これは、平成9年9月29日、胃癌により他界した父の残した原子爆弾の体験記である。死後、これを記述したノートが発見されたため、読みとり不可能のものは○○とし、誤字についても明らかなものを除いて原文のままとした。尚、 祖母がやはり、原爆に関して文集に載せたものが見つかり、ここで再録した。

幼年被爆者 十三歳の動員学徒

 

原 爆

 

 

私は何で、原爆の事を書こうと思ったのか判らない。今までに体験発表すらしたことのない者が、63歳にもなり、ダンダンと忘れ去られる淋しさ、無念さかも知れない。
私、直爆者として、許せないことが一つある。それは、為政者である。直爆者でもないのに、その時ピカーと光りドーンと来たとか。直爆者でそんな余裕があったであろうか?ましてや、自分が被爆者の最も中心人物であり、最も平和運動の第一人者であるという。

「原爆は許せない。」しかしこれを飯の糧にしている人こそ更に許せない。

 

明日(1994.6.2)は、二女が村田家へ嫁ぐ。(これで親の努め終わりか?)

私は、昭和6年2月26日出生と、戸籍にある。歴史をいろいろと知ることにより、大変なときに生まれた長男であることを後になって知る。当時は非農家の○○一家である。子供の頃、母から色々と苦労の話を聞いた。父は長男でありながら母が違うため、生家を出ていったという。その時、両親からもらったものは、その日食べる麦飯と漬物であったという。母は言う。「肇が可愛いばっかりにシンボウシタ」と。
母は、実家から離婚して帰ってこいといわれたのだろう。それほど、苦しい家庭であったのである。今では、その時の状況は私には想像もつかないくらい苦難の日々であったのであろう。ほんとうに母にはすまないと思う。
そんな中、私は、甲奴尋常初等小学校に入学。途中、甲奴国民学校と名前は変わったが。午前中は、授業、午後は稲刈りという小学校時代が続いた。私は、初等科2年1学期の時、海軍少年兵に志願した。14歳になれば中学生であれ、初等小学生であれ、軍に志願して、お国のために役立つことが、「国に忠、親に孝」であった。
非農家の子である。食べるものも、親が精一杯努力してくれたにもかかわらず、「身体不適」ということで不合格となる。はずかしい事である。学校の先生にも詫びた。そして「私に合う少年兵はありませんか」と尋ねた。
先生は、「少年戦車兵」があるよといってくれた。実は、海軍少年兵は、身長で不合格となったのである。
この戦車兵には身長は、合格基準にあった。「それでは先生お願いします。」と私は即座に言った。「判った。願書をとりよせてやるよ。」と先生は言った。私は、これで、世間様に顔向けができると思った。
その頃、満州開拓義勇軍なるものが、さかんに募集されていたが、満州で開拓するより、軍人として国家のため奉仕することが、両親に対する一番の孝行と思った。

そんな時、鉄道少年隊として、わが校に男一人、女一人の割り当てがあった。
「○○君、鉄道少年隊として行ってくれるか。どうであろうか。」といわれた。
「家に帰って、父母に相談します。」父も母も返事はしてくれなかった。母は下を向いて、ただ、首を振っていた。妹3人は、なんの事か判らず、ただ「おかゆ」をすすっていた。
栄11才、泉9歳、操7歳である。
「お父さん、僕は行きます。」

翌日、先生に話した。それから1週間後であったと思う。府中駅(福塩線)に面接に行った。
「君はなぜ、鉄道少年隊に行く気になったのかネ。」試験官は言った。
「僕は、鉄道員の多くの人が兵隊さんに行かれ、汽車は、僕達若い者が運転しなくてはいけないと思います。」と言ったように思う。
「大東亜戦争宣戦布告の勅諭を知ってるかネ。」
「ハイ。」
「天佑を保有し、万世一系の皇祖ふめる・・。」私は途中までマル暗記を、スラスラと言った。
試験官は「よし。合格。」「1〜2週間後に連絡する。何時でも出発できるよう準備をしなさい。」と、一発合格である。(何のことか判らない。とにかく「合格」という言葉が、大変に嬉しかった。)

