Sandro Botticelli(1445-1510)


サンドロ・ボッティチェリ

1.生涯における3つの時期

 ボッティチェリの生涯と芸術を考えるにあたっては、これを3つの時期に分けて考えることができる。ひとつめは師フラ・フィリッポ・リッピの工房における徒弟修行を経て、当時の美術界の先駆的人物たちの影響を受けつつ自らの作風を形成していった初期、ふたつめはメディチ家の庇護のもとにあって、新プラトン主義哲学の影響をうけながら異教的テーマを中心に描いていった中期、みっつめはドメニコ派修道僧ジロラモ・サヴォナローラの出現とそのフィレンツェ支配にあたって、異教的テーマの絵をやめてサヴォナローラの説教に強く影響を受けたテーマをとりあげた後期である。
 ここには一つの偉大な才能が蕾から大きく華麗に花咲いたのち、挫折を経験して、内省的な不安をたたえた作風へと推移するに至るまで、という物語を見ることもできるが、注意するべきは彼の作風には生涯かわらない特徴もちゃんとあったということである。彼は一貫して背景にあまり多くの興味を抱かず、人物描写に心血を注いだ。また、その人物の顔の描写にいたっては、内向的で深い悲しみをたたえたような表情が多く、これはボッティチェリの絵のメランコリックな面とされ、彼をマニエリスム絵画の遠い先祖であるとする論に根拠を与えている。

2.初期

 ボッティチェリがその師であるフラ・フィリッポ・リッピから受け継いだものは主に顔の表現に見ることができるとされるが、さらに大きく影響を受けたのはヴェロッキオポライウォーロ兄弟という当時の美術界における名画家たちだった。ヴェロッキオはルネサンス絵画の開祖とも言われるマザッチオの特徴である量感豊かな描写と大気に溶けるように自然な質感を感じさせる色彩を復活させた(これらはリッピの作風からは失われていた)とされ、ボッティチェリもその色彩の使い方に大きく影響を受けた。
いっぽうポライウォーロ兄弟の兄アントニオ・デル・ポライウォーロは最初に人体の解剖をおこなった画家である(ヴァザーリ)人物であり、その人体描写における迫真性、力強さの表現は当代一であった。ボッティチェリの作品においてこのポライウォーロの強い影響が出ているとされるのは「剛毅」と呼ばれる作品であるが、ここにはポライウォーロの特質である肉体描写の迫真性とともに、ヴェロッキオに特徴的な服の表現なども見られ、これらの画家からボッティチェリが受けた影響の大きさをものがたっている。
 また、ポライウォーロは「聖セバスティアヌスの殉教」において、同じポーズの射手を違う角度から複数描くということをやっているが、ボッティチェリもまた後年の「東方三博士の礼拝」においてこれと似た方法を用いて人物を書いていることからみても、ポライウォーロから受けたボッティチェリの影響の大きさを考えることができるだろう。

3.中期

 ボッティチェリはやがて、フィレンツェを支配するメディチ家のために絵を描くようになる。1470-74年ころに描かれた「東方三博士(マギ)の礼拝」では、メディチ家の歴代支配者、コジモ、ピエロ、ロレンツォを登場人物として描き込み、また、当時ロレンツォの庇護のもとで盛期にあったプラトン・アカデミーの哲学者たち(ポリツィアーノ、ピコ・デッラ・ミランドラ)をロレンツォのそばに配置して描き込んでいる。ここには、「権力者」としての自分と同時に、「フィレンツェ学問・芸術のパトロン」としての自分を印象づけたいというロレンツォの指示によるものだと考えられている。  ロレンツォはこの後、ボッカチオの「デカメロン」に材をとった連作123をボッティチェリに描かせるが、それよりもこの時期のボッティチェリを代表する作品といえば「春<プリマヴェーラ>」「ヴィーナスの誕生」の2作品であろう。これはメディチ家の分家筋にあたるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの依頼によって描かれたもので、ボッティチェリの最も有名であるとともに、最も異教的なテーマによる絵である。この2作に関しては古来から多くの論議がなされてきたが、これがマルシリオ・フィチーノやピコ・デラ・ミランドラによって流布した新プラトン主義哲学に大きく影響されたものであることは間違いない。
なお、「プリマヴェーラ」とは作者自身の命名によるものではなく、ヴァザーリが「芸術家列伝」中で「春を描いたものである」と書き記したことによるタイトルである。この後、ピエルフランチェスコ・ディ・メディチの依頼によって「パラスとケンタウロス」が描かれるが、これもまた「知性(パラス)が本能(ケンタウロス)を征服する」という異教的、新プラトン主義哲学的な内容を絵画化したものであった。

4.後期

 ドメニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラの登場がフィレンツェに与えた影響は大きかった。彼は過激な説教によって異教趣味をことごとく攻撃し、この罪によってフィレンツェには神罰が下ると説いた。心酔する者が次々と現れ、サヴォナローラは彼らの支持によってフィレンツェに神権政治をしくに至ったのである。サヴォナローラとボッティチェリの関係についてヴァザーリは「当時の言い方によれば<ピアニョーネ>(サヴォナローラの一味)となり、作品は顧みず、そのため、ついに晩年歳をとってからは大変貧しくなった」と記して、サヴォナローラへのボッティチェリの心酔ぶりを記している。
 事実、異教的主題やそれに基づく裸体表現に対してサヴォナローラが向けたきびしい非難は画家たちの作風に大きな変化をもたらした。ボッティチェリの絵に登場するものたちは裸から衣をまとうようになり、画のテーマもカトリック的なものばかりとなる。「神秘の磔刑」には神罰を受けるフィレンツェが、天使のむち打つライオンとして象徴され、サヴォナローラの説教を絵であらわしたものとなっていたりする。
 しかしながらボッティチェリが本当にサヴォナローラの狂熱的な信奉者であったかどうか、今日では異論が唱えられている。たしかにこの時期のボッティチェリには社会情勢の不安、特にすぐそこにまで迫っていると説かれた「世界の終わり」への恐怖が影を落としていたが、それはサヴォナローラひとりによって左右されるものではなかったのではないか。ボッティチェリが実際にはサヴォナローラの反対派からの画の注文もよく受けており、こうした事実は彼がヴァザーリの記すよりはずっと自由な立場にいたことを証明するものといえそうだ。

5.まとめ

 以上ボッティチェリの生涯と作風の傾向を3つの時期に分けて記述してきたが、これらの事から印象深く感じるのは、彼がその生きた時代それぞれのテクニックの先端、そして思想の先端という両軸によく心を配り、絵画の中にそこから得たものを塗り込めていくことができた、するどい感受性と豊かな表現力の持ち主であったということである。これを「表現者としての自己の発展について意欲的だった」と捉えては、近代の価値基準から過去の作品を論じてしまう、という弊を犯すことになる(当時の画家は一種の職人であり、現代における「芸術家」という立場とは違った社会的立場と信条を持っていたはずである)が、少なくとも彼は注文者の欲するところを先回りしてしまうくらいに、こうした諸々の流行に敏感であったことはたしかだ。またその表現には、ボッティチェリその人にしか描くことのできない、技術力を超越した「美」があったことも確かであり、それゆえに彼の絵画は時代をこえて我々がもっとも愛するルネサンス絵画となっている。ボッティチェリはおそらく自らはそれと知らずして超時代性を獲得してしまった、幸運な画家であったと言えるかもしれない。

参考文献: イタリア・ルネサンスの巨匠たち14「ボッティチェリ」(東京書籍) 高階秀爾「ルネサンスの光と闇」(中公文庫)
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