かきなぐりな日記

戻る

 
 
 
 
2001.04.30
 ゴールデンウィーク前は、異様な忙しさだったのに、ウィーク突入と同時に、この平穏さ…。てワケで、その後ベルばらについて、つらつら考えたこと…オスカルとアンドレ編は、いまひとつ燃えないっ! それは何故か。あーゆー設定になってしまうと、どうしてもオスカルよりアンドレに燃え(萌え?)てしまう…ということ。トップスター(男役)が、女をやってしまうというのは、「宝塚」という文脈でとらえると、損な感じなんだよねー。「宝塚」という文脈でなければ、充分いけてるんだけど…。
 やっぱり勉強は楽しくやったほうがいいな〜という思いを深めてしまった『駿台式!本当の勉強力』(大島保彦+霜栄+小林隆章+野島博之+鎌田真彰著・講談社現代新書)。著者は駿台予備校の英語、国語、数学、日本史、化学の講師。実は私、この人たちのうち、1人+α(←微妙な表現・笑)に教えを受けたことがありまして、思わず手にとってしまったわけですが、この人たちは本当に凄いっすよ。プロです。今でも尊敬してます。
 予備校の授業で、この本に書いてあるようなことを、ダイレクトに教わったような記憶は、多分ないんですけど、受験勉強をする過程で、いつの間にか身につけていた勉強法というか哲学みたいなもの(?)の一例やエッセンスがこの本で示されていて、あー、自分は単に教科書の内容だけを詰め込んだ勉強をしてたってワケじゃないんだな、ってあらためて思いました。こういう本の形にしなくても、授業の中で本の内容を体現していたから、私も身に付いたのかもなー。
 受験する(した)人はどうしてもぶち当たってしまう「受験勉強の意味」について考える1冊。
 私は現在の受験体制を礼賛してるわけじゃないし、そこには歪みもあると思います。でも、一切無駄とも思ってないし、そこにあるモノはひとまず肯定しなくちゃ仕方ないし、ダメなところも分かりながら、その中に入っていけば、それに絡め取られてしまったり、おぼれてしまうこともないんじゃないかなーと思ってます。
 あー、でも本物の受験生は、本なんて悠長に読んでる場合じゃない人もいるか? ま、先は短いようで長いので、息抜き程度としてはいいかも? 受験勉強だけじゃなく、敷衍して「学ぶ」ということについても考えられます。オススメ。
 『テクスチュアル・ハラスメント』(ジョアナ・ラス著・小谷真理編訳)は、セクシュアル・ハラスメントの間違いじゃなくて、テクスト(文学など)の上での女性差別を扱った本。差別といっても文学内容でのことではなくて、女性の物書き(主に小説家)と女性が書いたものが、文壇からいかにして、無視されたり、中傷されたり、つまはじきされたり、価値をおとしめられたりしたか、というカラクリを、8つの点に分類・分析していて、なるほどと思わせる。その“批評を批評する”という手法は、とても辛辣であるが、ある意味で痛快でもある。原題は"HOW TO SUPPRESS WOMEN'S WRITING"(女性の書き物を抑圧する方法)。原題の方が、こわい。
 著者のラスはアメリカの人だから、例として引かれるのが英米文学が多くて、時々「?」ということもあったけど、それは、私がその筋の話に弱いからか? それから頻繁に引き合いに出される『嵐が丘』や『ジェーン・エア』が、そんなふうに受けとられていたとは知らなかったけど、引き合いに出される頻度が高すぎて、ちょっと食傷気味。
 「それに、ヨーロッパと日本は事情がちょっと違うよなぁ。だって、平安時代に始まった文学は紀貫之が、女のフリをして−男もすなる日記といふものを−と書き始めた、土佐日記にひとつの源流を見いだすことができるし…」と思っていたら、日本の現状についても小谷執筆による最終章で(分量的には少ないが)、言及されている。
 著作物なら、小説に限らず、この「方法」は応用できてしまうということも、心に留めておきたい。たとえば、マンガでも。以前から、どーして少女マンガと少年マンガは、(そんなカテゴリーに分けても意味がないのに−相互に越境者がたくさんいるから・笑)区別されているのかと思っていたけれど、それに関する答えのひとつが示されているとも言える。
2001.04.23
 やっと観てきましたよぅ、宝塚「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編」。堪能しました。面白かったっす。まだ余韻が残ってます。にゃ〜、もう1回観たい(今公演はもう無理)。
 濃いファンではないから、特別ご贔屓さんがいなくて、ピンポイントで熱くなることはなかったのだけど、遠く2階席から、全体を見渡しながら観るのも、よいものです。2階席後方だと、やはり双眼鏡が必要ですね。因みに私は8倍(\2.000)のものを購入して持って行きました。どアップにはならないけど、表情は充分確認できるんで、ちょうど良い感じでした。好みによっては、もっと倍率があった方がいいかしらん?みんなどれぐらいの倍率のを持って来てるのか少し興味あり…。