学校では、先生が待っていた。
「先生、合格です。」「よかったノー、○○君。」といって、両親以上に喜んでくれた。しかし、母も父も、それ程嬉しい様子ではなかったように思う。
「皆さん、○○君と、光原さん(女の一人の志願者)は、鉄道少年隊として、我が校で始めて出征することが決まりました。皆さん一緒に万歳三唱しませう。」
校長先生は、誇らしげに紹介してくれた。僕と光原さんは、校長先生の隣へ朝礼台の上に上がった。
「バンザー」「バンザー」「バンザー」
私は、泣けた。嬉しいのか。悲しいのか。とにかく下を向いていた。
家では母が、なにかと出発準備をしていた。いよいよ昭和19年10月31日のことである。霜が降り寒い朝だったと思う。(あの女の人は今どこでどのようにと、ふと思う。)学校の朝礼台に私と光原さんの2人が並んだ。
「僕と光原さんは、鉄道少年隊として頑張ってきます。」と言った。それは泣き声であった様に思う。校長先生以下全生徒が、万歳で別れをしてくれた。そして、校門に一列に生徒が並ぶ中を、手を振って、甲奴駅に出発した。
この朝、母は「肇、可哀想だがのー、体に気を付けヨノー。」と言葉をかけてくれた。父は、甲奴駅で待っていた。
行き先は、広島駅である。

宿泊先は、広島駅前橋を渡った所にあった専立寺という大きな寺であった。田舎者である。当時は何町がどこやら、右も左も判らない。とにかく、列の流れに従って歩いた様に思う。当年13才である。お寺のお堂に布団を並べ、50人程が寝起きした。(他の寺にも私達と同様の少年隊が寝起きしていることを後で知った。寺では、ただ寝るのみで、朝6時起きると比治山まで駆足の毎日であった。雨の降る日が、待ちどうしくてならなかった。
駆足の後、本堂や、お庭を掃除し、7時過ぎ、隊列を組んで、大須賀町にある鉄道寮の食堂まで、朝食を頂きに行くのである。当時は麦に米、芋めしであり、米粒は数える量しか入っていなかった。しかし、それも腹一杯という訳にはいかない。一ぱめしに、一汁である。その時は昼食をアルミの弁当箱に入れてくれるおばさん達
「アンタラー可愛いノー。」「有難うございます。行ってきます。」と言って弁当箱を受け取った。中味は、勿論麦・米・芋めしに、おかずは芋を醤油で煮たものであった。

午前中は、松本商業(現在の瀬戸内高校だと思う)で、修身、国語、算数、軍事教練を享けるのである。私達は、配属将校(旧制中学には一人〜二人いた)がおり、軍事教練を指導した。中でも、軍人勅諭というものがあり、これを徹底的に暗証させられた。
“我が国の軍隊は、おおよそ天皇の統率したもうところにある”から始まり、前文に続き、

1軍人は忠節をつくすを本分とすべし
(軍人たるもの・・この説分がある。以下同じ)
1軍人は礼節を、、、
1軍人は信義を、、、
1軍人は質素を、、、
1軍人は武勇を、、、
の5ヶ条があり、最後に後文がある。それは大変な量である。
毎日朝礼時、唱和するのである。そして、前文暗唱者は一歩前、5ヶ条暗唱者は更に一歩前、後文まで暗唱者、更に一歩前と、最初から最後まで、一列目のみ(前文)、二列目(5ヶ条のみ)、三列目(5条の2条まで)、四列目(5条の3条まで)、五列目(5条の4条まで)、六列目(5条の全部)、七列目(全文)、と横一列となり、100名位の坊主頭が七列になるのである。(七列目はほとんどいなかった。)その間全文終了まで、運動場の土の上に正座である。足には「きゃはん」を巻いていたので、その足の痛いこと、とうていすぐに立つことはできなかった。(自分の足は、どこに行ったのかと思った。)つまり、痛ければ早く全文を暗唱できるようになれということである。(配属将校がほんとに鬼以上に思えた。)午後は、広島駅で実習である。私は、広島操車場に配置された。山陽本線、呉線、芸備線、宇品線等の貨物列車の編成である。一列車を作り出発させる仕事である。(当時は、この仕事をしているものを駅員は、カップーと言った。何の事か知らない。)ここでも又、おぼえなければならない事が待っていた。それは「駅名」である。莫大な貨物車である。この駅が日本全国に何線にあるのか、13才にしては、おぼえなければならない事が、あまりにも多すぎた。

5時まで実習し、又職場毎に隊列を組んで、大須賀の食堂まで、夕食を食べに帰るのである。麦芋米めしである。とにかく他に食べるものは何もないのである。風呂も一週間に一度お寺から寮まで入るため、又、隊列を組んだ。

13才の身体にとって、とにかく疲れ果て寝小便もおもわず出る程の大変な日々の連続であった。今の13才(中学生)と私達の人生の一過程が余りにも違いすぎることを、誰が、後世に伝えてくれるのであろうか。

この頃、広島にも敵機が来襲し、警戒警報、空襲警報と、発令されるのである。警報が発令されると早刻、授業、又は労務は中止。防空壕で待機するのである。この時、私には、一番安住の地であったと思う。それは、何もしなくてもよい。ただ敵機が去ることを祈るのみであったからである。

