雪の峠

「佐竹史研究」へ


「寄生獣」で有名な岩明均氏の歴史漫画。

「モーニング新マグナム増刊」で1999年5月19日号から11月10日号まで連載。全四話。(2001年3月23日講談社から「雪の峠・剣の舞」としてコミックス化)

関ヶ原戦後の1602年,常陸54万5千石から久保田20万5千石に転封になった佐竹氏の黎明時代を描いたもの。 (ただし,物語時点では石高は不明だった)

佐竹氏の資料は,秋田以前のものは非常少なく,唯一信用できる資料として「佐竹文書」(さたけもんじょ)に「家蔵文書」があるくらい。しかし,秋田以降の資料はかなり詳細なものが残されている。これは,常陸時代には記録を残せるような文官が,佐竹家臣にはいなかったことが原因と思われる。

物語は,この辺を反映している。

武略の能力しかもたない常陸以来の家臣団と,文弱と言われかねない近習たち。そして対立。この物語は,秋田佐竹氏の初期に起こった「川井事件」をモチーフに,戦国大名から徳川大名への転身を図った佐竹家の苦悩を描ききっている。

あまり知名度が高くない佐竹氏が漫画になるとは思っても見なかったが,これを機会に興味を持つ人が増えるのを私は願っている。

余談。
秋田城は「石垣のない城」として,江戸時代の評価は高くない。物語ではかなり好意的に「実戦的な城」と書かれているが,これは言い過ぎだろう。ただ佐竹氏はこの時点で,今後戦乱はないことを見通していたために,普請に経費がかからない方法を選んだ,と私は考えるがどうだろう。

なお,この作品の参考資料は以下のとおり(最終話より)。

上記はともに渡辺景一著 無明舎出版

登場人物紹介

佐竹義宣(さたけ よしのぶ)

秋田佐竹氏初代当主。左近衛権中将。秋田佐竹氏の基盤を作った名君主。

この人の逸話で面白いものがある。
関ヶ原戦後のあるとき,徳川に対する書状の署名にこう書いたという。「源義宣左近衛権中将佐竹朝臣」ようは,自分は源氏の正流であり,徳川なんぞという,どこの馬の骨とも知れない輩の臣ではなく,朝廷(天皇)の臣である,とのたまわったわけだ。形式上は確かにそのとおりですしね。

また,関ヶ原ののち,徳川家康からの江戸への出仕命令を無視して,正妻の菩提寺を作っていたという。かなり肝のすわった人だったようだ。

20才のとき,正妻が24才の若さで自殺するという悲劇にあう。その後,側室との間に嫡男ができるも2才で病死するなど,私生活は不幸続きだった。

渋江内膳(しぶえ ないぜん)

渋江政光。弥五郎。

下野小山氏の一族で,父の代に北条氏により小山城が陥落したとき,主家とともに佐竹氏に身を寄せた。父の死後,あとを継ぎ,佐竹家臣となる。

久保田城築城に際しては,梶原美濃守とともに普請奉行を務めた。和田安房守の隠居後,家老に昇格する。大坂冬の陣に徳川方として参戦した佐竹軍の先鋒として功名をたてるが,後藤基次・木村重成隊と戦い,討ち死にした。

この人の娘は,佐竹一門衆である佐竹南家義章に嫁ぐが,その娘寿流姫は秋田佐竹氏二代目佐竹義隆の正妻となり,良妻賢母の名が高かった。
さらに,この子が3代義処であるため,政光は未来の佐竹当主の曽祖父にあたる。

川井伊勢守(かわい いせのかみ)

