書きなぐりな日記

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2001.03.31
 うひょ〜、寒いと思ったら、雪が降ったよ。なんてこった…。
2001.03.26
 今のところ、掲示板やチャットが主流で、顔も声も確かめられないネットの世界は、文字で勝負の世界である。昨年あたりに『日本語練習帳』なるベストセラーが生まれたのも、ネットで渡世していくには「書き言葉」に習熟しなければならないと現代人が再び要請されている証であるとみる向きもある。
 このネットという空間で、「ネカマ」「ネナベ」というのはしばしば議論(?)の対象となる。それは書き言葉に厳然と女ことばと男ことばが存在するからなのだが、こんなものは、ちょっと意識すれば両方を使いこなす(使い分ける)ことが可能だ。
 平安時代に「男もすなる日記といふものを…」と、女のふりして『土佐日記』を書いた紀貫之は、今でいう「ネカマ」かもしれない(笑)。

 で。『上野千鶴子が文学を社会学する』(上野千鶴子著・朝日新聞社)である。この人の本を読むと、普段、何となくモヤモヤや不条理を感じるコトが少し晴れて輪郭を少しなぞれるようになる気がする(全部の著書を読んでいるわけではないけど)。この本もその1冊に加えたい。

 普段、そこここで耳にしたり目にしたりする「女ことば」って、ちっともリアルじゃないな〜って思ったことのある人には、「そっか!」と妙に納得できること請け合いの「ことば」と「おんな」の章。今さら確かめることでもないけれど、現在、男ことばも女ことばも、殆ど存在しない、と私は感じている。別段、荒々しい言葉を使ってるわけではなくて、「ふつー」に話して、それを文字におこしても、男か女か殆ど区別はできない、と思っている。

 なので、最近の女の子は言葉遣いが乱暴でまるで男だ…と嘆く「美しい日本語を愛する人たち」が、この本を読んでどう思うのかは、ちょっと想像し難い。

 明治になるまでは話し言葉でも男女が同じ一人称を使い、同じ言葉遣いで話していたのだということを、改めて提示され「そら、みたことか!」と、一体何に勝ち誇ってんだかわからないが、ちょっと「♪〜」ってな気分。
 言葉もまた社会を構成する「装置」のひとつなんだな〜。男か女かそんな二元論からは早く足を洗いたいが、これが相当難しい…。

 上野千鶴子が、氷室冴子や紡木たく、西原理恵子まで(と言うのも失礼だが)例に引いているところにも感服…。勿論、これらだけを読んでいるのなら感嘆にも値しない。きっと、この人は時間を無駄になんかしない人なんだろうと、勝手に想像。

 ひるがえって我が身を思うに、何かを「議論」するようなネットの場では、特別の場合を除いてあえて自分の性別は明らかにしない。その方が快適だからだ。ハンドルネームも性別不明のものを敢えて使用する。
 女だと分かった途端に周囲の反応が変わるからだ。ちやほやされる場合もあるし、罵倒される場合もある。女か男かを持ち込んだ途端、そこは、現実世界と代わり映えのしない場に変容してしまう。

 先日ある掲示板をみていたら、「女だったら、女だって先に言え! 紛らわしいだろうが!」という書き込みを見つけた。書き手はおそらく男であろう。年齢は分からない。仮にこの人物をAとすると、Aは、それまでBという人物と、ある事柄について議論していた。ところが話のついでにBが「自分は女」ということを書き加えると、Aは件の書き込みをおこなったのだ。Aの心理に何が働いたのだろうか…。まぁ。これが極端な例だとは、分かっているけれど、「男だからこう」「女だからこう」と考えたい人は実はたくさんいるのだということに時々愕然とする。『話を聞かない男、地図が読めない女』(アラン・ピーズ/バーバラピーズ著)などがベストセラーになったことは記憶に新しいが、私個人は、こういったタイトルが安易に広まってしまうことは、とても危険なことだと思っている。
 他人が自分には理解できない不可解な行動緒をとったとき、それを「その人が男(女)だから」とか「血液型が何型だから」ということで、片付けようとするのは簡単で、それはそれで丸く収まることもあるかもしれないけれど、根本的な解決にはなっていなくて、そこに自分が留まることになってしまうような気がして、好きにはなれない。他愛ない遊びなら別だけど。
 ただでさえ、自分で気付けない「色眼鏡」や「枠組み」で物事を見てしまう可能性があるのに、さらに輪をかけてそうしたいとは思えない。
 どーゆーわけか、近代人は「科学」という言葉に弱い。大袈裟な例を持ち出すのは心苦しいが、ナチスが「ドイツ民族は優良民族」という主張が、当時の遺伝学の研究を枕にしておこなわれたことを思えば、眉に唾をつけるぐらいのことはしたくなる。

