ある日。
 家に俺宛の手紙が届いた。
 裏返してみると、差出人名には懐かしい名前が書かれている。
 無性に懐かしくなり、封を切って早速読んでみた。
 その内容は────












 朝起きたら、目の前に青葉がいた。
「おはよう司。これから貴方に重大な任務を与えます」
「………ふえ?」
 出し抜けにそう言われる。
「私の下着がまた亡くなりました。享年一ヶ月三日、死亡推定時刻は昨日午後十時から本
日午前八時までの間。死因は何者かによる徒手空拳だと思われます。よって貴方に事件の
解決を命じます」
 青葉がなにやら喋っているが、寝起きの俺の耳は全ての言葉を右から左へ通していく。
 ご丁寧にもラッピングまでつけていた。
「早く起きて事件を解決しなさい、司。それが貴方の使命」
 青葉に急き立てられ、俺は条件反射的に起き上がった。
 こいつの言葉には、妙な威圧感がある。
 命令しなれている、とでも言おうか。
 ぼんやりしている時に命令されると、つい従ってしまう。
 本人が望むと望まざるとにかかわらず、高屋敷という名門の『血』はしっかり受け継い
でいるようだ。
 しかし、やがて意識がはっきりしてくるにつれ、俺は思う。
なんで俺が青葉の命令に従わなくちゃならんのだ!
「青葉。お前は何の権利があって、俺の安らかな眠りを妨げるんだ?」
 睡眠本能を阻害された者として至極当然の異議を申し立てるが、青葉は聞く耳など持た
ない。
 むしろ俺が反論したことにご立腹らしい。
「貴方を疑わないだけでも感謝して欲しいわね。性犯罪者の汚名を濯ぐ機会を与えている
のに」
「じゃあ、下手人は劉さんだ。あの人前科一犯だし、まず間違いない。そーゆーことで、
事件は解決だ」
「R容疑者の身柄は確保済みです」
「…は?」
「やあ、おはよう司くん。今日もいい朝だよ」
 青葉の言葉に次いで、劉さんがヌッと顔を出す。
 こんな朝っぱらからこの人は…。
「劉さん…。何やってんですか、こんなところで…」
「いやなに。青葉くんがね、今すぐ来ないと呪いをかけると脅すものでね。あんまり怖い
からついやって来てしまったよ、あっはっはっはっは」
「はあ…」
 ウソだな。
 劉さんはいい加減だけど、脅しや命令なんかには絶対に屈しない人だ。
 そんなことでわざわざ家まで来たりはしないだろう。
 …けど、本人がそう言ってるんだからまあいいか。
 深く追求するようなことでもないし。
「あれ、でも劉さん、今日は朝からシフト入ってませんでしたっけ?」
「休んだ。こっちの方が面白そうだから」
「面白いって、アンタ…」
 俺は絶句する。
 劉家輝、やはり一筋縄ではいかない男だ。
「R容疑者は…」
「Rって、劉さんだろ? 名前で言えば──」
「国際問題を避けるため、容疑者の実名は伏せてお送りしています」
「容疑者はひどいなあ。せめて重要参考人にしておいてくれよ」
 青葉は平然と俺の言葉を遮り、劉さんはあっはっはと朗らかに笑う。
 今気付いたけど、この二人って結構似てるかも。
 主に俺の言葉を無視するところが。
「このように、R容疑者は犯行を否認、無罪を主張しています」
「いやだからRって…」
「そうさ。私は昨日はずっと店にいたんだからね。下着泥棒なんてできない」
 青葉はしつこくR、Rと言い続ける。
 ツッコもうと思ったが、当の劉さん自身がまるで気にしていないようなので、俺もツッ
コむのをやめることにした。
 それによく考えてみれば、俺が劉さんの名誉を回復してやる必要なんて微塵もない。
「そこで司。R容疑者の生態に詳しい貴方に、R容疑者の言い分の真偽を確かめることを
命じます」
「生態って、劉さんは昆虫やハ虫類じゃないぞ…」
「Rと言っても、究極超人じゃないからね」
「聞いてもいないことを勝手に言わないで下さい」
「美少女戦士でもない」
「もしアンタが女だったら俺はこの場で首を吊ります」
「ましてや十五歳以上推奨の意味では絶対にないよ」
「次から次へと、よくもまあ下らないことを思いつきますね」
「まあ、そうかもしれないね」
 ははは、とひとしきり笑った後で。
 劉さんはフッと表情を翳らせて。
 どこか哀しげな口調で、ぽつりと言った。


