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2004年03月のサイト鑑賞

re:■ レス

2004.03.07

先の文章[see 詭弁の特徴]への反応があった。まぁ,私にとってはあまり意味のない反応なンだけど。NaokiTakahashiの日記の2004-03-07の■ レスより。

昨日の記述は、土台の理論を知らない人に対しては言いすぎだったように思うので、修正しました。すいません。

で,修正した内容ってのが,次のとおり。

単にその辺の議論を知らない人に対してこれは言いすぎなので削除します。ごめんなさい。

ちなみに,修正元の文章は了解です。俺は差別主義者に怒られてたわけですね。だったりする。

修正したのが,理論を知らない人には言い過ぎだから,ってことは「差別主義者」と決めつけたのはいきすぎだった,ってことですかね。するってぇと,怒られていたわけですねって部分はそのままってことかな。それだと,結局一連の話が繋がっている,って事は否定してない訳で,論点すり変えて話してたってことになりそうな気もしますが......

この場合,変に理由つけて取り繕ってもいいことはないし,とにかく発言撤回しないといけないンじゃないかと思うのですが。

それとも,理論を知らない人には言い過ぎだけど,知っている人になら理論のすり替えをしてもいいって話かしら?

謎は深まるばかり。

歴史的経緯

2004.03.07

NaokiTakahashiの日記の2004-03-06kagami氏からのコメントより。

文化本質主義は身分制度や人種差別を正当化することに利用され、植民地主義とファシズムの礎として大きく影響したことを知っているのかなという感じですね…。文化が人間を規定するのであれば、その人間個々とは関わりなく所属する文化によって、他者への判断が下されることになるゆえ、奴隷制等の正当化(白人西欧文化はその他の文化より優越しているゆえ、絶対的支配権を持つという植民地主義の考え)に使われてきたのに…。

kagami氏がご自分で書いていらっしゃるとおり,文化本質主義は身分制度や人種差別を正当化することに利用されている。それは利用した側の問題ではないですか?白人西欧文化はその他の文化より優越しているという考えが問題だったのではないですか?

その文化本質主義への批判と,私の根本的な部分で日本人と欧米人ではカトリック者として違いがあるが,それでも,否,それだからこそ信仰することが大事なのだと思っているという考えは,関係ないと思いますが。

問題となっている箇所を間違ってませんか?御推薦の本の論旨は,白人西欧文化はその他の文化より優越していると考えたことではなく,文化的差異を絶対視するなということなんでしょうか?

ちと興味はあるな。どんな論旨か暇見て読んでみよう。

そういや,歴史的に問題があった,って話ならカトリックもそうだなぁ。文化本質主義の成立と批判の歴史があるために文化的な差異を認めてはいけないとしたら,宗教改革なんかが起こったカトリックは信仰できない,って話になりませんか。kagami氏の理論だと。

あっ,この理論展開は詭弁の特徴の6かしら?いけない,いけない。

詭弁の特徴

2004.03.07

高橋氏宛の一連の文章についての回答も終息したみたい。

で,終わったらまとめようと思ってたンだけど,高橋氏の最後の言葉がなかなか含蓄のある言葉で,話題毎に発言を分類して整理するンじゃダメなことが判った。ちなみに,高橋氏の言葉とは,NaokiTakahashiの日記の2004-03-06の■ レス2の(補足2)に書かれた次の言葉。

了解です。俺は差別主義者に怒られてたわけですね。

判りにくいンで解説しますと。私が怒っていたというのは,一連の文章の一番始めの話題についてです。で,私を差別主義者と高橋氏が謂うのは最後の話題について。つまり,私は話題が変わったと認識していたのですが,高橋氏としては同じ話題のつもりだったようなのです。

話題が一連のものならば,話題ごとに分類できないので,時系列に並べて,解説していきます。

■ 最後に同意しておこう。(NaokiTakahashiの日記の2004-02-19)

絶対者の観念についての話にも,とりあえず俺は反論するつもりはない。ここで怒るとしたら日本人キリスト教徒であって,俺ではない。

高橋氏から,闇黒日記の野嵜氏宛に書かれた文章。

この時点では私は関与していない。

日本人カトリック者(2004.02.20のWeb Site Watch)