ここまで、当時の私達が生き長らえた一断面を紹介してきたが、これからが、私の本当に後世に残しておきたい、その事は、ピカドン(つまり、世界初の原爆)の事である。当時私は14才である。

8月6日、朝。当時私は広島駅で、広島操車場連結手という役職で、一鉄道員であった。つまり、鉄道少年隊は、一鉄道員を育て上げる一手段であったのだろう。採用は昭和20年4月1日である。
少年隊当時の実習の成果にもよると思うが、広島操車場「下り入れ換え職場」に配置された。
朝は8時30分から、明朝8時30分までの24時間勤務である。正式職員となった為、専立寺の宿から、尾長鉄道寮へと宿泊場所は変わった。(そこにも又、1人いやな奴がいた。それは配属将校である。(つまり、鉄道員でありながら丙種合格者で戦場で役に立たない人)何かと言えば合体、壱知、整列、対交、ビンタである。)お交が、14才の若い友達で、鉄道員である。加減して軽く、ビンタすると、これを見るや、烈火のごとく怒り、ビンタはこの様にするものだと模範を示すのである。それは痛い、、、
交互に3連発である。友達とはいえ、この鬼が見ている以上、手加減は出来ないのである。1発目なら良い。2発目、2発目より更に3発目、、、3発目となると、たたく自分の手の方が痛いのである。(何の効果があるのであろうか?)
この事は、毎夜の様に続いたと思う。鬼は勢い込んで、私達の手抜きしている所を監視し、徘徊しているのである。(この人はこれが仕事であった)あの人(鬼)は今、どのようにしているのか。地獄で、閻魔にビンタをもらっているのか?

時は流れ、8月6日朝。昨夜徹夜勤務であった為、顔、身体は、まるで真黒である。下番時には、職場に大風呂があり、(一度に10人程度が入れるコンクリート風呂)時間の合間を見ては新人が風呂を準備するのが決まりであった。風呂を洗い、水を張り、朝8時までには下番者全員が入れる様、まるで三助である。それは、火は石炭を燃やすのである。点火の悪いことには参った。6日当日も、私は先輩の間に挟まり、7時頃風呂に入って、身体を洗っていた。時間は、はっきりと覚えていないが、この時、警戒警報のサイレンが鳴り、まもなく解除となった。
「今日も敵さんが来るよ。早くあがっておかないとチンチン取られるぞー。」と話しながら入浴を終へ、通勤用の服装に着替えた。8時からは事務所の2階では、上番者の朝礼がは始まっており、我々は帰って寝ることだけが待っていた。その時、操車係(青と赤の旗を持って機関車を誘導し、列車を編成するグループで、一番権限があり、位も上の人である。)が、もう少し、仕事が残っているので、今から行くからコイと言われた。機関車の前ステップに立ち、青旗を振り、貨車を10両ばかり引張り、引張り、その貨車にステップにカップー(連結手)が飛び乗り、移動を始めた。私はその時、何気なく喉が渇き、水が欲しくてたまらなかった。
「スミマセーン。水を呑んできますー。」
私はその貨車に乗らなかった。

その時である。朝日をと太陽が、眩しい位い思っていたのに、私の身体全体が○ ○と言うかとにかく、その状態は今でもはっきりと覚えており、あのような明るさは見たことも無かった。私は直感的に何かを感じ、走った、、、(と思う)

それからどの位時間が経ったのであろうか。私は声を出してみた。始めは、その声も出なかった。腹一杯叫んだように思う。私の耳に私の声が響いた。(生きている)地べたに伏して、両手で耳と目を押さえ、口を大きく開けていた。(この動作は、爆撃を受けたときはこの姿勢になるよう、常に訓練されていた)あの光源に襲われた場所から10〜15m位のところであった。
私は、起きた。走った。
操車場の地域には南と北(尾長町)を結ぶ人道(幅2m程であったと思う)があった。直感的に目的はそこと決めた。
何のことか判らない状態である。
走った、、、操車場の入り口の所には、風呂場があったが、その前を走り過ぎようとする時、「助けてくれー」呼ぶ声がした。一瞬、立ち止まった。四囲を見るも誰もいない。又「助けてくれー」の声に風呂の炊き口の上には、はした屋根があったが、かれが落ち、下敷きになっているのである。友人でもある。「待て、すぐ助けてやる」私は、一生懸命屋根を取り除いた。そして、二人で走った。友人はどこか怪我をしているのであろう。痛い痛いと言っては、私と一緒に走った。一生懸命走った。
地下道に着いた。いっぱいである。中に入る余裕などなかった。この地区の人が皆、待避しているのである。ガラスで顔など怪我して、血だらけの人。骨折している人。擦り傷の人。とにかく、元気な人が医者であり看護婦である。お互いに励まし、助け合い、お互いにその人の顔や、勿論名前など知らない。
「ガンバリンサイヨー。」「イタイカイノー。」「アンタ、お母さんはドウシタンヤー。」
とにかくお互いに、かばいあっていた。幸いに私は、体の表面上には、なんの傷も見られなかった。神が、そして故郷の父、母が、地元の氏神様を信仰し、守ってくれたのだと思った。この時私は、「神様、お父さん、お母さん」と心から祈り感謝した。
或る人が「アンタの背中、どうしたんね 。」と尋ねた。私は何のことか判らず、「何がー」と返事した。
紺色の服がうす茶色に一部ががなっていたのである。私はその時、なんて運の良い奴だと思った。今考えると、光線は後方からうけたのであろう。頭にはむぎわら帽子をアミダにかぶり、手には風呂上がりでもあった為と、列車が走ってくるステップ上の手すりは、それは手で持てない程、焼けているのである。手袋をしていた。従って、私は幸いなことに、直接光線には身体のどの部分も露出していなかったのである。

