総長日記のノリが変わったのだ。詳しくは本文を読まれたし。

●本日の更新●

4月16日
気付けばもうすぐ一周年。
3月7日
「いろいろ研究室」に「ニッポンのエンゼル」をアップ。5Mの容量を超えてしまったので身を切る思いで「ださみ庵」からコンテンツを削除。トップページの左側を最新情報欄にしてみる。
1月8日
1999年最初の更新は、とりあえず日記から。新規まき直しなのだ。
12月15日
とりあえず、一連の更新計画一段落。
トップページの改装、コンテンツの整理などから、新書評サイト「ブックツーリスト」制作。映画関係のコンテンツはすべてそちらに移動。
1998年 5月5日開講


7月17日の総長日記
▲ジョージ・ルーカスは現代のリヒャルト・ワーグナーか?
△つーことで、「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」を見てきたのである!ジェダイ騎士団の諸君(笑)!
△そもそも、「スター・ウォーズ」っていうのは、ルーカスという富を握ったワガママ坊や(もしくは一SFマニヤ)が昔から見ていた夢を技術の限りをつくして見せまくる映画って要素が強いわけで、そのへんリヒャルト・ワーグナーに似てるかも。壮大な誇大妄想の具現化なのである。ファンの熱狂が周りから見ると「バカ」に見えるところまで似ている。後、自分の映画は完璧な音響効果を備えた劇場でのみ公開されるべきだ、とか言ったりしてますが、そのへんも自分の素晴らしい楽劇のためにバイロイト祝祭劇場を作った(だまして作らせた)あの御仁に近いものがある気がする。アメリカで「スター・ウォーズ」の公開スクリーン数が「オースティン・パワーズ・デラックス」より少ないのは、最初は「なんだ人気ないのね」などと思っていたが、実はそっちの方の理由かも知れない。
△が、勿論、我々はバカに見えることなど先刻納得の上でハマってるわけである!いかに、話の展開が「なんかドラクエ並みだなー」とか思えても、「SW的に」100%正しければ全く問題なしなのである!ということで、今回はSW的に100%正しい映画であるから心配ないぞ諸君(笑)!実は見る前はけっこう心配してたんだけど、私的には「えっえっSWってこんなに面白かったかあ?」という感じすらしてました。以下、完全SWファン・モードで話すので、SWファンがバカに見える諸君は決して読まないよーに(笑)。
△評判のよくないポッドレースのシーンが個人的には一番楽しかったかな。アニー(アナキン坊主の愛称)のキャラクターがいい。彼にくらべればルークなんかデクノボーである。このような利発かつ健気な子供が暗黒面だとぅ!?という思いがわきあがってくるわけで、後にベイダーとなるという観客の了解事項を最大限に生かし、否が応でも盛り上がりまくります。人気のないジャージャー・ビンクス氏ですが、彼がイヤーな感じなのは、戸田奈津子の翻訳がダサいせいじゃないかという気がします。「シドいわ」とか(笑)傍点まで打ってあって意味不明。どこの人間が言うんだ?んなセリフ!あと、予告編じゃ「フォースに和をもたらす者」と言ってたのに、本編では「フォースにバランスを与える者」って言ってたのも気になる。「和」と「バランス」では、日本語としての格調が全然違うだろーが。と、「映画秘宝」の影響からか戸田字幕に大きな「?」を加えたくなった今回のSWでした。フォースと言えば、今回フォースの強さをはかる数値として「ミディ・クロリアン値」つーのが初登場しましたが、最初に聞いたときはミノフスキー粒子かと思いました。って何で日本の影響にするなっつーの。それから、旧3部作では「行きたい星」って存在しなかったんだけど、ナブーは行ってみたい。というのは、ギャングと農民しかいないタトゥーイン、クマのぬいぐるみばっかのエンドアなんぞあたりと違って、ナブーには高度な文化の存在が感じられるからである。「文化の豊かさ」を映像的に表現できているという点も今回の「エピソード1」の大きな魅力でしょう。SFXは、もはや単なる特殊効果ではなく表現手段なのだ、というルーカスの声が聞こえてきます。それから今回ルーカスは「我々の社会が継承してきた価値観や論理的な思考を私の映画で伝えたい」のだそうで、そのために歴史を一生懸命勉強したんだそうだ。そういうお勉強の成果が結構わかりやすい形で出ているので、「もののけ姫」の時に一部で流行ったパズル的な楽しみもあるでしょう。ということで、とにかく多面的に楽しめる傑作。平日第一回目の上映なら並ばずに見れるでしょうから、学生の方は朝7時に起きて8時台の上映に走りましょう。ネットで夜更かししてないで(笑)。ということで、May the Forth Be with you!