高橋氏の発言に対して,私が宗教論争とか,思想的論争とかをするのはかまわないが,その結論づけでキリスト者の感情を持ちだされるのは不本意極まる,と一キリスト者の意見として批判。

ちなみに,この時キリスト教にGodと云ふ絶對者がゐて,日本人に絶對者の觀念がない事という意見なんてのは,日本人キリスト者なら十分に自覚していることとか,根本的な部分で日本人と欧米人ではカトリック者として違いがあるなんてことも書いていて,後に利用される。

もっとも,この文章の後ろにはそれでも,否,それだからこそ信仰することが大事なのだと思っていると続き,キリスト者としての信仰に対する思いは書いているのだが。

■ どうも。(NaokiTakahashiの日記の2004-02-21)

先の文章は,怒る人がいる可能性が有る,と書いただけで,全キリスト者について書いたものではない,と解説した上でもしこれらの物言いが貴方の信仰と食い違っていて、それが気に触ったということでしたら、それについては謝りますというもの。

私が日本人カトリック者で書いたことを誤解した様子。キリスト者が怒っているから,宗教とか教義とか,その辺で怒っているんだろう,と早合点したと思われる。

信仰と論議(2004.02.21のWeb Site Watch)

勘違いをしているので,「本題」に対する回答として,自分の議論の結論に他人の感情を巻きこまないで頂きたい。まして,自分のですらない感情論を持ちだすことは,論者として相手に失礼でしょう。と返答。

誤解している部分についても見識違いがあるので,「表面的な話」についてとしてキリスト教にGodと云ふ絶對者がゐて,日本人に絶對者の觀念がない事からキリスト教は信仰できないと謂うなら,そもそも現代においてキリスト教を信仰することなんて出来ないと返答。

この私の発言が第一分岐点と謂える。誤解されないように「本題」と「表面的な話」と分類して書いたのだが。

今思うと,後の単にそれだけ言えばいいと謂う高橋氏の発言は,本題以外のことを書くとあとで利用するよ,という予告だったのかもしれない。

■ あれ……?(NaokiTakahashiの日記の2004-02-21)

「本題」に対して,要するに「俺達の怒りを勝手に代弁するな」と言いたいのですか?と誤解。

私の「表面的な話」への回答として,宗教的信仰と科学的理解とは別のものですので、矛盾はしませんというもの。

更に,「むしろ」と断って新たな話題が始まった。

日本人キリスト者なら十分に自覚していることとか根本的な部分で日本人と欧米人ではカトリック者として違いがあるとか、これは本当に該当者全員に当てはめていいことなんですか?

そちらの乱暴さのほうが俺には気になります。怒る人もいそうな気がするのですが。

生物学的に日本人に欧米人的なキリスト教信仰が出来ない何かの理由があるのならともかく、そうではないでしょう。

今から考えると,この話の始まり方は詭弁の特徴ガイドラインの6だったンだなぁ。

で,まぁ,ここが第二分岐点。この時点で論点は3つに広がっている。

判りづらいので,この後は論点をそれぞれ「本題」,「表面的な話」,「『むしろ』の話」と呼ぶ。

議論について(2004.03.04のWeb Site Watch)

「本題」について,未だに初めの私の批判の意味を誤解されているので,今まで議論していた相手に対して,最後に同意しておこうと題した文章で,自分は関係無いけど他の人はこうかもよ,なんて謂って他人に矛先を向けるのは論者として問題でしょう,という話ですと,誤解を訂正するために返答。

「『むしろ』の話」については,私が誤解していたらしい。この時点では,私の意見がキリスト者全体の意見の訳ないじゃん,と回答している。

高橋氏は私の日本人キリスト者なら十分に自覚していることとか根本的な部分で日本人と欧米人ではカトリック者として違いがあるとかって発言を,詭弁の特徴ガイドラインの5だと思ったのかも知れない,と考えた訳です。

信仰と奇跡(2004.03.04のWeb Site Watch)