 オスカルとアンドレ編というだけあって、フェルゼンは故国へ帰ったまま帰ってこなかったりして、「もしかして、忘れられてる?(汗)え、完全にサブキャラ扱い?(笑」と思うぐらい大胆にカットされちゃってたりする部分もあったけど、みんな「原作」は知ってるだろうから、まぁ、いいんじゃないの?という気もします。
 「ベルばら」の再演については、賛否両論あるみたいだけど、やっぱり「ベルばら」のネームバリューは凄いし、女ばかりの劇団で男装の麗人が主人公という、なんだか不思議な構造になってる「ベルばら」は、もうそれだけでも価値があると思います。稔幸演じるオスカルが、近衛隊から衛兵隊の隊長になって、「女のクセに」とか言われている場面を観ながら、「うーん、確かに彼女は女で、男の格好をしている女を演じているんだけど、それは普段男役を演じている彼女の立場と同じで、でも彼女が女を演じるのはこれが初めてで…」と考え始めると、なんかだこんがらがって、頭を抱えたくなります(笑)。これだけ面白いと、これからも再演され続けてゆくんだろうと思いますが、なんだか「歌舞伎」や「狂言」の演目のことを思い浮かべます。こんなふうに人気の演目が再演されて、現在まで伝えられ残ってきたのかなぁ?なんて。

 宮廷の貴婦人方(その名もモンゼット侯爵夫人、シッシーナ侯爵夫人・笑。それぞれ「悶絶夫人」「失神夫人」と劇中で揶揄される)が、オスカルに「きゃあきゃあ」言っている場面は(それがコミカルに演じられていたこともあるけど)、とてもウケていたんだけど、それって、そのままヅカファンのことだよなー、だから観客はウケるんだろうし、演出家もそれを意識したんだろうなー、と考えちゃいます。

 原作だと読者は、オスカルに(箇所によってはマリー・アントワネットに)肩入れしながら読むようになっていると思うけど、宝塚的には「オスカル主人公というのは、どーよ?」という気がした。現在の宝塚の基本は、男役さんにきゃあきゃあできてなんぼのもん(笑)だと思ってる自分としては、トップの男役さんが「実は女」という設定になってしまうと、「うーん」と微妙。トップの男役さんが、しなだれかかったりしていると、やはり妙な気がしてしまう。どちらかといえばアンドレにより多くの見せ場があった「アンドレとオスカル編」の方が、「自然」な気がするかも。いや、宝塚の場合、不自然なところ、性別に一種の「ねじれ」が生じているところが魅力だから、「アンドレ主人公」の方が萌え要素が多いって感じかな。「オスカル主人公」だと、「ねじれ」が相殺されてしまうから。まぁ、それは脚本の問題にすぎないけれど。

 余談ですが、私の同行者が「小公子」のメイクに異様にウケてました。確かにキョーレツだけど。

 宝塚大劇場には行けないから、夏の「フェルゼンとマリー・アントワネット編」も、観たいですねぇ、運が良ければ…。あと「和もの」も観たい気分。


2001.04.19
 セブン・イレブンのサラダって、いつの間にかドレッシングが別売りになったんですねー。嬉しいねぇ。 だって、普段サラダを食べるときにドレッシングをかけない(変?)ので、コンビニでサラダを買うと、ドレッシングがまるとご余っちゃう。こんな人って他にもいるよね? 無駄が減って20円安くなったので、大歓迎さっ。
2001.04.18
 ひょんなコトから「この間の『サザエさん』の放送見た?」ということで、大いに盛り上がってしまった。
 というのは、タラちゃんが「ぼくはあと何回寝たら、幼稚園(小学校だったかな?)に行けますか?」みたいなことをサザエさんに訊く場面があったから。この瞬間、ワタシは凍り付いた。そして、息をつめてその後の展開を見守った。

