書きなぐりな日記
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2001.05.31
 サッカーにもワールドカップにも、徹底的に興味も関心もなくて悪いんですが、テレビでコンフェデレーションズカップの中継が始まるときに流れてた曲がオペラ「アイーダ」だったんで、何事かと思って一瞬注目してしまいました(笑)。
 流れてた曲は、状況から考えて多分「来たれ、凱旋将軍よ」の頭のところだと思うんだけど、同じメロディが「エジプトに栄えあれ」にもありますよね、確か? どんな意味の歌詞なのかは知らないけど、もし「エジプト〜」のほうだったら、エジプトを応援してるみたいで、ちょっと面白い…(いや、エジプトのチームが出場してるかどうかは、勿論知らないけど)などと1人で考えていた(あー、くだらん)。だって、サッカー眺めても面白さが分からないから…。
 それにしても、何故に「コンフェデレーション」なのかしら? confederationっすよね、たぶん。一体どこらへんが? 「同盟・連合」するどころか、戦ってるんですけど(当たり前
・笑)。ちょっと検索してみたんだけど、由来が分からずじまい。むむぅ。競馬のレース名なら、殆ど何かに因んでて分かりやすいのに(レース名をひととおり見るだけで、競馬史の重要人物・馬の他に、誕生石や季節の花や地理まで勉強できちゃう)。
2001.05.29
 モノが豊かになった社会−現在の日本を形容するひとつの言葉だと思う。ケインズが予言したのは、豊かになった社会のその未来である。豊かになった先にあるもの−それは豊かさのなかの「停滞」と「退屈」であるという。何となく、そうなんだろうな、とは思うけれど、経済という面からそれを突きつけられると、何だか納得してしまう。
 
 ケインズは「重大な戦争と顕著な人口増加がないものと仮定すると、経済問題は100年以内には解決されるかあるいは解決のめどがつくであろう」とは言ってる(けど、この前提がもう間違ってないか? だって、世界的規模では人口問題は解決されてなくて、先進国と言われる地域では少子化が進んでいるけど、世界全体でみると人工は増え続けてるらしいし。これを考え始めると話が横道にそれるのでおいといて)。「豊かさの中の退屈」こそが「人間にとってに最大の問題」となるという予測は、もう半ば当たっているのではないかと思う。

 豊かさの中の停滞・退屈からは逃れることができないのだから、「優雅に没落」しようじゃないか! と、この本の著者は提案する。ケインズは「豊かな社会」の基本的な課題はもはや経済にはなく、いかにして人々の日常生活を文化的な意味で充実した者にするかにある、ということを書いているらしい。で、大量生産の日用品は、グローバル市場で調達できるけど、地域に根ざした文化的でゆったりとした生活は、それぞれの地域社会に結びついた環境の維持と切り離せないから、国内のインフラやローカルアメニティの整備のための投資を今のうちに(すっかり没落する前に)計画しておこうとも書いている。
 いたって平凡な結論だったりして、こんなでいいのか? という気もするけど。いいのかもしれない。
 となると、最近「勝ち組・負け組」なんて言葉がよく使われるのは実は、日本経済の「最後のあがき」だったりして…、なんて思えてしまうのだけど。そして例えば、『古くて豊かなイギリスの家便利で貧しい日本の家 』なんて本や、いや別にイギリスでなくっても、『捨てない生活 快適なドイツ流ライフスタイル』なんて本が書店に並んでいるのを見かけるにつけ、清貧を勧めちゃうような内容の本がバンバン出るのは、不況をやり過ごすための一時しのぎかと思いきや、実はこの流れがずっと続いちゃうわけ? と思ったり。(でも、この手の本は好きじゃないんだけど) いやー、まぁ、そんな社会でもいいような気がするわ。日本も先進国とか言われてるけど、地球上の殆どの国は「非・先進国」なわけだし、そーゆー国でも人は、立派に、あるいは何とかやっていけてるんだし、食べ物に困らない程度であれば「没落した国」でも、別にいいじゃん。だめかな? 金持ち父さんでなくても、ちょっと貧乏父さんでもいいじゃん。だめかな?
 ただ、グローバリズムの進展の結果、どこか先進国−たとえば日本が−没落するぐらいなら、まぁいいかと思うけれど、経済のグローバル化の問題のひとつに、所得分配の不平等があるのなら、のんきに没落してる場合ではないと思う。富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくという傾向が助長されるのは、ミクロでもマクロでもヤバいんじゃないかと…。
 それにしても、この本、まだまだ面白いところがあって。グローバリズムの根拠となっているもの「個人の自由」で云々とか、貨幣が依って立つ「確かなもの」探しとか、でも、結局浮遊しちゃう金融とか、「美人投票ゲーム」を例にした自己回帰性とか、面白い話はたくさんあるんだけど、この際、それは、この本を読んで貰うとして省略しちゃえ! とにかく読みやすさはピカイチ! 無駄なところがほとんど無い本なので、まとめようとするとまとまらんのよ(と嘆いてみたり)。