この連絡道にも長居はできず、友人を伴って操車場の事務所まで帰った。友人の怪我の手当ての為である。事務所の天井は落ち、散々なものだった。列車は、もう一本も運行していない。死の操車場である。空を見上げると、まだ昼前だと言うのにまだ午前だというのに、日暮れの状態である。太陽は黒い。あちこちに、火がちょろちょろ。周辺の臭いたるや、今までにかいだことの無い悪臭である。時間は判らない。とりあえず、事務所に帰った。何か、皆の行動が変である。
「もう少し仕事が残っているからコイ。」といわれて、仕事にかかった。仲間である。機関車の前で旗を振って誘導していた人はどうなったのであろうか。機関手曰く、「気が付いたら旗は無かった。」急ブレーキかけた重数両の貨車を引っ張っていた機関車はすぐに止まるはずは無く、数十メートル線路上をスリップして止まった、という。列車にぶら下がっていた「カップー」は誰一人といない。もちろんあの責任者もである。

幾刻が過ぎたのであろう。操車係りを皆なして探した。なんと、その操車係りは、はるか後ろの線路上に倒れていたのである。皆な駆け寄った。操車係の身体の上を、機関車と貨物車十数両が通っているのである。
担架を取り寄せ、乗せる。毛布を覆わせる。「顔を隠してくれ。」と操車係は盛んに言う。足はつま先が下側になっているので、顔も当然下向きと思った。身体は腹の部分で一回点。胴の上部は上向きとなっていたのである。我々仲間で直ちに鉄道病院に急行するのである。当時は駅前(現在の広島百貨店あたりか)にあった。
担架を交代で持った。操車場から愛宕の踏み切り、広島駅前、鉄道病院の道順である。鉄道病院は建物はあったが、医者も看護婦もいなかった。多分、東練兵場に行けば何とかなるだろうと、広島駅構内を横切り、東練兵場へと向かった。人人人。傷ついた人人人、すごい人である。背中にザクロを何箇所も持った人。顔が2倍も3倍も水泡で膨れ上がっている人。市民であり、軍人であり、学生であり、これが生地獄でなくて、なんと言おう。医者を探した。担架を持って、練兵場内を「医者はいませんか。鉄道病院は床ですか。」と、歩き回った。助けを求める人、慰め合う人、誰かを探す人、人人人である。その中、急に担架が重くなった。誰かが言った。「オイ、死んだぞー!」皆一瞬立ち止まった。無言で毛布をはぐった。操車係は死んでいた。誰彼なしに泣いた。病院の移転先もついに発見できなかった。ただ、担架を担いで歩いただけの気休めでしかなかったのか。

先輩の一人が「事務所へ帰ろう。」と言った。「うん。」皆無言で下を向き練兵場から操車場の事務所へと歩いた。事務所では、誰かに操車係の事故のことを聞いたのであろう、我々が帰るのを首を長くして待っていた。
「どうだ…」「生きとるか。」矢継ぎ早の質問である。「死にました。」先輩が言った。事務所の2階に遺体を安置した。この操車係 の人は、比治山の裏あたりに家があるとその時聞いた。事務所の方で、家族への連絡、遺体の処理等、原爆投下後、2〜3時間後の現状では、十分なことは出来なかったと思う。遺族の人に連絡はとれたのであろうか。

どれ程の時間が経ったか、「下番者は帰れ。そして、寮の整理をせよ。建物はあるが、中はどのようになっているか判らん。」と言った。

尾長寮に歩いて帰った。道端で倒れている人、傷ついて助けを求める人、父を、母を、そしてわが子を尋ね、捜し歩いている人。尾長地区は幸いに出火が当初無かったので、どうにかすぐに到着することが出来た。

