2003.06.28
outsider reflexの2003/06の Past topicsの28th dayより。
法は弱者が強者に対抗するために使えるけれど、強者が弱者をやりこめるのにも使える。法は弱者のための物と言うよりも、誰でも使える物という気がする。つまり何が言いたいかというと、攻撃力+50のアイテムは攻撃力0の弱者を攻撃力50の強者と同レベルの強さにしてくれる(0+50=50)けれど、攻撃力50の強者にも等しく力を与えてくれる(50+50=100)から、差は縮まらない(0−50=50−100)なあ、と。思ったのはそれだけです。
法は,強者だろうが弱者だろうが,正しい者の味方であればそれでいいと思うのです。
善人の味方であれ,と無茶を言うつもりはありません。ただ立法の趣旨に則った者の味方が出来ない法なんて意味がない。
立法の趣旨が弱者保護なら弱者の味方でなければならないし,逆に強者優遇の法ならば強者の味方でなければならない,と。
で,遡ってWind Report - 2003年月旬 [QUIA]の6/26(木)の押し付け国際法論より。
「法とは強者の意思のことだ」と喝破した哲学者も古代ギリシアにはいましたが(ゴルギアスでしたっけ)、基本的には法は弱者のためのものです。強者に法は必要ありません。何か気に食わないことがあったなら、腕力にものを言わせればよいのですから<!--(某国のように)-->。腕力に頼ることができないからこそ、弱者は理屈と規則によって救済を求めるのです。そういう意味で言えば、国際法は20世紀中葉に至ってようやくその真価を発揮してきたと言えるでせう。
国際法は20世紀中葉に至ってようやくその真価を発揮してきた
というよりは,(某国のような)強者が弱者保護に価値を見いだしはじめた,ってことではないでしょうか。まぁ,打算はあるンでしょうが,強者の意思が「弱者救済」であれば,作られた法も弱者のためのもの
になるでしょうから。
それはそれとして,最近の国内での立法の傾向としては,強者優遇の税法と,弱者救済の福祉法ばかりで,中間層が圧迫されているなぁ,とは思います。
2003.06.23
先に挙げた[see あらためてwebでの議論]一連の文書を読んでて,一番笑ったのが最近のもの。2003/06/21はどんな日?より。
「議論とはそれぞれの考えを述べて論じあうこと」と辭書まで引いたら、複數の人間が行ふことであるのは自明ではないですか
まいりましたね。その『自明』とか『当然』とか『当り前』とかいうものが物事を明らかにする上で一番不明確だから(とくに私は辞書には載ってない「仕方」について聞いていますし)、ズレがありませんよねという確認で聞いているんですが。
それぞれの考えを述べて論じあうこと
は複數の人間が行ふこと
と考えるのが不明確
ってのもすごいなぁ。
よく議論をはぐらかそうとして,『自明』とか『当然』とか『当り前』とか
って言って説明をしないテクニックは見るけど,ちゃんと説明されているものに対して説明を求めて,議論を終わらせようとするのも珍しい気がした。
というか,なんとなくだけど,間寛平のなんでじゃ。誰がじゃ。どうしてじゃ。
っていうギャグを彷彿させて笑えた。このギャグも,高校時代に教師を怒らせて授業を中止させるために作ったものらしいし。
2003.06.23
先の文章[see webでの議論]は,列記した文章を作成者ごとにまとめ読みした感想だったンで,時系列に読み直してみた。ついでに,読み直ししやすいようにリスト化して,ここへの感想も書いとく。やたら長くなるな。書きたりないのがある(特に天衣無縫な日々の6月9日過ぎで)けど,今日は酔っぱらっているので勘弁。あとで,書き足します。
#2 公開交換日記(サーバ管理者日誌の2003年05月26日(月))より。
ウェブ日記は議論に向かないメディアだとは思うのですが、お互いにインスピレーションを得るには良いメディアな気がします。
〇 ウェブ日記は議論に向かないメディア?(天衣無縫な日々の2003-05-27)。
議論はともかく,ウェブ日記というメディアは,ディベート(=相手をやり込めるためにする議論)には向かないと思うけど,対してブレインストーミングのためにする議論には適していると思う,って意見。そのこころは,ウェブ日記は発言の改変が可能である上,議事録の一覧性に乏しい,結論をまとめる人が通常は不在であるなどの理由により,最後まで議論が続かずにフレームとなってしまい,収束してしまう場合が多い
から。
#02 Web日記は議論に向かない?(りとる・ろまんすの○ 2003年05月27日(火曜日)の日記 ; その02にゃーの♪)で,前述のディベートに向かない旨への感想。
掲示板と違って、moderatorが存在しませんからね。おたがい自分の土俵に持ち込もうとして平行線のままで収束とか。
<!--
それを、某正字正仮名のエラい(not偉い)ひと、とのやりとりで実感。-->
ウェブ日記は議論に向かないメディア(ひとりごちるの5月28日(水曜日))で,前述のディベートに向かない旨への感想。
WEB日記の議論が議論にならないまま終る理由は、書き手の責任でしかないでせう。メディアの責任にしてどうしますか。
モデレーターがゐなければ議論ができないといふのはそもそも議論が何なのかを判つてゐない人間の放言でしかありません。
興味深いのは,最後のところ。まぁ,前段はともかく,後段は,この段階では論旨とは全然関係ない話ではあったのだけれど。
メディアごときで議論が可能不可能と論ずること自體に發想が逆だと思ひます。議論がやりにくいのなら議論がやりやすいやうにメディアとそれを支えるツールが變るのが當り前で、メディアとツールに責任を押しつけて議論できないとするのは順序がをかしいでせう。まあ、そういふ方向にメディアとツールが變らなかつたこと自體が、WEB日記を書く人の無自覺を示すものでせうけど。