2001.05.24
 景気対策・経済の構造改革が小泉内閣の課題のひとつになっているらしい。そのどちらを優先するのかは知らないけど、不景気を国(政府)にすがって「何とかしてほしい」なんて要求するのは別に普通の事なんだろーか? と経済に疎い私などは思ってしまう。
 というのは「ケインズ的財政政策は、もはや人気がないらしい」と私が勝手に認識しているから。ケインズ的財政政策っていうのは簡単に言ってしまうと、不況時には国(政府)が公共事業をやってりして財政支出を増やし、景気過熱時には引き締めて、市場をコントロールするって方法で、世界恐慌(1929年〜)からアメリカを回復させたニューディール政策の根拠となった理論。でも、今となっては「それはもう古い考えだから、政府への過度な依存を改め、各個人が自助精神を発揚することが重要」っていう風潮っぽいという知識をどこぞで仕入れてきたのが頭に残ってたから。
 勿論、「景気回復政策=ケインズ的財政政策」ということでもないだろうし、ケインズ理論の有効性・無効性に関する「結論」は出ていないことは知っているけど、「なんか世間の雰囲気がそうなのかな」と。それに、それが日本経済にどれだけ有効なのか…という問題もあるだどうし。
 なのに、政府に景世論が気回復のための政策を期待してしまうのは、日本経済の現状が、政府にズルズルべったりの依存状態だからなのかな? と思ってみたり。
 と、分からないことだらけだったので、「で、本当の所どーなのさ、最近のケインズ?」という思いで手にとったのが『ケインズの予言−幻想のグローバル資本主義(下)(佐伯啓思著・PHP新書)だったわけです。

 で、序章の冒頭にいきなり「今日、ケインズの経済学は必ずしも評判はよくない」と、いきなり私の愚問(笑)に、答えてくれたのが気に入って購入してしまったこの本。期待していた以上に、現在のケインズについて教えてくれました(っていうか元々何も知らないんだけど・笑)。ただ、1999年に売れた本だったので、厳密には「現在」とは言い難いのが惜しい。この本が出版された時点ではアメリカ経済はまだまだ元気だったけど、現在はご存じの通り。もうちょっと、早く読んでおけば良かった…、それはさておき。
 そのケインズの経済学、政府が経済をコントロールするという方策は、現在の規制緩和・市場開放・グローバリズムの流れの中で「ケインズ主義の有効性は低下した。しかしそのことを別の角度から解釈しなおせば、ケインズはグローバリズムそのものに反対したのだということはできないのだろうか」というのが、この本のはじまり。そして最後には、「銀英伝」のフリードリヒ4世みたいな結論に至ってしまって、ちょっとびっくり。
 ケインズがどんな「予言」をしたのか、この話また続いてしまいます(スマン・汗)。


