第3章
第3章 中心市街地活性化の意義
1.中心市街地の存在意義
都市・地域にも盛衰はつきもののはずである。あえて衰退しかけている(あるいは衰退してしまった)地域を再生する必要があるのかどうか。この点に関する議論は一連の中心市街地活性化に関する議論の中でほとんど行われていないように思われる。中心市街地が必要なのか、という問に対して行政や商業者の多くは必要である、と答えている。しかしながら、中心市街地に直接の利害関係を持たない人々の意識、という点は全くといっていいほど無視されているのが現状ではないだろうか。これらの直接当事者以外の意識が中心市街地活性化を必要とするようにならなければ、いくら行政や商業者・コンサルタント等が活性化を叫んでも結局は絵に描いた餅にしかならないと考えるのが妥当であると思われるが、現実には多くの市民にとっては中心市街地活性化がどのようなもので、中心市街地空洞化が自分達の生活にどのような影響を与えるのかについて理解しているのかどうかさえ判然としておらず、この問題に対する明確な意識調査等も行われた形跡があまりない。
一方で、中心市街地の存在意義に関して川上光彦(1999)は「生活文化や「顔」としての町並みは、長年にわたり築いてきた都市の文化でもあり、都市のアイデンティティを形成してきた重要な部分である。それらが、20−30年のモータリゼーションの深化や資本主義社会における商業的競争力の推移などにより失われてもよいものだろうか」と述べて活性化の必要性を訴えている。また、中央省庁が合同で作成した中心市街地活性化パンフレットでは「 中心市街地は、古くから商業、業務など様々な機能が集まり、人々の生活や娯楽や交流の場となり、また、長い歴史の中で独自の文化や伝統を育むなど、その街の活力や個性を代表する「顔」とも言うべき場所です。しかし近年、多くの都市で、モータリゼーションの進展への対応の遅れ、商業を取り巻く環境の変化、中心部の人口の減少と高齢化などを背景に、中心市街地の衰退・空洞化という問題が深刻化しています。このままでは、近い将来多くの街からその街の「顔」と呼べるような場所が消えてしまいかねません。本当にそれでいいのでしょうか。」と書かれている。
上記のように中心市街地再生の必要性を訴える場合に用いられる論法としては、「街の顔が消えてしまうと街の求心力が落ちる」「都市の文化を次代に伝えていく必要がある」といったものが多用されている。
しかしながら、このような論法は必ずしも全ての人に受け入れられ、中心市街地活性化への国民全体での合意形成を可能にはしていない。先に大西が指摘したように、市民の消費活動にとって中心市街地空洞化はそれほど大きな問題となっていない。また、ニュータウンや郊外部居住者の多くは既に中心市街地とは無縁の生活を送り始めており、その生活への不満や中心市街地への欲求を持っていないと推測することができる。このことは、行政や商業者が商業の活性化を念頭に中心市街地活性化を叫んでも、市民全体の声にならない理由であると考えられる。少なくとも市民合意が形成されない限り、中心市街地の存在意義は明白にならないと言うことができる。
2.それぞれの視点から考える中心市街地活性化
@地方自治体
地方自治体にとって中心市街地は必要な存在なのか否か、という部分は都市によって異なるであろう。しかしながら、多くの都市が中心市街地活性化へ向けて基本計画の策定やTMOの認定などの活動を行っているのにはいくつかの理由が考えられる。その中でも特に大きな理由として、中心市街地の役割が相対的に低下した結果、中心市街地の人口減少・商店街の衰退等による空洞化が、中心市街地からの税収を激減させ地方自治体に財政面での危機意識を抱かせたからではないかと思われる。
中心市街地の人口減少は所得税・市民税の減少を地方自治体にもたらし、商店街の衰退などのいわゆる商業空洞化は、法人税及び地方消費税の減収へと直結してしまった。さらには中心市街地空洞化によって中心市街地の地価が下落を起こし、固定資産税などの不動産系税収が落ち込んでしまい、それでなくても自主財源が少ない地方自治体の多くはさらに自主財源を落ち込ませるという結果になってしまったと考えることができるのではないだろうか。
このような状況を打開して財政面での再建を目指すには、地方自治体としては中心市街地活性化を唱えざるを得ない、というのが現在の状況であると考えられる。
A商業者
中心市街地において営業している商業者にとっては、中心市街地問題は死活問題に限りなく近い。特に日用買回り品を中心に大型店の出現や郊外部への人口流出によって売り上げが低下していくケースは日本各地に共通して見られる現象と言っても過言ではなく、中心市街地の相対的な位置低下がそのまま個店の廃業問題へと繋がってしまう事も少なくない。
現在ですら中心市街地の多くは櫛の歯が抜けたような状態でシャッターを閉じたままの店舗が増加しており、多くの中心市街地商店は活性化へ立ち上がる力すら残していないか、あるいは最後の力を振り絞ってもう一度だけなにかトライする力が残っているか程度の余力しかない所が多いのではないだろうか。
B中心市街地居住者
都心居住者は、職住同一又は職住近接型の商工業者と、代々の都心居住者、利便性を求めて都心居住を選択した市民に分類できる。このうち、職住同一・近接型の住民にとっては中心市街地問題は自らの生業とも深い関わりを持ち、その多くは大きな関心を持っていると考えられ、Aの商業者と同一的視点を持っていると考えて間違いない。一方、利便性から都心居住を選択した市民や古くからの住民にとっては、中心市街地活性化の意味が少し異なってくる。
C郊外住宅居住者
郊外に居住する人々にとって、かつての中心市街地は日常用品を買うための場所であったり、週末に食事や買い物を楽しむ少し特別な場所であったと言える。しかしながら、大型店の中心市街地からの撤退とロードサイドへの集中的な出店によって、中心市街地へ行くよりもロードサイドの大型店へ行く方が便利になってしまった所が非常に多い。
現在の郊外住宅居住者にとっては、中心市街地へ買い物に行かなければならないという必然性はなく、そのため、中心市街地活性化に対する意識は低い事が多い。この事が不幸であるという論調も一部で見られるが、実際に郊外で生活している人の大半は、自らの生活、特に消費に関しては大きな不満を持っていない事が多く、不満があるとしても中心市街地の空洞化や不便さに対してではなく、近隣の大型S・Cに対する不満や、大型S・Cが存在しないことへの不満である場合がほとんどである。
D農村部居住者
農村部居住者、すなわち農業生産者にとって、かつての中心市街地は自分達の農作物(商品)を流通させるルートであり、販売先でもあった。そのため、農作物を中心市街地の八百屋等に卸して、そのあしで買い物をして帰る場所というのが、農村部居住者にとってのかつての中心市街地像であった。しかしながら、流通革命等によって米・野菜・果物いずれも流通ルートが変化し、農作物が地元の商店に直接流通する事の方が希になった現在では、農村部居住者にとっての中心市街地も、郊外住宅居住者にとっての中心市街地とあまり変わらないイメージになってしまったと言える。
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