 と、いうわけで、年齢も性別も何も分からないネットの世界は、居心地がよかったりもする…。
 鳥越俊太郎氏も、今月23日の朝日新聞12面「商社ウーマン営業の課長に 丸紅・肥料園芸課 入社15年の沢さん」の記事で、沢さんの年齢と卒業大学名も書いてないことに関して、
 「この二つの要素を入れていなかったら私らが現役の頃ならデスクに 「なんだ、一番大事な要素が抜けてるじゃないか」 と怒鳴られたでしょうね。それがこの記事ではどこにも見当たらない。時代の変化を感じますね。昔は住所、氏名、年齢は人の属性をあらわす必須事項として記者は必ず取材して書きこんだもんです。この記事は取材相手の沢さんに断られたのか、記者の判断で必要ないとしたのか、真相は分かりませんが、これが今の時代の空気なんでしょうね」
 と書いている。
 私は属性なんてわからなくてもいいと思っています。確かに、相手がどんな人か分からないと、最初のウチは「不安」に感じるかもしれません。どんな態度・どんな口調で臨んだららよいのか分からないからです。でも、かえって、その方が人間同士のつきあいができるような気がするのは、自分だけなのかなー。ってコトで、名刺交換は本当はキライです。まぁ、名刺交換するような相手は、こちらの「肩書き」とつきあいたいだけなのかもしれないけど。それって寂しい。肩書きなんか問題にさせないつきあいをすればいいんだろうけど、そういうワケにもいかないよいで…。

 また話がズレた。『上の千鶴子が〜』に話を戻すと。
  「おい」の章も、なんかずっしりとくるものがある。「老人文学」も「老人介護文学」も、これからいろいろ展開できる分野(?)だと思うけど、“子どもに介護負担をかけない、という選択肢が「長生きしないこと」では、いささかがっくり”というのももっともだし、“小説[佐江衆一『黄落』]の中で「蕗子さん」が担ったような介護負担を「娘や次の世代までの女性」が担うのは、願い下げである”のにも大きく頷いた。だって、ホントだもん。(笑)
2001.03.15
 「ユー、ダメよ。イッツ、ノーグッドでしょ」
 これが外交官の発言とは信じがたい。「これって何語だ。こいつらトニー谷か!?」という筆者の感想も頷ける『大使館なんかいらない』(久家義之著・幻冬舎)。外交官たちの恥ずかしくも情けない、かつ時代錯誤で、恐ろしいほどに優遇されてる実体を描いている。著者は元外務相医務官。1988-97年の9年間、サウジアラビア、オーストリア、パプアニューギニアの大使館に赴任していたという。「ここに書いたことは、極端な例のクローズアップかもしれない」とはあるが、この本に登場する人たちはちょっと面白すぎる。これが他国の大使館員ならこれで済ませられるが、仮にも日本国籍を持つ者としては、笑ってる場合ではない。面白いを通り越して、不思議、奇妙、異様。まさか現在、生きている人間で「閣下」呼ばわりされる人間がいたとは。「天皇誕生日」がいつの間にか national dayに! 外交官夫人たちの「大奥」並みの珍奇なしきたりと見栄。巧妙な階級社会。どれも、これも喫驚! 省庁再編のをくぐり抜けて生き残った外務省、今からでもリストラクチュアリングしたほうがいいよと、読後に思う。