5月24日の総長日記
▲「ビッグ・ショー」とジンマンのベートーヴェン
△新宿コマ東宝で「ビッグ・ショー!〜ハワイに歌えば」を見た。詳細はBOOK TOURISTにて。にしても、コマ東宝で観客10人足らずはキツイ。「スター・ウォーズ」公開前の空白期間的雰囲気もさることながら、今や学生でも入場料1500円となり「高級娯楽」化した映画メディアにおいて、こういう「歌謡映画」+「常夏の島ハワイ」といったテーマではもうお客が呼べないのかも。明らかに都はるみちゃん目当ての、いつもはコマ「劇」の方のお客さんらしいおばさんが映画のクライマックスで泣き入ってたのは微笑ましかったが。実際、何本か併映したその中の一本とかいった形だったらもっと受け止め方も違ったかもしれないのだが、これ一本独立で1500円払うのは厳しい感じ。でも、今時、2本立て3本立てって聞いて喜んで朝から夕方まで映画館に陣取る奴って、どれだけいるんだ?
△デヴィッド・ジンマン/チューリヒ・トーンハレのベートーヴェン・ツィクルス、日本盤では最終リリースの交響曲1,2番を聞く。1番が特に傑作というか、今まで1番がこれだけイイ曲とは思わなかった点で、「エロイカ」を聞いた時にも比することのできる感動を得ることが出来た。もちろん2番はベートーヴェンの交響曲の中で第9の次に好きな作品なので、こちらも期待に胸膨らませつつ聞いたが、期待を裏切らない出来。まったく、全9曲が輸入盤で2600円という快挙的値段で出ることをもっと早く知っていたらそれで買ったのだが、もう国内盤バラ売りで全曲揃えるしかない。つーかどっちみちあと一枚(5/6番)だからいいんだけど…。来月頭に新潟で実演を聞く予定。ちなみに、ヨーヨー・マとのハイドンのチェロ協1番、ベートーヴェン5番交響曲、オネゲルの「パシフィック2.4.1」(だったっけ)というプログラム。かなり楽しみです。
5月21日の総長日記
▲ビンボー脱出と外国語学習
△ここらあたりずーっと貧乏が極まり、昼飯を食うにもニギリメシを握って持ち歩くという生活。もちろん具なし・フリカケ混ぜ。晩飯は学校の学食で、メインディッシュ「モツ煮込み」(100円)を軸に300円を超えないメニューを心がける。そんなこんなで一日500円以下で食いつなぐ生活だったのだが、ようやく仕送りの時期になり、久々にモス・バーガーしたのである。しかもサイド・メニューまで頼んでしまったのである。「かぼちゃのプリン」など食ってしまったのである。一口、「日本って物が豊かな国なんだなあ」(涙)。
△院試のために外国語を勉強しているが、いざ英語をマジでやろうと思った時、意外と東京というのは恵まれた土地だという事を思う。というのは、何らかの外国語を習得する際には、自分の周囲をその外国語で埋め尽くすのが一番良いという事を2月に伊仏を旅していて思ったからだ。実際、日常すべての細々した指示がすべて外国語で書いてある場合、否応なしに外国語を読むことになる。読まなければ話にならないからだ。ユースやホテルに泊まって、火災時の避難手順を確認しようにも外国語を読まなければだめである。スーツをどこに返したらよいのか、朝食はどれとどれを取って食べて良いのか、どれが課金の対象になるのか、貧乏旅行だけにそういった事は死活問題に関わる。20日間も一人旅をすると段々そういう状況に慣れかけてきて、けっつまづいても思わず「アウチ!」などと口走りそうになるものである。