「でもね。もしそうでなかったなら、私は今ごろ、富士の樹海で冷たくなっていたよ」


「ウソだ! それは絶対にウソだ!! シリアスな演出に騙されないぞ!!」
「司くーん、無闇に人を疑うのは良くないよ。人という字は…」
「人は無闇に疑わないけど、劉さんは無条件で疑います!」
 俺はキッパリと言い切ると、青葉に振り向いた。
「青葉。このように劉さんはウソをついている、よって犯行を否認する供述も信用に値し
ない。従って、下着を盗ったのは劉さんだ。謎は全て解けた、犯人はこの中にいる!」
 ズビシと劉さんを指差す。
 気のせいか、ドーーーーーーーン!! という効果音が聞こえた気がした。
「避妊避妊って君たちうるさいね。私は避妊は好きじゃないよ、やるならナマで…」
「意味が違う! 意味が決定的に違う!」
「下衆ね。人間の屑だわ」
「とにかく、私は潔白だよ。証拠もある」
 フフンと不敵に劉さんは笑い、青葉に向き直る。
「青葉くん。犯行時刻は、昨夜の午後十時から午前八時の間だったね?」
「そうだけど」
「じゃあアリバイがある。その時間、私はずっと龍龍にいたからね。万一に備え、十五分
毎に楓に時間を聞いていたから、楓がはっきりと覚えているはずだ」
「そんな不自然なことしてたらかえって怪しいですよ!」
「私は日常的にそうしているよ? いつ凶悪犯罪に巻き込まれるか、わかったものじゃな
いからね」
「そんなことしない方がよっぽど安全です!」
「付け加えると、楓は相当イラついているようだ。『何かあったら虚偽の証言をしてやる
わ』と言っていた。どうしてだろうね? 司くん」
「当たり前です!」
「だがアリバイにはなる。どうだい青葉くん、これでも私を疑う?」
「………」
 青葉は黙り込み、何かを考え始めた。
 …と思っていたら、おもむろに顔を上げ、またろくでもないことを言い出す。
「わかりました。では高屋敷司捜査員に加え、劉家輝捜査員も本件の捜査に加わりなさい。
それが潔白を証明する一番の方法」
「えー、私はデカより探検隊の方が好きだなあ。水曜スペシャル・高屋敷司探検隊! 雪
山に潜む謎の野人を追え!」
「アンタ中国の人なのになんでそれ知ってるんだ!」
「いやいやいや、はっはっは、そこはそれ、ねえ…」
「笑って誤魔化すな!」
「その辺りは任せます。では捜査を始めます」
 俺と劉さんを冷徹に見下ろし、青葉が宣言した。
 そのまま、俺たちの返事も待たずに部屋を出て行く。
「…はあ」
 俺は大きな溜息をつき、立ち上がった。
「なんで毎度毎度青葉の仕切りに従うんだろ、オレ…」
「…ふむ」
 一方の劉さんは、俺とは違う事を考えているらしい。
 面白いことを見つけた子供のような目をしている。
「劉さん? どうかしました?」
「いや…。なんでもない、ということにしておこう。私が言うことじゃないからね」
「は?」
「さあさあ、我々も青葉君に続こうではないか。身に覚えの無い濡れ衣を晴らすために!」
「は、はあ…」