「表面的な話」についての返答。

神の存在,奇跡の存在,信仰をそれぞれ別問題と考えているようだが,キリスト者にとって全ては信仰の基に,一つのことなのだから,高橋氏の考えは違う,と謂うもの。

このときのアプローチは甘かったかな,って反省がある。この「表面的な話」は,論点がズレているのだから。

高橋氏は2004-02-21の■ どうも。での発言のときから,信仰を論理的に解釈したときおかしいが,信仰するにあっては非論理的でもいいのでしょう,だから問題が別だ,と謂っている。

私は,その論理は信仰を理解していないから成り立ってるンであって,条件がおかしい,と謂っている。

まぁ,だから何度も哲学の話とかするのはかまわないけど,って謂っていたのだけど,高橋氏には理解されなかった。もうちょっと練ってから書けばよかったかな。そのために別項目にしたんだし。反省。

■ レス(NaokiTakahashiの日記の2004-03-05)

基本的には「『むしろ』の話」について高橋氏の誤読に基づく疑問の提示。

人間の精神性に,人種国籍による根本的な違いなんかないから日本・欧米の文化とキリスト教との相対的な距離の問題として分析したほうがよい,って話。

re:■ レス(2004.03.05のWeb Site Watch)

一応「『むしろ』の話」についてだけど,議論としては関係ない,高橋氏の誤読への回答なので,タイトルも適当。

私は日本文化のなかで育ち,日本的な思考をする人のことを日本人と呼んで一連の文章を書いています。欧米人についても同様。人種や国籍については問題にしていませんということを書いて,そういう意味でならば,「根本的」って言葉には日本人と欧米人の間のその違い修正不可能なものだ,ってつもりと補足。

■ レス(NaokiTakahashiの日記の2004-03-06)

「『むしろ』の話」の返答で補足として書いたことについて,文化的な差はあくまで後天的で相対的なものに過ぎず,それは埋め得るのでは。貴方はそういう考え方を否定するわけですか?という意見。

原罪(2004.03.06のWeb Site Watch)

一応「『むしろ』の話」についてだけど,補足で書いた部分についてで,しかもこの時点ではわりかし意味のない回答。

ついさっきまで否定してましたが,自分が結構キリスト者として染まっているのが判りましたので,再考する余地はありそうです。まぁ,私は両親も兄弟もキリスト者だし,幼児洗礼なので,元々が日本人的思考にそれほど染まっていない可能性も否定できないけど。

■ レス2(NaokiTakahashiの日記の2004-03-06)

そこで結論が変わるのでしたら、とりあえず今回の批判は意味を失うのです。了解です。

原罪への追記(2004.03.06のWeb Site Watch)

「『むしろ』の話」の補足について,あの書き方で,既に意見が変わっているみたいに取られるとは思わなかったンで,再考の余地が有ると謂っただけで,それで結論が変わる訳ではないですし,了解しなくてもいいンですが。と返答。

というか,この時点では私,「『むしろ』の話」に論点があると思ってないンだけど。だって,高橋氏は人間の精神性に,人種国籍による根本的な違いなんかないから日本・欧米の文化とキリスト教との相対的な距離の問題として分析したほうがよいって謂っていて,それに対して私も人種や国籍については問題にしていませんって回答済みでしょ。文化的な差はあくまで後天的で相対的なものに過ぎず、それは埋め得るのでは。貴方はそういう考え方を否定するわけですか?ってのは,すでに「『むしろ』の話」の当初の論点からすらズレてるし。

なので,これで終息かな,と思って,新しい項目を作らないで,追記という形で書いていたのです。

■ レス2の(補足)(NaokiTakahashiの日記の2004-03-06)

「『むしろ』の話」の補足について,要するに,文化的差異を絶対視するなといいたいとのこと。

文化的差異についての考え(2004.03.06のWeb Site Watch)

で,「『むしろ』の話」として,高橋氏の立場表明は聞いた訳です。

が,私はキリスト者としての経験からキリスト者同士でも文化的差異はある,と謂っていて,その差は埋められないと謂っている。

それに対して,高橋氏は,私は違う考えだ,と謂っている。

私の反応として出来ることは,二つしかない。一つは,高橋氏の立場は判りました,と表明すること。もう一つは,キリスト者として議論すること。

で,そもそも「『むしろ』の話」は高橋氏が提示してきた話で,私はそれほど興味があるわけでもなく,議論するつもりもないから,私は前者を採って返答。

■ レス2の(補足2)(NaokiTakahashiの日記の2004-03-06)

了解です。俺は差別主義者に怒られてたわけですね。

「『むしろ』の話」の結論が,よしんば私が差別主義者だとしても,「本題」で怒っていることとは全然関係ない気もするンだけど,高橋氏にとっては関係が有るらしい。

というか,これって詭弁の特徴の9とか11とかですか?

