帰路

追想

金浦空港までの50分間の飛行中、疲れているのに妙に目が冴えていた。話し相手なども ちろんいないので、最初の雑貨屋のハルモニとデポのハラボジを思い出していた。できれ ばアガッシを思い浮かべたいのだが、アガッシといえば親切だが怖い化粧の、「イジェ チ ナッソヨ」と教えてくれた、デポの次のバス停で降りたアガッシしか思い出せず、残念な がら、と言っては失礼だがどうしてもその2人の老人がとても印象に残っているのだ。

というのは、まだ韓国に1度も来たことがなかった頃、反日感情はソウルよりも地方で強 いのだと聞いていたからだ。こんな話は誇張されて伝わるもので、鵜呑みにできない面が あるのだが、それでもヘラヘラと地方に乗り込んではいけないものだという認識を自分に 与えていた。ウリ・ハラボジとの交流で、韓国の老人に対する漠然とした恐怖心は薄らい ではいるものの、知らない土地で出会う老人に対してはやや不安なのである。

まだ結論が出せる段階ではないが、実際に2人の老人に接して感じたことは、抽象的な日 本人に対する反感の強弱と旅行者に対する温かさは別ものらしい、ということだった。こ れがウリ・ハラボジを含めたあの年代の老人特有の温かさなのか、老若男女を問わない共 通項なのか、これはまだわからない。

2人の老人の優しいまなざしと、日本産タバコのバッシングの看板と、デポでスルメを売 っていた美人アジュマと、・・・などをぼんやり考えている間に、ソウルに帰って来た。 前回(旅行記3)全州から帰ったときとはかなり違う気分だった。同じようにほっつき歩 いていても、「人」に触れることができたかどうかで自分のような旅行は印象がまったく 異なってしまうのだ。

3度目にまた鐘閣の旅館に泊まる。今度こそ2万ウォンの部屋が空いていた。この部屋は 秋に泊まった部屋だった。以前から疑問に思っていたことがあったので、アジュマに聞い てみた。それは、最初にこの旅館を観光公社で紹介されたときに、確かに「日本語を話す アジュマがいる」と聞いていたのに、自分はまだここで日本語を聞いたことがないという ことだった。すると、このいつものアジュマは日本語はわからないが、客によっては日本 語のわかる別のアジュマが応対するのだということがわかった。それがどのアジュマなの かは、その場にいなかったのでわからない。

荷物を置いてすぐ仁寺洞へ向かう。かなり疲れていたが、もう習慣化しているので1度は 仁寺洞の通りを歩かないと心残りになりそうだった。が、時間が遅いためか閉まっている 店(開いていてもめったに入らないけど)が目立ち、実演販売も派手なものはやっていな かった。そして寒い。結局屋台で音楽テープを買って、旅館の近くまで戻ってテグタンを 食べて、仁寺洞に何を見に行ったんだかわかなかった。テグタンを食べるのはこれが初め てのつもりだったが、白身魚の辛いスープはヒョンに何度か作ってもらって食べていたの で、「ああ!これか!」という味だった。冷えた体には実にうまかったが、このテグタン が今回の、胃に悪そうな飲み食いのとどめとなって、以後10日ほど胃が痛いのである。

帰宅

束草の報告とお礼のために呉光朝さんに連絡を入れると、翌朝の同じ飛行機で日本に帰る (呉さんは一時帰国)ことがわかった。ハラボジにも電話しなければならないのだが、ど ういうわけか電話が通じない。金浦空港に着いてからも掛けてみたが、やはりだめだった。 空港で呉さんに会って、空席の目立つ大晦日の飛行機でのんびりと帰って来た。途中、呉 さんの読んでいた日経新聞で、ユナイテッドの乱気流による事故のことを知った。まもな く成田到着という頃に乱気流に出くわし、自分にとってこれまでで一番の急降下を体験し てぐったりさせられた。呉さんと成田空港で別れ、「ソウルのバスやタクシーを見習え!」 といいたくなる京成線で帰って来た。なんだか飛行機の中からずっと体がだるいと思って 熱を計ると、38度あった。やはり束草のバス待ちぼうけが効いたらしい。


旅行記4・完

旅行記4−8
帰ろう