2001.05.18
 ウェブサイトを公開していると、“知らない人”や“予期しない人”から、メールで感想やら質問やら情報やらを頂いたりして、「ありがたいな〜」としみじみ思ってしまいます。お金がもらえるわけでもなく、返事がもらえる確証があるわけでもないのに、わたくしめのような「どこの馬の骨」かも分からぬような輩が書いた文章を読むだけでなく、更にお便りくださるとは…。ネットの基本精神、ココにありって感じで、素敵です。
 んでもって今回、初めてリクエストのメールが届きまして、びっくり。ありがとうございました。というわけで、頂戴したお題は経済の本の紹介。
 どこの誰が言いだしたのか「風が吹けば桶屋が儲かる」などという言葉がありますが、私の経済に対する認識は、こんなものです。何がどう繋がって作用しあっているのかさっぱり分からない(笑)。しかも、何から何まで繋がってるから厄介。面白そうだとは思っているけど、奥が深そうなので、なかなか首を突っ込めないまま今日まできてしまったド素人なのでアホなこと書くこと請け合い(請け合ってどうする・笑)。
 今日これから紹介する本によると「グローバリズム」という言葉が流行っているのは日本だけではないらしい。
 グローバリズム(地球主義)は、インターナショナル(国際的)やワールドワイド(世界的)とは似て非なるもの。国際・世界という言葉が「国」や「国境」を意識するのとは違い、地球まるごとを1つの球としてとらえる考え方。例えばISOに代表されるような「グローバル・スタンダード」って考えも、この主義の産物のひとつ。地球規模って魅力的だし、平和そうだし、お得だし、なんだかいいよね。規制なんか無くしてガンガンやろうぜ! ということで、グローバルという言葉が黄門様の印籠のようになりつつある。

 この「グローバリズム」と「経済」が結びついて「自由競争主義」「自由主義経済」が生まれた。自由競争・グローバリズムの祖と考えられているのはアダム・スミスである−ということに経済学の世界では、なっている。そりゃそうだわな。個人が自分の利益を追求するべく自由に経済活動をおこなえば、それだけで「神の見えざる手」によって自然に経済はあるべき姿に落ち着くというのがスミスの著作『国富論』の論旨だっていうんだから。だから、現在、自由経済やグローバル・エコノミーの擁護者たちは、スミスを「自由経済の守護神」と位置づけ、彼らの論理はスミスの論理に依拠している。
 「だが本当にそうだろうか」と『アダム・スミスの誤算−幻想のグローバル資本主義(上)(佐伯啓思著・PHP新書)は、問いかける。確かにスミスはその端緒はひらいたかもしれないが、本当にグローバリズム礼賛者なのだろうか、と。著者の達した結論は、こうだ−アダム・スミスは、むしろグローバリズムの「批判者」であった。彼が目指したのは、その著書の名前の通り先ず「国富」なのだ。彼は「国民経済主義者」であったと。
 スミスの時代(18世紀)の「重商主義」は、当時の「グローバリズム」の中から生まれた。スミスの『国富論』は当時の支持されていた重商主義を批判した書物であった。スミスの重商主義への批判は、現在のグローバリズムへの批判にもなり得る。因みに、重商主義とは「富は貨幣なり」を旗印に世界経済の成長期にあって、輸出産業を育成して貿易差額によって国富を増大させて経済的覇権を握ろうとする立場。自国の資源が少なかったイギリスが推し進めた経済政策だとか。スミスは国富の基礎に「貨幣」のごとき「不確かなもの」を据えることをよしとしなかったので重商主義を批判した。だから重商主義に対してスミスが抱いていた危惧は、現在のグローバリズムにも当てはまるところがある…というのが筆者の主張。(*参考

 この本の面白いところは、グローバリズムを擁護する者たちが拠りどころにしているアダム・スミスが、実はグローバリズム批判者だったと主張するところにある。だから、もしも「スミス自身が、現代的な自由競争市場万能論のバイブルを書いた先駆者等という現代の評価を聴くと、彼は間違いなく苦笑するだろう」と書いている。さらにグローバル化の進展は「世界経済の不安化要因」ではないのかとスミスが危惧していたと読みとり、グローバリズムの落とし穴に注意を喚起しているところにあると思う。スミスを信奉しつつグローバリズムを推し進めようとする者にとっては皮肉なことだが、なぜそういう結論を導き出したのか、スミスの著作『国富論』『道徳感情論』のどこからその立場を読みとったかを1冊を費やして考察している。
 文章は構成がしっかりしているので、とても読みやすい(って私に言われたくないって?・笑)。評論・論文の良いお手本のような構造になっている。途中、スミスの立場への理解を深めるためにいささか古めかしい「道徳」に関する文章が続いたときは、少し経済から離れたような気がして疲れたけど、それがスミスの立場なら仕方がない。
 本筋とは関係ないけど、本書の中で、当時18世紀ごろの「劇」の出来を監視する「中立的な観察者(スペクテイター)」という言葉が敷衍されて、本来の劇場批評だけでなく、社会を劇場と見なしたときの監視者の隠喩に使われるようになったという話は、ちょっと小話として興味深かった。

