これは、私の祖母が、原爆に関する文集を作る際、求められて書いたものである。

 

幼年被爆者  十三歳の動員学徒

 

月日は流れる水の如く、あのいまわしい戦争、そして聞いたこともない原子爆弾の投下にて、忘れてはならない当時のことを、とかく忘れ勝ちの今日此の頃で御座います。

想い出しますと、昭和十九年十月三十日、長男肇が高等科二年生(十三歳)でした。突然学校から学校少年勤労動員として召集されたと、主人が言って帰ってきました。私は何が何だかわかりません。後三日しかないとこのこと。主人と色々と話し合いましたが、こればかりはどうすることもできません。

時刻までに仕度をして出さなければとのこと。行く先は、広島市尾長国民学校へ集合とのことです。毎日空襲が激しいという話を聞いております。

恐いのと不安と心配で夜も眠れません。仕度をすると申しましても何もなく、主人物を直したり、足袋を縫ったり、リュックサックを作ったりのことでした。本人は何一つも言いません。学校から帰っても沈んでおり、見るのがつらく或る夜中に主人も他の子供も、よく眠っております。肇のそばに座り、顔を見ると涙がとめどなく出て、どうすることもできず、肇を殺し、私も死にたいと思いました。小さな灯の下で他の子供を見ると、死んでなるものか恥をかくようなことを、主人はもとより非国民となり、後々までも頭の上がらないことをしてはいけないと思いとどまり、早くも朝の四時となりました。朝食を作り、麦飯のオニギリを作り、イモをふかし、豆をいり、リュックに入れてやりました。

組内の人から小さいので可愛そうにと口々に言われ、当時五十銭から一円の餞別を頂きました。朝、主人が自転車に乗せて学校まで連れて行き、朝礼で校長先生のお話の後、肇が台の上に上がり、皆さんに別れの挨拶をしました。皆んなもらい泣きをして見送ってくださいました。

昼は広島駅の貨車の入れ替えにて操車場に、夜は尾長国民学校へと日が立つにつれ仕事にもなれ、毎日の空襲の激しさは言うまでも御座いません。朝の交代で駅に行ったところ(八月六日午前八時十五分)大きな音と共にそれっきり、どうしたことかとしばらくして気が付いてみると、貨車の下におり一面火の海で人が倒れて燃えている。「助けてー、水をくださいー。」泣き声、しばらくは余りにも変わり果てたことに呆然として、自分は傷をしていないことに気付きました。一緒にいた人を探して、火の中を歩き回ったとのこと。

こちらでは広島は毒ガスが降り、大勢の人が死んでいる。電話もできない。十日市から先は、行くことさえできないとの話。肇はどうしているだろうかと、夜も眠れず、食事も喉を通りません。

人の噂を聞くばかり。たまたま有田の方、有福の方が負傷して帰られたと聞き、尋ねていきました。お目に掛かって見ると、髪はなく、鼻血が出て、ホウタイをした身体、とぎれとぎれの言葉、職場、年齢が違うので、何もわかりませんとのこと。色々聞きたくても、聞くことができず、足重く家路に向かう。

不安な日が立ちました。九日の昼頃でしたか、警防団として後片付けに福田から十名程、十日の夜に「本川国民学校に行くことになった。」と、主人が言いました。子供を連れて、不安でなりません。肇のことが胸から離れません。

十一日昼前、突然肇が帰ってきました。見ると、灰にまみれ服はよごれ、疲れ果てた顔をしており、お互いに言葉もなく、両肩に手をかけました。よかったのう、心配していたのよ、胸痛む。昼食をすませて風呂に入れ、服を洗濯しようと思い、脱いだ服を見ると、服の裏の縫い目にシラミがいっぱいおります。之はいけない、急いで湯を沸かし、シラミ退治をして洗いましたが中々乾きません。何時に帰るのと聞きますと「しんどうていけないので、上司にだまって帰った。大勢の死人を運んだ。夕方には帰らなければいけない。」と言います。

急いでオニギリを作り、イモを煮て仕度をして持たせ、福田を後にしました。明け十二日午後、主人が帰ってきました。肇が無事で帰ってきたことをつげ、生きていてよかったと喜び合いました。広島は大変なことになっている。跡形もなく焼け野原で、あちらこちらで瓦礫がくすぶっており、ほぼ片付いており、灰かき程度で命令により三々五々、引き揚げたとのことでした。

それから世が一転してしまい、皆様もご存知の通りでございます。それからは元気で務めておりました。職場を点々として、甲山の娘の家へ務めておりました。

突然倒れました(昭和四十五年八月三日)。連れて来てくれました。夕方になるにつれ、高熱がし益々容体が悪く、一夜の内に半身不随になり、口もきけなくなりました。高橋先生に朝夕往診して頂き、安静にとのこと。又また心配の日が続きました。二ヶ月が過ぎました。このままではいけないから府中の農協病院でリハビリーを受けるようにと、高橋先生の世話で行きました。

車イスに乗せて、長い廊下を行き、エレベーターに入り、リハビリーの部屋に着きます。なかなか重たいので石仏を乗せたようなので大変なのです。毎日の日課でした。大勢の患者さんが色々とリハビリーを受けておられました。部屋に帰っても歩く練習がなかなかできません。マツバ杖を一本しか持つことができないので歩くことがむつかしく、辛抱に辛抱をし、一歩二歩と時間をかけての有様でした。

しばらくして病気が安定していると聞き、帰りたいと言います。我が家にて運動することが許され、退院しました。何とかして元のように歩けるようになったら、どれだけ良いだろう。本人も嬉しいだろうと思い、近くの荒神様に祈願をいたしました。

先生が往診を続けて下さいますので先生の言葉を良く守り、一生懸命雨の日も風の日も歩く練習、手の運動をし、長い歳月が立ちました。すると、左手で字を書く、ソロバンを使う、食事はスプーンを使うようになり、気分も良くぼつぼつ歩けるので、あまり手が掛からなくなりました。或る日歯が抜けました。見るとハブの所から折れていました。どうしたことか、食事をする度に歯が折れて、一週間のうちに全部なくなりました。これではいけないので田原歯科に連れて行き、入れ歯をお願いしましたところ、「歯の株を抜くのに麻酔をしなければならないので、半身不随の人にはできません。」と言われ、どうすることもできず、食物をやわらかく作りました。

そして、三年が立ちました。今度は、「目が痛い」と言います。三日目に先生が来られ、診て頂きますと「之は早く眼科へ行かないと」と言われ、十日市の小川眼科に電話をしてくださいました。急いで仕度をしてタクシーにて十日市に向かいました。最早夕方になりました。小川先生が待っていて下さいました。毎日来るようにとのこと。年内は通院をして正月四日に入院をしました。三ヶ月が過ぎました。或る日、先生が色々と手をつくしたが、原爆症があるので、どうにもならないと言われ、結局左目を失明してしまいました。

それから高橋先生が身体のこと等で、原爆症の手続きをしてくださいました。視力はなく、身体が不自由なので毎日が大変でございました。それからも心臓を悪くし、入院のくり返しでした。最後には、風邪を引き、肺炎となり、数日後、六十年十二月二十九日午前三時三十分黄泉に旅立ち帰らぬ人となりました。

夫の悲願

一夜のうちに 変わり果て
孫にも おとる足どりで
歩く姿の あわれさよ
荒神様 罪深き者
許し給えと 祈るなり
カラスが鳴かざる日はあれど
荒神様へと 向かいます
助け給え 荒神様
祈る肩に 雨が降る
杖を取りつつしのび泣く