書きなぐりな日記
戻る

 
 
 
 
2001.06.28
 「ムーミン」の作者のトーベ・ヤンソンさんがお亡くなりになったとか…(合掌)。
 そんなわけで、ムーミンのアニメ(初代)ビデオを久しぶりに観て、独りしみじみ。アニメの絵は、それほどでもないけど、原作のムーミンって、少しコワイんだよね〜(って思ってるのはワタシだけではない筈)。でも、その少し恐い感じが、北欧フィンランドの森にはぴったりなんだろうと、想像している。不思議な何かが潜んでいそうな…。
 そのフィンランドが世界に誇る新しい英雄(?)リーナス・トーバルズは、自分のことを「ぼくは怠け者である」と言って憚らない(因みに彼の奥さんは「トーベ」という名前らしい。フィンランドではメジャーな名前なのかな?)。「リナックスの成功は、ぼく自身の欠点のおかげなのだ」。彼は…説明する必要もなさそうだけど…Linuxの生みの親リーナス・トーバルズ。彼は自分のことをコンピュータの「オタク」と呼んではばからない。
 1年前か2年前だったか、彼が来日したとき、ネットでその時の写真とレポートを読んだんだけど(だって、マスコミではあまり取り上げられなかったから)、その時の印象そのまま〜って感じ。文体が話口調で読みやすい。訳者の力もあるんだろうけど、ところどころに“こなれ過ぎた日本語”を見かけて、ホントにこんなコト言ってるのか?」とやや恐ろしくも思うけど、読みやすい『それがぼくには楽しかったから』(リーナス・トーバルズ、デイビッド・ダイヤモンド著・風見潤訳・小学館プロダクション)。*インタビュー
 もうひとりの著者のデイビッド曰く「シリコンバレーで出会う人々は、たいてい自分自身を熱狂的に崇拝していて、自分の仕事、すばらしいアプリケーション、産業界のことしか頭になく、他のものは何も存在していないかのように振る舞う。自画自賛の繰り返し(ここの人はそれを会話だと思っている」。こういう人は、多分シリコンバレーでなくても、結構いると、私は思う。そして、周りの人をうんざりさせるのだ。
 それに引き替え、リーナス君(スマン、君呼ばわり)は、どちらかと言うと、癒し系なのかも。来日したときの服装だって、よれたTシャツ(いや、よれてはいないか・笑)か何かだったような気がする。

 彼は10歳かそこらの時に、BASICで簡単なゲームのプログラムと出会ったらしい。
 実は、私も10歳ではないにしてもローティーンの時に、BASICのプログラムを写したりしたような記憶もある。でも、その時には、もう初代ファミコンは登場していたし、丸と棒で構成されたような簡単なゲームは、「いくら自分で入力した」とはいえ、熱中するほど面白いゲームでもなかった。プログラムをアレンジして数値を変えたり、色を変えても、変わった時は「わあ!」と、嬉しいものだけど、そうそう長続きする興奮はなかった。
 才能というものがあるとすれば、ここで、面白いと思い続けて、それにのめり込んでいく事なのかもと、思ったりする。
 リーナス君は、ただ「HELLO」と表示し続けるだけのプログラムに興味を抱いた。それがひとつの才能なのかも。
 そんなパソコンオタク少年の誕生の話から、オープンソースや知的財産権、そして人生の話まで、彼の哲学が展開される。哲学と言っても、そうイヤミっぽいものではなく、自然体っていうか、そりゃ、そーだわなという感じで納得。所々の毒舌も、思わず「ニヤリ」とさせてくれて嬉しい限り。オープンソースって、ソフトウェアにおける戦略というだけでなく、ひとつの哲学なんだな〜と思えてくる。
 この本の表紙にも登場してるLinuxのトレードマーク、ペンギンの由来も出てくるけど、なんだか結局よく分からなくて可笑しかった。自分の生い立ちについての文章と、自分がこれまでに所有してきたコンピュータのCPUやスペックについて語るときの温度差までが伝わってくる文章だった。当然、後者に関するときの方が「熱い」のがオタク(笑)。
 Windowsを使っていて、「こなくそー!」と思ったことがある人なら、だれでも、面白く読めるかもね。
 個人的には、Linuxを「リナックス」という日本語表記にすることには、とても抵抗があるんだけど…。いつの間にか、すっかり定着しちゃいましたねぇ。

