ある新聞勧誘の体験

 一人暮らしの学生にとっての最大の敵は「新聞の勧誘」であろう。私も常々イヤな思いをしてきたが、先日のものはすごかった。
 土曜の夜なのでアルバイトに行かなければならず、飯を食った後を片づけて早く行こうという時に、呼び鈴が鳴る。「お届け物でーす」さて、或いはずっと前にネット注文していた本がやっと届いたか、と「はーい」と返事をする。だが待て、一応気をつけるべきか。覗き穴から覗くが、玄関前に人が見えない。「配達?」「はい」ドア・チェーンをつけたまま開ける。そこから見える範囲には誰もいない。「?」と思うと、ドアの陰から「兄ちゃん、用心深いじゃないの」と言いながら、黒眼鏡をかけポロシャツ姿の背の低い男が現れる。
 「配達じゃないの?」「兄ちゃん、なめてるのか、俺が配達に見えるか」
勿論、こういう時間に配達以外で来るのは新聞の拡張だけである。だが、わからぬような顔をしてみせた。
 「はあ?」「宅急便に見えるかって聞いてるんだよ」「は?」「新聞だよ」

→新聞の拡張員がウソをついてドアを開けさせるのは常套手段であるが、販売店の人間も平気でウソをつく。読売新聞の販売店だが、「宅急便です」と名乗ってドアを開けさせ、「へへ…読売新聞ですが、集金にお伺いしました」といった経験がある。まあ、集金に対して居留守を使う者が多いので苦肉の策だろうと思い、大して怒りもせずに支払っているが、新聞業界では、「嘘も方便」が常識なのだろう。拡張員の場合は、集金の場合と違ってこちらにドアを開ける義理が全くないだけに嘘もよりいっそうタチが悪いと言えるだろう。

「なあ、新聞よく来るだろ」「ああ、よく来ますね、新聞屋」「迷惑だろう、なあ。いやな目にあってるだろ」「ええ」「なあ、もっといやな目にあわせてやろうか」「は?」黒眼鏡の男はヘヘヘ…と笑った。「え?もっといやな目に遭いたいかって聞いてるんだよ
 「もう新聞はとってるから」「兄ちゃん、なめてるのか。それは新聞屋と契約したんだろうが」「は?」「おれと契約したわけじゃねえだろ、なあ。意味わかるか」「だってあなた新聞屋でしょ」
 「ばかにしてるのか、おい。俺が新聞屋に見えるか」「?」「配達してるように見えるかって聞いてるんだよ、意味わかるかおい」

→これは実際意味がよくわからなかったのだが、後で調べてみると、新聞の販売店とこういった拡張員というのは確かに違うのだという事がわかった。つまり、販売店に常駐して配達、集金と同様の業務として勧誘を行う者と別に、新聞の契約をとってそれを新聞社に売ることで生計をたてているプロが存在している。彼らは「団」と呼ばれる組織に属しており、全貌は謎に包まれているのだそうだ。(以上の情報はこちらのサイト「解剖!新聞屋さんの裏側」からいただきました)

さて、この人物、やたらに「意味わかるか」を繰り返すのだが、おそらくこれに答えさせ、言わんとしていることを代弁させることで、自分のペースに持ち込む、また、脅迫的内容を、客の方から申し出させることで、「脅迫」という状態から遠ざけるための技術であろう。ということで、「あなたの意味することはさっぱりわからない」という態度をとることにした。

 「やめてくださいよ」「なめてるのか。やめてくださいと言われて帰ると思うのか。それじゃあ、俺に言われて3ヶ月泣いた(泣く、とは、泣く泣く新聞をとらされるという意味であろう)兄ちゃんたちはどうなるんだよ、え、どうなるんだって聞いてるんだよ」「そんなこと言われてもね」
 論理にすらなっていない言い方だが、彼に道理を通そうという気がないのがこれではっきりしたわけだ。