△しかし、案外これに似た状況は人工的に作ることができるかもしれない。テレビは衛星第一をサブ音声のみで見、ラジオはFENだかなんだかだけを聞き、音楽も洋モノのみ、本はすべてペーパーバックにして日本語の本は押入にしまう。新聞も英字をとる。とりあえずメディアはすべて英語に切り替える。(程度の問題もあって、まったく日本語を見ないわけにもいかないだろうが)しかし一番問題なのはそういう部分でない、地味な生活のレベルに英語を浸透させることだ。特にいえるのは日用品の類であって、例えば、カップラーメンを作る時に否応なしに読む「フタを半分まで開け、かやくと粉末スープを取り出して熱湯を内側の線まで注いでください」といったような指示がすべて英語だったりすることが重要なのである。公共料金の請求書も「あなたの先月分の電話料金が未払いです。至急最寄りの金融機関でお納め下さい。お納めいただけない場合、6月3日より電話回線の使用ができなくなります。電話料金はお近くのスーパー、コンビニエンスストアなどでもお支払いいただけます。なお、行き違いで、お納めいただいた後にこの請求がとどきました場合は、失礼をお詫びいたします。」と言ったようなお決まりの文句が、ある日すべて英語になったら、「未払い」「最寄り」「金融機関」などに関する単語を簡単に覚えることができるであろう。そして、これは生活に密着した文脈で覚えた単語だけに容易に忘れないはずである。「外国語を勉強するなら外国に行くのが一番」というのはおそらくこういう所から言われるのではないかと思うのだが、こと英語に関して言えば、擬似的に「外国にいる」状況を作り出すことは可能ではないかと思うのだ(流石に公共料金はムリかもしれないが)。国内にいながらにして留学ホームステイ状態を創出することもできる気がする。
△問題は会話で、日常生活をする時にはどうしても外国人とではなく日本人と会話しなければならない。一人で留学気分になり、行きつけの魚屋で「へい、奥さん、何にしやしょう?!」と言われ「Muh.... five salmon,please.」などと口走ったところで、季節の変わり目に時々いる、頭のあたりが陽気な人と思われるだけであろう。だがこの場合、そういった目的に適したモデル住宅地を作るのもアリかも知れない。とにかくそこに入居した場合は、ゴミを出したりお役所手続きをした買い物をしたりするにもすべて英語を読まされる状況になるわけだ。これはなかなか効くと思うし、家族で英語を習得したいという人達はけっこう多いように思われるから、商売になるかもしれない。「ちょっと奥さん、燃えるゴミと燃えないゴミはちゃんと分けて出してよね」といった日常的クレームも、すべて英語で話さなければならない。文法的に大幅に間違った英語が結果話されることも考えられるが、どうせ「国の数だけ別の英語がある」ということもある。日本のとあるモデル宅地でできたニュー・イングリッシュがあってもいいだろう。そもそも、いくらとやかく言っても「完全に正しい」言葉をしゃべれる人間などそんなにいないのだ。コギャルの言葉がいくら意味不明だとは言っても、「あんなものは日本語ではない」と本気で言っている人などたいしていないであろう。いくら「崩れている」とはいえ、あれも日本語なのだ。と考えるとそもそも英語にとっては「ガイジン」である日本人がいくら文法不備、単語の意味不明確な「ジャパニーズイングリッシュ」をしゃべろうと、気にすることはないはずである。逆に「完全な英語」を放せる外国人なんぞというのもそれほど多くない気がする。要は「日本語ではない」環境を作ることが大事なのである。
△と、ここまで考えてみると実は「基地の町」などにおいてはここで述べたモデル宅地的な状況はとっくに生まれているのではないかと思われてきた。ただ、モデル宅地はその状況を得るために入居するわけだが、「基地の町」の場合はそこに生まれ、そこで生き延びるために否応なしに英語とふれるわけだから、もっと楽天的ならざる状況ではあろう。そして、今まで述べてきたのは英語の問題であるが、考えてみると、日本に生活している外国人でもっとも多いのは非ヨーロッパ・アメリカ系の外国人、アラビヤの人達や東アジアの人達であるにも関わらず、彼らの言語を習得しようと思う人間よりも英語を習得しようとする人間の方が都合のいい状況であるように思われる。これを「英語学習」の言語帝国主義的側面の現れと見るべきなのか、単に日本人の英語ミーハー度の高さの現れと見るべきなのか。そのへんにも簡単には嚥下できない問題があるように思われる。とはいえ取り敢えず院試に受かるためには英語と仏語をできるようにならないと困るので、私は当分この英語学習者的には有用な状況を利用するつもりでいるのだが。