部屋に入ると、天井は落ち、ガラス窓は壊れ、とうてい休める様な状態には無かった。壁土でかぶった布団と蚊帳を取り出して裏山に行った。ここは陸軍の兵隊さんが防空壕を掘り、山は穴だらけである。その一つの穴に布団を入れ、蚊帳を張り、とりあえず休息する場所を確保した。
とたんに空腹をおぼえた。朝から何も食べていないのである。水の一滴さえ、口にしていなのである。時間は昼前だと思った。寮に行けば食べ物が確保出来ると思い、下山した。食堂に入ってみた。朝食の食べ残しの赤飯があった。(赤飯と当時は言ったか)コーリャンと大豆カスと、麦と米で、割合は5:2:2:1程度であったと思う。食堂には傷ついた男の人がいた。「すみません、食べさせてください。」ブリキの食器に山盛りもらった。おいしかった。一気に食べた。
あー、生きていて良かった…
この時は、父や母や、姉妹のことは頭に無かった。自分が元気であるという満悦感でいっぱいであった。次々と食堂に集まってくる人が多くなり、にぎやかになった。食事をする者、傷ついた者を看護する者、血と臭気で異様な雰囲気であった。

その時、名前も顔も知らない人(多分、位の上の人だと思うが)が「実は牛田にある女子寮が倒壊し、同じ女子鉄道員が下敷きになっている。従って、元気なものは手を貸してほしい。30分後に出発する。」と連呼していた
私もその救助隊の一員に加わった。尾長寮から尾長町、東練兵、 鐃津神社、牛田工兵橋北側の経路で、目的地の寮を目指して歩いた。(多分、現在の官公庁の鉄筋住宅が建っているあたりだと思う)まるで、夕方のようである。途中、東練兵場の山(双葉山、現在、仏舎利塔の建っている山)には、横穴式防空壕や、食糧、医療品などが集積されていると聞いていた。
兵隊さんが、そして老人が、子供が泣きながら、うめきながら、背負われている人、お互いに肩を組んだ人、杖をついている人。皆、東練兵場へと歩くのである。皮膚の垂れ下がった人、服がボロボロの人、身体中血だらけの人。歩くことが、生への保証である。道端にはすでに息絶えて死んでいる人、何とも凄い、地獄絵である。私達は任務のため、目的地へ向かって歩いた。鐃津神社を通過時、「神様、助けてください」と心で祈った。太田川沿いの通路に出た。「何だあれは!」川の中に「人人人」である。流されている人、川辺にうつ伏せになっている人。なんで川の中に人がいるのであろう。想像がつかなかった。昼過ぎだと言うのに、まるで夕闇である。聞こえる声は、ただ、うめきと、両親を呼んでいるのであろう子供の声と、子供を探しているのであろう「……ちゃんーーー。」という声のみであったと思う。

現地に到着した。工兵橋から少し川沿いに行った所であった。木造二階建ての大きな寮は「ペチャンコ」である。幸い火災は発生していなかった。すでに到着した先発隊の人達は、倒壊した家の上に上がり、ロープで柱などを引っ張り出し、下敷きとなっている人を救出していた。
「誰々さんはあの部屋だから、多分このあたり。」と生き残った女性が盛んに救援隊の人に説明し、救出を依頼していた。
ふと、私は見てびっくりした。庭であったのであろう、広場があった。その角に、山のようにこんもりと積まれ、「ムシロ」をかけてあるのが目に付いた。何であろうか。近寄って見た。それは、今でも忘れることが出来ない。倒壊した家の下敷きとなり、死亡し、引き出された女性が、まるで三角錐のように積まれ、それを覆い隠すように、ムシロをかけてあるのである。この女性は二十歳前の鉄道少年隊女子組であったのかと胸を締め付けられた。「可愛そうに。」声も涙も出ない。
私達も救出作業に加わった。疲れと、あまりにも無残な光景で、力の半分も出ない。作業中口にしたことがある。
「私ら、田舎には帰れんのよノー。」「私らは○○○の出だけど、父さんは出征、母さんは妹らと百姓しているんだけど、うちもこれで終りヨネー。」「頑張るんョ。きっと、日本は勝って、復、田舎に帰ることができるんじゃけーネー。」
色々と慰めの声やら、悲観の声やら、泣き声のため、聞き取れない言葉やら…。
作業は続いた。日はトップリと暮れた。いつ暮れたのか、黒い太陽であるので、その境は解らない。広場では、炊火もあった。寒いように思った。誰が作ったのか、麦飯のむすびが一個づつ配られた。夢中で食べた。