 話し言葉で書いてあるんだけど、どういうわけか読みにくかったのは『天才アラーキー 写真ノ方法』(荒木経惟著・集英社新書)。面白いこと書いてあるんだけど、どうにも、ノイズが多いっていうんでしょうか。聞き書き…テープおこししただけな印象。もったいない。
 そーいえば、木村伊兵衛賞を今年受賞した人たちなんかも、この人をソンケーしたりしているらしいんで、こんなド素人のワタシが言うのも何だけど、この人の撮る写真の生々しさは一体何なんだぁ〜! という疑問は募るばかり。例えば、この本の見返しにある花瓶に挿した花。何故かえっちっぽいんですけど。写真でこんなコトが表現できるなんて、信じがたい「技」でさぁ。
 上の本でも触れられている、東京下町。アラーキー氏は三ノ輪育ちらしいけど、その近くの文京区根津や弥生町が舞台になっているアニメ『BRIGADOON まりんとメラン』に今頃ハマっている。放送自体は、昨年7月から半年間ほどやってたのだけど、今、DVDとVHSが着々とリリースされている最中だから、あながち時代遅れとゆーわけでもない(と、自分を励ましてみたり・笑)。まだ8話までしか観てない(から謎だらけだ)けれど、これはメチャいいっ! 久々にツボにはまってしまった。ストーリーもいいし、色がきれい。戦闘シーンがカッコよくて美しいのもポイント高し。それから、メランがいい味出してるんだ!
 って、今頃、こんなに熱く語ってるの、私だけなんだろーよ。(苦笑)

2001.06.20
 梅雨ですね〜。うちの方では、「毎日、雨っ!」という感じではないけど、湿度が高くて、連日どんより曇って、「時々雨」が降ってます。
 国土交通省のサイトでは、渇水情報節水マニュアルを公開してるし、同省河川局では「渇水対策本部」なんてものを設置したらしいので、今のうちにしっかり降ってもらって、夏には心おきなく水を使いたいと思うのだけど。
 ところがどっこい『Newton』7月号で、特集しているのは、「大洪水」。洪水の被害は、地球規模で増え続けているらしい。原因は、森林の減少などのほかに地球温暖化で南極などの氷が解けた結果→水が増える→それが集中豪雨となって地表に降り注ぐ→洪水…という事らしいんだけど。
 んじゃ、渇水では、どういうモデルが成り立つのかな? 謎。

 で、結局これから、渇水に備えたらいいの? それとも洪水に備えるべき?
 その両者にどのような備え方の違いがあるのかはよく分からないけど(笑)、こんなことを考えてると、すぐ思考が飛躍して、「カラカラに干からびて死ぬのと、おぼれ死ぬのと、どっちがいいかな〜?」なんて、しょーもないコトを考えてしまうのだけど。
 あっても無くても、水は大切にしないとなぁ。


2001.06.15
 『太宰治賞2001』(筑摩書房編集部編・筑摩書房)に収録の受賞作・小島小陸「一滴の嵐」。1999年に太宰賞が復活して以来、初の満票での受賞らしい。