 かくして、筆者の話は『ケインズの予言−幻想のグローバル資本主義(下)へと移っていく。そう、この本って上下巻だったのよね…。というわけで、この話、続きます。


2001.05.16
 あるところには、あった『バンチ』。読んでみて、やっと分かったケンシロウの謎(って大ゲサな・笑)。「聴コミ」だと「この子には、我が兄上けんしろうの名をもらい、名付けよう、けんしろうと!」ってリュウケンが言ってるんだけど、両方「けんしろう」なものだから、「はぁ?」って感じだったんだけど、読んでみたら、「我が兄拳志郎の名をもらい、名付けよう、ケンシロウと!」ってことで、「なるほど」と納得(音はそのままもらってるから分からなかったの)。今回連載が始まったのは、拳志郎の方のエピソードで、かつてテレビで一世を風靡した(笑)ほうはケンシロウ。どうでもいいけど、リュウケン、かわいい。生まれたてのケンシロウの顔を見て眉尻下げてる姿は、「あのリュウケン」とは思えん(笑)。でも、1935年に拳志郎が既にいい大人で、ケンシロウが1970年代生まれ(で、活躍するのが、言うまでもなく199X年ね・笑)というのは、少し、計算が合わないというか…無理があるような気がするのは、私の読みが浅いから?
 拳志郎も、ちょっと雰囲気が「お笑い」っぽいんですけど。匂いマニアって設定とか。それに拳志郎とやられ役のこのやりとりに、どことなくほりの○ゆきチックなものを感じて笑ってしまった。
 拳:この指を抜いたら…お前 死ぬよ
 や:ウソ!?
 拳:ぬく?
 や:いや ぬかないでぇー
 拳:だめ
 …文字だけだと、いまひとつだけど。
 どこまで本気なのかよく分からない(笑)。
2001.05.15
 谷川史子の新刊『魔法を信じるかい?(2)』(集英社・りぼんマスコットコミックス クッキー)。書店で一瞬見つけられなかったよー、背景が黒いから。意外でしたわ、まさか黒のベタ塗りとは。多分、この人は使わないだろうな〜と勝手に思っていた筆頭の色なので、その予想をいい意味で裏切られ、ちょっとドキッとしてしまった。黒ばっかり使ってたら、こうはいかないよね。
 コミックといえば、今日創刊の『週刊コミックバンチ』新潮社)、どこにも売ってないんですけど。ウチの近所の本屋とコンビニだけっすか? 売れちゃったのか、入荷してないのか、ちょっと謎。見た目は同じだけれど大違い。執筆陣を見ると、「これは一体いつのジャンプ?(笑)」 って感じなんですけど、これからどうなるんでしょう。
 現物が手元にないんで、ひとまずネットで聞ける音声ドラマ(“世界初 連載漫画と同時掲載のWEB音声ドラマ”という触れ込み「聴コミ」と名付けたらしい)だけ聴いてみた。なんかどちらも、それぞれアレとアレがかぶって、ストーリーがよく分かりませーん(笑)。関連あるんですか、ないんですか。でも新たにケンシロウの「お前はもう○んでいる」を聞けるとは思ってませんでしたので、すこしラッキーな気分。
 原哲夫、北条司が同じ雑誌で連載していてコミックでの新しい試み…というと、去年休刊(廃刊?)してしまった雑誌の『BART』を思い出してしまうんだけど。キャストもちょっと似てるし…。『BART』は消えてしまったけれど、轍を踏むな『コミックバンチ』。