 その場面を見て、「シャレにならないぐらい恐ろしくなった」とか「タラちゃん、君は一生大きくなれないんだよ。かわいそうに」とか「それだけは言っちゃだめなんだぁ!」とか思わなかった視聴者がいなかっただろうか(反語)−と思いながら観たということで、盛り上がったわけなのだけど、もう、これはサザエさんの「最終回」を想起させるようなセリフなわけで、現実の人間が持つ疑問としてはごく普通だが、「サザエさん」という閉じられた、いつまで経っても年をとらずに、気が遠くなるような時間をぐるぐると生きている人たちにとっては「まさしく禁句」なのであって、とてもじゃないが、「かわいらしい」とか「無邪気な質問だ」と言えるような類の質問ではない、と感じられて戦慄したのだ!(って、そんな大袈裟な・笑)

 でも、本当にこれは、サザエさんワールドの根幹にかかわること。例えば、演劇やドラマの登場人物が、設定された世界・ストーリーからはみ出して、いきなり観客や視聴者に語りかけたり、マンガの枠線を登場人物が突き破ったりすると、それを見る者は一瞬とまどったり、面白かったり、不思議な印象を受けたりする。それは、演劇やドラマやマンガの登場人物は、その中でのみ生きているという「お約束」があって、演じ手・書き手と観客・読者の双方が、その「お約束」(文法とも言っていいかもしれない)に則って、送り・受けるという前提を、故意にずらす行為になる。例えば、アニメの主人公が「アニメの主人公はそう簡単に死なないんだよ!」などと発言するのは、作品世界にどっぷり浸かっている(あるいはつかろうとしている)視聴者を、一瞬、現実世界へ引き戻してしまう効果がある。というわけで、タラちゃん、それを言っちゃーおしまいよ。君らの家族のアイデンティティーは「年をとらない」ところにもあるんだから。

 で、問われたサザエさんが何と答えるのかに、大いに興味があったわけなのだけれど、サザエさんが答えようとしたら、タラちゃんは既に眠りに就いていた−というオチ。そうだよねぇ、その質問は、ずっと棚上げされたまま、タラちゃんはずっと大人にはならないのだろう。逆に、例えば「そうね、あと700回も寝て起きたら、行けるわよ」なんてサザエさんが言おうものなら、その時サザエさんは、噂の最終回とやらを迎えるのだろう。
 もし、ここで視聴者をほっとさせないような、答えが出れば、サザエさんは変容し、別の物語へと進むんだろうね。


2001.04.13
 某「つくる会」の歴史教科書が問題になってますね〜。実物を見たわけではないから、何とも言えないけれど、非難囂々って感じみたいっすね。…って戦闘シミュレーションゲームに明け暮れて(あと1面でクリア!)脳天気に過ごしてる、こんな人に言われたくないかもしれないけど。

 「歴史を一方からだけ見るのは良くないことだ」と主張しておきながら、その論法を自らには適用しないのか、という批判などはもっともなご意見だと思う。が、じゃあ、どんな教科書ならよいのか、誰も提示していない。何かを否定・非難するときは、それに優る代替案を用意するのが常道なのに。
 報道各社は「出版局」を併せ持っているところが多いのだから、各社がウチの提案する教科書はコレです…って、教科書つくってみたらどう? というようなコトを誰かが言っていたけれど、これが一番もっともなだぁと思ったし、もしも出版されたら見てみたい…(苦しい作業になりそうだけど)。きっと、それぞれのカラーが出るんだろう。

 自分としては、いろんな教科書−今回俎上に乗せられている教科書も含めて−が、あっていいと思う。教材として「教科書読み比べ」なんて授業があったら、興味深いと思うけど? 教科書はひとつでなければいけない決まりは存在しないんだし。まぁ、「答えはひとつ」な授業ばっかりやってる人たちにとっては、そんな授業がいろいろと都合が悪いのかもしれないけれど。世の中には、いろんな考えの人がいて、答えもひとつじゃなくて…ということを学ぶのも悪くないんじゃないかと。
 「教科書は正しくなければならない」…という前提がこの論議の根底にはある。しかし、「教科書は正しい…ゆえに、教科書に書いてあることは、いつも正しい」と教え込まれてしまうことの方が恐いと思う。それより「教科書だって間違っている可能性はある」ということを知る方がいい。
 勿論、教科書は正しくあろうとすべきだし、故意に誤った内容を乗せるべきではない。それでも、やはり間違いはあるものだし、学問の最先端で何かが「発見」されたりすれば、それが当然教科書にも反映されている。変化があるから、それを反映させるために数年ごとに改訂されている。特に歴史の解釈は変化しやすい。さまざまな出来事が複雑に絡み合って物事は「起きる」から、「事実だけ」を書き込むことは不可能に近い。出来事の「関係」を示すとき、解釈がつきまとうから。