もう一歩進めると、意見を感想に見せかけることで發言した責任から逃れたい願望があるのではないかとも思つてゐますが、それに關聯したことは一昨日の日記のコメントに嫌と云ふほど書いたので省略します。
このコメントとは,別件でWhite's Free Talk宛てに書かれたもので,次のようなもの。
野嵜さん(5/26)に同意。
<--
これだけでは要らぬ誤解をされるだらうので眞面目に書いておく。指摘された時に「コメントを見よ」としよう。理由は面倒だから。-->
<--
「特定の条件」と持ち出されてゐますが、その條件においても「誠實」であると云へません。それは役割に「忠實」なだけです。それを敢て變へてゐるのだから「再定義」と呼ぶことは妥當でせう。確かにそれが正しいかどうかを眞摯に檢討することは誠實ですが、それがはつきりしない内から「原因はかうだ」と口走れば不誠實です。勿論「可能性を示しただけ」と抗辯することもできますが、元々の前提自體がをかしな論であり、しかも關聯のないものを關聯のあるやうに書いてゐるのですから、批判されるのは不可思議なことではないでせう。
メアキをメクラと呼ぶからにはそれなりに根據はあるのでせうね。Whiteさんが「人間は誤ちを犯す生物である」ことを持ち出して貰つてもそれはそれで構ひませんが、「江洲が解釋を施す際に誤りがあつた」と指摘すれば濟むことなので具體的に示して下さい。
私の主張なんて單純なもので「與太にかこつけてアレを議論と呼ぶな」です。あとは「議論したいのならばやるべきことがあるだらう」とも書いてゐます。前者は前回詳しく書いたので略します。後者については詳しく書くまでもないと思ひますが念の爲に。
議論をするといふことは、必ず「相手」がゐます。だから相手を無視して勝手に「思考實驗」を始めたり、意見の相違を主觀の違ひだと騷いだり、まして議論そのものを破壞することは誠實な態度ではありません。
ここまでは讀めてゐるとは思ひます。が、その後に何を書きましたか?「盲目状態になるのは私だけではあるまい」と言葉を濁してゐませんでしたか?餘談などと書いてゐますが、「盲目の彼方から」などといふ題を付けるくらゐですから、これが本音でせう。「自分だけが惡くはないだらう」としてゐるのです。暗に私にも問題があらうと、ほのめかしてゐる譯です。
ほとんど完全にこちらの主張が通つてゐるのに、根據も示さずに「どちらも惡いよね」と書く行爲はさて、誠實ですか?氛圍氣だけの胡麻化しとしか思へませんが。
だから「素直に認めず私にまで非があるやうに書くのは何故か」と考へ、Whiteさんの文章を分析して「要するに責任を逃がれたいだけ」と結論したのです。私が惡意をもつて讀むからだと非難される謂れはないでせう。原因は完全にWhiteさんにあります。
どうも議論と云ひつつ、己の分が惡くなると論理でなく氛圍氣で胡麻化さうとする人が多過ぎませんかね?或は、安全なところから云ひたいだけ云ふ人が多過ぎませんかね?
-->
正直,後から読み始めた者の感想としては,この発言が今回の論争の全てを物語っている気がしてならない。
そういう意味でも,この発言がコメント宣言で書かれたことを惜しく思う。
#02.01 それは違う及び#02.02 正直(りとる・ろまんすの○ 2003年05月27日(火曜日)の日記 ; その02にゃーの♪)より,江洲さんへの反論。
確かにそうではあるが…できなくはないが、無駄な労力が多くなるからあまり向いていないのでは?と私は思う、とコメントしてみる。
このへんの話はあんまり興味ないので終了。
ただ一言。web日記で議論する気は起きない、というのが俺の思想。
<!--
【謎memo - 個人用】
- 人間側が受けて立つ用意があるか
- 単に叩きたいだけたとか(殴り込みとか)
- 論破というか、相手をねじ伏せること自体が目的とかそういうのは別?
- おなかすいた。
-->
何をもって無駄としているのか判らないけど,文章での議論を紙ベースではなくHTML文書でやるだけでしょ。無駄な労力なんてありますかね。
まぁ,文章を書く,という労力はかかるけど,話すより楽な人もいるわけで。文章書くのが苦手な人には辛いのかもね。
☆そういえば(某日記の平成15年5月28日(水曜日))。基本的なスタンスとしては〇 ウェブ日記は議論に向かないメディア?のそれとほぼ同じだけど,内容は議論に適するメディアについてではなく,web上で文章を公開する,web上の文章を読むための心構えみたいな感じかな。
〇 続・ウェブ日記は議論に向かないメディア?(天衣無縫な日々の2003-05-28)。
基本的には江洲さんのウェブ日記は議論に向かないメディアに対して同意見といっているが,その割に「ディベートに向かない」と書いたのは,そうなってしまい易いというメディアの特性があるんじゃないかというだけです
と,やっぱりメディアの所為でしょうといっている。この時点で塩崎さんの記述がわりと僕の言いたいことに近い
にはあたらない気もするが,もしかしたら心構え的なことを言いたいのなら近い気もする。
ただ,後段で興味深い話があった。
ふと興味を覚えたことが,「ウェブ日記でディベートを成立させるためには,どういうことに注意すべきか」
一つは「議論参加者全員が論点をきちんと把握すること」
もう一つは「議論のために議論をしないこと」
思いついたのはこの2つだけだけど,他にもまだあると思う.なんかこれというのがあったら是非教えてください.
この方向で話がすすめば面白かったのに。
ちなみに,ディベートに限らず,議論参加者全員が論点をきちんと把握すること
よりも,第三者にも論点が判り易い文章を書くことが大事だと思います。それと,議論のための議論ってよく聞く言葉ですが,具体的にどういうものなのかよくわからんのですが。揚げ足取りのことかな?