2001.05.12
 風邪ひきました。あー、はだずづばり(=鼻づまり)。季節の変わり目は大変です。そんなわけで、この前の話はもう、言いたいことのだいたいは書いたので、つまり、おせっかいなCMだーということで。お茶を濁しちゃおっと(爆)。
 何年か前までは「ジェンダー」なんて用語は、社会学のものでしかなかったと思うのだけど、誰のおかげ(?)か、今や“男女共同参画社会”みたいな言葉とセットになって一般に定着しちゃって、どことなく胡散臭さがまとわりついてしまう「フェミニズム」という用語にが「ジェンダーフリー」にとって代わられつつある気がして、これがいいことなんだか、悪いんだかちょっと、判断しかねている。誤解する人や、反発する人がいて、歪曲して理解されちゃうと、「ジェンダー」という言葉も、「ウーマン・リブ」みたいに古びた言葉になったりするんじゃないか…なんて思ったり。でも、何にも知らないよりは、少しでも知ってる方がマシかもなどと、私が考えたところで、世間は何の痛痒も感じないことは分かってるんだけど。
 ミステリーとカテゴライズしてしまうのは惜しい(だったら何のジャンルなのさと言われても困るんだけど)『片思い』東野圭吾著・文芸春秋)には、男であることや女であることを、他人より意識せずにはいられない人たちが何人も出てくる。かといって、それはそういった人たちに限った話ではなくて、それを顕在化させたエッセンスのようなものだから、現在生きている人なら多かれ少なかれ、抱く疑問・葛藤・意識の揺れに通じている。男だ女だってコトがたいした問題ではなくなる日まで、続く問題だろう。

 大学時代のアメフト部に所属していたマネージャー(♀)が、10年ぶりに現れ、実は自分の心は男だと告白する。しかも、不可抗力から殺人を犯してしまった−と。この平たく言ってしまえば「性同一性障害」の元マネージャーを「かくまう」と決めたことから、事件は転がり始める。彼女(?)と、かかわるうちに、過去の思い出や、同じ心の障害に悩む人、それを乗り越えた人だけでなく家族や夫婦の「男」と「女」の問題を絡めながら、「殺人事件」の真相に迫っていくものだから、読み始めたらとまらなくて困った(笑)。
 殺人事件の方は、話が進んでいくにつれ、最初の謎が解けないうちに、新たな謎が浮上し、謎がどんどん増えていくものだから、半分ぐらいまで読んで「ああ! 一体どうなるんだぁぁ」と頭をかきむしって推理しながら、ページを捲ってしまう。この推理させるヒントの見せ方が巧妙。エサを鼻先にチラつかされてる感じ。分かっているのに、ついていっちゃう。そういう点では立派なミステリー。

 かといって、男と女の問題も決して半端という気はしない。さまざまな立場の人物を登場させ、それぞれの角度から例を提示。男と女をメビウスの帯に例えたところは、的を射た表現な気がして、「ううむ」感心しちまった。
 人間の特性を男性的なもの女性的なもの(この「的」というのが重要)があると認めた上で、男も女も、誰もが両方の特性を持っているとするならば、何パーセントの男性的なもの(あるいは女性的なもの)で占められていれば、男(あるいは女)なのかというような議論が出てくる。これを読んだとき、「東野氏の作品で、何か似たような…」と思いだしたのは、『変身』(講談社文庫/講談社ノベルス)。こちらは、右脳を損傷し、治療のために脳の一部の移植手術を受けた主人公の人格が徐々に変化して、ドナーの脳に乗っ取られてゆく−というものなんだけど、脳の一部を移植したら、それは“自分”なのか、何パーセントまでの移植なら“自分”何パーセント以上なら“自分”ではなくなるのか−みたいなコトが出てきたように記憶している。
 この2作品に私が見いだした共通項は「あいまいな境界線」。どこからどこまでが自分で自分じゃないか、どこからどこまでが男で女で、なんてボーダーラインは引くことができない。そんなことには、たいして意味がないんじゃないかということ。
 実は、この『変身』もオススメ。(ついでに言うならカフカの同名小説も好き)。主人公の使っていた一人称は「僕」だったんだけれど、性格の変化に伴って、初めは「俺」という言葉がモノローグで交じり始め、自分でも「何かおかしい」と思う。しかし、「おかしい」と自覚できない程に“状態”が進行。ふとした瞬間、「俺」という一人称が主人公の口から発せられた瞬間は、メチャクチャ恐かった! …なものだから、「この小説のクライマックスの1つはココだぁ!」と自分では思っているわけだけれど。
 一人称で話が進んでいく小説で、だんだん人格(知能)が変化していくといえば、文庫化もされて今や知らぬ人はいないんじゃないかと思われる『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著・早川書房)が印象深いんだけど(これも脳が主題の話だね)、これに何か近いものを感じる。
 ただ、『変身』に話を戻せば、「僕」も「俺」も、英語に訳したとしたら、どっちにしろ「I」なわけで、夏目漱石の『吾輩は猫である』を英訳しても、「I am a cat」なんていう何の変哲も無いものになってしまうんだなーということが頭をかすめた。(だから何なんだろう?)
 随分話が遠いところへ来てしまった(笑)。
 さらに『片思い』に話を戻せば、学生時代の仲間達は、10年経った現在も各人の性格がそれぞれのポジションに例えられたりしてて、アメフトなんて知らないなーという私でも(あ、秋里和国のコミック『The B.B.B.』で、チラと見たけど。そういえば、これも男だ女だということにこだわる作品だったっけ)、「へぇ?」なんて、面白かった。
 面白かったし、気に入ったんで、これを「連載」で読んだ人は、毎週あと引いて大変だったんじゃないかな、と要らぬ心配。しかし、最後にひとこと。何故、お台場パレットタウン…しかも、観覧車かねー? いいけどさ。


