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2004年12月のサイト鑑賞

著作者の認定

2004.12.14

ちと見かけたので反応してみる。黎明日記のWeb と著作権より。

2ch の「名無し」が書いた、即ち著作者を特定できないものに著作権はない。別の「掲示板」の話で「ある」と云う判例があったが、あれは「名無し」のものではなかったように思う。

著作権がない訳ではなく,著作権を行使出来ない,が正しいかと。

著作権判例百選[第三版]の40 作曲者の不詳の解説に次のように有ります。

著作者は著作物の創作者であることを要するが,著作者として著作権法に規定する諸権利を享有するためには©表示,登録,納本など何らの方式の履行をも要しない。だが,右の無方式主義のもとでは,著作者の認否をめぐって具体的に紛争が生じた場合には,著作者が当該著作物を実際に創作したことを立証することは極めて困難である。そこで著作権法は,一定の要件を備えた者について,当該著作物を創作した事実を推定することにより,立証責任を転換した。すなわち,著作者と推定されるためには,著作物の原作品に,または著作物の公衆への提供もしくは提示の際に,実名または衆知の変名が,著作者名として通常の方法により表示されていることが要件となる。

なので,「名無し」にも著作権はあるけれども,著作者であることが認められないので,著作権を行使出来ない,ということになろうかと。

誰か判例出してくれとのことなので。

日本人とキリスト教

2004.12.14

11月中にwebサイト閲覧などやろうと思いつつ,風邪ひいたり,他サーバに遅れつつ漸くムーア鯖でも終戦してたりしたら,早12月。前回文章書いてから既に2ヶ月も経ってるよ。なんか最近,時間が流れるのが早く感じるのは,年齢の所為か?

それはともかく,鎌を上げたのは失敗だったかな。鞭も失敗臭いな,杖を上げればよかった。でも序盤は鞭の方が楽だしなぁ。とりあえず,錬金ばっかしてないで,早くストーリー進めようっと。

それもともかく。

この闇黒日記の讀者の中にはクリスチャンもゐる筈だが、キリスト教について書いても、或は、日本のクリスチャンに對する批判を書いても、彼等からはさつぱり反應が無い。

キリスト者の端くれとして,反応してみようかなと思ったり。とはいうものの,反応できそうなのが日本のキリスト者についてではなく,一部分についてだけだけど。

日本のクリスチャンが、一方で、愛の宗教として暢氣に「神を讃美します」と言つて陶醉したり、他方で、神道を憎んで靖國神社の前で抗議運動をやつたりしてゐるのを見て、何うか(してゐる)と思ふ。

実のところ,私も同感で,どうかしていると思ってたりする。

靖国神社への参拝ってローマ法王もやってると思うのだけど,抗議運動している信者ってカトリックじゃないのかなぁ,と思いつつ,でもきっとカトリック信者でもそういうことをしている人がいるンだろうな,と思って悲しくなったりもする。

というのも,キリスト者であるがために他の宗教の祭事を理解できず,理解できないがために道徳上問題がある,として批判するのなら判るンだけど,所謂靖国問題ってのは,どうもそういう話じゃないと思うので。

扨,靖国神社への政治家の公式参拝について問題視されているのは,次の2点であると思う。

  1. 政教分離に反する可能性
  2. 戦争責任者を参拝すること

前者については,憲法20条に抵触するのではないか,という批判であろう。憲法第20条ってのは次のもの。

信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。

何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。

国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

正直なところ,法解釈の問題なのかな,と思わないこともないのだけれど,批判をする気持ちも判らないではない。

しかし,この批判は宗教的であってはならないと思う。つまり,キリスト者として他宗教を批判するのではなく,日本国民として政教分離を訴えるのでなければ,自ら憲法20条に抵触することになるのではないか,と思うってこと。

なので,この点でキリスト者が抗議運動をしているとしたら,それは自分が何故批判しているのかを理解していないからだと思うので,どうかしていると思う感じ。

そんな訳で,キリスト者が靖国神社の公式参拝を批判するとしたら,後者の理由が主なのだと考えている。

で,後者。靖国神社に祭られている戦没者の中にA級戦犯もいるから,公職に就く者が参拝すべきではない,というもの。

この問題点について,宗教的な目で見ると,私は特に問題はないと思う。キリスト者は仏教徒の知人の葬式に出てはいけない訳でもなし,神社に祭られた戦没者の平安を祈ることに何の問題もないだろう。そして,A級戦犯だろうが,一般市民であろうが,死者を弔う気持ちは尊いものだと思う。