WEB日記は議論向きのメディアか?(webnikkimediaに関する記述の2003/05/28)
江洲さんのウェブ日記は議論に向かないメディアを読んで,『議論になるかならないか』は個人によるものという結論でかまわないと思いますが、『議論に向いてるメディアかどうか』はそれとは別に考察してみる価値があるのではないかと思います
という意見。ある意味,江洲さんの議論がやりにくいのなら議論がやりやすいやうにメディアとそれを支えるツールが變るのが當り前
という意見と真っ向対立している。まぁ,この文章は前提条件を書いただけの途中までで,論旨は別の日に書くつもりだったなら判らないけど。
内容は先に書いた[see webでの議論]とおり,会話によるものと,文章によるもの,どちらの方が議論が成り立ちやすいか(で語弊があるなら有益な議論になるか,かな),ってことをweb日記をダシにして会話によるもののほうがいいよね
って主張している感じ。まぁこの段階では,web日記での議論はお互いに確認し合いづらいよね,って感じですが。
メディアのこと(ひとりごちるの5月29日(木曜日) )より。
メディアと議論未滿のことは分けます
どうにもWEB日記の議論が議論にならないまま終る理由は、書き手の責任でしかないでせう
という話が反応に反映されないので,議論を分けたらしい。
で,私も後半で不用意に「ディベート」といふ言葉を引用したのがいけなかつたのですが、基本的に「議論」は相手の意見を打ち負かすために行はれるものではありません
ということで議論について規程のしなおし。これまで〇 ウェブ日記は議論に向かないメディア?や〇 続・ウェブ日記は議論に向かないメディア?においてkoyasuさんが語っていたディベートについての話と,江洲さんのウェブ日記は議論に向かないメディアでは前提認識が違う旨の表明。その上で,ディベートについてkoyasuさんやWEB日記は議論向きのメディアか?でみんさんが揚げた問題点については,江洲さんが語っていた「議論」では問題点にはならない旨を指摘。
議論相手の感情を多く傳へることが論理的といふのも變な話だと思ひます。論理性を重視するのならばリアルタイム性を追及して結論を急がずに、時間をかけてじつくりと議論したはうが實りが多さうですが、どうでせうかねえ。その指摘にある「情報」は議論に必要な論理ではなく別のモノなんだから、缺けてゐたはうがより良い結論が得られるやうに思へるのです。
さらに,HTMLでのcite属性等による参考文書とのリンクは,他のメディアにはない利点である旨指摘。
ちなみに余談ですが,私は先にWEB日記が他メディアに対して優位である点でHTMLであることをあげていますが、これはHTMLであることよりも『参照が容易なハイパーリンクがあること』、ですよね?
というみんさんの記述を読んだので,HTMLの利点ってリンクのことじゃなくて意味付けのことだろう,と勝手に思ってました。リンクより何より,意味付けされていることで,相手に理解し易くなり,結果として議論がしやすくなる,と思っているので。
WEB日記というメディア(2)(webnikkimediaに関する記述の2003/05/29)。
リアルタイム性は『拙速にしてその場で結論を出すこと』という意味では使ってません。『必要なタイミングで割り込みをかけていける』という意味で使ってます。じっくり時間をかけて自分の中で考察する時間も時に必要ですから、宿題という形で持ち替えって資料を用意する、大いにけっこうです。
しかし、この方法は、互いの問題点・説得材料が明確になった場合には有効ですが、もし明確にならないまま行えば、誤解したまま文章が続くというリスクを内包します。その結果、相手に不必要なことを書いたり、必要なことが書かれなかったりして、互いの時間を浪費するという結果にもなりかねません。
このリスクを内包していることが果して議論するメディアとして適切であるか。私はそうは思えません。
この辺,江洲さんが揚げた議論についての定義が生きていない気がする。誤解したまま文章が続く
というのは,別の可能性の検討に他ならないので,不必要なこととは思わない。誤解があれば指摘し,軌道修正すればいいだけだ。軌道修正するまでに行った思考とその結果を,無駄にするか糧にするかは自分の問題。
文章による議論に即時性がないのは当然のこと。だから,即決が必要な事項については会議なりを開いて決めるのだ。しかし,即決が必要ではない議論でのデメリットにはならない。
今すぐ必要な書類は船便で送ったりはしないでFAXで取り寄せるわけで,もし,即時性が必要な事項について文章による議論をしていたのなら,それはそもそもやり方の誤り。
短時間で結論を出さなければいけない議論(なんてあるのか?)では,という限定条件の中でならば文章での議論は向かないね,としか反応しようがない。
〇 続々・ウェブ日記は議論に向かないメディア?(天衣無縫な日々の2003-05-30)
そもそも,議論慣れした人同士の議論であるなら,メディアによらずに議論を成立させられるはずで,それならそれぞれが発言しやすいメディアであるウェブ日記という選択肢は多いにアリだと思います.しかも相手の発言にリンクで参照することが出来るというのも利点になるでしょう.しかし,同じことは2chのような掲示板でも出来ます.その上議論の一覧性と実時間応答性という面で掲示板の方が能力が高いので,ウェブ日記は掲示板より議論に向かないという結論を導くことが出来ます.こう書くと一覧性や実時間応答性がどれだけ重要なのかと言われそうですが,一覧性は議論の流れの追いやすさに,実時間応答性は議論のテンポに影響してくるので,それぞれ性能が高いほど議論がしやすい環境であると言えます.
これは,江洲さんの議論がやりにくいのなら議論がやりやすいやうにメディアとそれを支えるツールが變るのが當り前
って意見への支援ですね。まぁ,2ちゃんねるに書き込みするより,自分のサイトで意味付けもちゃんとしたHTML文書にしたためた方が正確性も保存性も優れているとは思うけど,まぁその辺は,議論の内容によるのでしょう。
「ブレインストーミング」の話ですが,僕の思うこれの定義はえすさんの言う議論,つまり『相手の意見を受け入れる、取り込む、別次元の問題として切り分ける、或は完全に對立したまま議論が終つても良い』にそれぞれの意見が論理的でなくても良いというのをプラスしたようなものになると思います.
えっと,つまりは語っている対象が全然違うものってことの確認なのかな。koyasuさんの語っているものと,江洲さんが定義して語っているものとは別らしい。つまりは,論点が違って当たり前と言う話か。
闇黒日記の平成十五年五月三十日より。
「ウェブ日記」で議論は出來るか、と云ふ議論が起つてゐるやうだけれども、そもそも日本には「議論をする」文化が無かつたのだと云ふ事を良く認識しておかなければならない。はつきり言つて普通の日本人に、議論など出來たものではない。
もし日本人が議論をするのなら、議論と云ふ事を意識的に行ふ必要がある。もしそれを出來るのならば、メディアは關係ない。
「メディア」から「議論未滿」へ及び議論未滿(ひとりごちるの6月2日(月曜日))より。
先にWEB日記が
「議論に向かない」と云へるほどのマイナス點はない述べた通り、これはメディアの問題ではなく書き手の問題であると主張しました。これに對しての反論は「他のメディアの方が議論に向いてゐる」といふ主旨のものでした。
江洲さんから,議論として成り立ってませんよね,って指摘。
ただ後段,議論とは外れた。というか,切れたみたい。
何故二方ともがWEB日記での議論に必要以上に否定的な、勿論「議論は可能だが、……」と難點を擧げ續けるのも否定的と見倣してですが、必要以上に否定的な見解を述べ「議論向けのメディアがあること」を盛んに指摘するのでせうか。單に勘違ひといふのならば二人揃つてといふのが不自然です。ここに「議論未滿」の要素があるのです。
理由は簡單です。他人に讀まれることに無自覺に日記を書いてゐるから、そこに他人からとやかく云はれるのを嫌つてゐるのです。
この部分については後にこの斷定は誤りです。彼らの眞意は別にありました
と江洲さんから謝罪が入っている。
まぁ,このあたりは議論とは離れちゃっているので,割とどうでもいい部分。ただ,最後段に興味深い記述がある。
我々は論點があるから議論をするわけで、議論がしたいがために議論をするわけではありません。そして、論點はWEB日記にも存在します。それは先に書いた通り。ならば、WEB日記で議論が起らないことはありえません。一部の日記では、豫め「議論はしない」と云ひつつ意見を述べたり、「議論したくない」と云ひつつコメントに意見を埋めたりと、傍目から見れば甘えてゐるやうにしか見えない行動をしてゐる方もをりますが、さういふ態度でゐられるのは身内だけの話でせう。全世界を身内で固められるのならば不可能ではないのでせうが、それは無理でせう。となると相當の注意を拂つて文章を書き、議論になつたら眞摯に應へられるやうにするのが筋でせう。ですが、WEB日記の書き手でかういふ意識を持つてゐる割合は、かなり少ないのではないですか?