5月16日の総長日記
▲西美「イタリア・ルネサンス美術展」
△一周年でいろんな方に掲示板へメッセージをいただき、多謝。更新も徐々に準備中。次回の更新は、とりあえずヨーロッパ旅行記から。
△それともちょっとからむのだが、現在行われている国立西洋美術館の「エルミタージュ美術館所蔵イタリア・ルネサンス美術展」を見てきた。正直言って、そんなに期待してたほどでもなかった。基本的に私の嫌いな大作系宗教画はなく、丁度いい感じの小品が展示の中心ではあったけれども、ちょっと地味な作品が多く、見どころを欠いた展覧会という印象。「これは見とけ!」といえるのはティツィアーノの三枚「悔悛するマグダラのマリア」「イエスの十字架行」「パウロ3世像」と、ポントルモの「聖ヨセフ、洗礼者ヨハネのいる聖母子」、ロッソ・フィオレンティーノの「栄光の聖母」などのマニエリスムものか。特にロッソの描く天使の肉体表現の不可思議さは実にセンスオブワンダーで、元祖天才マニエリストの気迫充分。ポントルモの色彩もかなり現代にまでショックを与えうるものだ(この発色はウェブではわからない。現物を見て確認すべし)。普通の人にはポントルモ、ロッソ両人の描く人物の顔のヘンさが注目の的だったようだが、確かにロッソのマドンナはもはやカエル顔であり、こいつらを信仰しようという気にさせるものではとてもない。何考えてんだ?ブロンズィーノの「コジモ一世の肖像」などは冷たい美しさがなんとも倒錯的でよく、彼の肖像画が一点だけでなく何枚かあるとかなりの見物になったかも。ブロンズィーノは肖像画家としての人気が高いけれども、「権力者の冷たさ」と彼の画風を結びつければ、かなりわかりやすく楽しめると思う。実際、この絵を見ても、フランス人形のよくできたのを眺めてて感じるコワさにもちと似た、美の暗黒面ともいうべきものを感じさせる。こいつの宗教画ほど、ケレンを感じるものもない。
△ヴェネツィアものは、ティツィアーノ以外の中心を欠いた感じになった。個人的には、ジョヴァンニ・ベッリーニあたりが来ればかなりの人気が見込めたと思うのだが。ヴェロネーゼやティントレットは個人的に嫌いな画家なのであまり関心なかったが、ティントレットの小品「ダビデを装う若い男の肖像」は、内面に隠した凄絶さを隠すようなあざとい表情がなかなかの見物である。大体この連中はバカでかい絵ばっかり描いて度肝を抜くのが商売という印象を受ける(北杜夫も「どくとるマンボウ航海記」で奴等に辟易した印象を書いている)が、小さい絵に限って見ればまんざらでもないのかもしれないと見直させるものがあった。時代のぼって盛期ルネサンスのものだと、リドルフォ・ギルランダイオの「聖フランチェスコ、聖ヒエロニムスのいる聖家族」がよい。というか「いる」ってのがフテブテシイよな。てめえら時代が違うんだから「いる」わけがねーだろ!と、今の常識からいけば当然なるところだろう。まあ、こういう画にそういう理屈づけを求めてもしょうがないのだが、とりあえず空間は遠近法で理屈づいてるだけに片手落ちだなあ、と思って見るとなんともヘンで面白い(ガクモン的にはそういう見方は間違っていると思われるが)。電車にいっぱい貼ってあるラファエロの絵はどうかと思った。ラファエロ個人的にたいして好きじゃないのもあるけど。