川井忠遠。河井ともいう。

常陸以来の重臣で,秋田入部の先遣隊としていちはやく秋田入りした人物でもある。

入部直後,家老小貫頼久が亡くなったため,家老に昇格した。そのころ,当主義宣は新領地での行政のために,文治能力に長けた渋江内膳や梅津兄弟ら新参を重用していた。譜代の重臣たちはこれを快く思ってはいなかった。そうしたなか,小貫と同じく家老だった和田安房守が隠居することとなり,新しい家老職に渋江内膳を昇格させる,という話が持ち上がった。これにより譜代の臣の不満が爆発した。川井忠遠・小泉籐四郎・野上刑部左衛門・小野玄蕃・大窪長介ら5名の重臣が先頭に立ち,これに反対したのだ。彼らは渋江内膳襲撃までも計画していたが,新参勢力に悟られ,これを擁護した義宣に粛正された。これを「川井事件」という。(なお,5名のうち小野だけは,先代義重の保護のおかげで助命された。)

この事件の汚名により,忠遠は川井家の家系図からも抹消され,死後も不遇を受けた。

なお,全然関係ないけど,鎌倉時代の佐竹氏当主に「義重」という名があるが,この人の妻は「河井忠遠女」(河井忠遠ってひとの娘)らしい。なんか関係があるのか?佐竹の歴史で家臣の家系から正妻が来たのは2度しかなく,この人は違うはずだけど。謎。

梶原美濃守(かじわら みののかみ)

梶原政景。源太郎。

戦国末期の武州岩槻城主,太田資正の次男。

父とともに浪人のすえ,佐竹義重の臣となった。佐竹氏では,北条氏に内通の態を見せながらも,柿岡城や小田城,岩城窪田城の城主として活躍した。豊臣秀吉の朝鮮侵略にも従軍している。

秋田久保田城に築城を推したのは,窪田城主時代を懐かしんだ梶原政景であるとの説もある。

物語中,上杉謙信との逸話は,1562年の後北条氏による武州松山城上杉憲勝包囲戦のこと。

秋田転封時は佐竹家にいたようだが,「川井事件」後に出奔,徳川家結城秀康に仕え,万石取りの武者奉行となった。 大阪夏・冬の陣にも参陣している。

佐竹義重(さたけ よししげ)

常陸佐竹氏十八代当主。常陸介。義宣の父。「鬼義重」「坂東太郎」の異名を持つ。妻は伊達晴宗の娘,つまり伊達政宗の叔母にあたる。

戦国末期の関東・奥州に名を馳せた名将。なのだが,劇的な(つまりは博打的な)状況を起こさずに勢力を拡大したため, 後世の評価は低い。本来,大博打を打たずに確実に勢力拡大できることが有能な証拠なんだけどね。

東に北条氏,南に里見氏の関東二大勢力を相手に一歩も譲らず,北方では芦名氏等の陸奥勢力と争うもこれを傘下に収め,その後伊達氏と奥州の覇権を争った。

戦場では武者震いが納まらず敵陣に飛び込んで初めて納まっただの,一騎で敵陣に飛び込み敵7名を討ち取っただの, 個人武勇の逸話が多いが,織田信長との関係や,上杉謙信・武田信玄との同盟工作や,芦名氏乗っ取りの手腕等,実績からはかなりの知将であることがわかる。織田信長の台頭を早期に予測していたのは,全国でもこの人と長宗我部元親くらいだろう。

「鬼」の異名から,ごつい人物像を想像しがちだが,これは規律に厳ししかったことからついた渾名であるため,物語中の好々爺然とした義重が私的にはイメージにあう。

上杉謙信(うえすぎ けんしん)

越後の戦国大名。上杉輝虎。長尾景虎。軍神の異名を持つ義将。関東管領。弾正少弼。

自国の外に領土的野心を持たなかった唯一の戦国大名。それがゆえに,人物としての信頼が集まり,見返りが少ない戦いに家臣たちはついてきた。

関東戦略で佐竹義重と同盟し,この同盟関係は謙信の死まで途絶えることはなかった。規律に厳しかったらしく,この辺が佐竹義重とウマが合ったのかもしれない。

詳しくは,「天と地と」(海音寺潮五郎)でも読んでください。映画は観ても意味ありません。小説版の「戦国自衛隊」の景虎もいい感じです。やっぱり映画はいただけません。

太田資正(おおた すけまさ)