 俺たちは、まず真純さんに話を聞いてみることにした。
 今回も前と同じく、真純さんが夜中に干していた間に無くなったらしい。
「下着ドロが出たと言うのに、依然同じ場所で干し続けるとは。彼女もなかなかの剛の者
だね」
「当の犯人がよくもいけしゃあしゃあと」
「盗人猛々しいとはこのことね」
「司くん青葉くん、いつまでも過去にとらわれていてはいけないよ。人間は前に進んでこ
そ人間なんだからね」
「綺麗なセリフで誤魔化すな!」」
「おっと間違えた。いやつまりね、過去の過ちには寛大な精神を持って当たるべきだと…」
「同じことです!」
 劉さんをしばいたところで居間に着く。
 辺りを見回してみるが、真純さんの姿はない。
「いないな。どこにいるんだろう」
「たぶん、台所」
 俺の呟きに青葉が答える。
 柱時計を見ると、長針は12、短針は9を指していた。
 朝食はもう終わっているし、昼食を作るにしては少々早すぎるだろう。
「なんで台所に? こんな中途半端な時間なのに」
「夜まで出かけてくるから、昼食を作り置きしておくって」
「ふーん」
 青葉の言葉に相槌を打つ。
 無ければ無いで適当に食べるから、わざわざ用意してくれなくてもいいのに。
 あの人もつくづくお人好しだな。
 だから人に利用されるんだ。
「君も人のこと言えないと思うよ。司くん」
「あんたはエスパーか」
「司、台所に行くわよ。遊んでないで早く来なさい」
「へいへい」
 青葉に呼ばれ、やむなくついていく。
「ふんふんふん……♪」
 台所を覗くと、予想通り真純さんがいた。
 包丁捌きも軽く、上機嫌で鼻歌まで口ずさんでいる。
「♪君に会えたから気がついた 自分の中に流れていること♪」
「…良い歌だね」
 劉さんが囁いた。
「そうですね。俺も、そう思います」
 聞いたことがあるような、無いような。
 不思議と懐かしく、優しく、温かいメロディーだった。
「…あら?」
 不意に歌が途切れた。
 見ると、真純さんが手元を見つめて困っている。
 指でも切ったのかと思ったが、その割には痛がっているような様子は無い。
 コソコソする必要もないので、俺は真純さんに声をかけた。
「真純さん、どうかしました?」
「あ、司くん。それがね…」
 真純さんは振り向き、まな板に乗った魚を示す。
「…鯉?」
「やあ、まさしくまな板に乗った鯉ってヤツだね」
「うるさいです店長」
「ちなみにまな板に乗せられた鯉って、実際にはかなりしぶといよ。包丁を入れてもなか
なか死なないんだな、これが」
「生々しい話をしないで下さい!」
 いかん、どうも劉さんと話しているとペースが狂う。
 俺はゴホンと咳払いをし、勿体をつけてから改めて真純さんに話し掛けた。 
「鯉がどうかしたんですか?」
「上手く包丁が入らないのよ。今までこんなことなかったんだけど…」
 真純さんが持つ包丁を見てみるが、特に錆付いていたりはしない。
 切れ味が落ちているわけではないようだ。
「じゃあ、ちょっと包丁を……」
「よしわかった真純君! 子供たちに父の威厳を見せつけるためにも、ここは私が切ろう
ではないか!」
 俺が代わりにやろうとすると、いきなり寛が現れた。
 包丁を奪い取り、わははははと高笑いを上げる。
 文字通り、既知外に刃物だ。
「別にいいけど。お前、包丁なんて使えるのか?」
「見縊ってもらっては困るな司。こう見えても、刃物の扱いには自信があるのだ」
「そりゃ見物だ。じゃあ早速やってみてくれ」
「了解した」
 言うが早いか、寛はするりと眼鏡を下げた。
 裸眼で鯉を確認し、包丁をあてがう。
「……ほう」
 思わず声が出ていた。
 寛の包丁捌きはなかなか堂に入ったものだった。
 ほとんど力を入れていないように見えるのに、包丁は確実に鯉の中に吸い込まれていく。
 まるで、鯉の方で包丁を受け入れているような…。
「やるじゃないか、寛。お前にこんなスキルがあったとは知らなかった」
 世辞抜きでの俺の賛辞に、寛は眼鏡を戻し、ニヤリと笑って答えた。
「なに。直死の魔眼の力をもってすれば、これくらい容易いことよ」
「待て待て待て、直死ってなんだ直死って!」
「簡単に言えば、物の切れやすい線が見える目のことだ」
「簡単に言うな!」
「なおこの眼鏡は最後の魔法使いである…」
「黙れ既知外! 一瞬でも貴様に感心した俺が馬鹿だった!」
「わははははは! 全くお前は馬鹿よのう、司!」
「本当の馬鹿はお前だ!!」
「あの、えーと、喧嘩はやめた方が…」
 俺と寛が睨み合う隣で、真純さんがおろおろしている。
 ふと視線を動かすと、青葉はちょっと不機嫌そうに青筋を立て、劉さんは「ファイト!」な
んてほざいていた。
 劉さんはともかく、青葉は怒らせない方が良い。
 高屋敷青葉の機嫌を損ねない。
 それは、俺が高屋敷家に来て知った、生きる上で必要不可欠な知識の一つだった。
 ちょっと情けない知識だが。
「まあいい。こんなことをしに来たんじゃないんだ、俺たちは」
 青葉の怒気を誤魔化すために、俺はさも重要な用件を切り出すかのような口調で言う。
 今までの馬鹿話は全て真純さんの緊張をほぐすためで、例えるなら刑事が取調室で犯人
に『故郷のおっかさんが泣いてるぞ。カツ丼食うか?』と言うような、そんな意味だった
のだということを懸命にアピールした。
「白々しい演技だこと」
「うぐっ」
 一瞬言葉に詰まるが、かろうじて体勢を立て直す。
「真純さん。青葉の下着がまたなくなったんだ。干したのは真純さんだよな?」
「そうだけど…」
「何か不審なこととかなかった?」
「特になかったと思うわ。一緒に私と春花ちゃん、末莉ちゃんの洗濯物も干したんだけど、
私たちの分はちゃんとあったから」
「ふむ…」
 やっぱり、青葉がどっかでなくしたと考えるのが一番しっくり来るんだが。
「………?」
「いや何でもない」
 そんなこと言ったらまた怒るからな、こいつ。
 とりあえず、屋敷内を探してみるか。
 どこかに紛れ込んでいるかもしれない。
「わかった、ありがとう真純さん。それじゃ、俺たちは行くよ」
「役に立てなくてごめんね」
「なんの」
 軽く片手を上げて、俺は真純さんに背を向ける。
 青葉と劉さんも大人しく俺についてきた。
 寛もついて来るんじゃないかと心配していたのだが、幸い杞憂に終わった。
 真純さんと何か話しているらしく、こっちを気にすることはない。
 二人の間に立ち入る気はなかったので、俺たちはそのまま台所を後にした。