△で、これだけタラタラと通ぶった態度を披瀝しといてナンだが、私実は国立西洋美術館って行ったの初めてなんである。展覧会に行く時間を映画館に費やし続けてきた民族なのだ私は。だから、あんまり美術について私が知ったかぶってても信用しないように、ってなんか妙に偉そうなのであるが、そんなわけだから企画展の半券でそのまま常設展にも入れると知り、「ふーん」などと多少ナメた感じで入ってみると、これがなかなか、見せるじゃないですか、と意外なお得度に感心したんである。印象派とロダンばっかに偏ってるって感じもするけど、こと印象派、とくにモネに関してはなかなかいい感じのセレクトである。モネというとどうも私には苦手意識があり、なんかしらんがデタラメに池描いて有名になった野郎という印象をガキのころは持っていた。その路線が基本的に変わらぬままこの年になり、2月にオルセーに行ってもモネモネモネ、モネばかり異様にいっぱいあるもんだから、「印象を描くだかなんだかしらねえが、てめーのデタラメな印象とやらにいつまでも付き合ってらんねー」とついにはヘソを曲げるに到ったのだった。(まあ、半分くらいはいい絵だったのだが、それにしても多すぎた)それにひきかえ、西美のモネは確かにいっぱいあるものの、多すぎる印象は受けず、また日本人好みのする作品が選ばれているように思う。モネに苦手意識のある人はまず西美に行ってこのモネ・セレクションを見ておくべきだろう。いっぽう、小中学校のころに教科書の表紙とかですりこまれた「名画」が散見されたのにはちょっと辟易させられた。やっぱりおしつけがましく見せられた芸術ほどトラウマになるものはないね。結局、「ルネサンス展」だけなら1時間くらいで見終わってしまったところを、常設と併せて2時間以上充実した時間が過ごせたのは幸いであった。これから見に行く人は、ちゃんと常設も見ておくべし。
5月7日の総長日記プラス
△さっき日記アップしてから気付きましたが、なんとサイト1周年だったんですね。1周年の記念すべき日に風邪で寝込んでました。お恥ずかしい。おくればせながら、めでたい。一周年企画はまた今度。
5月7日の総長日記
▲紀香その後、と、お待ちかね二冊
△紀香の吊革、盗まれてるそうですな。テレビでは「盗まれて話題になることを計算してこういう宣材にしたんでしょう」というコメントまでセットで報じてます。そうなるとこっちの感想も「宣伝してるやつもやるじゃないの」なんて、妙に作る側のことを意識した感想になってくるわけで、一体紀香が問題なのか吊革を盗む奴が問題なのかそれを見越して吊革を作った奴が問題なのかややこしくなってきます。
△一方、「ダ・カーポ」では「藤原紀香になりたがる女たち」とかいったタイトルで特集組んでますが、まあ女の子たちが紀香になりたがるって話題はだいたい読めてるとして、わしらにとって肝心の、男としては紀香に対してどういう態度をとるべきか、という問題についての対談記事がきちんとフォローしてあります。さすが通勤電車系雑誌。それによれば「紀香とやりたがる奴ってよっぽど性格の悪い奴か自分に鈍感な奴かのどっちかだろう」という意見で、けだし正論ですな。趣味は「女磨き」と公言し、もはや「女」という偶像そのもの(本人いうところでは峰不二子らしいですが)への道を歩みつつある紀香を受け止められるのは、やっぱり「男」という偶像そのものを体現しようという奴であるはずで、そんな「男らしさ」的偶像には付き合ってられない(いや、付き合ってられる体力がないというべきかもしらんが)、今時そんなことやってられんのは性格悪い奴だろう、というのが現代の大半の男の現状のように思われるのであった。女の方は一方まだまだ体力ありあまってるから、偶像でもなんでもやったるぜという気概がある分、紀香のような存在がバリバリ、縦横無尽に活躍できるんではないかと思うわけであります。もっとも、本人そのものはけっこう気持ちのいい女の子らしいけど、メディア上のアイドルと本人としてのアイドルは別モンっていうのは前提ってことで。