 著者の任官中には、イラクのクウェート侵攻(90年)、ペルー日本大使公邸人質事件(96年)などがあった。特に前者については詳しく記述がある。イラクのスカッドミサイル(←おお懐かしい響き!)の射程内(サウジアラビアのリヤド)にいた著者とその周辺の人たちは充分な情報が与えられないまま、避難もせずに任地に留まる。いよいよとなると、本国から無理矢理「民間医療団」が派遣されたが、これは現地では何の役にも立たず失敗に終わった。後で分かることだが、この医療団の派遣は、最初から失敗する(させる)ことが折り込み済みだったのだ。派遣された医師達は当然、本気で(死を覚悟してまで)援助をしようとやってきていたのに。民間が失敗すれば、自衛隊を派遣しやすいから…という論法だ。

 例の機密費横領(ワタシは、これが発覚するまで「機密費」なんて聞いたこともなかったよ)のカラクリにも少し触れている。が、外務省は巨大で、1冊の本では小揺るぎもしないんだろう。
 タイトルはどうも、「巨泉のこんなものいらない」(古!)みたいで、いまひとつの感があるけれど、なかなか面白く読みました。 


2001.03.13
 椎名林檎のNewシングル「真夜中は純潔」のプロモーションビデオがフルアニメーションだと知って、それはチェックしておかねば!と、見にいってしまいました。レトロな感じです。色の感じとか止め画の感じとか1970年代前半っぽい? 一応ストーリーらしきものがあるらしいのだけど、セリフがないので推測するしかない。何となく「キーハンター」の野際陽子を連想してしまったのだけど、「キーハンター」自体をあまり知らないから、大きな事は言えない…。
 最後、終わりかなーと思ったら、「つづく」と出たものだから、「続くんかい?」とツッコミを入れていたら、すかさず予告(?)部分があって「なるほど」。芸の細かさに感心してしまった。
 15日までは試聴できるので、興味のある方はぜひ。
 それにしてもロデムと獣戦機隊が合体したみたいなアレは何だろう? 設定を知りたいものだ。
2001.03.12
 日本でも「市民(citizen=国民)の司法参加を」「裁判をもっと身近に」ってなことを標榜して司法制度改革審議会というところで、まず刑事裁判に「参審制」(もしくは陪審員制か、裁判員制度と呼ぶことになるのか…)を取り入れようという方向でが進んでいますねー。いやー立派な考えで大いに結構なことだとは思うんだけど、そんなコトして大丈夫かなーという気もする。具体的なことは決まってないし、どうなるか素人のワタシにゃ予想もできない。北欧の参審制も参考になんて話も出てるし(最近、北欧が各方面で元気だな〜と思うんだけど、それはさておき)。

 しかし、日本の司法制度って、もしかしてそれ以前のレベル? …と思えてしまったりもした『鉄槌!』(いしかわじゅん著・角川書店)。裁判で争うことになった「事件」の顛末は「本パラ」でも紹介されてた通りで、「えぇっ、そんなことが?」という驚愕の事実が次々と! その上、弁護士までが「困ったちゃん」だし、裁判所もなんだか謎なところで、ちょっとヤバいよ。

 まさか偶然に偶然が重なって、いしかわ氏だけが、不運にもこの本にあるような弁護士達に恵まれて(苦笑)しまったとは考えにくい。司法制度改革を審議するなら、こっちを先に何とかしたほうがいいんでないの? と思えてきて、裁判所のお世話にはできるだけなりたくないなーと。
 いや、今までわりと、司法は大丈夫だろうと、理由もなく漠然と思ってたのね。だから、いざというときは裁判所のお世話になるのも悪くなかろう…と思っていたのだけど、なんか背筋が寒くなってきました。このヤバさ具合は、是非とも一読した方がいいかも。ワタシが見てもお粗末。プロとは言ってほしくないです(T_T)。中には立派な人もいるんだろうけれど…というのはどこの業界も同じかもね。

 「裁判員」を選ぶにしても、無作為にワタシのような人が選ばれてしまっても、困るだろうに。数年前、暇だから裁判傍聴に行ったことが1度だけあるんだけど、傍聴だからいいけど、それに関して意見を求められても特に…。その裁判は、痴漢の常習犯の第1回公判だったんだけど、冒頭陳述が長いし、細かいし、特に感銘を受けるようなものでもなく、被告の男性を眺めて「案外こざっぱりとしたフツーっぽい人じゃない? もし近所にいてもアヤシイとは思わないかも」などと、裁判とはさっぱり関係ない感想を持った程度。被告も青白い顔して、容疑を全面的に認めてるんだから、もうあとはさっさと「よきにはからえ」ってなもんだった(当人達には悪いけど)。