以上経緯でした。

ちゅうか,実は最後の高橋氏の文章を読んだのって,闇黒日記の平成十六年三月五日に書いてあったこの項目はジョークなのだらう。詭弁のガイドライン第一項そのまんまだ。という高橋氏への返答を読んだ直後だったので,ひとり吹き出してしまった。

高橋氏は最後にコメントで信仰に関わる部分では批判を避けたいですからねー。まあ、問題点を指摘しただけで十分なんじゃないかと思いました。と謂っているが,信仰についての部分って「表面的な話」でしょ。それは途中で終わっているンですが,問題点なんか指摘したかなぁ,というのが感想。

ところで,結局「本題」については回答貰えないのかなぁ。

あと,参考までに,「詭弁の特徴ガイドライン」を2ちゃんねるから引用しときます。

真っ当な意見と見せかけ,実は詭弁で論点をはぐらかす輩が多々おります。皆様も以下の「詭弁の特徴15条」を覚え,そういう輩を排除しましょう。

例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合,あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と謂ったのに対して否定論者が......

1:事実に対して仮定を持ち出す
「犬は子供を産むが,もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
2:ごくまれな反例をとりあげる
「だが,時として尻尾が2本ある犬が生まれることもある」
3:自分に有利な将来像を予想する
「何年か後,犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
4:主観で決め付ける
「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」
5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる
「世界では,犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
6:一見関係ありそうで関係ない話を始める
「ところで,カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
7:陰謀であると力説する
「それは,犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
8:知能障害を起こす
「何,犬ごときにマジになってやんの,バーカバーカ」
9:自分の見解を述べずに人格批判をする
「犬が哺乳類なんて言う奴は,社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
10:ありえない解決策を図る
「結局,犬が卵を産めるようになれば良いって事だよね」
11:レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」
12:決着した話を経緯を無視して蒸し返す
「ところで,犬がどうやったら哺乳類の条件をみたすんだ?」
13:勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてる事なのだが」
14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
15:新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
「犬が哺乳類ではないと認めない限り生物学に進歩はない」

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文化的差異についての考え

2004.03.06

先の文章[see 原罪]に対して反応あり。NaokiTakahashiの日記の2004-03-06の■ レス2の(補足)より。

ジェンダー論って知ってる? 「生来的」とか「生物学的」とか伏線張ってたのはそういうことなんですが。要するに、文化的差異を絶対視するなといいたい。「差別的」という言葉をなるべく使わないようにそのニュアンスをなんとか伝えようとしてきたわけですが。

自分と他の考え方があることは知っていますが,それが何か?

単に自分は違う考え方だ,ってことを表明したいだけなのかな。それが差別とどんな関係をもつと謂いたいのか不明ですが,高橋さんが違う考えを持つということには,はぁそうですか,としか反応しようもないのだが。

私は,自分の経験上キリスト者として日本人と欧米人で違いがある,と謂っている。それに対して,自分は違う考え方だ,と謂われても反応しようもないなぁ。特に議論したい訳でも,批判したいわけでもないのかな?

まぁ,違う考え方の人がいるのは当然だし,自分は採らないけど他の人がそういう考え方をすること自体は否定しないので,どうぞ御自由に。

で,高橋氏の立場表明とはべつに,批判があった。NaokiTakahashiの日記の2004-03-06へのkagami氏からのコメントより。

「文化的差異を絶対視する立場」…物凄く古典的な(16世紀ぐらいかな?)文化本質主義の立場ですな…。現代にもこんな考え方する人がいるんだ(^^;