2001.05.08
 この検索エンジンいい感じっすね。NAVER Japan
 5月5日の深夜に近未来スペシャル ボクらの希望を探す旅〜村上龍「希望の国エクソダス」から(…長いタイトル)とかいう番組を日本テレビで放送していたんで、ちらっと見た。司会と妙なドラマに引いてしまって、全部は見なかったんだけど(夜中で集中力も切れてたし)。出演していた「10人の審判される大人たち」のメンツがちょっとだけ私好み。飯野賢治、家田荘子、香山リカ、coba、横沢彪…(敬称略)。
 番組の終わり頃に、出席者に「おとなになってよかった、と思うのはどんなとき?」という質問をした。そこでリカちゃん(笑)は、「マンガ読み放題、ゲームし放題」と答えた。「んー、まったくだ!」と、テレビの前で大きくうなずいていたのは私です(笑)。

 でも、この答えは番組的にはあまりウケなかったらしい…という話がメルマガの「香山ココロ週報」(さっき届いた65号)に書いてあった。で、同じ質問に次の人が「やっぱり夫に出会って子どもができたこと、自分の家族を持てることですね」と言うと、周囲の賛同を大いに得たそうだが、このことについて、リカちゃんは疑問を持つ。
 「もちろん自分の家族ができるのはステキなことだとは思うけど、それが究極の『おとなの楽しみ』なのか?自分ひとりでおとなの人生を味わったり、まっとうしたりすることはできないのか?家族はいるけど楽しくない、という人は本当にいないのか…?」と。その発露としてのリカちゃんの反論は「私もそうだけど、世の中には子どもいない人、ひとりの人もたくさんいると思う。でもそういうおとなの生き方だってあってもいいじゃないですか」。でも、この疑問は軽くいなされてしまって収録は終わってしまったらしい。

 が、「〜ココロ週報」は続く。「『私はこうやってとてもよかった。だからみんなもそうすべ
きだ』という言い方には、私はどうも抵抗がある。これまで私生活であるいは診察室でたくさんの人に会ってきて、私なりにたどりついた答えは、『幸せも苦しみも人それぞれ』だ。そう言うと『その通り!』と賛成してくれる人も、けっこういる。でも、こと『家族』っていう問題になると、なぜかみんなが『それはいちばん大事なもの、あった方がいいものに決まってるじゃないか』と妙に独善的になるのは、どうしてなのだろう? あと、それに対して『いや、家族を持つことだけが幸せのゴールじゃないだろう』と言うと、『またまたぁ、負け惜しみ言っちゃってぇ、あなただって持ってみればわかるって?』と軽くいなされてしまうのは、なぜなのだろう?」。