 それに裁判って、長いんだよね、ホントに。このいしかわ氏の本にもあるけど、2カ月に1回とかそんな感じ。かの教団の松本智津夫被告の第1回公判の傍聴券を求めて長蛇の列に(アルバイトとして)加わったことのあるワタシは、あの一連の裁判のことが(他の人よりやや多めに)気になるんだけど、松本被告の裁判は、今でも毎月2回ずつぐらいコンスタントに開かれているんだよね、知ってる人少ないみたいだし、ワタシも内容までは知らないけど。
 そりゃ、資料そろえたり準備が大変なのかなーとは思うけど、もう少しさっさとやった方がいいんでないの? と思うのは素人考えなのかな?

 それはさておき、いしかわ氏が本書でも書いてるように、弁護士の国語力とサービスは、もっと向上してほしい。いざというときに安心できないから。アメリカの陪審制度って、勿論ドラマとかでしか観たことないけれど、丁々発止、侃々諤々やっている。それと比べると、膨張した裁判は地味ーだった。勿論、どちらが悪いとかは言えないし、それぞれの社会のルールのようなものがあるだろうから、日本でも陪審制度を導入したからといって「ああなる」とは思えない。でも、この本に登場する弁護士さん達の日本語は悲しい。

 そういえば、法学部の友達が「国語の授業、嫌い」と憂鬱そうに言っていたのを思い出した。法学部には「国語」が必修科目であるんだって。週1コマだけど(うちの大学だけかな? そんなことないよね)。


2001.03.11
 というわけで「井狩ちゃん」。
 「本パラ」を見て、ひそかに井狩ちゃんファンになってしまったので、彼の人が書いた本を読みたく思って探していたのだけど、なかなか見つからず、今日やっと1冊見つけた次第。『より道ブックガイド 本屋さんまで50歩』(井狩春男著・ブロンズ新社)。目次を見た瞬間、もうこの本が気に入ってしまった…こ、凝ってて楽しい!ちょっとしたことなんだけど、こういうの好きなんだ。 しかも中身も愉快。文章から何となく「井狩ちゃん」のテイストが漂ってきて嬉しい。
 地の文での一人称が「小生」というのも素敵だ。時々崩れてるときは「オイラ」になっているところも愛すべきところ。詩集が好きだったり、詩を書いちゃったりするらしいことが書いてあるところを読んだときは、井狩ちゃんのヒミツ(?)を知ってしまったような気分で、ちょっとムフフ(←?)。

 刊行されたのが1993年なので、私が読んでない本がいっぱい紹介されてる。今は気の向くままどんどん買ってるけど、当時は、吟味に吟味を重ねた上でしか買わなかった(予算の都合で買えなかった)からなぁ…。
 それにしてもちょっと驚いたのは、井狩ちゃんも本を「買う」んだということ。井狩ちゃんほどの人なら「読んでください」って、そこらじゅうから本が送られてくるのかなーと思ってたもので(笑)。
 というのは、ワタクシ、昔、将来なりたいものといえば「他人のお金で楽しい本を買って読む人」などという、ワケの分からないものだったので(そんな職業?−がホントにあればいいのに)、井狩ちゃんなら、本など買わずとも本棚に未読の本が「うなってる」に違いないなどと想像していたのでした。

 そうそう、この本の冒頭で、本を読みながら歩くので時々電柱などにぶつかってケガをする人が紹介されています。この人を井狩ちゃんが呼んで曰く「特殊技能者」。実は私も本を読みながら歩くことがでる特殊技能者(笑)ですが、ケガは勿論、情けない体験もたくさんしました(笑)。電柱にぶつかることはないのですが、誰かにぶつかったと思って「スミマセン」と謝って顔を上げて見たら、路上駐車してた車だったり。側溝の蓋がないところに片足を突っ込んでしまって、膝から下の内側をザザザーっと擦り剥いたり。そんな時も「ああ、本が」と、本が汚れたりしていないか気遣う馬鹿です。キケンなので、歩き読みは最近やめました(笑)。