そりゃいるでしょう。私は逆に,自分と同じ考え方の人しかいない,と思う方が凄いと感心しちゃうけど。

それとも,旧い考え方だから間違っている,と謂いたいのかなぁ。

自分がその考え方を否定するのはありだけど,人がそう考えることを「古いから」と謂って否定するのも凄いな。

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原罪

2004.03.06

先の文章[see re:■ レス],というよりその大元の文章[信仰と論議]に対して再度反応があった。NaokiTakahashiの日記の2004-03-06の■ レスより。

本当に信じている人は,子供を除けばそう多くないと思っていますという書き方は無神経だと思いましたよ。

この高橋氏の反応は面白い。興味深いと謂ってもいい。

私はむしろ,子供の様に無邪気に信じられない現代人(自分含む)が物悲しい,という意味合いで書いたのだが,子供に例えることを劣っていると捉えた高橋氏の解釈は新鮮だ。

これは個人的な資質に拠るものだろうか。それとも非キリスト者だから,そういう捉え方をしたのだろうか。儒教の影響が強い日本人だからかもしれない。非常に興味深い。

こうして考えてみると,自分って結構「原罪」の存在に染まっているンだなぁ。意識していなかった自分の考え方を知って,ちと驚いていたりする。

文化的な差はあくまで後天的で相対的なものに過ぎず、それは埋め得るのでは。貴方はそういう考え方を否定するわけですか?

ついさっきまで否定してましたが,自分が結構キリスト者として染まっているのが判りましたので,再考する余地はありそうです。まぁ,私は両親も兄弟もキリスト者だし,幼児洗礼なので,元々が日本人的思考にそれほど染まっていない可能性も否定できないけど。

いやはや,今回の高橋氏の反応は,内容的には前回[see NaokiTakahashiの日記の2004-03-05の■ レス]とそう変わらないので,他者には意味がないかもしれないけど,自分にとっては有意義でした。

更に反応があったので,追記。NaokiTakahashiの日記の2004-03-06の■ レス2より。

そこで結論が変わるのでしたら、とりあえず今回の批判は意味を失うのです。了解です。

再考の余地が有ると謂っただけで,それで結論が変わる訳ではないですし,了解しなくてもいいンですが。

というか,今回の批判もなにも,高橋さん自身は,意味のない部分を除いても,私の文章に対しての誤解に基づいた疑問を挙げていただけですし,どんな意見なのか何も提示がないでしょう。私の結論に批判があるなら提示いただいた方が嬉しいンですが。

そういう意味では,そもそもの本題の部分[see 議論について]についても,何も提示がないし,ご意見いただけると嬉しいなぁ。

まぁ,人からの意見なんて強制して貰うもンじゃないとは思いますが,今回の批判があるなら,是非ともお願いします。

[next 文化的差異についての考え]

re:■ レス

2004.03.05

先の文章[see 信仰と奇跡]に反応あり。でも,疑問点が増えるばかりなンですが。NaokiTakahashiの日記の2004-03-05の■ レスより。

奇跡と信仰のどっちが先かについて、俺は何も言ってません。

そりゃそうです。私が謂ったンですから。私の思考経路に何かご批判でも?

なぜ奇跡を信じるということに、いろいろと留保をつける必要があるのですか?

何故と問われれば,私自身が無条件では奇跡を信じてはいないから,ですが。高橋さんは無条件で奇跡を信じたり,信じなかったりするのですか?

奇跡を無条件に信じるのも,無条件に否定するのも,あまり理性的とは思いませんので,自分ではやりたくないなぁ。

で,例えば私の場合,他の宗教の教祖から「母親の病気を祈祷で治すために1200万円必要だ。あとでお金は返ってくるから,安心してよい。」という話をされたら,胡散臭いと思います。でも,その宗教の信者なら信じることがあることを否定しません。

まぁ,カトリックの神父がそんなこと謂ったら,司教に通報するけど。

聖書上の奇跡にしてもルルドの泉にしても、本当に信じたところで、別に劣っているわけでも子供であるわけでもないでしょう。

私は優劣の話はしてないけど,高橋さんは優劣の話をしたいンですか?

神の存在と奇跡の存在と信仰とは別問題では。一神教的なGodのいない宗教もあるし、奇跡という概念を想定しない宗教もある。宗教から独立した奇跡という概念もある。

えっと,いままでの話の流れで,どうしてキリスト教の神以外の概念が飛び出すのか理解に苦しみますが,少なくとも私はキリスト教の話しかしてないンですが。

高橋さんは,初めからキリスト教と他の宗教の話を混ぜて話していたンですか?