 という話になると「問題」の核になるのは、いつも「あの戦争」。だからというわけではないけれど、『日本の戦争』(田原総一朗著・小学館)には期待した。この本の論点は1つ−なぜ、日本は負ける戦争をしたのか。うん、それはワタシも知りたい。これ1冊で分かるんだったら定価1,800円+税は安いもんだよな〜。
 で、なぜなの?…首脳部の作戦指揮がまずかったからさ…(そりゃヤン・ウェンリーのセリフだってば!)。
 冗談はさておき、喧嘩でも何でも、ましてや戦争で、はじめから負けるつもりの人や負けるのが目的な人は、あまりいない(多分)。この質問を、首脳部がバカだったから、と一蹴してしまうのは簡単だけど、じゃあ、なぜ「バカ」が首脳部にいたのかという問題が出てきてしまうし、今の首脳部は大丈夫なのか??と不安も増大する。
 で、この本。主題は、はっきりしている。ゴールは見えている。なのに、第1章が「富国強兵」という言葉は、いつ誰が言い出したのかって、舞台が開国前(江戸時代)になっちゃうのです。まあ、「富国強兵」は明治からの日本のスローガンだったし、言葉の意味と由来を確かにしておくのも大事だよな、うんうん…と思って、読み始めたら、幕末の歴史をスタートに、ほぼ時系列で話が進んでいく。第2章は「和魂洋才」。これは四字熟語を解説する本だっけ? とボケをかましたくもなる。全495ページ…先は長い。ゴールは見えているのに、ゴールに向かって走っているような気がしない読者は、ワタシだけか?
 物事を時系列で語られのは、実は、好きではない。ある一つのテーマにしている事件なり出来事があるなら、そこから「なぜ?」「どうして?」と遡っていくほうが、理解しやすいと思えるから。

 あとがきで、「日本の、太平洋戦争勃発に到るまでの近代戦争を辿る五年に及ぶ作業は、何よりわたし自身にとって大変貴重な勉強になった。(中略)あの戦争が始まった原因は、軍部の暴走ではなく、世論迎合だった。なぜ、戦後われら日本人は、戦争責任を曖昧にしてきたのか。この間、いろいろ言われてきたが、この作業をやってきて、わたしは、それをはっきり理解した」って書いてるけど、読んだ感想として、これを最初に述べてほしかった。誤解をおそれず、理解したエッセンスを先に書いてもらいたい。つまり、当時の指導者達は、それほどおバカさんではなかった。勝ち目はないことは自明のことだったし、戦争を回避したがっていたようだ。
 戦争に反対していた1人である天皇の意見が通らなかった理由は「もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異なる所はない」というわけで、立憲君主としての行動だったというわけだけれど、半面「皇室を守ること」を「国家の命運」に優先した現実主義者だったというところなどは、ワタシにとっては「発見」のひとつ。植民地を「持たざる国」の代表として日本は、「持てる国」ヨーロッパ勢と対峙した単純なカラクリは巧妙だが、誰にでもわかる矛盾を孕んでいたところも、そのための体制が何だかよく分からない「会」になってしまったところも興味深い。

 しかし、である。「さぁ、第二次世界大戦のことを知るぞー!」と思っているところへ、いきなり会沢正志斎や島津斉彬の話を出されるのは、萎える。そりゃ小説やドラマだったら、盛り上がるところを後半に持ってくるのもいいだろうけど、こーゆー場合は普通、結論が先。もしかしたら著者は、後半の核心部分を執筆しながら「いやー盛り上がってきたねー」と、心を躍らせたのかもしれないけれど、幕末から走らされてきたこっちは「あー、ゴール近いの?」って感じですっかり飽きていた。そりゃ、長い長い道すがら「へぇ」「ほう?」っていう発見はいろいろあったけど、それだと単なる雑学が身に付いたにとどまって、それを結論まで昇華させるまでに至れないのは、読者たる自分の技量の無さによるものか?