 居間に戻ったところで、俺は後ろの二人に振り返った。
 青葉は相も変らぬ仏頂面だが、劉さんも劉さんでなんだか真面目な顔をしている。
 いつも余裕ぶっているこの人にしては珍しいことだ。
「劉さん、どうかしました? 妙に静かですね。劉さんらしくないですよ」
「君は割と失敬だなあ。じゃあどんなのが私らしいんだい?」
「腹黒いことを言っては笑って誤魔化して、面倒事は全て俺に押し付けて、色欲と金銭欲
にまみれているのが劉さんらしいです」
「司くん。実は私のこと嫌いだろ?」
「わかります?」
「即答は悲しいよ司くん」
 はっはっはと全然悲しんでいない笑いをかましてから、劉さんは言った。
「いや、なかなか興味深いんだよ。やっぱり私の見込んだ通りだったな、と思ってね」
「は? なんですか、さっきから思わせぶりなことばかり言ってますけど」
「まあまあ、気にしないで。それより、次はどうするんだい?」
 劉さんは青葉に目を向けた。
 つられて俺も青葉を見る。
「…………ぷい」
 ソッポを向くな。
「素直にわかりませんって言えよ」
「私の辞書に『わからない』という言葉はないわ」
「そりゃ落丁だ、すぐ取り替えた方が良いぞ」
「…お祖父様にいただいた辞書なのだけれど?」
 首元に冷たい鋼の感触。
 この素早く的確なナイフ攻撃は、常人のレベルを遥かに超越していると思う。
「多分世界で一冊しかない辞書だ。大事にした方がいい」
「言われなくても大事にしているわ」
 青葉は漸くペインティングナイフを引いた。
 フーッと一息つく。
 しかしこいつ、前世は仕事人か何かだったんじゃないか。
「仕方ない。屋敷内を探してみるか。意外とあっさり見つかるかもしれないからな」
「それより、今回も囮作戦を…」
「大却下だ!」
 青葉の提案を即座に却下する。
 そんなことになったら、どうせまた俺が末莉の下着を借りる羽目になるんだ。
 そしてきっと末莉は………まあ、そういう状態の………言わば『焼きたて』状態の下着
を出してきて、んでもって俺は………。
「………」
「司?」
「……………み」
「み?」
「ミギャラーーーーーーーーーーーーーーーースッッ!!」
「………何かしら? その出来損ないの翼竜みたいな叫び声は」
「いや何でもない、俺が自我を取り戻すためのおまじないみたいなものだ。気にしないで
くれ」
「自我?」
「気にするなとゆーとろーが。それより、当初の俺の指針通り、屋敷内の探索を行うぞ!」
「…私が不注意でなくしたと?」
「そういうわけじゃないが、どこかに紛れ込んでいるかもしれないだろ。念のために探し
てみて損はない」
「…まあ、そういうことなら」
 珍しく青葉がすんなりと折れた。
 これは何かあるんじゃないか…と思っていたらやっぱりあった。
「司くん司くん、私は…」
 美白の美青年風でありながら下着泥棒というどうしようもない人が一緒にいたんだった。
「前科者の意見は却下です」
「ちぇっ。せっかく、どういうポイントが狙いやすいか伝授してあげようと思ったのに」
「そんなことは教えて欲しくない!」
「『ちぇっ』なんて現実に言う人、初めて見たわ…」
 渋る劉さんをどうにか宥めすかし、俺たちは探索を開始した。






 屋敷の捜索に一日を費やした。
 前回は半日で終わったのに、今回は倍の時間がかかってしまったのだ。
 それは決して、俺が無能だったというわけではない。
 あちこちの部屋をゴソゴソやっていると、劉さんが必ず
「司くん、これなに?」
 奥の方から何かを無理矢理引っ張り出し、ついでにきちんと収納されていた色んな物を
さんざんに撒き散らし、
「………#」
 青葉が殺意の波動を漲らせ、後始末を殺人的な目で俺に命じるのだ。
「……俺がちらかしてるわけじゃないのに……」
「責任者はあなたでしょう?」
「どっちかっつーと劉さんの方が俺の責任者なんだが」
「ノンノン、司くん。ただの店長代理にそこまでの権限はないよ」
「人事みたいに言わんで下さい」
「………##」
 俺と劉さんが話していると、質量を伴いそうな視線が容赦なく降り注ぐ。
 無駄話してないでさっさと片付けろ、というわけだ。
 目は口以上に物を語る。
 俺が高屋敷家に来て知った、新しい格言の一つだ。
 ただし青葉にしか効果は無いが。






 屋敷内を一通り調べ終え、俺たちは居間に戻った。
「もう夕方ね」
「ああ」
 青葉の言葉に外を見ると、赤い光が斜めに差し込んでいる。
 じき暗くなるだろう。
「今日の捜索はここまで」
 俺と劉さんを見、青葉が活動終了を宣言した。
「明日は救助隊」
「嫌な救助活動だな」
「ではそういうことで」
 青葉はさっさと居間を出て行く。
 自室に戻るんだろう。
 あそこには、人類の英知の結晶・Airコンバーター略してエアコンがあるからな。
「ってなんでエアーが英語やねん」
 自分で自分に突っ込む。
「司くん、寂しいんだね。虚しく一人ボケ突っ込みをするなんて…」
「たまたまです! たまたま!」
 からかわれるかと思ったが、劉さんはそれ以上何も言ってこなかった。
 俺の方も話すことはなかったので、それきり口をつぐんだ。
 みーん、みーん、みーん。
 セミの鳴き声が聞こえる。
 虫の鳴き声が聞こえる。
 名も知らぬ夏の虫たちが一斉に鳴いている。


 妙に、静かだった。
 普段なら、台所から、夕食の支度の音が聞こえるはずなんだが…。
「ああ、真純さん、いないんだったな」
 準と寛がいないのはいつものこととしても、末莉と春花も部屋にこもっているのだろう
か?
 この時間に、誰も居間にいないというのは珍しいことだった。
「司くん。一つ聞いて良いかな?」
 いきなり、劉さんが言った。
「え…何です?」
「どうして君は、青葉くんに従うんだい?」