△さて、20周年と200周年の二人の作家に今注目、という話。200周年というのはさんざっぱらとりあげたバルザックが今年で生誕200周年ということなんスが、このことにつけて思い起こされるのが、この2月にパリに行った時に真っ先に行った観光スポットの一つが「バルザックの家」だったのだが、なんと3月まで閉館という札が無情にも掲げられており、「なぜこの俺様が来仏する時期に限って〜!?」と門前で一人キレて周囲のパリジャンに異端視されたことであるんでありますが、その事自体はどうでもよくて、まさにあの閉館こそ生誕200周年という記念すべき年の準備をするためだったのだということ。で、一方「日本におけるフランス年」だかなんだかやってる我が邦においては、あのフェルナン・ブローデルの「地中海」で当たりを出した版元という印象ばかり強い藤原書店から、「バルザック『人間喜劇』セレクション」という全13巻の新訳作品集が出版されるのだそーである。で、これ、全然話題になっているという話を聞かないあたりが実にイキなのであるが、それなのにどうしてこの私的に今世紀最後のニュースといっても過言ではないこの話題をゲットできたかというと、たまたま(ほんとにたまたま)書店の棚で「バルザックがおもしろい」なる本を発見、これは久々のバルザックおたく本かぁッ!?と手に取ったところ、このヒラ積みではなく一冊ぽっち淋しげに書棚に挟まっていた本たるやこの4月30日初版というバリバリの新刊で(笑)、帯に「バルザック『人間喜劇』セレクション/プレ企画」と書いてあったことからなのである。プレ企画もクソも、本企画自体ヤバげなのに大丈夫かよ、という危惧はアリアリながらも、とにかくバルザックについて語られている本というのは我々、かくれバルザック・ファンにはたまらないもので、ついつい買わずにはいられないものなのである。なにしろ、超魅力的キャラクターや事件に惚れまくって濃厚なバルザック・ワールドの住人になったというのに、その魅力を他人と語ることができる機会というのにほとんど恵まれない、という事実こそ、日本においてバルザック・ファンであるという事実が持つ先天的な不幸なのである。私なんぞは高校時代にバルザックに心酔していた頃、バルザックの魅力を語りまくった同人誌を刷り上げてコミック・マーケットに殴り込み、ヒラ積みにするも一冊も売れず、どんどん値段を下げてついには無料配布にしても誰も持っていかず、一日も最後、会場の客が半分くらいはけたころ、がっくり肩を落としてマジックで書いたヒゲ(コスプレ)をなぜているところへフト、一冊を手に取る音が聞こえ、顔をあげてみるといかにもやる気なさげな少年が申し訳なさそうに、タダだから手に取ってみるくらいはいいだろうというノリで手に取ったんですヨというオーラを発散しつつも「いやボク…、バルザックの小説は読んだことないんですケド…あのヒゲが好きで…」と語るその姿に熱く涙しつつ「それでも良い!」と抱擁を交わすという憂鬱な物語(笑)を夢想したりしたものである。しかしながら、例のマーケットはそういうノリのところではないという事もウスウス気付いてはいたので実行にうつしたりはしなかったが、まあ、それほどまでに、語りたいという欲求と語り得ないという現実の狭間で煩悶したものなのであった。
△話がとんだ。ということで、バルザックはある意味おたく的心酔者を生みやすいはずなのだが、どういうわけか、世に「銀河英雄伝説」のキルヒアイスがどーのヤンウェンリーがどーのという語りはあふれているのに、
A「やっぱりリュシアン・ド・リュパンブレ様、繊細で美形っていうのしかないでしょー男は」
B「あんなん軟弱なだけじゃん、男ならヴォートランだろ。大悪党だけどただ悪いだけじゃないし。脱走徒刑囚っつー響きもイイ感じだね」
C「オレ、シボのおかみさん…」
AB 「なんでだ?!」
と、いうような語らいはとうてい成立することは望めないのである。別にそういう語らいが出来なくても自分で読んで楽しいんだからいいといえばいいんだが、そういう語らいがありえないという事の寂しさというのはこれまた別格なもので、その寂しさがあるからこそ、「バルザックがおもしろい」などというかなりベタベタすぎるタイトルの本であろうとも即ゲットしてしまうことにもなっちゃうんである。