まぁ,それはそれとして,ようやく本題と思われる文章について。

根本的な部分で日本人と欧米人ではカトリック者として違いがある

「根本的」という単語には強い含みがある。これは、日本人と欧米人の間のその違いが生来的で修正不可能なもののように読みうる(もちろんそういうつもりではないのでしょうけれど)。

人間の精神性に、人種国籍による根本的な違いなんかないでしょう。そういう主張にはキリスト教に関係のない俺でも反論したくなる。

日本人と欧米人の根本的差異、という問題の立て方ではなく、あくまで日本・欧米の文化とキリスト教との相対的な距離の問題として分析する言い方のほうがいいかなと。

どうも通じてないようなのでちょい具体的に書きますが,私は日本文化のなかで育ち,日本的な思考をする人のことを日本人と呼んで一連の文章を書いています。欧米人についても同様。人種や国籍については問題にしていません。

というか,野嵜さんとの一連の議論は,そういう前提で話されていると思っていたンですが。元々が野嵜さんとの議論についての感想から派生した話なので,解説が必要とは思いませンでした。判りづらかったのなら失礼をいたしました。

そんな訳なので,高橋さんのおっしゃるとおり日本・欧米の文化とキリスト教について論じていますので,ご安心を。

ちなみに,そういう意味でならば,「根本的」って言葉には日本人と欧米人の間のその違い修正不可能なものだ,っていうつもりで強い含みを持たせています。

[next 原罪]

信仰と奇跡

2004.03.04

本題とは関係なく。

NaokiTakahashiの日記の2004-02-21の■ あれ……?より。

そもそも奇跡の話はしていませんが。

キリスト教にGodと云ふ絶對者がゐて,日本人に絶對者の觀念がない事

この言い方でテーマにされているのは、絶対・普遍・唯一の真理を想定し、世界をそこから一元的に解釈するのか、あるいは、相対的な真理しか想定せず、世界をそれらから多元的に解釈するのか、の話です。奇跡の信仰についてはこの観点からは何も語れない。つまり別問題です。

さて、あくまで別問題として。

カトリックは奇跡を今でも認定していますし、それを信じている人は今もたくさんいます。例えばルルドの泉には毎年数百万人が訪れるそうです。それがみんな子供だということはないでしょう。

宗教的信仰と科学的理解とは別のものですので、矛盾はしません。

信仰が先か,奇跡が先か,なんてことについて考えてみる。

扨,私もルルドの水を持っていたりする。先にも書いたとおり,聖書上の奇跡を信じているではないけれども,ルルドの奇跡を信じている,と謂っていい。

原始宗教の場合,奇跡が先であり,それを根拠に信仰が始まる,って方が自然の流れだろう。もちろん,奇跡が詐術である可能性は否定しない。現代でも,一部の新興宗教では,同様のことがあるかもしれない。

しかし,近代宗教では信仰があるから奇跡を信じるもの,と思っている。神の存在についても同様で,神が存在するから信仰するわけではない。信仰するから神を信じる,若しくは信じられるのではないだろうか。

高橋氏は,神の存在,奇跡の存在,信仰をそれぞれ別問題と考えているようだ。奇跡の信仰なんて言葉もその辺の考えがあるから出てくるンだろう。が,そもそもそれが違うのだ。全ては信仰の基に,一つのことなのだから。

まぁ,哲学的にそういう思考経路に意味がある,とかなら,それには何も批判を加えるつもりはありませんしそンな権利は私には無いですが,僕の文章への貴方の読解と,世間一般のキリスト教徒に関する統計的認識には,若干問題があるように思いますなんて謂っているので,そういう話ではないンでしょう。

余談。

奇跡の信仰なんてないとは思うけど,信仰の奇跡,ならあると思う。そもそも,信仰を持つこと自体,奇跡みたいなもンだし。

[next re:■ レス]

議論について

2004.03.04

病院行ったり,区役所行ったり,焼き場行ったり,疲労で腰痛めて病院に戻ったりなンだりしているうちに月が変わっているよ。時間が流れるのが早い。まぁ,時間を忘れるくらいやることがあるほうがいいンだけどさ。腰痛で痛いのも,この際歓迎。

扨,久々にサイト鑑賞しようとおもったら,先の文章[see 信仰と論議]に反応があったようす。NaokiTakahashiの日記の2004-02-21の■ あれ……?より。

要するに「俺達の怒りを勝手に代弁するな」と言いたいのですか?

