告白を聞いているような気にさせられる。
 「バッファロー66」の、ヴィンセント・ギャロ演じる主人公は、「恋愛に不器用」を通り越して、ほとんど女の子に対してどう接したらいいのかすら分からないという男である。ボインボインの優しい女の子が、一緒にお風呂に入りたいとまで言ってるのに、「見るんじゃねー!」「さわんじゃねー!」。別にこれはギャロが「野暮天」なわけではない。たとえば、かつて高倉健さんが演じていたような「野暮天」とは、男の美学に準じているが故に女に対しては野暮でしかありえないのだった。だが、こいつの場合はまったく違う。彼には美学なんてものはありはしない。どこへ行ったらいいのか、何をしたらいいのかさっぱり分からず、家に帰ることもロクにできない…、そんな正真正銘の男の情けなさがスクリーンに展開している。 健さんは男の美学に準じて、生き場所も死に場所も「男として」決めていくことができたが、ギャロは生き場所や死に場所どころか、便所すら見つけられず、デニーズの洗面所で「生きられない」と一人泣くのである。そんな情けない男が無制限に優しい女の子の腕の中で胎児のように背中をまるめて眠る、そんなのがロマンスになる時代。
 これを、女性が強い時代になった反面の男の弱体化といったような、田嶋陽子が好きそうな解釈をしては的を外すことになるだろう。松岡錠司監督の「ベル・エポック」で筒井道隆君が「男は情けないものですよ」と語っていたが、美学をどっかに落としてきてしまった男、まさにハダカの状態で立たされた男というのは、けっこう情けない。基本的生命力が低い。ゲソゲソの体に山羊みたいな顔のギャロは、不敵な顔とボインボインの肉体を持ったリッチが実はこわいのである。で、そういった、男の美学にも頼れない、家族の愛にも頼れない、しまいには頼り方すら忘れてしまった、そういう途方に暮れた状況がこの映画からは漂ってきているように思うのだ。(この項続く)


《essay・11/24》レニ・リーフェンシュタールの「美の祭典」を観た。

ベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」は、第一部「民族の祭典」とこの第二部「美の祭典」で構成される、3時間にも及ぶ大作だ。
オレはスポーツにはあまり興味がない性分なので、3時間もスポーツ観戦するのは正直言って苦痛である。だが、監督リーフェンシュタールの好みはハッキリしており、どう考えてもテキトーに撮ったとしか思えぬ競技と、撮影に熱がこもりまくった競技の画作りが全然違っている。この「美の祭典」でも、ホッケーとかクリケットは、かなりテキトーに撮られている。
「民族の祭典」でこのノリはわかったので、こうしてテキトーに撮られた競技は早回ししてしまうことにした。当時日本が世界のトップクラスで大活躍だった水泳も、画としてはたいしたことないので、送る。サッカーもかなり流して撮られているが、優勝イタリア・チームの応援団が、いまどきと同様ものすごい熱狂しており、敵のラフプレーにブーイングとばしたりしているのだが、何しろ当時はファシスト政権、ブーイングとばしてるイタリア人もしっかり黒シャツ野郎なのが異様にこわく、面白い。実際のオリンピックでは、観客がフィールドに乱入する大騒動もあったらしい。画面からは伺い知れない部分であるが、リーフェンシュタールがどういったものを「自分の美的世界にそぐわない」と感じていたかがわかる。

素晴らしい見所は、開巻早々のオリンピック選手村の目覚め。朝靄の中を男子選手たちがランニングし、風呂に入ってお互いに洗いあう。文脈なしでこのシーンだけ見たら、ホモ映画かと思うほど、全裸男性同士の戯れが「美しく」描写される。ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」のナチ美学への皮肉を逆照射してくれる、意味深いシーンだ。
近代五種のピストル射撃のシーンは、ドイツの選手だけ異様にかっこよく、今まで見たあらゆる西部劇の射撃ポーズを超えたかっこよさである。ヤバい。
女子・男子の跳び板跳び込みシーンは「美の祭典」の象徴ともいえる美しさで、しなやかなシェイプの選手たちが華麗なポーズで空中を舞う姿がスローモーションで映し出されるシーンは本当にためいきもの。しかもそれが編集で次々と連続して提示されるシークエンスは、完全にファンタジーの世界に突入している。
閉会式はすごい。夕闇の空にサーチライトの列がどこまでも上にのび、それが空のある一点に集中して、「光のドーム」を作り出す。本当にこうするとこんな効果が生まれるのだろうか?オリンピックの記録映画を見ているとは思えない、宇宙的な気分にさせられる圧倒的なシーンだ。

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