2001.03.10
 小説やドラマで、あるいはノンフィクションでも、読者が「劇的」と思う要素のひとつに、主人公の立場・境遇が変化がある。主人公や登場人物の立場が、物語の序盤の頃と比較して変化すればするほど(振幅が大きいほど)、読者はドラマチックと感じる…という考え方がある。

 たとえば、『ガラスの仮面』で主人公の北島マヤが、「貧乏で“何の取り柄もない”少女」から、月影先生にその才能を見いだされて「女優」になるというのは、とてもドラマチックだ。『巨人の星』は、星飛雄馬が信じがたいぐらいのボロ家に住んでいて野球のシゴキに遭っているという立場に最初いて、「巨人の星」を目指す−という一直線ベクトルを持っている。『銀英伝』だったら、ラインハルトはやっぱり「宇宙を手に入れる」という志向をを持っていて、一直線に行動している。一方、ヤンが何だか不思議な人物に感じられるのは、立場はどんどん変わっていくのに、彼の精神−志向するもの−は、ずっと同じところに留まっているからではないかな、と思う。

 つまり、物語の序盤、「A」という地点に主人公がいて、時間の経過にしたがって、「A'」という序盤とば別の地点に到達し、このAとA'の距離が離れていれば離れているほど、読者は「波瀾万丈な物語だった」と感じるということだ。この移動する過程を「成長」と言ったり「堕落」と言ったり物語の内容によってさまざま。
 物語としては何も、A→A'という一直線である必要はない。例えば『アルジャーノンに花束を』の主人公チャーリーの場合は「A→A'→A」というふうになる。時間軸を横にとったグラフにした場合は「山型」になると考えれば分かりやすい?
 そして、これは物語全体というマクロな視点だけでなく、もっとミクロな話にも応用できる。「絶体絶命の大ピンチ!」から「一発逆転」すれば、読者は「おお!」と思うってな具合。
 逆に、AとA'の距離が短く、振幅が少ないと、「ほのぼの系」になる。「サザエさん」とか、多くのギャグマンガとかが、このパターン。

 …ってなコトを、『三島由紀夫レター教室』(三島由紀夫著・ちくま文庫)を読み終わった後に何故か思い出した。この本、レター教室と銘打ちながら、実はちゃんと「小説」になっているという、凝ったつくりになっていたのだ!
 「五人の登場人物がかわるがわる書く手紙をお目にかけ、それがそのまま、文例ともなり、お手本ともなる、というぐあいにしたいと思います」と、最初に書いてあるのを読んだとき、「ふーん、こういう場合は、こういうふうに書くのがよろしい」とか何とか書いてあるような「おせっかいHow to本」ではないのね、さすが…という気持ちで読み始めた。ところがどっこい、さまざまな場面の手紙…例えば、借金の申し込み、招待を断わる手紙、身の上相談の手紙、同性への愛の告白(←笑)など…だけを書き連ねながら、しっかり話が進んで、登場人物達の人生が交錯し、陰謀が渦巻き、最初居たところとは別の位置に移動して(移動しない人もいるけど)、本は終わったので、「おおっ、さすがっ!(>_<)」と、すっかりいい意味で予想を裏切られて嬉しくなってしまった。レター教室として文例を挙げながらも、小説家であることを忘れないところが好きだ!
 本の最初に「登場人物紹介」が載っているので、読後あらためてそれを眺めつつ、人物たちの変化と変化しなかった点(AとA')を想って本を閉じた。

 登場人物はそれぞれ個性的かつ類型的なんだけど、ただし、「20歳のOL」が妙におばさんくさいのが気になった…。つーか当時20歳でも、今頃はおばさんだから、おばさんは「おばさんになった」んではなく、今も昔もそのままだのかな? などと思ったり。この数十年の間に、これぐらいの年齢の女性像の平均が変化したことの現れかもなーと考えたり。でも、昔の事はよく知らないから何とも言えないし、あるいはディテイルに惑わされてるだけかもしれない。