ちょっと違うけど。

それならば、単にそれだけ言えばいい。そして俺は、「代弁しているわけではない」と言っている。「怒る人がいるとすれば」そうだと言っているだけなのだから。俺は自分に関係ない問題に怒るのも筋違いなので、批判しない、というだけです。

内容をこう理解したって伝えたいなら,単にそれだけ謂えばいいのに。これでは直前に,もしこれらの物言いが貴方の信仰と食い違っていて,それが気に触ったということでしたら,それについては謝ります。ごめんなさい。事が信仰のことですから,ナイーブな問題ですし,もしかしたら言葉が乱暴だったかもれません。って謂っていたのが,批判かわしのためのポーズだったんだなぁ,としか思えないっす。それは私が穿った見方をしているだけかもしれないけど。

まぁ,それはそれとして。

文章が判り難いことを怒っていらっしゃる?それは失礼。私は,俺は自分に関係ない問題に怒るのも筋違いなので,批判しない,というだけならば,単にそれだけ謂えばいい,とは思いませんので,こういう文章を書いてしまうのです。

ところで,この発言には,絶対者の観念についての話にも,とりあえず俺は反論するつもりはない。ここで怒るとしたら日本人キリスト教徒であって,俺ではない。と謂った自分の発言を否定しているのかな,とは思いました。

自分の言葉を否定することで,批判の対象となった発言を亡きものにしようとしているのか,とか裏を読み過ぎたりもしました。これは考えすぎ。

まぁ,それもそれとして。

先の文章にも書きましたが,改めて。

問題としているのは,「怒る人がいるとすれば」そうだと言っていることなのです。宗教論争とか,思想的論争とかをするのはかまわないが,その結論づけでキリスト者の感情を持ちだされるのは不本意極まる。自分の議論の結論に他人の感情を巻きこまないで頂きたい。まして,自分のですらない感情論を持ちだすことは,論者として相手に失礼でしょう。

例えば,自分の意見として,キリスト者の立場で考えたときこれこれこういうことが問題となる,などをいうならば問題にはしません。しかし高橋さんは,「怒るとしたら日本人キリスト教徒だ」というのは,怒る人の必要条件であり,十分性には言及していません。「全ての日本人キリスト教徒が怒っている」とは違う意味の表現なのです。とおっしゃいました。つまり,議論の結論として,「私は怒る理由がないけど,貴方の意見に怒る人がいる可能性がある」と謂った訳です。今まで議論していた相手に対して,最後に同意しておこうと題した文章で,自分は関係無いけど他の人はこうかもよ,なんて謂って他人に矛先を向けるのは論者として問題でしょう,という話です。

余談。

むしろ、日本人キリスト者なら十分に自覚していることとか根本的な部分で日本人と欧米人ではカトリック者として違いがあるとか、これは本当に該当者全員に当てはめていいことなんですか?そちらの乱暴さのほうが俺には気になります。怒る人もいそうな気がするのですが。生物学的に日本人に欧米人的な信仰が出来ない何かの理由があるのならともかく、そうではないでしょう。

えっと,意見する際には常に,「私はこう思う」とか「私見ですが」とか「個人的には」とか書かないといけないって話でしょうか?

それはチト面倒だなぁ。意見なんてのはなんだって個人的なものだから,謂うまでもないし。まぁ,「思う」なんてのはよく使うけど。思ってもいないことは謂えないわな,普通。

因みに,私の発言に対して怒る人がいれば是非ご批判ください。とりあえず,私は根拠も示さず自分の意見を謂っている訳で,別の意見をもつ人が批判することはあるでしょうね。それが言論の自由ってもンだろうし。

というか,自分の意見を発表するのなんて,批判をしてもらうためなンではないでしょうか。怒る人もいそうな気がするのですがなんて謂うまでもない。

文責,その他

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