佐竹氏についてのエピソード

ここでは,佐竹氏に関する逸話や伝聞,風聞などを書き残しておこうと思います。

読み物としてお楽しみください。

To "Satake history research"


佐竹義重と武田信玄

佐竹氏と武田氏は,対北条氏のために同盟を結ぶ事となりました。その時のお話し。

同盟の使者から佐竹義重の書状を受け取った武田信玄は,その書状を見て,使者に怒りました。
「佐竹家も武田家同様,新羅三郎義光の子孫と聞くが,武田家は義光の嫡流である。その証拠に,義光の所領である甲斐を譲り受け,義光伝来の鎧兜や旗が家宝として伝わっている。しかるに,義重のこの書状は嫡家に対する礼を失している。無礼である。」
使者からその言葉を聞いた佐竹義重は,こう返答したといいます。
「佐竹氏の祖,義業は武田氏の祖である義清の兄である。義業は新羅三郎義光の嫡男であったが,義光の兄,加茂二郎義綱に後継ぎがいないため義綱を継ぎ,そのために義清が義光を継いだ。義綱は義光の兄であり,義業もまた義清の兄である。故に庶嫡の順は明白であり,佐竹の書状は無礼ではない。」
佐竹義重の返答状で武田信玄も納得し,無礼を詫びたといいます。

もっとも,この後佐竹氏と武田氏の間に特に交流はなかったようですので,遺恨は残ったのかもしれません。

「佐竹史探訪」「佐竹氏物語」「佐竹義重」等から。

佐竹義重と武田信玄 その2

武田信玄が宇都宮・多賀谷等の要請で関東に出兵した時のお話し。

関東の武将達から武田信玄に献上品があり,宇都宮広綱からは馬が献上されました。信玄はこの馬が気に入り,もう一頭欲しいと言ったのですが,宇都宮広綱は「この馬は佐竹家からもらったもので,宇都宮領では手に入らない」と答えました。そこで武田信玄は,今後は佐竹義重に馬を無心しましたが,佐竹義重は返事をしなかったといいます。

今度は佐竹義重が武田信玄の書状を無礼と感じたのか,それとも嫡流争いの遺恨があったからでしょうか。

「佐竹義重」から。

佐竹義重と上杉謙信

佐竹義重の初陣の際,上杉謙信から備前三郎国宗の太刀が贈られました。このとき上杉謙信は,「この太刀は,隠居後に杖に使おうと思っていたものだが,私の武略を継ぐのは貴方しかいないと思い,私にあやかって貰いたいために譲る事にした。」と言ったといいます。

佐竹義重が隠居したとき,この太刀は佐竹義宣に譲られました。ところが義宣は,使うには長すぎて使いにくいとして,切っ先を削って脇差しにしました。これを見て佐竹義重は,「刀の魂が失われてしまった」と言って惜しんだといいます。

刀を武具として見ていた義重と,平和に慣れて装飾的に考えていた義宣に,戦国と豊臣という時代の違いを感じます。

「佐竹義重」から。

佐竹義昭,関東管領職を断る

関東管領上杉憲政は長年北条氏と争っていましたが,河越合戦の敗戦等により領地を奪われ,ついに関東を追われました。その時のお話し。

上杉憲政は常陸を訪れ,佐竹義昭に対してこういいました。
「上杉氏と佐竹氏は,昔は兄弟の関係であり,互いに協力してきた。いま,上杉は領地を奪われ,領民も苦しんでいる。この際,関東管領職と上杉の姓を譲るから,どうか北条を打ち破っては貰えないか。」
これに対して佐竹義昭はこう答えたといいます。
「佐竹氏は源氏の嫡流であり,上杉氏は藤原氏です。私の代で源氏を終わらせるわけにはいかないので,上杉を継ぐわけにはいきません。しかし,関東管領職はお受けしましょう。」
佐竹同様,上杉の姓が途絶えることを惜しんだ上杉憲政はやむなく諦めました。

余談ですが,この後上杉憲政は越後の長尾輝虎を頼り,関東管領職と上杉姓を譲りました。
この人が後の上杉謙信となります。

「佐竹氏物語」「問答式佐竹読本」から。

坂東太郎 佐竹義重

下妻城を攻撃にきた北条氏との戦の際のお話し。

北条氏政の軍勢は数も多く,佐竹氏に不利な状況でした。そんな中,敵と対陣した佐竹義重は兵に,「敵は大軍だが恐れる必要はない。相手は遠征で疲れているのだから。大将の言うことに従えば勝てる。」と言い放ち,先頭を駆けて敵陣に進撃しました。大将の勢いに飲まれて兵たちも続き,激しい戦いになったといいます。
義重は,真っ先に敵陣に飛び込むと,やにわに7名ばかりの敵を討ち取りました。この様子を見ていた者は,敵味方を問わず驚き,以後義重を「坂東太郎」といって恐れたといいます。