時間は解らないが、暗く作業は中止となり、又明日再開することに決まった。
私たちは庭の一角に野積みされた死体と、倒壊した家を後に尾長の寮に引き揚げることになった。帰路は、ニキツ神社〜東錬兵場〜尾長の寮経路である。勿論、歩くのである。前の人が誰か判らないほど暗くなっていた。前の人に標識を頼りに歩いた。そして、東錬兵場まで着いた。
「すごい。」人人人である。怪我をした人。子供を背負った人。軍人さん。背中を丸出しで、ザクロのような傷だらけの人。元気な人がそれぞれ負傷者の手当てをしていた。また、広島市役所の職員であろう、非常用糧食(カンパン)を配って歩いていた。私も手を出した。「アンタ元気か。」といってカンパンをくれた。有り難かった。しかし、すぐに食べる気になれなかった。あまりにも惨澹たる光景に、カンパンどころではなかった。カンパンを手に、グループと一緒に尾長寮を目標に東錬兵場を横切った。痛さのあまり泣く者。両親を、子供を捜し求めて泣き声で呼ぶ人。私はこんな中にあって、よくぞ生きていたものだとつくづく思った。

尾長寮に到着した。しかし、寝る場所は、あの兵隊さん達が作った塹壕である。穴の中で疲れ切った腰を下ろした。ああー、何たる日であったのであろう。ふと、「田舎の両親が心配しているだろう。」と、この時初めて思った。やぶ蚊が蚊帳の外でブーンと鳴いている。お前ら馬鹿者め。この死にぞこないの私の血を吸おうと思うのか。朝からのことが次々と目の前を通り過ぎていく。あの8時過ぎ。「あの明るさが身を包んだような状態。」走った様に思ったが、気がついた時は、あの光を浴びてから数十メートルの地点、本当にあの距離を走ったのか。それとも飛ばされたのか。
あの操車係の体の上を機関車と十数両の貨車が走りすぎていったのに、あの人がまだ生きていたこと。広島鉄道病院に行く途中、所々でみたあの人、あの無残な姿。川の中に多数の死者が浮かんでいたり、川端に横たわっている人。救出現場で野積みされた死体の山。それ以外にも目にした事柄が次々と浮かんでは消えた。時間は判らない。その穴の中で寝たことは間違いない。目ががさめたら、夜はとっくに明けていた。身体のあちこちが痛い。そうだ、今日は出勤日。早く職場に行かなくては。
穴から出て寮の食堂に行った。食堂の入り口の手洗い場で「ブルブル…」と顔を洗った。

幸いにも寮の食堂は大被害を受けておらず、どうにか食事だけはできる状態であった。同じ職場の顔見知りの人と、今日はどうなるんだろうと話しながら食事を終え、職場に向かった。当時、尾長町は、窓ガラスは壊れていた。出火は所々にあったが。幸いにも丸焼けという状態ではなかった。
8時半、朝礼が始まった。所長が昨日のことを話した。「原子爆弾」であったことを知った。本日の予定は、一部の者を残し、大須賀の寮、牛田の寮の救援に行くというのである。
私は昨日死亡された操車係の遺体を、仲間と一緒に比治山の裏、多分、段原町であったと思うが、そこに運ぶことになった。遺体は急造の棺に入れられていたが、すでに異臭が漂っていた。棺の上に毛布をかけ、手車に乗せ職場を出発した。操車場を出て、どの経路を通ったかは思い出せないし、現在はその道路の面影はない。路面に向かい、両側に木造の家があり、、操車係の家は破壊せず、窓ガラスは破れていたように思う。木の格子戸であった。奥の部屋に安置し、仲間で合掌してその家を後にした。途中、この家もあの家も、窓ガラスは全部壊れていたように思う。ただ、この地区は火災から免れ、家並みは整然としていた。今思う。この地区は今の町名でどこであろう。そして遺体を運んだ路地はどの道であったのであろう!私は今、「矢野西」に住んでいる。広島に出る度に列車を利用することも多いが、その列車が、当時、私の被爆した操車場の中を通過し、「次は、広島…。広島での乗り換えをご案内します。」と、車掌が放送する。
結局私は、昭和22年、3月まで、この広島操車場で勤務した。

操車場に帰った。途中、母親を求め泣きながら真っ黒な顔をした幼い子供たち、年老いた女性。両手に子供の手を引き、背中にリュックサックをおぶった母親。街のあちこちで野積みされた死体。そしてその異臭。住む家もなく、皆、野宿であろう。幸いにも私には寮があった。そして、食糧もあった。
今日も暮れ、又、今日暮れ、街のあちこちで、死体を焼いている風景を目にした。

