序章 『毒を売る女』
聞こえた。確かに聞こえた。

目の前のトントロをひっくり返しながら結城五郎は神経を研ぎ澄ます。

一つ仕事が片付き、そのお祝いもかねてこの場所、某焼肉屋に助手の藤岡綾子と来ていた。

結城五郎は探偵である。事務所を開いてまだ一年そこそこだが、

隣に座った二人の会話に犯罪のにおい・・・その中でも殺人のにおいがする。

結城五郎の探偵としての勘がそう思わせる。

確かに隣の二人は殺人を思わせる言葉を発している!

『読唇術』・・・結城五郎は半月ほど前、これをマスターした・・・と自覚してる。通信教育でだが。

唇の動きをみて何を喋ったかを判断する法、それが『読唇術』だと、『はじめての読唇術・初級編』には書いてあった。

隣の二人は会話を続ける。結城五郎はそれを読み取る。

やはり殺人の話のようにみえる。上手に焼けたトントロをほおばりながら結城五郎はそう確信する。

・・・ここはソロモンという喫茶店ではないし、『レンガベイノアキヤノナカデ』とは言わなかったが。


『あら、私のお肉まで食べてしまったようですね』

助手の藤岡君が化粧室から帰ってきて、結城探偵の前に座る。トントロを平らげて怒ってるようだ。

『それどころじゃないぞ、藤岡君。隣の二人・・・どうやら殺人の計画を練っているらしい』

『あら、そうですか。・・・すいません特上カルビ3人前お願いします』

席に着いた助手の藤岡綾子は結城探偵の言葉をさらりとながし、近くにいた店員に追加の注文をする。

『ず、ずいぶんと豪勢に食べるなぁ藤岡君』

『はい、今日は先生のおごりですから』

そう言って、こちらを見ながら藤岡綾子は静かにメニュー表を閉じる

『またまた冗談を藤岡君。そんな話は聞いてないぞ』

『そうですか?私が今決めたことですから』

藤岡綾子はさらりといいはなった。藤岡君がそう決めたのならしかたない、と結城探偵は思う

『そ、そんなことより隣の二人だっ!殺人の相談をしてるんだっ!僕の読唇術で聞いたから間違いないんだぁっ!』

必死になって藤岡君に伝える。藤岡君は隣の二人をチラッと見て呟く

『隣の二人の会話を先生の読唇術で?』

『そうだよ、そのとうりだよ藤岡君』

・・・ここは『アリバイ』というカフェでもないし、『ストリキニーネ』とも言わなかったが。


卓上に、さっき藤岡綾子が注文した特上カルビが置かれた。藤岡綾子はすばやく網に肉を置きながら

『あと、タン塩、トントロ3人前・・・そうね、特上カルビも、あと2人前お願いします』

結城五郎はあいた口が塞がらない。財布のふたもふさげない状態だ。

『と、とにかく隣の二人は危険だ。殺人が起こるに違いない。私の探偵としての長年の勘がそういっているんだ。

江戸川乱歩の『妖虫』のように!横溝正史の『鏡の中の女』のようにぃっ!!』

藤岡綾子はいい感じに焼けた特上カルビを口に入れながら

『いいですか先生、読唇術と言われていますが、隣の席とこの席は約2メートル、普通に会話は聞こえます』

・・・そういえば最初に聞こえたと、聞いたともしゃべった様な気がした

『後、ご自分の勘を信じられるのは結構ですが、先生が探偵になったのは一年前です。探偵としての長年の勘ではありません』

『あっ・・・そうか』

藤岡綾子にはなんでもおみとうしのようだ。

と、隣の二人は席を立った。

その二人組みを後ろから見ながら結城探偵は思う。

何か、よからぬ事が起こるに違いない。いや、むしろ起こってほしい・・・と。

『そのまえに・・・』

結城五郎は前を向きなおり、肉を次々と平らげる藤岡綾子を見ながら今日の支払いとの対決を待つのだった。

(了)


発端へ