 心臓が、どくんと鳴った。


「…何のことです? 俺は別に青葉に従ってなんか…」
「それは嘘だね」
 劉さんの言葉は冷徹だった。
 それは悪意こそなかったけれど、俺が考えまいとしていた部分を、白日の元に晒そうと
する行為に他ならなかった。
「言い方が悪かったかな? じゃあ言葉を変えよう。何故君は、青葉くんの頼みを断らな
いんだい?」
「…だから、俺は青葉の頼みなんて…」
「司くん。その程度のウソで私を騙せると、本当に思ってる?」
「………」
 俺は言葉に詰まり、ガリガリと頭をかいた。
 誤魔化しは通用しない、というわけか。
「俺だって好きでやってるわけじゃないですよ。けど、青葉は怒らせると後が怖いから…」
「それだけ?」
「当然です。他に何があるっていうんですか」
「本当に嫌なんだったら、君は拒否できるはずだ。しかしそれをしない。そこに何か、不
自然なものを感じるんだよ。私はね」
 劉さんの追及は厳しい。
 けど、そんなことは…俺だって。
 俺だってわからないんだよ。
 どうして俺は青葉に従うのか。
 どうして俺は青葉の頼みを断らないのか。
 どうして、俺は──。
「…計画のためです」
 苦しい息の下で、やっとそれだけを答えた。
「と言うと?」
「青葉も、家族計画の一員です。抜けられると困るから、誰かが青葉の相手をしなきゃな
らない。そして青葉を除く六人のうちでは、俺が最も青葉と親しいから。だから、俺は──」
「…なるほど。一応は納得できる答えだね。君がそう言うのなら、そういうことにしてお
こうか」
 それきり、劉さんは口をつぐんだ。
 居間に再び静寂が戻る。
 暗みを増している陽光と重なり、妙に重苦しく感じられた。
「劉さん。俺からも、一つ質問良いですか?」
 質問をされたから、というわけではないが。
 俺も、ずっと気になっていたことを劉さんに確かめてみることにした。
「私が答えられることならね」
「どうして今日、朝から付き合ってくれたんです? 劉さん、仕事あったはずなのに」
「言わなかったっけ? 青葉くんに脅されたって」
「あれくらいの脅しに応じる劉さんじゃないでしょう。劉さんは脅しのプロなんだから」
「ははは。君も言うようになったね」
 劉さんは軽く笑い、それから、すう、と目を細めた。
 たったそれだけの変化なのに、劉さんがまるで別人になってしまったかのような、そん
な錯覚を覚えた。
「まあ、脅されたってのは冗談だけどね。青葉くんに呼ばれたから来たんだよ。これは本
当だ」
「どうしてです? 劉さんと青葉って、一度会ったことがあるくらいでしたよね?」
「そうだね、面識はほとんど無い。でも、私は彼女に対しても感じたんだよ。君と同じ感
触を」
「…え?」
「似ていたんだよ。君と、青葉くんが」
「俺と青葉が?!」
 勘弁してくれ。
 俺はあそこまで強圧的じゃないし、自己中心的じゃないし、毒を吐き散らさないし、我
がままじゃないし──
「そういう意味じゃないよ。確かに、表面的にはまるで違う。けどね、内面で抱えている
物──思っていること──感じていること──。そう言った点においては、君と青葉くん
はそっくりだった」
「………」
 俺は言葉を返せなかった。
 そう──なんだろうか?
 自分では、よくわからない。
 ──ただ。
 考えてみれば。
 この家の中で、青葉が自分から声をかけるのは、俺が相手であることが多かった。
 青葉が最も与しやすいと見ていたのは、俺だった。
 俺の方も、何だかんだ言って、青葉とよく話をしていた。
 青葉に付き合って、いらん苦労を背負い込んだこともあった。
 それは、もしかしたら──。
 自分と同じ匂いを、お互いに感じ取っていたからなんだろうか──。
 劉さんは言葉を続ける。
「君は変わったよ、司くん。良い意味で変わった。それは純粋に良いことだと、私は思う
よ」
 変わった?
 俺が?
「………」
 俺は、変わったのだろうか。
 そんな自覚はない。
 でも。
 もしそうだとするなら。
 それは──
「…もし、そうだとするなら。俺が良い意味で変わったとするなら。それは、劉さんのお
かげです。劉さんに言われて春花を助けたのが、全ての始まりでしたから」
「そう言ってもらえると、私も嬉しい。私の計画は──、どうも失敗に終わりそうだけど、
まあ良いさ。私は君が好きだから、君を利用するようなことはしたくない」
 そう言って、劉さんは目を閉じた。
「…計画?」
 俺の問いかけに、劉さんは答えなかった。
 目を閉じたまま、どこか遠い物を見ているようにも思えた。
「青葉くんの話だったね」
 一呼吸置いて顔を上げた劉さんは、いつもの劉さんだった。
「彼女には、きっかけが必要なんだ。青葉くんは──何か大きな物を抱え、それに縛られ
ている。けれど、きっかけさえあれば、彼女だって変わっていける。君が春花君と出会っ
て変わったようにね」
 劉さんの言葉は、不思議な力強さに満ちている。
 なぜ、そんなにはっきりと。
 言い切ることが、できるんだ──?
「そのきっかけを探したくて、来てみたんだけどね。私の出る幕はなさそうだ」
「…え?」
「司くん。君も青葉君も、いつまでも過去にとらわれていてはいけない。人間は、前に進