 わたしもテレビCMを見て、似たようなコトを考えていた。昨年末ぐらいからO.A.されている「世界でいちばん大切なのは家族です」っていう公共広告機構(AC)のCM(ジョン・レノンと息子のショーンとオノ・ヨーコの3人のポートレイトが出てくるヤツね?)。
 確かに「家族」は大切なものかもしれない。「幸せな家族」を持っている人はそう思うかも知れない。でも、それを「一番」と決めつけてCMまで放送して、押しつけられるのはゴメンだ。何が一番大切かは、自分で決めたい。そもそも、ジョンの子供はショーンだけじゃないし…というコトに考えが至ると、諸手をあげて賞賛できるCMとは言い難い。
 それに、「大切だと思えるような家族」を誰もが持っているわけではないし、「家族」のない人だっている。そんな人に向かって「世界で一番大切なのは家族です」などという言葉を投げつけるのは、「あなたは人として大切なものを持っていません」と言っているようなものじゃないのか? そんなコト言われたら、あたしゃ、やさぐれてこげパンになっちゃうよ(笑)。
 リカちゃんの言うように、何が大切かの価値観なんて人それぞれ。なのに、どうしてこんなCMを作れるんだろう…。ていうか、公共広告機構のCMって何か変…。サイトの更新もしてないし(関係ないか)。
 この話、もしかしたら、続きます(←いいかげん・爆)。


2001.05.07
 ゴールデン・ウィークが終わってしまいましたが、心残りなのは「映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を観に行けなかったことですかねぇ。噂ではメチャ面白いらしい。「クレしん」(←略すな・笑)の劇場版は、いつも良いですよね。が、今回は、いつもにも増して素晴らしいらしく、いろんなトコロで勧められてしまってます。何がどう面白いのか(「感動」「泣ける」と言う人もいる)は、敢えて聞かないようにして、とっておいているのですが、その度に「そんなにイイのか!」と思っていました。
 可能ならば、ゴールデン・ウィーク中、子供がいっぱい来てる映画館で観ると、子供の反応も見られて面白さ倍増! という話も聞いていたので、期間中に観られなくてちょっと残念…。
 だからというワケじゃないんだけど、手塚治虫『メトロポリス』(角川書店)を買ってきました。ハードカバーで\1,800円(税別)。開けてみれば全ページ赤黒の2色刷り!こんな体裁のマンガは見たことないので、高いのか安いのかよく分からないけど、何となくお得な気がします。

 舞台は19××年。…と言われても、今となっては既に過去(笑)。現実って容赦ないね。でも、作品が発表されたのが1949年だから仕方ない。自分だって50年後なんて想像できないもん。映画の『2001年宇宙の旅』だって、今年だし(笑)。確かに宇宙旅行して「パラダイスだった」とか言ってるおじさんは実在するけど(笑)。100年後の人たちからしたら、このタイトルだけ聞いたら「記録映画?」と思われるかも。
 冒頭、いきなり中生代の恐竜やヒトの祖先が描かれたりして、『メトロポリス』なのに、この描き出しは何? と、「2001年宇宙の旅」を初めて観たとき、最初にサルが出てきたものだから「これ、ホントに『2001年宇宙の旅』のビデオなの? 『猿の惑星』じゃないよね?」などと確認してしまったことを思い出してしまった(笑)。しかも、そのあと、急に科学が発達した世界へと情景が変わるところも似てるーなんて思ったりして。
 それはさておき。「人間は発達しすぎた科学のためにかえって自分をほろぼしてしまうのではないだろうか?」という問いかけは、「1900年代」を越えた現在も深刻な問題のひとつなわけで、「科学の子」鉄腕アトムが、必ずしも平和をもたらす存在ではないことを50年前に既に形にしていたのかーと思うと、凄いとしか言いようがない。1949年の日本といえば湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した年で、テレビもなかったし、環境汚染も(多分そんなに)なかった頃で、戦後復興→高度経済成長へ驀進中で…科学の進歩や便利になることは、今よりずっと「善」だったんだろうなーと適当に想像。やっぱりスゴイね。
 だからといって、難しいマンガになっているかといえば、勿論そんなことは全くなくて、ストーリーは面白いし、コマのいろんなところで「遊んでる」し、群衆が描かれているコマは、ブリューゲルの絵を眺めるような楽しさに満ちている。

 6月に公開予定の映画も完成したらしく、「50年前に描かれた近未来の都市を舞台にした物語を、最先端の技術を使い、レトロ感たっぷり にアニメ化した」というのは、文字にするとよくわからないけど、そーゆーものなのかしらね。「フルアニメ的」というのも微妙な表現で、フルアニメじゃないけど、フルアニメっぽいってことなんだろうなーと解釈。「〜風味」とか「手作り風」の類の触れ込みと同レベル??? でも、スタッフ&キャストなどを拝見したかぎりでは、期待大。それどころか、絶対観たい。ふふふ。