 舞台は19世紀中頃、フランスのアルザス。ドイツ語とフランス語が混在する地方…ああ、小学校6年の時の国語の教科書に載っていたアルフォンス・ドーデの『最後の授業』の舞台になってた土地だわさ…と思い出したら、時代背景は掴みやすい。なーんか、すんなり読めちゃった。
 登場する2人の少年…1人は貴族の一人息子で、金髪碧眼の“美しい”少年。もう1人は貧しい鉛筆職人の一人息子で、故郷に嫌気がさしていて「パリに出たい」と密かに思っている。少年とはいっても、2人が出会うのは10歳かそこらの年齢。
 物語は、貧しい少年「僕」の一人称で語られる。「僕」は、美しい貴族の少年の父親である男爵の「戯れ」あるいは「救済」をきっかけに、学費や生活費を出してもらい、男爵の子息の友だち兼従者として音楽学校の寄宿生活を送ることになる。それからの数年間が、ゆっくりと、しかし、あっという間に描かれている。
 貴族の美しい少年の方は、右足が少し不自由で、家族関係に複雑な事情を抱えていて、おとなしく、引っ込み思案。「僕」は、田舎育ちで、汚い言葉も知ってるし、腕に覚えがあったりする。2人とも子供らしい(?)プライドがあるくせに、お互いに魅了され、お互いを必要とし合っている。

 こんな設定や諸々が、選考委員をして「二人の少年の友情物語は人間の本質に戻って愛の形而上学を構築しようとしながらも、結局は宝塚や少女漫画、少女向き同性愛小説などが描く愛のもつれを完全には越えていないようにも見える」(柴田翔)あるいは「池田理代子を連想させないでもない」(高井有一)と言わしめるのだろう。
 と、書くと、「ドロドロしてんのか!?」と一瞬疑ってしまうのだけれど、すんでの所で“少女向き同性愛小説”(笑)とやらには、なっていない。それは2人の少年が、真摯に“成熟”を拒否しているからかもしれない。

 選評によれば、受賞作の筆者は、フランスは勿論、「外国体験はまつたく無」いらしい。
 吉村昭選考委員はこう主張する「小説家とはその生きた土壌の上のみに生育する茸のようなもの」だから「外国という土壌の上に生きている外国人を描くにしても、生まれ育った日本という島国の土壌を背負った人物の眼を通して書くべきだと思う」。
 しかし、名家の生まれとはいえ、津軽の片田舎出身の太宰が、東京・山の手の没落貴族の生活を描いて、後世の言語学者か誰かに、山の手言葉は、こうではないなどと指摘されていることを思い出したりして、それなら、まさしく、太宰治賞にぴったりの作品ではないか! とフォローにならないコトを考えたりもしてしまうのだ。

 成熟の拒否のその向こうに何が待っているのか。10歳そこそこの少年も、物語終盤には確か17歳になっている。拒否しようと願ったところで、逃れられない。
 「なぜ、こんな小説が書かれているのか。その理由がわからない」(加藤典洋)というが、「あなたにはわかるまい。わかってたまるか」と、自分なりの読みを踏まえて、ちょっぴり思ったりするのだ(偉そ・笑)。
 どーでもいいけど、「僕」の父親みたいな人、いいっすね。


2001.06.11
 遅ればせながら、噂の自動シャンプーマシンを初体験してきました。
 基本的には、気持ちよかったです。

 実は、無類のシャンプー好きの私。美容院へ行く楽しみの55%はシャンプーにある!と考えているぐらい、シャンプーをしてもらうのが好きなのです。
 初めて行った美容室で、何の前触れもなく“ご対面”してしまいました。
 「おお。これが…!」(後光が射して見える・笑)

 シャンプーする時の体勢は、いつもと同じ。
 仰向けになると、額から耳にかけてをタオルか何かで覆われ(この時点で、既に顔に布をかぶせられているので、具体的なことは不明)、何やらセッティングをされた後、カパッとドーム状の“ふた”をされました。
 そして、噴射される湯、湯、湯! 結構な水圧! 音もすごいぞ。頭部に向かって四方八方から噴射されて気持ちいい〜。この水圧を決めるのに、このマシンの製作者はきっと腐心したに違いない…勿論、自分で試したんだろう。あ〜至福。殊に、下から後頭部に向かって噴射される湯が、いいんだわ。普段こんな向きでシャワーの水が当たらないからかもしれないし、何かツボでもあるのかもしれない…。あ〜、でも、こんなに水を使って、“贅沢”な機械だなあ…まるで“流しすすぎ”する洗濯機みたいかも。ああ、でも、ずっと、このままでいたい…(←浸ってる)。
 と、水が止まって、何やらメロディが流れる。へ。もしかして、終わりなの? と思うか思わないかのうちに、「お疲れさまでした〜」と言われて、ふたを外された。いや〜ん、もっと洗われたいっ! でも、どこからどこまでがシャンプーで、すすぎで、コンディショナーだったのか、全然自覚できなかった。時計を見ると、約5分間の出来事。ああ(泣)。