闇黒日記の平成十五年六月二日より。
この人たちの間で議論が成立つてゐると言へるのかどうか、甚だ疑問。
〇 ウェブ日記は議論に向かないメディア?・4(天衣無縫な日々の2003-06-02)より。
メディアの優劣は論じていないって少なくともみんさんは初めから優劣を論じていたはずですし,僕もそのつもりで反応したんですが…
ここまでの流れを見る限り,それはkoyasuさんの勘違いとしか謂いようがない。そもそも江洲さんはメディアごときで議論が可能不可能と論ずること自體に發想が逆だと思ひます
という論を書いていて,みんさんが書いた『議論になるかならないか』は個人によるものという結論でかまわないと思いますが、『議論に向いてるメディアかどうか』はそれとは別に考察してみる価値があるのではないかと思います
という考えに意味はないという意見なンだから。
この後に続いてkoyasuさんははっきり言って故意に論点をずらしているんじゃないかという疑念を持っています
と書いていて,前述の江洲さんが感じていたものと同じ疑念をお互いに抱いていたってことらしい。これじゃあ,論点が合うわけがない。ちなみに,この疑念部分については,江洲さん同様,後に削除されている。
で,あとは誤解に基づく愚痴というかなんと謂うかなので割愛。
で,このあと闇黒日記での指摘に対して,確かにえすさんの立場から見ればそういう捉え方も出来ますね.切り捨てようと主張したつもりは全くないんですが
とのこと。これで,立場の違いとかそういう問題かどうかは置いとくとしても,論点がずれていた事は確認できたみたい。というか,論点のズレは5月30日の〇 続々・ウェブ日記は議論に向かないメディア?の時点でわかったんじゃないンだ。ではあれはどういうつもりの文章だったんだろう。単に,話すならこの話題について話したい,って意思表示だったのかな?
#しかし,どんなメディアを使ってようと,議論すること自体が難しいんじゃないかと思った今日この頃…
えっと,だから江洲さんが初めから人の問題だと謂っているのではないかと......
補足(ひとりごちるの6月2日(月曜日))より。
私は最初からメディアの問題ではないと主張してゐた爲、少くとも「メディアの優劣」にはさほど興味がなかつたのです。それよりも、何故WEB日記が議論に向かないと「される」のか?が大きな問題だからです。むしろ反論がメディアの優劣のみに終始した爲、「メディアの優劣を主張してゐる譯でもないのに、何故それに拘るのだらう」と考へてゐました。
僕の方も最初の反応で本来の主張とは関係ないメディア云々に拘ってしまったという面がありますし,論点がずれてしまったことについてはむしろ僕の方に責任があります.
というわけで,江洲さんが提議したメディアの問題ではないという論点については,特に異議もなく収束。
闇黒日記の平成十五年六月四日で,まとめ。
更にkoyasuさんが提議していたブレインストーミングには適するメディアという論点について,改めて疑問を提示。
- 「ウェブ日記」のコミュニケーションは、常にブレインストーミングをしてゐると云ふ感覺に基くのが良い。その方が氣樂だから。
これには同意出來ない。
Koyasu氏は、「ウェブ日記」は
「ブレインストーミングに向いている」と言つてゐる。向いているのが事實かどうかは知らない。ただ、向いているからと言つて、だから「ブレインストーミングしかしてはならない」と云ふ結論は出せない。ブレインストーミングが出來るからと言つて、議論が出來ない譯ではないし、それはKoyasu氏も認めてゐる。だが、Koyasu氏は、ブレインストーミング的な感覺が「ウェブ日記」を書く時に常に持つてゐて良い感覺である、と主張してゐるやうに讀める。もしさうでないとしたら申し譯ない話だが、Koyasu氏の文章は「ブレインストーミング的感覺に基く『ウェブ日記』の勸め」にしか讀めないのだから、仕方がない。
完全に同意。
〇 ウェブ日記は議論に向かないメディア?・5(天衣無縫な日々の2003-06-04)より。
確かに表現の仕方は議論に沿うように改める必要はあると思いますが,頭の中の考え方そのものは「ブレインストーミング」の感覚でも問題ないと思うのですが.