2001.05.05
 一部のあちこちでで評判になっている『かめくん』北野勇作著・徳間デュアル文庫)は面白いよ。新聞のコラムで石川忠司氏が、大江健三郎の『取り替え子(チェンジリング)』の“ことばの貧しさ”にもの申していて、それに比べてその“リアルさ、志の高さ”よ!と褒めていたのを思い出して書店で手に取ってみたら、ハマっちゃった。ネットで調べたら小松左京賞ににノミネートされて落選したという経緯があるらしいけど、そんなことは読者にとっては些細なこと。
 主人公は亀。でも、動物の亀じゃなくて、模造亀(レプリカメ)。メモリが生成される甲羅を背負って、二足歩行する無口な亀のロボット(?)。「ポケモン」のあのゼニガメにもちょっと似ているらしい。この「かめくん」が、「機械亀(メカメ)」に乗って、初めはよくわからないながらも“戦闘”をおこなったり、職場の人間たちの話を聞いたり、図書館に通ったり、好物のリンゴを「しゃくしゃく」囓りながら、つらつらものを考えたりする。
 この思考が面白い。彼は亀なので、「思考の基準が亀」なのだ。亀の尺度で、日常のこと、日常からふわっと跳び上がったりしてものを考える。で、考え初めたらどんどん物事を突き詰めて考えるかというと、必ずしもそうではなく、結局「分からない」ということで折り合いをつけて、また日常生活に戻っていったりもする。この日常が、現在の−ピカチュウやドラえもんが日本と地続きなんだけど、すごく未来っぽかったり−木星に“路面電車”が通じていたり、レトロっぽかったり−かめくんが“クラゲ荘”というボロアパートに住んでいたりする。
 レプリカメは「ほんもののカメではない。神に似せて作られたという人間が神ではないように」ということで、かめくんが、かめくんの視線で考え、認識していることを、読者は、自分(人間)に引き寄せて考えることができるような「仕組み」になっていて、上手い。何か大事件が起きたり、格別かめくんが成長したりするわけでもなく、淡々としているのだけれど、かめくんの思考が楽しいものなので、少しも退屈しない。
 かめくんが住んでいる世界は、かめくんにとって何だかよく分からないことで構成されていて、ぼんやりとしている。かめくんは、わりと勤勉で、図書館へ行ったりして調べたりしているのだけど、でもやっぱり分からない。しかも、かめくんは過去の自分の記憶にプロテクトがかけられていて、思い出せないこともたくさんある。。けれど、振り返ってみて自分が現在生きている世界も、全てを認識・把握することができるものではなく、やはり、ぼんやりしているのだから、このぼんやり感を描けているところも好感度が高い。物事を認識することに注意深くあろうとする態度も好きだ。今、とてもオススメ。(にしても、たったこれだけの文章の中に私は「かめくん」と何回書いたんだろう? 本書の中にも相当の回数「かめくん」と出てきたとは思うけど)
 こどもの日、だから、何か子供向けのテレビ番組やらないのかな?と思っていたら、NHKの教育とハイビジョンで同時放送した「アニメ遊園地」は楽しかった。他には「子供向け」特番はあまりなかったみたい。
 こどもの日、だからってわけではないのだろうけど、「アメリカで遺伝子を組み換えた赤ん坊が誕生?BBCが報じる」というニュースが。
2001.05.04
 シュレッダーを、買いました。
 紙を切り刻む、アレです。「いいものだ」とは聞いていましたが、実際いいですね。
 ささやかなストレス解消(笑)と実益を兼ねて、一石二鳥!郵送されてきた電話料金の明細なんかをウィイイインと裁断すると何故か、えもいわれぬ気持ちよさがあります…。
 この気持ちよさは、一体何なのでしょう。深い意味があるのかないのか…。誰しもやったことのあるだろうプチプチつぶし(エアークッションつぶし)に近いものを感じる。
 プチプチつぶしのこれ↑、一応楽しいんだけど、やっぱり本物の方が楽しいな。
 どうせするなら、こっちの方が楽しい。これを「コントロールする快感」と分析するなら、プチプチつぶしの快感は、何に由来しているのかしら???