んでこそ人間なんだからね」
 ──あ。
 そのセリフは、今朝方劉さんが言っていた──。
「…もしかして、それが言いたくて、わざわざ…?」
「あはは。ちょっと言うタイミングを間違えちゃったけどね」
「間違えすぎです」
 あんなタイミングで言われても、言い逃れとしか思われないだろう。
 実際に俺も青葉もそう思ったんだから。
「ま、それはともかく」
 居住まいを正し、劉さんは改めて口を開く。
「君が春花くんと出会って変わったように、青葉くんにも変わるためのきっかけがいる。
そしてそれは、青葉くんが深い信頼を寄せている、君にしかできないことだ」
「青葉が…俺を信頼している?」
 今日の劉さんは色々変なことを言ったけれど、これがとびっきりだった。
 あの青葉が誰かを信頼することなんてあるとは思えないし、ましてや俺を信頼するなど──
「青葉くんは君を信頼しているよ。本人も気付いていないかもしれないけどね。外から見
てればわかるんだよ」
 信頼。
 俺を、青葉が?
「まさか──」
「例えば、自分の言葉の返事を聞く必要もないほどに相手を信頼している、とかね」
「…あ…」
「君が自分の頼みを断る……なんて、青葉くんはまるで考えてないんだよね。自分の言う
ことは絶対にきいてくれると思ってる。それは──まあ多少は自分本位な部分もあるのか
もしれないけれど、でも、深い信頼の現れだとも取れるんじゃないかな」
「……善意に解釈し過ぎですよ。あいつはただ、世界が自分を中心に回ってると思ってる
だけです」
 俺は、そんな減らず口を叩いていた。
 劉さんの言葉は、素直には受け入れがたいものだった。
 それじゃあ、まるで──
 青葉が、俺を──
「──劉さん。もう一つ、いいですか?」
「いいよ。なんだい?」
「どうして、そこまで、俺たちのことを考えてくれるんですか?」
 話を聞いていて、俺がどうしても納得できなかったことだ。
 今日の劉さんの言動は、『上司による部下の悩み相談』なんてレベルで片付けられるも
のじゃない。
 俺や青葉のことを真剣に案じ、より良い方向に導こうとしてくれている。
 それは例えるなら、教師が生徒を指導するような行動で。
 そこまでの厚遇を受ける理由を、俺は思いつかなかった。
 だが劉さんは心外といった風に眉を顰め、相好を崩す。
「さっきにも言わなかったかい? 私は、君が好きなんだよ。だから君の助けになりたい
んだ。これじゃ不満かな?」
 熱っぽく語り、心持ち俺に体を近づけてくる。
 俺の体を鳥肌のような衝撃が駆け抜けた。
「……劉さん……」
「感動した?」
「尻を擦っているこの手がなければね」
 俺は劉さんの左手をムンズと掴み上げる。
 隙あらば体を狙ってくるな、この人は。
「残念。前にも手を出したかったのに」
「俺にそんな趣味はない!」
「大丈夫だよ、痛いのは最初だけ。すぐに気持ちよくなるから。天井の染みを数えている
うちに終わるよ」
「何の話だ!」
「それをこれからゆっくり教えてあげるよ、ふふふふふ………」
 迫り来る劉家輝に、半ば本気で貞操の危機を感じたとき。
 廊下の黒電話がリーンと鳴った。
 これ幸いと居間を飛び出し、受話器を取り上げる。
「はい、もしもし」
「あ、沢村様ですか?」
 受話器の向こうからは、聞き覚えのある声が流れてきた。
 どこで聞いた声だったかな…と視線を巡らせ、劉さんを見て思い出した。
「えっと…楓さん、だっけ?」
「はい、楓です。あの、兄がそちらにお邪魔してはいないでしょうか?」
「劉さんですか? それなら…」
 目を向けると、渦中の人物は両手で×のジェスチャーをしている。
 いないということにして欲しいらしい。
 俺は劉さんに向かってウンウンと頷いて見せ、電話に戻る。
「いないと言ってくれ、というポージングをしています」
 ズダダン! と劉さんが豪快にすっ転んだ。
「……はぁ……。すみません、すぐに迎えの車を送りますので、もう少しだけおいてやっ
て下さいませんか」
「ええ、いいですよ」
「お願いします。それでは」
 楓が電話を切ったのを確認して、俺も受話器を置く。
 と、途端に劉さんが詰め寄ってきた。
「司くーん、ひどいじゃないかあ。私のボディランゲージ、ちゃんと通じてたよね?」
「俺は、受けた恨みは百倍にして返す主義です」
「青葉くんに対しても?」
「俺は、勝てない戦はしない主義です」
「軟弱者」
「黙れホモ」
「私はバイだよ」
「それもっと悪い」
 劉さんと口げんかをした。
 青葉の毒舌に鍛えられた成果か、人を罵倒する言葉のバリエーションがかなり増えてい
た。
 あんまり嬉しくなかった。
 むしろ悲しかった。
 そうやって、廊下でしばらく無駄な時間を過ごす。
「……結局、出てきませんでしたね。下着」
 お互いの口撃の切れ目を縫って、俺は言った。
「そうだね」
 やんわりと劉さんが応じる。
 この人は、どうも下着が見つからなかったことにさほど拘っていないようだ。
「劉さん、いいんですか?」
「何が?」
「事実が明らかにならないと、劉さん疑われたままですよ。次の捜索活動の時も、きっと
呼びつけられます」
「うん、まあそうかもしれないけど。それも良いと思うんだよね」
「どうしてです?」