野嵜さんのブレインストーミングの際にはブレインストーミングを、議論の際には議論をせよ
という意見に対する回答だが,どうも江洲さんの「ブレインストーミング」はアイデアを出す爲の「集團思考法」で、議論から論理的でなくても良いことを追加したものではありません
って文章を見落としているように思える。
さらにこの考え方は,議論を結論の方向へと持っていく力が働かないという面では,確かに危険です
とかかれているところからすると,江洲さんの「議論」は相手の意見を打ち負かすために行はれるものではありません
って話ともかけ離れている気がする。
僕の主張をものすごく要約すると「気楽にコミュニケーションをしよう」になるので,『ブレインストーミング的感覺に基く『ウェブ日記』の勸め」にしか讀めない』文章になっているのは,ある意味で正しいのですが…
でもまぁ,これで論点は絞れた訳で,野嵜さんはブレインストーミングの際にはブレインストーミングを、議論の際には議論をせよ
という意見で,koyasuさんは頭の中の考え方そのものは「ブレインストーミング」の感覚でも問題ない
という意見なので,そこを論じていけばよいと。
ぐるぐる(webnikkimediaに関する記述の2003/06/05)より。
○ (しばらく時間をおいていた)すんごくムカっときて、そんなに自分の文章って伝わらないのかと思ったけど、伝わってる人がいてなんとかおさえる。 ○ おさえたけど・・・とりあえず思い込みの激しさにはまいった。論理的なのかもしれないけど、ズレを気にせずにいくんだもんなぁ・・・。そういうズレの修正のしにくさ(遅延)が以下略なんだけど。
○ あー、もうっ、書くまいと思ってたのに。たえられなかった。
○ (闇黒日記平成十五年六月二日より)
しかし、みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、江洲氏が「可能性はある」と言ふ、その二つの主張の間には、無限の懸隔がある。江洲氏は事實の確認をしてゐる。みん氏とKoyasu氏とは價値判斷をしてゐる。
○ 私は「WEB日記でも議論ができる」という主張の江洲さんに対し、『議論に向いてるメディアかどうか』はそれとは別に考察してみる価値があるのではないかと思います、とメディアの特性について考察し、そのリストもあげました。ところが江洲さんはそのポイントにはいっさい触れず「議論に向かないメディア、ではない」という。何をもってそう判断したのかを言及せずに。
○ もちろん、私の疑問が「WEB日記で議論はできるか?」ならそれで結構。しかし私なりにこういう点が問題(不都合)があるのではないか、と言ってるのに対して、その指摘には一切触れずに「でもできるから」というのはただの思考停止というものでしょう。読んだ上でリンクを張って関連性を明示しておきながら、肝心な点については無視、自説を語り上げる材料としてしか使っていない。江州さんの発言は私の問いに対し反論になっていませんし、指摘の通り議論にもなっていないでしょう。
読み漏れているのかな?江洲さんはメディアのことで,しっかり理由を沿えて「議論に向かない」と云へるほどのマイナス點はない
と書いているけど。というか,それを読み漏れていたらWEB日記というメディア(2)で,リアルタイム性がないから議論にむかない的な反論なんかしてないよな。
今までのなかでは,江洲さんとみんさんは議論になっていた方だと思うンだけどな。論点はみんさんの望んだ「議論に向いたメディアか否かの考察」ではなく,その議論をするための前提として「議論に向くメディアか否かの考察に意味はあるか」って感じでだけど。
○
ぶつちやけた言ひ方をすれば、みん氏とKoyasu氏とは、「ウェブ日記」を切つて捨ててゐるのである。「ウェブ日記」は、可能性があるかも知れないが、他のメディアに比べると駄目だ、だから捨てろ、と主張してゐるのである。
・・・ふぅ・・・その思いこみをなんとかしてください。
○ 私が一度でも「ウェブ日記を捨てろ」と言いましたか?それこそ私のこれまで書いてきたログ全て漁ってでも探してみてください。もしそう読める部分があるのなら抜粋して論理的に指摘してくださってけっこうです。
○ 言っておきますが、どマイナーといえどこれでも現役の日記システム作者、ウェブ日記に関してより適切な手法について思索・模索する姿勢が、あなたに劣ることなどないと自負しています。(意訳:だからウェブ日記を捨てるなどと少なくとも現時点の私は言うわけがない。「ウェブ日記を捨てろ」と言ったのはあなたの思い込みで作られたあなたにとって都合のいい、あなたの反論・指摘しやすい『瀬山みん』像である)
○ 失敗するのならその要因を考える。人の問題だからというのは簡単だが、失敗しやすい要因があるからではないのか、それを改善する術はないのか、そう考えるからこその思索であり、もし
ウェブ日記が議論に向かないメディア、ではないというのなら、どの点が議論に向かないとは思えないポイントなのかをあげてこそ前向きな意見の出し合いというものでしょう。○ もしあなたが少しでもウェブ日記について真剣に考えているというなら、少しは分析してみたらどうでしょうか?あなた自身が言うように、なぜ
實際のところ、ウェブで成立つてゐる議論は甚だ少いのかを。○ 『人』の問題にするならそれでもいいですが、もし
議論する能力があれば議論が成立するというのなら、議論する能力とは何か(そして議論にならないのはその能力のせいのみと言えるのか)を分析すべきでしょう。
ここが一番判らない。
今までのみんさんの文章(WEB日記は議論向きのメディアか?とWEB日記というメディア(2))を読む限り,みんさんのウェブ日記に関してより適切な手法について思索・模索する姿勢
は伝わっては来ないけど。確かに「ウェブ日記」を切つて捨ててゐる
ってのは言い過ぎとは思うけど,少なくとも議論をするには足りんメディアだ,としか言ってないし,それを改善する術を思索してはいない。
だから江洲さんは,議論に向かないメディア、ではない
,つまりは議論が失敗しやすい要因
があるとすればメディアにはない,故にそれを改善する術
について論じても意味はない,と言っているのだと思うのです。
もちろん,より議論をしやすい環境をメディアが提供するのは良いことだと思いますし,そういう意味のことを言っているならわかります。が,その点については江洲さんが最初に議論がやりにくいのなら議論がやりやすいやうにメディアとそれを支えるツールが變るのが當り前
と言っているのだから,憤慨する理由がないし。
正直,一連の議論の中で,ここが一番疑問です。他にもおかしいと思うところはあるけど,勘違いだな,とか,ただの無責任な発言だな,とか納得いくのです。でもこの発言だけは,これまでちゃんと話し合いをしていただけに,どうして急に怒り出したのか判らない。しかも,江洲さんの補足とkoyasuさんの〇 Re:補足でお互いに誤解があった旨が判っているのに。
〇 議論のうまい人(天衣無縫な日々の2003-06-06)より。
ここ数日の一連の議論とか,それに対する周りの反応とかで思ったんだけど,本当に議論のうまい人というのは,議論に勝てる人ではなくて議論を行った結果議論の相手に「この人と議論できて良かった」と思わせる人なんじゃないだろうか.
完全に同意。ただ,それを思わせることができる人以前に,自分が思うことができるかが問題。議論に勝ち負けを求めていると難しい気がします。なので,メディアのことで江洲さんが書いていた,基本的に「議論」は相手の意見を打ち負かすために行はれるものではありません
ということを理解できない人には難しいンじゃないかなぁ,と思うのです。
なんというか先入観を持って自分の書いた文章を読まれて誤解されるっていうのが,ここ数日の議論の中で結構あるんじゃないかな.
