3.日本における有翼の幼児たち


 日本に直接こうした図像が流入した最初は、イエズス会の宣教師が持参した教化用の銅版画であろう。

ここにあげた一枚には十字架上のキリストのまわりに有翼の幼児が飛び回っており、クピド形の天使である事が推察される(衣をまとっているのは、イエズス会がいたずらな裸体の露出を嫌う傾向にあったためだろう)。こうした銅版画がどれだけ日本で流布したかは分からないが、かなり大量に輸入されてはいたようである。もちろんこれらはキリシタン禁制によって隠されるようになっていくわけだが、この有翼の幼児がキリスト教と不可分のものであるとは考えられていなかったと思われる。というのは、江戸期に描かれた絵のいくつかに有翼の幼児像が登場するからである。
 ひとつは司馬江漢がオランダ通詞の吉雄幸作に贈った幸作の肖像画で、神格化の手法として天使を描いている、と日本美術史学者のT・スクリーチは解説している(タイモン・スクリーチ「大江戸視覚革命」(作品社)36〜40ページ。)が、いかにオランダ通詞が相手とはいえ、キリシタンの天使図像と知っていて肖像画に書き込むという危険を司馬江漢が犯したであろうか、という点は疑問である。司馬は有翼の幼児を描き込むことが西洋的な神格化の手法であったことは知っていたが、これが天使であることは知らなかったか、あるいは当時、有翼の幼児がキリスト教と関係あるという事は日本人に知られていなかったと見るべきではないかと思う。
 田沼意次と関係深い司馬江漢とライバル関係にあったのが、松平定信に庇護を受けていた亜欧堂田善である。田善もまた西欧画を学び、西欧画の手法を活用した洋風版画を多く残しているが、その一つに「アツケル女神像」という版画がある。

その上方には確かに有翼かつ裸体の幼児が登場しているが、これはローマ神話の釣鐘草の女神の絵画ということで、これまたキリスト教との関連は考えられていなかったようだ。だからといって田善がクピドというものを知っていたかどうかはまた疑問であるが。
 荒俣氏は江戸中期から明治にいたるまでの天使図像受容の諸相を以下のように記している。

「日本人が天使の像に初めて触れたのは(中略)江戸中期の平戸藩主松浦静山の大著『甲子夜話(かっしやわ)』であろう。静山は、なんと!羽根が生えた天狗の像は西洋の天使の姿を借りて生じたものだ、と主張した。(中略)しかし明治になると、『クピド』が書物や建物の装飾に使われだす。明治5年に刊行された東京日日新聞(やまと新聞社)は、錦絵一勇斎芳幾の筆になる『クピド』を開板広告から使いだし、毎号のカルトゥーシュ(りぼん形の飾り縁)にもこれをあしらうのだ」

ということで、明治時代にいたると東京日日新聞の新聞広告に有翼の幼児像が登場してきたという事が分かる。ここに一枚あげるのは新聞そのものではなく、高橋克彦「新聞錦絵の世界」(角川文庫ソフィア)から引用した新聞錦絵だが、画面上方に「東京日日新聞」のタイトルを両側から支え持つ有翼全裸の幼児が見える。新聞錦絵は、刊行まもない頃の新聞の内容を、文字をあまり読めない人々のために解説するべく刷られた浮世絵ニュースといったものだが、残酷な情痴殺人を報じるショッキングな絵に、愛の神クピドがあしらわれている様はなかなかの奇観といえるだろう。
 もう一つぜひあげておきたい例があるのだが、私の田舎(ちなみに新潟である)で発見した日露戦争の画報「日露戦争写真画報」第二巻(博文館発行)の一コーナー「戦時お伽噺」にあしらわれたカットである。

「海底軍艦」で有名な日本の冒険小説作家押川春浪が戦地の小話を書いているこのコーナーに捧げられたカットには、明らかに鳥の翼を生やした幼児が登場しているが、体は裸ながらも軍帽をかぶり、帯刀しているのがわかる。また、翼が生えているのだから要らないはずの馬にまでまたがっているが、これはどうも玩具であるようだ。クピドは弓矢といったアトリビュートを捨て、軍装を身にまとうようにすらなっているのだが、これは新聞錦絵などにクピドの図像が使われていたことから、どうもジャーナリズム的内容に対する添え物としての有翼の幼児像が一種の定式と化しており、天使とか愛の神といった意味内容がほとんど考えられることがなかったために、こんな全く不似合いと思われるようなところにまで顔を出すに至ったのだと考えられる。
 この有翼の幼児像は明治期に一体何者だと捉えられていたのか、という点については当時のジャーナリスト宮武外骨の記述がある。やはり荒俣氏の書から孫引きで恐縮だが引用しておく。「エンゼルというものを、わが国の画家も書くようになったのは、いつ頃からかと思っていたところ、明治八年十月、大阪で創刊せられた錦画百事新聞の引札に、もうそれが描かれていた。尤もそれは蝶々の羽根をつけないで、鳥の羽をつけた、ややぶざまな格好をしているが、画家は勿論エンゼルとして書いたのに違いない」(「東天紅」より)大阪の百事新聞より東京日日新聞の方が古いのだが、ここではとりあえずあの有翼の幼児像は「エンゼル」と認識されていた事が確認できる。

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