「この家には、また来たいから。来る理由が無くなると困る」


 そんなことを、劉さんは言った。
 それは、とても優しくて。
 とても、悲しい台詞だと思った。
「………理由なんかなくったって、誰も劉さんを追い返したりしませんよ」
 だからだろうか。
 柄にも無いことを言ってしまったのは。
「………」
 俺の言葉を聞いて、劉さんはちょっと驚いたように眉を上げ、そして。
「とりあえず、君が私を追い返さなければ、理由なんか必要ないんだけどね」
 そう言って、薄い微笑みを浮かべた。
 優しさに溢れたその表情は、この人に似つかわしくないものだと思った。
 その時。
 ぴんぽーん、と。
 家の呼び鈴が鳴った。
「囚人輸送の護送車が到着したみたいですよ。今日はこれまでですね」
「司くん、君何やったの? 護送車で網走に送られるなんて」
「乗るのはあんただ! しかも護送先は網走決定?!」
「網走の夜は寒いよ」
「だから乗るのはあんたなんだよ!」
「私は囚人じゃないよ。ちょっと腕に覚えのある小粋な小悪党なだけさ」
「そういうことを言う時点で十分大悪党です。いいから、さっさと帰って下さい」
 俺は劉さんの肩を押し、無理矢理玄関まで押し出した。
 途中「はわわわわわわ〜〜〜」なんてほざいてたけど無視する。
「じゃ、劉さん、気をつけて帰って下さい。また龍龍で」
「何事もなかったかのように平然と別れの挨拶を言う君も素敵だよ司くん」
 劉さんはまだブツクサ言っていたが、既に迎えの車が来ているので、仕方なく家を出た。
 一応は上司なので、俺も外に出て劉さんを見送る。
「きっとまた遊びに来るからね!」
「はいはい。ちゃんと遊んであげますから、今日はもう帰って下さい」
「うーん……」
 ここまできても、まだ劉さんは車に乗りたがらない。
 なんやかやと理屈をつけては時間を引き延ばそうとする。
「劉さん、どうしたんですか? 車、待ってますよ」
「うん、それがね…」
 深刻げに眉を顰め、劉さんは口ごもる。
「楓が怒っていそうで怖いから、帰りたくないんだよね」
 俺は劉さんを蹴っ飛ばし、後部座席に押し込んだ。
 素早くドアを閉め、ドライバーに声をかける。
「運ちゃん! 行ってくれ!」
「あいよっ!」
 ブブゥとエンジン音高く、車は走り去っていった。
 涙目でリアウィンドウを叩くR容疑者(年齢不詳・恐妹家)の姿と共に。
 悪は滅びた。






「あの人は帰ったの?」
「うわっ!」
 玄関に戻ると、青葉がいた。
 腕を組み、仁王立ちになって俺を見下ろしている。
 なんでこの女はいちいち人を威圧するんだ。
 それ以前に、仁王立ちが似合う女って一体…。
「…何故かしら。なんだか不愉快になってきたわ」
「気のせいだ」
 靴を脱いで入ろうとして、ふと足を止めて青葉を見た。
 さっきの劉さんとの会話が甦る。
 劉さんの言い分を素直に解釈するなら、それは──
「なに?」
「いや、なんでもない」
 まさかなあ。
 そりゃあないよなあ。
 …と思いつつも、なんだか妙に青葉を意識してしまった。
 今夜は夕食がちゃぶ台じゃなくて助かった…。






 青葉の下着は、翌日洗濯物を取り込んだら、その中に一緒に入っていた。
 今回は本当にどこかに紛れ込んでいたらしい。
 一応、劉さんは冤罪と言うことになる。
 しかし屋敷内を探した時に出てこなかったのも、劉さんがさんざん邪魔をしたせいだ。
 それを考慮すると、プラスマイナス0かな、と思う。
 そんな、夏の一日だった。