先入観を持つのは読み手の問題,誤解されるのは書き手の問題だと思うのです。なので,ここをいっしょくたにするのは反対です。
先入観をもって読まれようが,誤解されない,は難しいとしても誤解されにくい文章は書くことができるわけで。文章の書き方に気をつければ,たとえ先入観に拠って誤解が生じたとしても,説明が簡単でしょうし。
あと先入観とはちょっと違うけど,文章の書き方に気をつけると,自分の思い込みの防止にもなります。自分は自分の考えが判っているから説明を省いて書いてしまったりする文章ってあるとおもうンです。それの防止用に,前提知識が何もないものとして文章を読み直して,言いたいことが伝わるかどうかを気にしたいところ。まぁ,要するに推敲しましょうって話ですが。
中段でところで,野嵜さんの上であげた文章は見ようによっては僕とみんさんを中傷する内容であるので,なんらかのフォローが欲しいところ
ということで,2003/06/05でのみんさんの文章に対して軽くフォロー。でも,正直言って,どの部分が中傷になるのか良くわからンのですが。とりあえず,件の野嵜さんの発言を検証してみよう。
この人たちの間で議論が成立つてゐると言へるのかどうか、甚だ疑問。
理窟は幾らでも言へるけれども、事實を冷靜に見詰めて、的確に價値判斷する事は必要だ。實際のところ、ウェブで成立つてゐる議論は甚だ少い。
一つだけ言へる事は、「どんな意見を言つたつて良いぢやないか、ウェブの議論はブレインストーミングなのだから」と主張する人は、常に「ウェブの議論はブレインストーミングではない、何を言つても良いと云ふ譯ではない」と云ふ意見を壓殺しようとする事である。
「何を言つても自由」と主張する人が「自由を否定する自由」を認めないのはをかしな事なのだが、彼等はをかしいと思はないらしい。しかし、自分に都合の惡い事を問答無用で否定し、自分の意見を押附けようとする邊に、彼らの本音は自づから明かになつてゐるのである。
ここは,koyasuさんがそういうことを一言も書いていないにも関わらず,僕がそういったように受け取られかねない書き方をされるのは心外です
と書いている箇所。koyasuさんも論点のずれを指摘するための文だと理解した
と書いているとおり中傷にはあたらないとは思うが,一般論なのかkoyasuさんに対する言葉なのか,確かに判り難い部分ではある。
単に論点がずれているだけであると江洲氏は言つてゐるだけだ。慥かに、メディアとしてウェブ日記が議論に向いてゐるかゐないかは、せいぜい相對的にしか決定出來ない。しかし、みん氏とKoyasu氏とが「可能性はあるけど駄目」と言ひ、江洲氏が「可能性はある」と言ふ、その二つの主張の間には、無限の懸隔がある。江洲氏は事實の確認をしてゐる。みん氏とKoyasu氏とは價値判斷をしてゐる。
ここはみんさんが引用していた箇所。この箇所のみんさんの反応については,先にも書いたとおり,みんさんの読み漏れによる勘違いと思われる。
ぶつちやけた言ひ方をすれば、みん氏とKoyasu氏とは、「ウェブ日記」を切つて捨ててゐるのである。「ウェブ日記」は、可能性があるかも知れないが、他のメディアに比べると駄目だ、だから捨てろ、と主張してゐるのである。
江洲氏は、「ウェブ日記」において「議論が可能である」と云ふ事實を認める。同時に、「議論が出來ない場合もある」と云ふ事實も認める。そして、これらの事實を認めた上で、何とかしよう、と言つてゐる。
この、どちらが
そこから発想がどのように展開されていくかを楽しむ事の出來る議論の出發點であるかは、私は自明だと思ふ。
ここはみんさん引用の二つ目。ここも先に書いたとおり,みんさんの文章を読む限り,Web日記に対しての発展的な意見は見えてこない。それをぶつちやけた言ひ方
をして,切って捨てる,と表現したのだろう。論者の本心が判らない以上,書かれた文章から論旨を判断するしかなく,みんさんのここまでの文章を見る限り,こう書かれてもしょうがないと思うのだが。
〇 それはそれとして(天衣無縫な日々の2003-06-07)
えと,まず「ウェブ日記」が議論に向いているかを考察・議論することは,みんさんがこの辺で言っているように「ウェブ日記」というメディアの可能性を探る上で十分に意味のあることだと思います.究極的には議論が成立するかどうかを担っているのは書き手である人によると思いますが,一連の議論はそれに対する助けとなるシステムの開発に役立てることが出来るはずです.