太田三楽斎。美濃守。武州岩槻城主。太田道灌の子孫。

上杉謙信に「希代の名将」と称された人物。

関東管領上杉憲政に仕えたが,北条氏によって上杉氏が没落すると,北条に属した。しかし,反北条の気概をもったままだったらしく,関東管領として上杉謙信が関東侵攻を行った時は,関東武将に管領服属の号令をかけている。

後に,北条に心服していた嫡男氏資によって,次男政景ともども追放された。放浪の末,一時は常陸小田氏に身を寄せるが,佐竹氏に押される小田氏を見限り,佐竹義重の招きに応じた。

佐竹氏では,常陸片野城主として厚遇され,豊臣秀吉の小田原攻めにも従軍した。ここで資政は秀吉から直接声をかけられる名誉に浴している。後に片野城主のまま没した。

梅津半右衛門(うめづ はんえもん)

梅津憲忠。

宇都宮氏浪人の子。父が常陸に移り住んだことを切掛けにして,佐竹氏に仕えた。かなりの暴れ者だったらしく,同僚と喧嘩をして殺してしまったり,最上氏の領土で狩りをして,見咎めた農民を撃ち殺したり,という伝聞が残っている。

大坂の陣では奮戦し,将軍秀忠から太刀を賜っている。渋江内膳戦死後に家老となり,佐竹家を切り回した。

梅津主馬(うめづ しゅめ)

梅津政景。梅津半右衛門の弟。主君義宣に忠節を尽くした忠臣。兄の死後家老となった。

「川井事件」で,首謀者である川井忠遠に止どめを刺したのは彼であるという。

佐竹家中では,主に財政面の事務を受け持った。義宣が没したとき,義宣の遺言により遺骨は政景が荼毘拾骨した。 しかし,葬儀一切を取り仕切る筈だった政景自身も後を追うように死去した。

彼が記した「梅津政景日記」は秋田佐竹氏初期の貴重な資料として今に伝わる。

和田安房守(わだ あわのかみ)

和田昭為。

佐竹義昭・義重・義宣に仕えた常陸以来の重臣で,川井伊勢守とともに秋田先遣隊を勤めた。

同僚との功名争いの末,義重の怒りを買い,一時,奥州白河結城氏に属したことがある。結城氏でも武勲をあげ,重臣に列したが,佐竹義重の誘いにより,結城氏攻略において寝返って佐竹氏を勝利に導いた。俗に言う「和田の返り忠」である。このとき,敵の大将,白川結城義親を組み打ちで生けどる大功をあげている。

しかし,その生涯を通しての功は,軍略よりも外交・内政面が多かった。

徳川家康(とくがわ いえやす)

江戸幕府の開祖。

戦略・戦術に通じた武将で,この長所を最大限活用して,一度は決まった覇権を奪い取った。保守的な人物で,織田信長により急激に流入した海外の発達した科学・文化・貨幣経済等を締め出し,日本の発達を100年は遅らせた。日本人の持つ島国根性を育てた土壌を作った張本人。

まあ,当時来ていた西洋の奴隷商人たちの悪行の記録見てると,短絡するのもわからんではないけど。

この物語以後,更に十数年も生きのびた。

本多佐渡守(ほんだ さどのかみ)

本多正信。

三河以来の家康の家来で,無二の謀臣。物語の頃は,息子の正純に家康の相談役を引き継いでたはずだけど, 絵的に家康の横には正信,の方が良いと思う。

佐竹の秋田転封時に出羽一国となるところを,正純とともに「半国でよし」と進言したという。このため,政争に負けた正純が失脚したとき,幕府は正純の身柄を佐竹預とした。仇がある相手であるため,恩情をかけることはないと考えたのだろう。正純は,秋田横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。


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