△で、この本なのだが、「風俗研究」の訳者山田登世子と、19世紀フランス好きにはもう「ご存じ」の存在であろう鹿島茂との対談、往復書簡で構成された、100%バルザック魅力総ざらい本である。まだ全部読み切ったわけではないのだけれども、対談の最初のお題がまたしても「バルザックはなぜ読まれてこなかったか」であるところが…またしても!(笑)まあ、このへんはバルザックを巡る言説の「お約束」として楽しむというノリが正解か。ここでバルザックの小説が今こそ読まれる契機として、日本社会が今まさに欲望社会の段階に至ったからというのはちょっと強引な気もするけれども、ブルデューの「ディスクタンシオン」と絡めて論じる切り口はおもしろい。この後どうやらヴォートランをはじめとするキャラクターの問題、パリの都市論としてのバルザックの問題、などなどが語られるようで、ページを繰ることが楽しみである。
△さて、この本は「セレクション」のプレ企画ということで、本企画のほうはどうであるかというと、なるほどバルザックを充分味わえるものをセレクションしたと豪語するだけあり、かなりの強打者揃いである。大悪党ヴォートラン活躍の三部作「ペール・ゴリオ」「幻滅」「娼婦盛衰記」はバッチリ入っている。特に「娼婦盛衰記」は、あれだけの傑作でありながら今まで東京創元社の全集本でしか読めなかっただけに感無量。訳者も「バルザックを読む漱石」などの著作でバルザック・フリークとしての認知度高き飯島耕一、彼は以前「ユリイカ」のバルザック特集で、寺田透の旧訳本に対する不満を語っていただけに今回の新訳は期待させるものがある。また、「ラブイユーズ」「十三人組物語」「あら皮」「名うてのゴーディサール」(正確な訳でないのかも知れないが、私はいつか見かけた「ご存じゴーディサール」という名の方がふるっている気がするのだが)など、バルザックをちょっと読み始めた人間なら誰でも気になるタイトルがズラリである。勿論バルザック読みとして通らずにはおかれない「貧しき縁者」二作、「従妹ベット」「従兄ポンス」の二作は当然おさえられていて、これはちょっと一冊本体2800円のハードルを乗り越えてでも、全部揃えたい好選集と言わねばなるまい。しかも別巻として、「バルザック『人間喜劇』ハンドブック」と題された登場人物辞典(!)がついてくるんだそうで、これこそバルザック読みにとってはまさに渇望して久しい書物ではなかろうか。どうやら1999年はバルザック読みにとって至福の年となりそうであるぞ、などとちょっと舞い上がり気味の予想もたててみたくなるのである。ともかくも、この藤原書店の勇気溢れる企画が、ちょっと前の創元ライブラリ「バルザック選集」が1巻出して挫折した過去をなぞらぬことを祈る。がんばれ藤原組。
△またバルザックだけで長く語ってしまった。もう一人の20周年っていうのはマンガ家のとり・みきが漫画家生活20周年だそうで、新刊「御題頂戴」はなかなかナメた企画で笑わせるという話の予定だったが、とり・みきについてはまた今度ということでご勘弁。
4月25日の総長日記
▲「征服せる者藤原紀香」そのほか
△かため続いたんで、今回芸能ネタふたつ。最初は彼女。
△山手線で吊革握ったらなんか上のバンドのところが太い。えっと思って見て仰天。
「うおっ、紀香だ!」
ジャワティーの、缶の形をした宣材が吊革のバンドのとこにくっついている。そしてそこには藤原紀香がジャワティーを剣の如く頭上に捧げ持っている写真が印刷されていた。