 と、たいそう気に入ったふうな書き方なんですが、でもやっぱり、人の手にはかなわないな〜というのが本音。手には手の良さがある。でも、四方八方シャワーは、ホントに気持ちよかったっすよ! だから、シャワーマシンで洗ったあと、手で洗ってもらえると最高!(だめっすか)
 確かにねー、シャンプーって重労働だと思うんですよ。美容師さん達って、根本的には髪を切る仕事をしたくて、やってるんだろうから、シャンプーは、それに至るまでの過程のひとつっていうか、こう言っちゃ何だけど必要悪みたいな感じだろうと思うんですわ。手が荒れたりするのも嫌だろうし。

 でも、わがままは承知で、“手洗い”はいいんだわ。
 このシャンプーマシン、洗ってるときは至福なんだけど、終わると髪が絡まっちゃって、切る前に櫛を入れるのが大変そうだった。これを梳かすっていうのも、髪痛みそうだし。でも、地肌には良さげなので、髪短い人はいいかも。。
 それにしても、このシャンプーマシンが家にあったらな〜…なんて思って、早速、検索したら、ありましたよ。まさしくこれ。イエローだったよ。 アクアバイブロって名前らしい(タカラベルモント製)。が、お値段書いてない…。書いてあったところで、どうせ買えそうにないよな。


2001.06.05
 「国民に判断してもらいたい−これが話題の教科書だ!」という帯の文句通りの意図をもって出版されたのであろう『市販本 新しい歴史教科書』(扶桑社)。この教科書に対する批判はそこらじゅうで目にしたけれど、「自分の目で確かめてみなければ何とも…」と思っていたら、何とホントに書籍扱いで出版されちまった。イチャモンつけるなら、読んでからにしといてや〜ということらしい。もしかして商売上手ですか(笑)。それとも…?
 代表執筆者の西尾幹二氏の手による「市販本まえがき」には、「各都道府県における教科書の出版は採択の現場に予断を与える、という奇妙な議論があるが、それなら採択の開始前からの一教科書へのマスコミの誹謗・中傷は、採択の現場に予断を与えないというのであろうか」「われわれ以外の七社の教科書も、ぜひ市販本を出していただきたい」とあり、「新しい歴史教科書」というよりは、「闘う歴史教科書」って感じがします。何はともあれ、どれくらい売れますか…。

 手にとってみて、自分が小中学生の頃使っていた教科書のことを思い出せば、「そういえば、『新しい〜』って冠された教科書って、あったな〜」と。使っていた当時は、この「新しい」という言葉を何の不思議もなく受け入れていたけど(だって、新学期にもらえる教科書は「新品」に決まってるから・笑。学期の終わりには「古い教科書」になってしまう…という論法。ちびっ子だった時分には「そーじゃなくて」とは思わなかったわけさ)、「新しい」の対義語「古い」が意味するところまでは、思いが至らず。だから、この『新しい歴史教科書』というネーミングが、実は目新しいものではないんだということを思い出したのです。字面だけだと、既に「あの新しい歴史教科書」ってニュアンスになっちゃってる印象があるけど。
 で、パラパラと中を見てみれば、「カラーがいっぱい!まるで、副読本の資料集のよう」と、つまらぬところに感動。自分が使ってた教科書にも確かにカラーはあったけど、全ページフルカラーではなかったような気がする(たぶん)。
 つらつら読んでみると、読めども読めども、日本史ばっかり。内容もかなり詳しい。けど、中学校の歴史の授業って、日本史も世界史もごちゃまぜに習ったんだけど。例えば、1467年日本は応仁の乱でした。一方、その頃、ヨーロッパではコロンブスが…みたいな感じで。それは、教科書によって違うもの? それとも、指導要領が変わったのかな。はてな?