操車場には貨物列車が時々入ってきた。特別軍需品は行く所がないのである。操車場には軍需品を積載した貨車が日毎に増してきた。軍需品の車票には「≫≫」が赤線で2本入っていたので一目で分かった。原爆が投下されて3日目であったと思うが、広島駅前の方に足を運んだ。通常は操車場から尾長町の寮に直行のため、愛宕町、尾長町の様子は判ったが、広島駅前の方は投下直後、操車係を担架で広島鉄道病院〜東錬兵場と、又、救援のため牛田までは歩いたが、2日目の様子は判らない。

広島駅の建物、鉄道病院の建物は哀れな姿で建っていたのを、今でもはっきり覚えている。目の前には、中国新聞社ビル、八丁堀福屋の建物が、広島駅から見えた。それほどきれいに焼け野原となっていた。私が、昨年10月31日、広島に出てきて始めて一夜を過ごしたあの専立寺はどこら辺であったのであろうか。何も無かった。住職さんや奥様はどうされたのであろうか。道路よりか、川のほうがはっきり目につく。あちこちでは煙が昇っていた。この日も異臭は顔全体に覆わんばかりであった。

たまにの日曜日には外出を許され、福屋の地下食堂に「雑炊」を食べるため、1階から2階、3階、4階と階段に並び、それも自分の雑炊まであるかどうか判らない。ただ、空腹のため、食べたい一心に階段で順番を待った。手鍋を持った母親に手を引かれた子供。一人一杯しかくれない雑炊を鍋で持ち帰り、一家で食べるのだという。
私たちは寮で芋麦飯を食べているとはいえ、空腹のためこの雑炊に列をなすのである。これがまた、美味しいのだ。多分、20銭だったと思う。その福屋や、この階段に雑炊を待って並んでいたあの人、あの母子は、どうなったのであろう。
原爆投下の当日のことが色々と駆け巡った。原爆が投下されて何日目であったか、山陽本線と呉線は、向洋駅で折り返し、芸備線は矢賀駅で折り返していると聞いた。私は貨物取り扱い駅(操車場)であったため、旅客列車の運転状況は判らなかった。毎日、尾長寮から操車場へ通い、壊れた物の整理で日を過ごした。

そうだ、私のことを両親が心配しているであろう。一度帰らなくては、と思った。上司にお願いして田舎に帰ることにした。多分5日目位だと思う。操車場から矢賀駅まで、何も持たず、着の身着のままで歩いた。矢賀駅の待合室は、負傷者などで一杯であった。列車を待っているのである。下り列車が入り、機関車を入れ替えて、「バック」で、又、三次に向かうのである。私など、当然乗れるような状況ではなかった。負傷者などで一杯なのである。何とかしてこの列車に乗り、田舎へ帰りたい。私は機関手に話し、「鉄道員である。原爆にあい、ぜひ田舎まで帰りたいのだ。」どこでも良い、乗せてもらいたいとお願いした。
当時は14歳の私を哀れに思ってくれたのであろう。「良かったら炭水車の上に乗れ。」と言ってくれた。本当に有り難かった。「お願いします。」身一つである。飛び乗った。
「矢賀」「戸坂」「玖村」「矢口」と列車は、一杯の負傷者や田舎へ帰る老母や子供を乗せて、一駅ごとに止まり、又発車した。ある駅では、婦人会の人たちが、おにぎりや、お茶の接待をしていた。「ひどい目に遭いなさったノー。」「傷は痛みますかノー。」等、親切に声をかけていた。私は、一回だけであったと思うが、炭水車から降りて、お茶をもらった。美味しかった。

いくつものトンネルを通過して行くのである。煤煙で顔は真っ黒である。しかし、自分には判らない。いくつもの駅で接待やら、いたわりの声を聞きながら三次駅についた。昼前だったと思う。ホームの洗面所で顔を見た。これが自分かと思った。水で顔を洗った。私は福塩線に乗り換えるのである。午後1時過ぎの列車に乗ったと思う。福塩線では、芸備線ほどの混雑はなく、乗客も広島からの乗り換え者は無かったように思う。老母が「広島から帰りなさったんかノー。」と尋ねた。「ネー。」
私は下をずっと向いていた。あまりにも人がジロジロ見るので、恥ずかしかった。