というか,そもそも戦死者については,指導者にだけ罪を負わせることはキリスト教的でもないと感じるし。対戦相手も,止められなかった者も,等しく罪を負うべきだ。まして,その罪を贖うのは死者ではなく,生者の責任だ。

そんな訳で,やっぱりキリスト者が参拝に抗議するのはどんなもんだろう,と思う訳です。

でもまぁ,この辺は人によって感じ方が違うのかもしれない。

ちなみに,宗教的な話は抜きに考えたとき,やり方を間違ったからといって,国のために尽くして死んだ者の平安を祈らないのは間違いではないかな,と思う。

但,この問題のもう一つの側面として,戦争の犠牲者への配慮,というのがある。要は,戦争の遺族の気持ちに配慮して,戦犯の平安を祈るのはいけない,というもの。

この点について批判するのはありだろう。でもこれに関しては,私は政治の話だと思っている。なので,やはり先の話と同じで,これはキリスト者として謂うことではないと思うが。

だからどうした,と謂われたら,いやそれだけです,と答えるしかないのだけれど,日本のキリスト者全部が靖国神社参拝に反対している訳ではないよ,という話。

あと,派生して別のとこにも反応してみる。黎明日記の日本人とキリスト教から。

切死丹になると云うことは日本人であることを捨てると云うことであるから、切死丹になることそのものがどうかしているのではないか。

ここで謂う「日本人」とは何を指しているのかチトわからないが,それが神道や仏教の信者のことを指すなら,そのとおりだと思う。

自分は,自分でも驚くほど日本の風習に疎い。七五三について知らなかったし,初七日,御七夜,香典等等,周囲から「常識」として突きつけられる事柄が随分とある。この日本の風習ってのが,大元を辿れば神道や仏教から来ているのだとしたら,キリスト者になるということは,少なくとも日本に古くから伝わる風習に疎くなることに繋がるとは思う。

でも,別に日本の風習に疎くなっても問題ないと思っているけど。それをしてどうかしているとは思わないです。

私が行った教会に来ていた人々は皆「熱心にキリスト教を研究し信仰する」という派だった。そのことが先の「煽った」文章に影響を与えているのは否めないだろう。キリスト教を信仰する日本人が「どこまで深く突き詰めるか」が問題なのであって「一応派」になるならば日本人であることを捨てなくとも良いのかも知れない。しかし両親、或は一族揃ってキリスト教徒という家庭に生まれでもしない限り「一応派」になる「意味」というものはないように思う。「救い」を求めて宗教と云うものにすがるのではないのか? どちらにせよ、私から見てキリスト教を信仰する日本人の姿は不自然で異様に思えてしまう。

前提が先の切死丹になると云うことは日本人であることを捨てると云うことだからこういう結論なのだろうけど,大元が違うように感じる。

私は「信仰」と「研究」ってのは相容れないものだと思っている。「信仰を深くする」のならば判るけれども,「キリスト教を研究する」ことは信仰には結びつかないと思っている。別に研究することが悪いこととは思わないけれども,信仰とは別の次元の話。上手く説明できないけれども,X-filesのスカリーの話を観て共感できる人が行うのが,「信仰」と「研究」の両立だと思う。判りにくい説明で申し訳もないが,これが自分では一番判りやすいのでしょうがない。

まぁ,「熱心にキリスト教を研究し信仰する」という派と「一応キリスト教」という派がどんなものか良くわからないので,的外れな話なのかも知れないけども。

「一応キリスト教」という派というのが,洗礼受けているけど教会に行くのは復活祭とクリスマスだけ,って信者のことを指しているなら,自分がそうなのでよく判ります。確かに,キリスト者の家庭に生まれない限り,そうなる人は少ないと思います。でもまぁ,自分なりの信仰はあるンで,ありかなぁ,と思うですよ。(キリスト者としては相当問題あるンですけどね。)

文責,その他

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