 思い出話はさておき、問題となっていそうな箇所を読んでみても、聞いていたようなものとはちょっと違う。天孫降臨神話については、ちゃんと「神話」として紹介している。史実として紹介しているわけではない。まぁ、史実じゃないことを歴史教科書に載せるかどうかというのは、意見の分かれるところかもしれないけれど、どこまでが史実で、どこからが創作だったかどうか、を論じるのも歴史の研究のひとつだし。
 イザナギ・イザナミ〜神武記のあらすじ紹介に(字が大きいとはいえ)3ページも費やしているのは、歴史教科書としては懇切ていねい過ぎるような気もするけど、古事記や日本書紀に書いてあるとおりって言えば、確かにそうだ。ただし、ここまで懇切ていねいに書くのなら、記紀の歴史的位置づけも書いてほしいところ。水野祐氏に始まる「和風諡号」の研究もあって、神武から今上まで万世一系であるという「建て前」を検証する研究も連綿と続いていることですし。中学の教科書だし、古代王朝交代説まで持ち出すこたぁないけど、「こんな神話があります」というだけでは、歴史とは言い難いと思う。建国記念の日の由来なんかを書いてある『教科書が教えない神武天皇』(出雲井晶著・産経新聞ニュースサービス)にノリが似てるかな。確かにそういう記述は残ってるけどさー、みたいな?(笑)

 まだ、古代ぐらいまでしか読んでないけど、「大化の改新」の項に、「蘇我氏の横暴」と書くのは、確かに偏ってるかもね。んで、お隣の国からクレームがついてるのは、どこら辺なん?加羅(任那)とこらへんかな。好太王の碑には、いろいろといわくがあるしいし。他の教科書では「現在は、まだよく分かっていない」とでも書きそうなところを、きっぱり書いてるからな〜。聖徳太子の外交政策のところとか、相当ぶっちゃけちゃって、「その後の基本姿勢となった」とまで書いてるけど、そーゆーのが「解釈」ってことか?
 序文の「歴史を学ぶとは」には、ちょっと異議あり。中学生は「教育を受ける義務がある」というのも、おかしな話。教育を受ける権利があるの間違いでは(笑)。保護者には、確かに教育を受けさせる義務を負っているけど。ついでに歴史に「現代の善悪の尺度を当てはめることは、歴史を考える立場からはあまり意味がない」というなら。今、当時の尺度を当てはめて考えるのも、同じくらい意味がないんじゃないか。そもそも、当時の人の尺度を完全に理解することなど不可能なのだし、当時にしても、それぞれの立場があり、誰の立場に立って考えるかをはっきりさせなければ、どんなに考えたところで砂上の楼閣。そもそも「当時の人」などという漠然とした立場などあり得ないのだから。

 とにかく、現物も手に入れたし、一連の議論もちゃんと見守ることができるぞ。こうなったら徹底的に議論すればいいんだわさ。うやむやに棚上げされそうな気もするけど。
 どんな人も、完全に中立・公正ではありえない。でも、「公正さ」は「公正であろうとする意思」によって担保される−という小泉哲郎氏の(テレビの報道にあたっての心得として書いていた)ことばは、教科書づくりにも活かすことができるのではないかと思う。
 歴史は、その人が生まれ育った時代、地域、環境によって捉え方が異なるのは当然だ。だからといって、公正であろうとするのを放棄しないようにしてほしいっすね。

 歴史と言えば、フランス革命の史実と池田理代子センセイ作の『ベルサイユのばら』を混同する人はいないだろうと思ったりなんかして(と、強引な振り…汗)、昨日から4日連続でBS2で放送してる宝塚の平成版の「ベルばら」はなかなかに楽しい。明日は花組「フェルゼン編」、明後日は月組「オスカル編」。