「なあ、新聞うるさいよな。でも、これから毎日来るよ。兄ちゃんがここにいるかぎりな。毎日こんなのに来られるとイヤだろうが」「はあ」「なめてるのか、おい。3ヶ月泣いてくれりゃあこれっきりだ。これっきり俺だって来ないけどな…俺だって来たくはねえんだ。うちの若いのが休んでるから仕方なく来てるんだ。言っておくけどな、うちの若いのはこんなに優しくはねえぞ」
 もう、このあたりで私はこの人物を人間として見るのはやめた。ゴキブリでも見るかのような眼で見ていたのは確かである。すると
 「なんだ、その面は。この野郎、なめるんじゃねえぞ、お前はこれ一本で守られてるだけなんだ」と彼はドア・チェーンをたたいた。
 「いいかげんにしろよ。俺はこれで帰ってもいいけどな。兄ちゃん、明日からどういうことになるか知らねえぞ。毎日来たってこっちはかまわねえんだ。土曜でも日曜でもな。今日も土曜だろうが。もし朝出かけようとして、ドアの前にうちの若いのが立ってたらどうすんだ、なあ。困るだろう。言っておくけどな、悪いことしてるわけじゃねえんだ。警察に知らせたってその場だけだ、そりゃ警察だってずっといるわけじゃねえからな。3ヶ月、とる、とらないで勝負するっつうんなら、覚悟きめることだ。なあ、兄ちゃん、覚悟あるかい」
 「……」
 「なめるんじゃねえよ、てめえはこの一本だけで守られてるだけなんだ!」
 彼は、ドア・チェーンのついたままのドアを外から思い切り引っ張る。チェーンがつかえ、ガンと音がして、衝撃で郵便受けの金具が外れ、ふたが開いてブラブラと揺れる。
 寒い空気が漂う。これもドアが目一杯開いていたらかなり感情的に効果ある脅しだと思うが、5センチくらいの隙間がいまだ守られているため、心理的効果は薄い。だが、この人物がなりふりかまわない態度にも出かねないとは思われた。
 「なあ。そのうち『とるよ』なんてんじゃねえ、てめえから『とらせて下さい』ってことになるからな。え。俺は今3ヶ月ってことできてるが、うちの若いのには6ヶ月からって言ってあるしな。え。そういうのが毎日来るんだぞ。それでも、とる、とらないで勝負かけるってのか」
 「………」
 もうアルバイト出勤には遅刻という時間だ。一刻も早く行かないと、仕事を引き継ぐために昼番のバイトが待っているはずである。一方、ドアのすぐ外のこの人物は「とる」と言うまでは当分動かないだろう。それでも私がこの人物の要求を受けなかったのは、新聞をとるのが嫌だったというのではなく、脅しに屈するのが嫌だったからだ。
 「え、兄ちゃん災難だな。ククク…。こっちはあんたの家も分かってるしな。ずっとこの前で待ってたっていいんだ。待ってるだけじゃねえぞ。ドアな。ドアの鍵穴に瞬間接着剤入れれば、鍵だめになるよな。鍵屋に頼めば一回一万八千円だ。しかも前金じゃないとやってくれねえ。え、どうする。帰ってきて、鍵開かなかったら。『とらせて下さい』と言うまではな、やるからな。なめるなよ、兄ちゃん。俺の担当の区域で、とらねえということになったら、それは俺がなめられたということだからな。え?兄ちゃん、災難だったな。俺がここの担当になって」
 男はまた、ククク…と肩を揺らせて笑った。
 「瞬間接着剤見せようか?よくいるんだ、本当に持ってるんですかってな。接着剤だけじゃねえぞ。爪楊枝一本でいいんだ。爪楊枝突っ込んで口のところで折りゃあ、それでもうだめになるんだ。うちの若いのはやるからな。本当に。俺だってもう2,3年早かったら、こんなもんじゃねえぞ。え、おい。俺は呼び鈴ならした相手がヤクザでもとらせなきゃならねえ商売だ。なんで続けられるかわかるか、体張ってるからよ。なあ兄ちゃん。なめるなよ」
 どうするか。ひと月三千円である。私の脳裏には会社に遅れることの申し訳なさが巡っていた。もう3、40分ほどのオーバーだ。このあたりで取引すべきなのかも知れないが、…一体、このようなことが許されていいのか。こういう経緯でとられた契約が累積して、新聞社の広告において「購読部数ウン万」などと誇らしげに書かれるのだ。そういったコピーは、学生が、土曜からときには日曜の午前をつぶして夜勤で稼いだような金を、このような者を使って搾取した結果できあがった部数なのだ、と、そんなことまでしぜん考えられ、いいようのない口惜しさがこみあげる。
 「なあ、この一本な(ドア・チェーンを指して)、人様と話す時はこういうのは外すもんだろうが。話す気があるんだったら、外せよ」
 一旦男はドアを閉めた。だが私は外さなかった。この人物を「人様」として扱うことにたまらなく嫌気がさしたからだ。拳を握ったまま動かないでいた。するとチェーンがかかったまま、ドアがまた開いた。
 「そうか、俺と話す気はねえというんだな。じゃあ、俺はこれで帰るけれども、いいな、明日から。毎日だからな。え。鍵だってどうなるかわからねえからな。今はお前、この一本に守られてるけどな。ずっと外に出ないわけじゃねえ。うちの若いのはいつ来たって平気だからな。ずっと外に立ってたらどうする。帰ってきて、鍵屋よばなきゃならなくなったらどうするんだ。それでもとる、とらないで勝負すんのか。覚悟あるのか、おい、意味わかるか」
 「とると言ったらどうなんですか」
 …書いていて気持ち悪くなってきた。情けない。何と言っても、脅しに屈してしまったわけである。
 「そうしたらいい『お客様』じゃねえか」
 「…わかりました。三ヶ月で」

 すべて覚えているわけではないので、実際のやりとりはもっと長かったと思うが、以上のような文句はほぼ、言われた通りのものである。さて、この後あの「購読申込書」にサインをした後、男はさらにいくつかの脅しをかけた。

 「この後確認の電話が来ると思うが、わかってるだろうな、こんな変なのが来てどうこうとか、そういうつまらねえ告げ口をする奴がいるんだよな。そういうのは、言っておくけど、全部わかるからな。それなりのことをさせてもらうからな。え。もし俺がやめさせられることになっても、そうしたら今度は個人的な問題だからな。個人的に来るからな。な。もう二度と来てほしくねえんだろう」

 と言った具合で、予防線をはることにも抜け目がない。男はさらに洗剤を渡そうとしたが、私は洗剤は要らない、と受け付けなかった。「余ってますから」というのは事実で、かなり前の新聞拡張からもらった洗剤をいまだに一匙も使っていないのである。新聞屋からもらった洗剤で洗濯をしても、汚れがおちる気がしないからだ。男は不満そうだったが、契約書も交わしたしいいかという具合で「じゃあな」と帰っていった。

その後、この問題について調査してみた。

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