甲奴駅に着いた。父は農協に勤めていた。幸か不幸か、父はこの対戦には召集されず、消防団員として、又、農協職員として銃後を守っていた。当時、父は何歳であったか?田舎には珍しい人物であった。私は農協まで歩いた。「○○です。お父さんはおりますか。」と尋ねた。多分、受付のお姉さんであったと思うが、「まー、肇さん。お父さんが心配しとっちゃったよ。」「お父さんは米の倉庫の方におられるから、すぐ呼んであげる。」と言って席を立った。
ほんの少し待った。「肇か。よう生きとったノー。」と、泣き声で言った。「お父さん。」私はそれ以上の言葉は出なかった。
「わしはのー、肇。同じ職場にいた駒場が怪我をして帰ってきてノー。肇を見なかったかと尋ねたんじゃが、駒場さんはみんかったと言った。駒場さんがあれほどの傷を負って帰ったんじゃけー、肇は生きとらんと思った。」「わしは駒場さんには、今日、広島に荷物を取りに行くと言っておられたので、もし肇を見たら、これを渡してくれと言って渡そうと思ったんじゃ。」と言いながら、風呂敷き包みを私に渡した。私は黙って小さな風呂敷き包みを開いた。
中には、竹の皮で包んだ油で焼いた握り飯と、「広島県甲奴郡甲奴村大字福田、○○順市」と表書きされた葉書が一枚入っていた。その葉書には、「肇、元気なら何も書かずとも良い。このまま投函せよ。」と書いてあったと、今でもはっきりと覚えている。
父が言った。「お母さんが心配して待っている。福田の郵便局にすぐ電話して、肇が帰ったと言う。」と言ってくれた。私は思った。「何と親不孝な息子であろう。」と。涙が出るほど嬉しかった。農協の職員の皆さんが、我が事のように喜んでくれた。

私は、お母さんが待つ、福田の家までの4キロの道のりを急ぎ足で歩いた。途中、何度となく、「お母さん、お母さん。」と叫んだように思う。当時は14歳である。
4キロの道のりは遠かった。歩いても歩いても、我が家は近づかなかった。「戸下」を過ぎ、「福田下」を過ぎ、福田郵便局の前まで来た。あと500メートルほどである。お母さんが待っている。走るように歩いた。「お母さん。」母は、家の前に立って待っていてくれた。
「肇かー!」「お母さーん。」
妹達(栄、泉、操)はいなかった様に思う。多分学校なのであろう。
「ようー生きて帰ったノー。しんどかっただろー。はよー上がれ。」と、母は言った。
これが、本当の私のお母さんだと思った。言葉にならなかった。
嬉しかった。恋しかった。お母さんの臭いがした。
近所の人も「肇さんが生きて帰った。」と言って集まってくれた。母が一生懸命応対していた。
一晩中、父と母と、妹達と語り過ごした。広島の状況を父母に一部始終話した。街が焼け野原となっている

ことを。顔が2倍くらいに水泡で大きくなっている人。背中にザクロのような傷のある人。川の中に浮かんでいる人。川岸に打ち上げられている人。一つ一つ、私の目で見たことを、あれもこれも。父や母は頷きながら「むごいことよノー。」と呟いて聞いてくれた。
「肇、当分福田におるんか。」と父が聞いた。私は、「明日は又、広島へ帰る。」と言った。
上司に、一日、両親に逢いたいといって帰ったので、私の元気な姿を見てもらったので、広島に帰るのが当たり前だと思った。
母は、一晩中かかり、私が広島へ帰るための準備をしていた。米の無い時に、むすびを作り、油で焼き、又、下着の着替えやら、一枚一枚、心を込めて準備していた。私は広島へ帰るのが悪いように思った。「スミマセン。」と、心で謝った。
(尚、私が広島へ帰った翌日、父は広島の後始末のため入市し、被爆したことをずっと後で知った。知っていたら逢いに行くのであった。)

毎日毎日、悪臭が続いた。何を焼いているのか定かではない。ある日、こんな事を聞いた。葬焼所には死体が一杯で、道の両側に死体が積まれていると。実際には私は見たわけではないが、人の口にのぼり、噂として流れると言うことは、相当数の死体が運ばれたのであろう。それがため、街の瓦礫の間で、死体が放置され、その悪臭が毎日毎日続いたのであろう。
ある日、突然、同僚が私の頭の髪を、おもいっきり引っ張った。「痛い。」と言うと、お前は今の所大丈夫と言った。何のことか?つまり、髪の毛が抜けるのだそうだ。
それも、痛くも無く、手で引っ張るとそれだけ抜けると言うことだ。それからの毎日は、髪の毛を引っ張ってみることが日課となった。今日も、今日も、今日も、痛かった。大丈夫と言うことである。街ですれ違う人の痛ましい姿と何人も何人も逢った。広島駅付近を中心に徘徊した日々を、今となっても思い出す。
8月8日。長崎にも同じ爆弾が投下されたと聞いた。「ムゴイ。」事だとおもった。長崎にも、この広島と同様の被害があったのであろう。8月6日のことを思い出した。

 

 

原爆に限らず、戦災にあわれた全ての方のご冥福を祈ります。