2001.03.09
 初めて青汁を飲みました。最近テレビCMやってますでしょ?(シロクマが口の周りを緑色にしてる…)
 今日偶然、コンビニの冷凍コーナーに置いてある箱が目に入って即、購入(青汁って冷凍食品だったのね、知らなかった)。いや〜、今日まで機会がなかったけれど、1度飲んでみたかったんだよね。元祖(?)キューサイのじゃないのは少し残念だけど、軟弱な私には「まずいっ!」と言いつつも飲み干してしまう自信はないので、この「マイルドそうな」青汁の方が、いいかも…と思って。

 帰宅してさっそく解凍。解けると、ケール100%のみどり色がいっそう鮮やかに。
 「ま、まずそう………(汗)」。コップに注ぐと、案外ドロッとしてなくて、さらっとしてる。においを確かめると、いつかどこかで嗅いだことがあるような、でも、何の「いおい」ともたとえられない香りが…。このにおいを嗅いだだけで、何やら自分の顔色まで同じ緑色になったような気がしてきました。うー。
 飲んでみたかったワリには、この「におい」にひるんで、ヒヨって併せて買ってきた「りんごジュース」と混ぜて飲んでみました。しかし、りんごごときで消え失せるような「におい」ではありません。で、パッケージの説明を読むと、ストローを使って飲むと、においが気にならない、とある。さっそく試すと、Oh ナイス! 無事1パック100ccを「おいしく」飲み干すことができました。しかし、まだあと6パック残ってるんだよね。今度は何を混ぜて飲もうかな。あー。

 ところで、まずいものや嫌いなものを食べたり飲んだりすると、その直後は身体の元気がなくなるような気がするのは自分だけ? 現在、胃に沈殿してる青汁成分を感じながら、元気がなくなってる私。本当に、これが体にいいのだろうか…。

 それにしても青汁って商標ではなかったのですねぇ。感心。


2001.03.07
 アルベルト・シュペーアを主人公にした評伝小説『ヒトラーの建築家』(東秀紀著・NHK出版)を読んだ。シュペーアという人は、第2次世界大戦末期に、ナチスの軍需大臣を務め、戦後に戦犯として裁かれた人。軍需大臣なんてやってたけど、シュペーアは元々建築家。当時のドイツは不況で、仕事も殆ど無かったらしい。それがヒトラーの依頼を受けて建築を手がけるうちに、ヒトラーとのある種の「友情」が生まれ、ついには軍需大臣までになった。シュペーアは、常にパトロンであるヒトラーの依頼に応え続ける「建築家」だったが、ベルリン・フィルのメンバーの徴兵や焦土作戦を阻止した人物でもある。このシュペーアの人生に日本人の建築家・谷口吉郎の人生が、微妙に交錯する(ニアミスで交錯しなかったとも言えるかも)。
 この本の著者は建築畑の人だけれど、格別建築の知識がなくても興味深く読める本。小説という形はとっているけれど、参考文献もいっぱいで、「かなりの部分が事実に基づいて」いるとか。良書だと思います。
 そういえば、昨年、NHKで、シュペーアを特集した番組を放送していた気がしたけど、もう1度見たいなー。
2001.03.06
 『項羽と劉邦』(潮漫画文庫)の3巻が出ました。あとがき…っていうか巻末の「解説」が川本喜八郎氏だったのですよー。そこで、川本さんが言うことにゃ「項羽と劉邦は、(中略)人形のドラマとしてやってみたいと思っていた」とか。「項羽と劉邦をテレビの人形のドラマとして実現させたいと念じてから既に15年が経ってしまった」とも書いていらっしゃる! わー、それは見たい。見たいですぞ! 川本さんがやる気なら、一刻も早く作ってほしい!川本さんの麗しい人形で、項羽と劉邦が再現されたらどんなに素敵でしょう…。ああ、どりーむ。

 『Heaven?』『ヒカルの碁』『MONSTER』の新刊も出たね。


2001.03.01
 3月になってしまいました。
 この前、ちらっと書いた『鉄槌』が本パラで紹介されるとの情報が広中さんから流れてきました(!)ので、放送日までに何としても手に入れようと心に誓いました。がんばるわっ。
 あとindexページの「模様替え」をしました。ちょっと気が早いけど、チューリップで春っぽく…。