 あえて時系列で語ったというなら、それも良かろう。でも、もしも、そうでないなら仕切り直しを要求したい本である。書いてある内容自体は面白いんだからさ。結論が分かったところで、もう1度読まないとならない!(でも、実際に読むかどうかは分からない・笑)

 はぁ〜今回はまた一段とエラそうなことを書いてしまった……。ちょっと反省の意味も込めて、4月に放映が始まったアニメで期待しているのは「Z.O.E」と「ノワール」かなー。前者はオジサンが主人公というのが目を引く。後者は主人公は「必殺仕事人な女の子」で、この女の子達に狙われるオジサンが、かっこよく死んでいく(←?)らしいところに期待している。「Z.O.E」の方は家族がテーマな気配もあり、「地球防衛家族」に似たところがあるかもって気がする。どちらも、物語冒頭では崩壊寸前の家族って感じで。にしても、オジサン主人公って珍しいよねっ?特にテレビで放映されるものは。しかし、どちらも夜中の番組だから、野球中継のあるこれからの時期はツライっすね。
2001.04.09
 ああ、ここ数日、すっかり「スーパーロボット大戦α外伝」にハマってしまってました(汗)。もうすぐクリアできそうです(たぶん)。スーファミ版だったころの外伝とも言える「EX」は、オリジナルキャラをフィーチャーしたゲームで、まとまりのあるなかなか良いシナリオだったと思うんだけど、今回の外伝は、どこが外伝?って感じです。前作「α」の単なる続編のシナリオ。別にそれでもいいんだけど、それなら何も「外伝」と銘打たなくても…。
 近頃キャラ増えすぎてたのが今回は、やや少なめ? 個人的にはオリジナルキャラは、元祖の「魔装機神」だけで充分なので、今回ストーリーにもあまり絡んでこない、αからのオリジナルキャラクターは、殆ど使わずに「冷遇」してます(すまん)。

2001.04.02
 今年は10年ぶりの「ベルばらイヤー」なのである。…って言っても、宝塚歌劇で「ベルばら」を演るってだけなんだけど。初日も無事済んだようです。
 10年前は、見に行けなかったんだけど、今年は見に行くのさっ(東京宝塚劇場だけど)。いやー、チケットとるのも、ひと苦労。楽日のチケットは50万円で取り引きされてるとか。いゃー、そんな日のチケットはゲットできませんが、いーんです。そんな濃いファンでもないし(笑)。平日ゆっくり見に行きます。

 そんなわけで『宝塚! これぞエンターテインメント』(工房オーパス著・廣済堂出版)。ショウビジネスとしての宝塚の「ビジネス」部分にスポットを当てつつ、その魅力も語るという内容。創設者の小林一三氏や阪急グループにとっての宝塚歌劇団を語るだけでなく、歌劇団の「組」や「トップスター」の制度を会社などの人事制度に例えて分析したりしてている。タカラジェンヌをいきなりビジネスマンに例えちゃったり、宝塚についての本なのに「ナレッジ・マネジメント」とか「グループウエア」とかいう語彙が出てくるのはなんだか不思議な気分。
 昨年導入され、各方面で覚えのあまりめでたくない「新専科制度」についても「自由競争」が取り入れられたという観点から言及していて、わりと好意的。

 が、分析も、前半ぐらいで息切れしちゃったのか、「ベルばら」と「エリザベート」について述べる段になって、「フェアリーな雰囲気」みたいな言葉が増えて、フツーの作品論になってるのは、なんだかな〜(笑)。宝塚に対する不満とか、現在のダメなところについては何も触れていないのも少し物足りない。「宝塚ってスバラシイ! それを作った小林一三も素晴らしい!」という内容になっている。

 29日に発売になった『スーパーロボット大戦α外伝』(PS)を昨日はじめました。現在、第9話。ネオグランゾンが強くて倒せません…。いきなりこんな所でつまずくとは。とほほ。今回初登場のブライガー。キッドの声が原作と違うのは仕方がないにしても、アイザックの声まで違うとは何事!!!…と憤慨しながらプレイ中。それから、ヤンロン、復活できてよかったね。