「佐竹義重」から。

鬼義重

佐竹義重は,常に戦場と同じ心がけを家臣に厳しく要求したため「鬼義重」と呼ばれていました。

毎日朝起きると,寝間着のままで家臣が刀を置いてあるところに行き,刀を抜いて手入れの状態を見たといいます。短刀でも手入れが悪く刃がつぶれていると叱られるので,家臣はいつも武具の手入れに余念がなかったといいます。ところが,刀のこしらえが悪く見栄えが悪くともそれは問題にしないで,手入れがいい者には褒美を与えたりもしたといいます。

また,身の回りの世話をする小姓らですら信用はせず,小姓が敷いた布団の位置を毎日夜中に変え,しかも戸口には掛け金をし,更に何枚もの衝立てを立てて,どこに寝ているか判らないようにしていたそうです。
あるとき,見張りの者が急病で薬を願い出たとき,義重は戸の中から刀の先に薬をかけて渡したといいます。

「佐竹義重」から。

佐竹義重と佐竹義宣

佐竹家が秋田に移ってからのお話し。

義重は常陸時代から敷ぶとんを使わないで寝ていました。しかし秋田は常陸と違って寒く,また義重の居城は義宣の居城より北にあったため,義宣は父義重の体を案じて羽二重の夜着とふとんを贈りました。
ところが,贈り物が届いた次の日,義重は届けにきた使者にこういったといいます。
「義宣の優しさがうれしくて昨日さっそくふとんや夜着を使ってみたが,暑くてどうにも寝られず,とうとういつも通りの掛け布団だけで寝てしまった。しかし,このことは義宣に内緒にしておくように。」と。

「佐竹氏物語」「佐竹義重」「常陸佐竹新太平記」から。

佐竹義宣と佐竹義直

佐竹義直は佐竹義重の側室の子供で,義重の死後に生まれました。義重は生前家臣に対して,「後の家督争いの種にならぬように,生まれてくる子供は殺せ」といっていました。
ところが,子供が産まれた時には義重は死んでいたため,家臣はこのことを佐竹義宣に伝えました。義宣は,年の離れた弟を可愛く思い,「申若」と命名して,「大事に育てよ」と命じたといいます。

申若丸は長じて佐竹義直と名乗り,後に北家を継ぎ(この時義継と改名),更に子供がいなかった義宣に愛されて佐竹家の嗣子となりました。
ところが,江戸城での催しがあったときのこと。義宣は義直を伴って出席していましたが,義直はつい居眠りをしてしましました。この様を,たまたま隣に座っていた伊達政宗に見つかってしまいました。伊達政宗は,佐竹義宣のひざを軽く押すと,軽蔑した目で義直を見ながら義宣に伝えました。
長年の仇敵である伊達政宗に馬鹿にされたと感じた佐竹義宣は,怒りのあまり義直を廃嫡したといいます。

坂東東方の衆で宮野州さんにご教授いただき,「佐竹義宣その時代」で確認・補足しました。

佐竹義宣を慕った魚

秋田の名物に「ハタハタ」という魚がいます。この魚はもともとは常陸の大洗沖に棲んでいたそうです。
関ヶ原の戦いの後,全国の大名の改易が終わった後に佐竹義宣は常陸から秋田に転封されましたが,このときに「ハタハタ」も佐竹義宣を追って秋田に行ってしまい,以後常陸では獲れなくなったといいます。

また,同様の話ですが,佐竹義宣の時代には,多賀郡では良質の金銀が採掘出来たそうです。
ところが,義宣がいなくなってからは,金や銀が石灰岩に変わってしまったといいます。

「あきた史記●歴史論功集4」から。

佐竹師義=佐竹言義

この話しは,「源威集」に関する研究論文の内容です。

佐竹師義は,南北朝時代の佐竹家当主,佐竹貞義の四男で,足利尊氏の軍勢に従軍し,九州・近畿の戦闘に参加した人物です。
この子孫は,師義の武功により佐竹一門の中で強い発言権を持つことになり,後に山入氏を称します。この山入氏と佐竹宗家との間に争い,いわゆる「山入一揆」と呼ばれる事件が起こり,100年に渡る「佐竹の乱」の発端となります。

さて,佐竹師義ですが,南北朝の争いの中で奮戦し,畠山国清との戦いで討ち死にしたと一般には伝わっています。系図では嫡男が言義,次男が與義とあり,師義の後を言義が継ぎますが,子がないためその後を與義が継ぎました。與義については上杉禅秀の乱での活躍が有名で,鎌倉大草紙では「佐竹上総入道」として名を見かけますが,言義については「早世したため弟が後を継ぐ」と伝わるだけの存在でした。

しかし,この言義は師義の晩年の名であるといわれています。師義は討ち死ではなく名を変えたために別人と思われただけで,生きて後に源威集を書いたというものです。
関東武将として佐竹家は鎌倉府に属する事となりました。ときの鎌倉公方は足利基氏でしたが,この人の養父は足利直義です。師義の「師」の字は烏帽子親である高師直から貰っているのですが,高師直は足利直義の仇敵でした。そのため,師義は高師直の一字を使う事を遠慮して名を改めたといいます。

詳細な論旨を知りたい方は,「中世歴史叙述の展開」「源威集」をお読みください。また,「鎌倉大草紙」については芝蘭堂さんの現代語訳を参考にさせていただきました。


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