△そう、街は藤原紀香であふれているのである。藤原紀香をまったく見ずに東京の街を歩くことが出来るかという問題は、今や広末を見ないで歩くよりも全然難しいんじゃなかろうか。紀香の写真も、すこし前は足がなくては無意味だった感じだったが、最近はどんどんバストショット(乳のアップって意味じゃないよ)も増えているし、かなり「紀香」のキャラクターが多様にうけとられつつある。紀香の場合、身体の魅力が前面に出ているにも関わらず、グラビアアイドルと違って巨乳とか谷間とかはあまり問題にならないし、ミニスカのチラリに注目する視線も少ないように思われる。彼女の場合はキャラクターが魅力であり、そのキャラクターを形成する主なものが彼女の身体であるという構図が正しいように思う。身体が言葉よりも雄弁にキャラクターを語りうる、ということをアイドル的に示したのが紀香であろう。「ジェイ・フォン」とかいうどう考えても寒い名前もなんとなく彼女なら許せる的雰囲気が出来てしまうのは、彼女が基本的に「媚びない」「毅然とした」キャラであるからではなかろうか。K−1の番組を長くつとめた事からも考えられるように、紀香は実は「戦いの女神」の偶像を背負った存在なのだ。(そのへん、優香とは決定的に違う(笑))その彼女の増殖ぶりを見るにつけ、その増殖をむしろ「征服」と呼びたい気持ちは分かってもらえるだろう。征服者せる者藤原紀香。我々の日常世界は今徐々に植民地と化しているのである。ブラヴォーアマゾネス!

△2題め。超ひさびさにワイドショー見たら、なんでも今サッチーミッチー論争とかいうのが話題になってるそうで、しかも芸能界全部まきこみまくってるらしい。芸能界ってヒマなんだね。俺としては野村沙知代なんてどう考えても好きになれないけどミッチーとかいう人の肩を持つ気にもなれない。ていうか知らない。ちょっと以前ならあの態度のでかいデブババアに理があるわけねーだろ、みたいな感じで反沙知代派を決め込んだかもしれないが、今って、ああいう変わり種でデビューしてる人に対して異論を唱えにくい雰囲気あるでしょ。宇多田ヒカルとか鈴木その子とか、モーニング娘とか。ちょっと前なら馬の骨扱いだったんじゃないかと思うのが周囲の雰囲気で盛り上げられてカリスマの粉飾を施される構造がある。まあ、そういう類型自体は昔も無いことじゃなかったんだろうけど、今ってそういう動き自体に対する異論を許さない雰囲気になりつつある気がするわけ。あんまし肩に力入れて「なんだ、バッキャロー、馬の骨」とか言ってると「何とんがってんの」とか言われたりして。
△まあ、どうせ芸能だしデブのババアは嫌いだけどマジになることもないかと思って見ていると、なんか第二戦線でがんばってます系芸能人が次々現れてコメントしていく。
(沙知代派)
「神田川俊郎」
「あの人はねー、最初はとっつきにくいけど、ちゃんとつきあえば誠意のある人やねー」(って感じのことを言ってた気がする)
ていうか鉄人倒せ。
この後色々出てきて、次、ミッチー派つーか反沙知代派
(反・沙知代派)
「美輪明宏」
「以前まではおつきあいしてましたけど、ここ1年くらいはおつきあいをやめさせていただいてます」
ふーん。
「デビ夫人」
……ちょっと待て(笑)。
うわー、こいつ何やってんだ!今まで何してたのって、映像から察する限り成金生活タンノーしながら暮らしてただけなんだろうけど、メディアに顔出す必然性ねーだろ!なぜデビのコメント取りにいく?やっぱ番組がテレ朝だからか!?
などとコーフンしてて、何言ったのかさっぱり忘れましたが、ひょっとしてデビ夫人が芸能界のご意見番として通用してるのが常識なのだろうか。プチ不安。
△とある友人に手紙書いててなんか名言っぽいものがひねくり出された。なんか俺が言ったとも思われず、ひょっとしたら神の啓示かもしれないので記しておく。
「苦悩は自ら勝手にするものであり、ある日突然それをやめることができるものである」
おっすげー。ゲーテみたいだ。ちなみに、今年はゲーテ生誕250年らしい。250年って記念モンなのか?(^^;)


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