えと,まず「議論をしやすい環境を提供するシステムの開発」自体は,江洲さんが議論がやりにくいのなら議論がやりやすいやうにメディアとそれを支えるツールが變るのが當り前
と言っているように,十分に意味のあることだと思います。そのためにメディアを問わず議論が成り立たない場合の問題点を検討するなら判りますが,「ウェブ日記」が議論に向いているかを考察・議論すること
が役立つとは思わないンです。
WEB日記というメディア(3)(webnikkimediaに関する記述の2003/06/07)より。
○ 今回のことでなんとなく、まともに過去記述を読まないで、自分の反論するのに都合のいい部分だけ見て脊髄反射してる(反射後の論理はしっかりしてるのかしれないが)なと思った。(これは私もあまり人のことは言えないが)
とのことで,2003/06/05のみんさんの文章は読み落しによる誤解と判明。要は,江洲さんやkoyasuさん同様,誤解していた部分があって,そのへんの誤解が解けた部分を読み落してた,ってことでしょう。まぁ,前段の論点の部分の誤解は良くわからないけど。
まぁ,とにもかくにも,これまでの議論は収束したみたい。
で,後段。こういう誤解が起きてしまう(起きやすい)のはWEB日記において『これが論旨のすべてを記述している』というモノを提示してないからではないだろうか
という意見。
○ 「以前の記述を参照することは可能だ」というかもしれない。たしかに私の日記も過去記述を参照することは可能だ。しかし、読み手の参照が容易であっただろうか。私が書いたWEB日記のメディア特性について、最初から読んだ人もいるだろう、途中から読んで最初から読み直した人もいるだろう、途中からしか読まなかった人もいるだろう、まったく読まなかった人もいるだろう。まったく読まずに受け売りした人は論外としても、それ以外の人に不便はなかったのだろうか。
続くどこからスタートしているかわからない
からって点も含めて,完全に同意。私の場合,それを整理するために,こんな文書をしたためているわけで。
ただ,こういう構造になってしまうのはWEB日記が散文形式であり、集約されていないからであるといえよう
ってのは,合っているような合っていないような。
ちょっと戻るがみんさんも現実に『ここに書いてあるのは私の論旨の一部です』なんて論文はあるはずがない(あってもいいが真っ当ではなかろう)
と書いているとおり,論旨の一部だけを書いた論文に意味はないだろうし,見たこともない。しかし,雑誌に載る研究論文などで,(Webでの議論に良く見られる)続き物(若しくは,以前の論文を踏まえた別論文)なんてのは珍しくもない。
どうしてそれで成立するかと言うと,それは文章の書き方がちゃんとしているからだ。それまでの論旨(相手がいる議論であれば相手の論旨)を要約して載せることで,元の文章がなくても完結した文章を書くことができ,そんな問題はおきないのだ。なので,そもそもが文書の書き方の問題,ひいては論者の意識の問題といえよう。
ただ,所謂Web日記と呼ばれるものが,公開文書としてではなく個人の日記という意識で書かれやすいため,論旨が完結した文章として成り立たない場合が多く,そういう意味ではみんさんがいうとおり,Web日記が悪いとも言える。メディア特性とかの問題ではなく,「Web日記」という呼び名がだが。
後段の関連文章へのリンク集の作成については,あると便利。ただ,元々の文章が相手の意見もわかる形で書かれたものでなければ,自分の意見だけのリンク集なんてあまり意味がない気もします。まぁ,これも文章の書き方の問題ですが,この点については先にも書いた[see webでの議論]ので割愛。
闇黒日記の平成十五年六月七日より。
「ウェブ日記」(或はそれ以外のメディア)が議論に向いてゐるかゐないか、と云ふ議論は、全く無意味だ。そもそも、日本人が議論を苦手としてゐる事實を、みんな忘れてゐる。
「自分の意見の正當性を主張する」と云ふ事を、日本人はなぜか出來ない(良い事と認めない、面倒臭がる、或は、巧く出來ない)から、メディアが幾ら變つても、日本人同士の間で議論の成立する可能性は大變小さい。
昔話ですが。AVALON HILLのDiplomacyというゲームを友人たちとやっていたときのこと。サイコロとかルーレットを使わない,つまり偶然性がなくプレイヤー同士の駆け引きを楽しむ類のゲームって,日本人には向かない,と話していた。何故なら,負けだしたプレイヤーが本気で怒るから。
そのとき友人に,どんなに卑劣な裏切りに会ってもゲームだからと笑っていられるし,同様に笑って人を陥れるお前みたいな奴を5人揃えれば大丈夫なんだろうけどな
と言われたことも思い出した。
確かに,ゲームで本気になるかどうかを置いとけば,毛利元就と三好長慶と宇喜田直家と佐竹義宣と松永久秀でならDiplomacyはできそうだけど,武田信玄と上杉謙信と織田信長と佐竹義重と長曽我部元親ではイメージ的に無理そうだ。そして,一般的なイメージとして,日本人は前者より後者を好む。
全然関係ないけど,私は毛利も宇喜田も松永も好きですし,寿命が長ければ三好は天下を取っていたと思っております。
野嵜さんへのお返し,先入觀及び或るテーマに關して(ひとりごちるの6月8日(日曜日))で,天衣無縫な日々の2003-06-07と2003-06-08への返答。
以前の野嵜さんの文章(平成十五年五月三十日)が、その問ひの答へになるかと思ひます。野嵜さん自身は議論する當事者が議論可能なのかが問題で、それが行はれるメディアに問題があるのではないと主張してゐます。メディアの改良に主眼を置くのならナンセンスかもしれませんが、「議論すること」に主眼を置くならばそれほど外れたことを云つてゐる譯ではないと思ひます。
別の概念同士を結びつけて「ブレインストーミング的議論」なるものを勸めてゐるのは、私にしてみれば「ブレインストーミングのやうに發言者の責任を問はない議論」を勸めてゐる、つまり「議論」そのものを否定してゐるとしか思へなかつたのです。
肯定的な意見はほとんど出さず、または出すときには條件を付けた上で出す。それを繰り返せば、否定してゐると思はれても仕方ないことだと思ひます。まして、野嵜さんも多分「WEB日記のメディア比較」が議論の論點であると思つてゐないでせうから、確信を持つて斷定されたのだと。
云ひたいことくらゐはきちんと云へば良いのに(ひとりごちるの6月8日(日曜日))で,みんさんの2003/06/05への反論。
怒つたなら何故それを傳へなかつたのです?私が惡いのかもしれない。みんさんの誤解かもしれない。それは表明されないと、議論されないと判らないことですが、何も私に傳へた形跡すらないのに非難ともとれる文を書いてゐるのは、私が「他人の意見を聞かない人間」と云ひたい譯ですか?遲延がある、との指摘はみんさんが出したものですが、それを解消する努力もないのに「以下略」で濟ませるのですか。
闇黒日記の平成十五年六月八日より。
「そんな事言ってません」とか「論点がずれているだけです」とか、擧句には「野嵜は中傷している」とか、お定まりの惡口が出てきて、今囘の「議論」も末期の段階に達した模樣。
何と言ふか、そんなに本氣になつて怒るやうな事ですかねえ。
議論としては,このへんで終了でしょうか。
で,あとは感想戦,と言っては良く言い過ぎかもしれない。
〇 続・それはそれとして(天衣無縫な日々の2003-06-08)
〇 Re: 或るテーマに關して及び〇 他人の議論にチャチャを入れてみる(天衣無縫な日々の2003-06-08)
江州さん宛(webnikkimediaに関する記述の2003/06/08)
江州さん宛(webnikkimediaに関する記述の2003/06/09)
闇黒日記の平成十五年六月九日
闇黒日記の平成十五年六月十日
闇黒日記の平成十五年六月十一日
闇黒日記の平成十五年六月十二日
江州さん宛(webnikkimediaに関する記述の2003/06/13)
闇黒日記の平成十五年六月十四日
江州さん宛(webnikkimediaに関する記述の2003/06/15)
江州さん宛(webnikkimediaに関する記述の2003/06/18)
闇黒日記の平成十五年六月十八日
江州さん宛(webnikkimediaに関する記述の2003/06/21)
こんなもンかな?