「────そんなことも、あったっけな」
 縁側に座り、劉さんからの手紙を読む。
 悔しいことに、俺より字が上手かった。
「そうね」
 隣で青葉がゆったりと微笑む。
 こっちに越してきてから、劉さんとは一度も会ってない。
 退院した日に挨拶に行ったっきりだから、もう一年以上会っていないことになる。
「劉さん、元気かな。久しぶりに会いたいな」
 不思議なものだ。
 毎日のように顔をあわせていた頃は、鬱陶しく感じることもあったのに。
 今は、無性に会いたい。
「大丈夫よ。元気のない劉家輝なんて、想像する方が難しいもの」
 毒舌風なことを言っても、その口調に険はない。
 R容疑者からは格上げになったようだ。
「劉さん以外にも、楓、景、小夜、由利…。みんなどうしてるだろう」
「…女性の名前が多いような気がするのだけれど?」
「いていていて! 耳を引っ張るな耳を!」
 頬を膨らませ、青葉が俺の耳を引っ張った。
「旧知の友人の近況を知りたいだけだよ」
 耳を擦りながら青葉に答える。
 この話題での不利を察した俺は、素早く話の転換を図ることにした。
「劉さんが言うにはさ。例の下着泥棒の件は、俺と青葉と話をするきっかけを作るために、
一芝居打ったってことらしいんだけど。どうにも信じられないんだよな」
「どうかしら。あの人、飄々としているようでかなり頭が切れるから。意外に本当かもし
れないわよ」
 青葉も素直に話に応じる。
 穏やかな表情になり、
「それとは別に、女性の下着が欲しいっていう目的もあったのかもしれないけどね」
そう言って、おっとりと笑う。
 そんな青葉を見ていて、俺は唐突に思い出した。
 あの時、劉さんに言われた言葉を。


『きっかけさえあれば、彼女だって変わっていける。君が春花君と出会って変わったよう
にね』


 そうだ。
 青葉は変わった。
 初めて会った時の、刺々しく、人を寄せ付けず、全てに敵対していた青葉はもうどこに
もいない。
 今ここにいるのは、愛情と優しさに満ち溢れた──俺の、愛する妻だ。


『君は変わったよ、司くん。良い意味で変わった。それは純粋に良いことだと、私は思う
よ』


 ああ──。
 劉さんはあの時、こんな気持ちだったのかもしれない。
 青葉が変わってくれたのは、純粋に良いことだと。
 俺は思う。
 でもその心境は、もう一年以上も前に、劉さんが到達していたところで──。
「…どうしたの?」
「広田寛と劉家輝の二人はいつか倒さねばならないと、その決意を新たにしていたんだ」
「…? おかしな人ね」
「ははは…」
 曖昧に笑い、手紙に目を戻す。
 劉さんの手紙は、謝罪の言葉と共に締めくくられていた。


『最後に一つだけ、謝らせて欲しい。
 私は君を利用しようとしてしまった。
 結果としては上手くいかなかったが、それで良かったと思っている。
 もし成功していたなら、きっと君は私を軽蔑していただろうし、何より今のような形で
の君の幸せはなかったに違いない。
 ひょっとすると、君に多大な労苦を強いることにもなっていたかもしれない。
 すまない。
 本当にすまなかった。
 謝って許されることではないが、他の手段を私は知らない。
 いつかまた、君と語り合える日が来ることを願っている──。』


 そう書いて、結ばれている。
「…何のこと?」
「さあ?」
 俺に聞かれても、わかるはずがない。
 何を言っているのかさっぱりだ。
「わかりやすく考えると……、劉さんが悪企みをしていて、俺がそれに巻き込まれかけた…
と、そういうことなんだろうか?」
「ふふふ。案外そうかもしれないわね」
 口元に手をあて、くすくすと青葉が笑う。
 そんなちょっとした仕草も、俺は好きだった。
「まあ、何のことかよくわからないけど。俺は怒ってなんかいないって、返事しなきゃな。
劉さんは好きだし、恩もある」
「恩?」
「ああ」
 俺は大きく頷き、青葉の目を見る。
 深い慈愛を湛えた瞳に、俺の姿が映りこんでいる。
「劉さんのおかげで…とまでは言わないけど。今こうして俺たちがいられることの一端に、
劉さんのことがあるのは確かだから」
「貢献度は5%くらい?」
「消費税並みか」
「税率アップに伴って貢献度もアップ」
「じゃ、いずれ100%になるかもな」
「そうなると、劉さんが私たちの仲を取り持ったということに」
「それはいやだな」
「そうね」
 青葉と二人、笑い合う。




 なんということのない日常。
 愛する人と、共に生きていける日々。
 それのなんと貴重なことか。
 どれほど尊いことか。
 青葉と歩んでいける運命の偶然に、俺は感謝する。
 その幾多の偶然の中には、劉さんのことも確実にあって。
 もし劉さんと出会っていなければ。
 この現実は、無かったかもしれない──。




「…そのうち龍龍に行ってみるか。久しぶりに劉さんに会いたいし、気にするなって言っ
てやらないとな」
「末莉達にも、会えると良いわね」
「…そうだな」
 ああ。
 そうだった。
 肝心な五人のことを忘れていた。
 あの騒がしくて無茶苦茶で荒唐無稽で、でも不思議と心が和む俺たちの『家族』は、今
どうしているのか。
 あいつらの近況も、知りたい。
「真・家族計画は、まだ時間がかかりそうだけど」
「ははは…」
 俺は手紙をたたみ、封筒に戻した。
 青葉に封筒を預け、縁側から立ち上がる。
 ん〜! と背伸びをしていると、カラスが飛んで来て俺の肩に止まった。
「お、もうメシの時間か?」
「クワ」
「わかった、今持っていく」
 カラスに答え、青葉に振り返る。
「じゃ、行ってくる、青葉」
「はい。いってらっしゃい、あなた」
 青葉に見送られ、家を出た。
 空を見上げると、雲ひとつない見事な日本晴れ。






 今日も、暑くなりそうだった。
 一年前の、あの夏の日と、同じように。