以降は,派生した別の話。先に挙げたものでこっちに入るものあるかも。特に闇黒日記あたりで。
#03 Web日記ばなし(りとる・ろまんすの○ 2003年06月03日(火曜日)の日記 ; その03にゃーの♪)
しかし、歸宅が24:00過ぎるとやることができずに困る。用事は一杯あるのになかなか終らない。
議論について阿呆な見解を仄めかすしかないなら書かないはうがマシであると思ふのだが、喧嘩を賣つてゐるのかしら。自分から原因を作つておいて事が起こると被害者然とするのは、誠實ではないだらう。具體的にはたかゆきさんのことである。
#05.03 しかし(りとる・ろまんすの○ 2003年06月04日(水曜日)の日記 ; その03にゃーの♪)より。
_ 叩くのが好きというかなんだか………(謎) >\ <!-- 根に持たれるようなことしましたか?したなら謝るが。 -->
_ まぁ、気が済むまで叩くがよい。
闇黒日記の平成十五年六月五日より。
とぼけるのが好きなお兄ちゃんだなーと。
と言ふか、やつぱり例のアレからテクニックを「學んだ」のではないかと。たかゆき兄ちゃまがいまだに私を恨んでゐるのは、私の指摘が圖星だつたのではないかと。違ふのかも知れませんが<!-- と書いておけば中傷にはならないらしいので、書いておくテスト -->。
相手の方が始めたことだし,厭味でやっているのは判るが,同レベルで相手するのは大人気ないなと思うです。
〇 「議論はしたくない」という心情(天衣無縫な日々の2003-06-05)
闇黒日記の平成十五年六月六日より。
取敢ず、「別のハンドルだから別人なのですよ(笑)」とか「野嵜サマは」「野嵜センセイは」とか書いて喜ぶタイプの人間は議論を出來ない、と。
餘裕かまして尊大ぶつてゐる人に限つて、痛いところを突かれるといつまでも恨み續ける羂。妙にねちねちと嫌みつたらしいやり方で相手を攻撃しつつ、自分は手を汚してゐないかのやうな顔をする。
あと、決つて相手を「荒し」と極附けるし。
#03 『議論を仕掛けられてもしない自由』(りとる・ろまんすの○ 2003年06月06日(金曜日)の日記 ; その03にゃーの♪)
〇 Web 日記ヤバイ(天衣無縫な日々の2003-06-06)
闇黒日記の平成十五年六月七日より。
#02 ちゃんと読もう。(りとる・ろまんすの○ 2003年06月07日(土曜日)の日記 ; その03にゃーの♪)
〇 論理だけなのか?(天衣無縫な日々の2003-06-08)
#02 考察・ネット社会及び#02.01 先入観 (りとる・ろまんすの○ 2003年06月08日(日曜日)の日記 ; その03にゃーの♪)
#02 まぁ、褒められたことではないな。(りとる・ろまんすの○ 2003年06月09日(月曜日)の日記 ; その02にゃーの♪)
で,論旨とは関係なく思ったこと。HTMLのコメント宣言を悪用して,意見を書いたり,陰口利くのは止めろ,と。
コメント宣言はHTMLの要素ではない。要素ではないから,文章の内容とは関係がないものだ。HTML宣言の類だろうから,コーディング上の注釈を書くために使うものと考えた方が良いだろう。それを悪用して,暗号のようなものとかいって文章を隠して書くために使うのはよろしくない。
私がこう書くのは,HTMLの正しい使い方はこうだ,って意味で言っている訳ではないのです。文章書きとして,書かれた文章を読む者として,人を莫迦にしたことをするな,という憤りからそう思うわけです。
大人なんだから,人からいわれなくたって,そんな恥ずかしい真似をするな,と。自分は子供だから,とかなら尚更,大人の義務として教えてやらねばならないし,というのは,親になってから思うようになったことですが。
2003.06.09
ここ一ヶ月,仕事が忙しかったり,G.N.O.に忙しかったり,たまに勉強で忙しかったりしてたら,ろくにwebも見てなかった。で,久々にちゃんと見たら,闇黒日記で面白そうな話が。
一通り見たつもり。読んだ関連文書と思われるものを並べてみる。
本当は時系列に並べたほうがいいンだろうけど,久々の文章書きなので,そこまで気力ナシ。そのうち並べなおすかも。
とりあえずざっと読んだ感想は,どうにも論点が合ってない気がする,って感じ。
結局のところ,webnikkimediaに関する記述では,会話によるものと,文章によるもの,どちらの方が議論が成り立ちやすいか(で語弊があるなら有益な議論になるか,かな),ってことをweb日記をダシにして会話によるもののほうがいいよね,と言っていて,ひとりごちるや闇黒日記では,文章の書き方次第で文章でも議論なんて成り立つでしょ,と言っている感じか。
正直,何故メディアにこだわるのか,理由が判らない。紙ベースの論文同士ですら議論は成り立つし,公表された論文に対してweb上で反論を書いた事例もある。
そりゃ,実際に会って話ながら議論するのと同じ方法では,文章による議論は出来ないだろう。そういう意味では,メディアによる影響は当然あるとは思う。でも,それはどちらが良いという話ではないだろうに。
口下手だけど理路整然とした文章を書ける人は文章による議論の方が得意だろうし,文章書くのは苦手で誤解を招くような文しか書けないけど口は達者な人ならば,実際に会っての議論のほうが得意だろう。
なので,webnikkimediaに関する記述での論旨が,自分はこっちのほうが好き(若しくは得意),って主張なら何も問題はないンだけど,一般論として話されると,そんなこたないでしょ,としか言えない。
議論の方向が,どういう文章の書き方(若しくはHTMLの書き方)ならweb日記で議論はしやすくなるよね,って感じになってくれれば読み甲斐があるンだけど,どうもそういう方向には流れなさげですな。残念。
で,一連の文章を読んで一番感じたこと。論旨とは全然関係ないけど,いわゆるhere症候群的なリンクの貼り方されると文章として非常に読みにくいので止めてほしいな,と。段落アンカーなんかに気を使うくらいなら,こっちに気を使ったほうがよっぽど議論はしやすいと思うぞ,と。そういう意味で,先に上げた一連の関連文書の中では,闇黒日記が一番議論に適したものだとは思いましたです,はい。