書きなぐりな日記

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2001.02.22
 ショウペンハウエルの『読書について 他二篇』(岩波文庫・斎藤忍随訳)を読む。ショウペンハウエルの著作を読んだのは、恥ずかしながらこれが最初。今日まで読まなかったのが勿体ないほどの面白さだった…! まず、構成が巧み。ガツーンと一発強烈な言説をかましたあと、説明を加えていく書き方も好き。断章を積み重ねていく書き方もよい。ショウペンハウエル自身が「巧妙な比喩」に価値を認めているだけあって、自信も比喩がうまい。内容も興味深い(やや「古典びいき」のきらいがあるけど)。
 たとえば、読書のデメリットをグッサリあげつらっておきながら、読書のメリットも逐一述べていく。「読書について」なんて本だったら、読書万歳な内容をちょっと想像するでしょ(ワタシの場合)。そこへグサっとやられると、気持ちいいんだ、なぜか。2編目として収録されている「著作と文体」。著作家について述べた後、書名にまで意見をたれている。しかも、それがいちいち、ごもっとも。でも、そこまで、まじめに本のタイトルについて意見をたれられたのは初めて。これもうれしい。

 訳も良心的なのも手伝っている。更に元の文章の「構造」がしっかりしているからなんだろうとも思う。
 文章の構造といえば、学校の「国語」の授業では読解ばかりを教えて、作文といえば「思ったこと・考えたことを自由に」なんてコトを習ったんだけど、それは、間違っていると思う。日本人の多くの文章は構造がガタガタで、結構ワタシはそのとばっちりを(精神的に)受けていると思う。とはいえ、こんなところで、構造もへったくれもない、書き散らかしの文章を書いてる自分にも言いきかせたいんだけど。英語の文章を読むと(日本語の他は英語しか分からないから)、整然さを感じる。たとえば、Of caurse…と来たら9割方は、But….と続く。そして筆者の言いたいことはButの後にある−というような当たり前の簡単なことだ。日本語(国語)の授業では、そんなことをエッセンスとして教えてもらったことは多分、ない。確かに、空欄があって「そこに適した接続詞を選びなさい」ってな出題方法は定番だけれど、それを自分が書くときにどう活かすかということも教えてほしい。文の構造と言ったけれど、実のところ、「接続詞」をマスターするだけでも、かなり違う。
 「それは教わるものではなくてたくさんの良書を読めば自然と身に付くこと」なんて、反論されそうな気もするけど、それでは「教育」は不要になるわけで、おいしいところをぎゅっと濃縮したものを、授けないと無意味なんではないかと思う。こういった簡単なルールさえ、身につけてない人が文章を書くと困る。理解できない身になると「自分の理解力が不足して居るんだろうか」などと考えしまったりするから。勿論、そういう可能性もあるが、書き手の力量不足を問いたい場合も少なくない。
 長大な文章を読む場合、接続詞や接続助詞などをたよりにして、読書を進める。これらはいわば、「道しるべ」のようなものだから、これが間違っていると、読者は道に迷ってしまう。そして、読み終わって書き手が言いたかったことが、よく分からないままになってしまうんである。
 こういう、接続詞のパターンを教えるカリキュラムを、少なくとも英語圏では、取り入れているのではないかなーという気がする(もしかしたら、ワタシが目にする文章を書いている人々が、偶然!論理的なものばかりだったのかもしれないけれど)。だって、英文ではこういうパターンがあまりのも頻繁に出てくるものだから、それは様式美さえそなえているように感じる。様式に堕するのは良くないことだが、決まり事・ルールとしてそういったものを学ぶのは悪くないことだと思う。
 時々、「日本語というものはあいまいで、論理的文章を書くのには適さない」なんて誹謗を聞くけれど、ワタシはそうは思わない。悪いのは日本語ではなくて、それをあやつる人間だ。そういった努力もしないうちに、日本語のせいにすな!そして、みんなが共通理解としてこれを学ぶことで、状況は改善されると思うのだけれど。

 ショウペンハウエルに話を戻そう。「著作と文体」で彼は次のように書いている。「著作家には2つのタイプがある。事柄そのもののために書く者と、書くために書く者である」。ショウペンハウエルは、前者を良しとしている。
 後者の「書くために書く」とは、金銭のために書くこと。そして「偉大なる人々の最もすぐれた作品はすべて、無名の著作家であるため無報酬で書かれなけれらばならなかった頃に、あるいはごく小額の報酬で書かざるを得なかった時に生まれたものである。(中略)現在文学が悲惨を極めているが、その禍根は著作による金銭獲得にある。金銭の必要な物は誰でも机に向かって本を書く。民衆は愚かにもそれを買う」と述べている。
 これを読んで思い出したのがインターネット。ネット上で閲覧できるものは、その殆どが無報酬で書かれたもの。今書いてるこれもそう。無報酬どころか、頼まれもしないのに書いてる。でも、それが特に優れた読み物であるという感じはしないし、ネットじゃないからとか、そうだからとか、は今のところ関係ないと思う。
 それとも、ネット社会が成熟していけば状況は変わるのか。あるいは、ショウペンハウエルは報酬を「金銭」と限定しているが、実は「それを誰かに読んでもらう」こと、そのものが書き手にとって心理的報酬になっているのだろうか。
 それとも、それには、彼が別に項を設けて書いている「匿名執筆すべきではない」ということも絡んでくるのだろうか。
2001.02.20
 どうして物事ってのは、こう「いっぺんに」やって来るものなんでしょう。まんべんなく来いっつーの(笑)。うっかり1週間もココを放ったらかしにしてしまった。

 さて、実はここ1週間、探し求めている本が1冊(いや、別にこの本を探して忙しかったわけではないです・笑)。『鉄槌!』(いしかわじゅん著・角川書店)。何やら面白そうなにおいがプンプンします。もしこの本を書店で見つけたら、それは絶対「買い」です。こんなテーマで書いてつまらない筈がないっ!
 面白そうな本というのは、タイトルや装丁も他とは違った「何か」を感じさせるものです(ごくたまに「装丁だけが素晴らしい本」というのもあるけど、それはそれで「してやられたり、敵ながらあっぱれ」ってことで、許す)。
 この本にもその「何か」があります。迷わず手にとってそのままくレジへ向かいましょう。ただし私はまだこの本を読んでいないので保証はできません(笑)。
 もし、この本をゲットできたら、それは私にとって初の「いしかわじゅん本」です。だって、この人のマンガ、どこにも売ってないんだもん。


2001.01.14
 いや〜、まさかこんなゲームソフトまであるとは!「ぼくは航空管制官」(シスコンエンタテインメント・PS)。とっくの昔に発売されていたんだけど。思わず購入してしまった。でもまじめなゲームですよぉ。航空管制無線監修。「電車でGO!」シリーズとか、今度「2」が発売になる「パイロットになろう!」とかに連なる職業シミュレーションゲームだね。職業でさえ、ゲームになると「ゲームになってるんかい!?」と驚くけど、「免許をとろう!」なんてのも出てきたときは笑った。懐が深いぞ、シミュレーションゲーム。
 教習所…行くの面倒だったんだよなー「講習」に何の工夫もなくて、やる方も聴く方もだらだら。筆記は得意なんだけど、それを路上で実践するとなると、運動神経に問題のある私としては、肩にばっかり力が入っちゃって…それがゲームで再現されるってことかい!? 教官は「ぐごー」とかタヌキ寝入りか本気寝入りか分からないけど、寝てたし(汗)。「私の助手席で居眠りとは、ええ度胸しとるやんけ、われー!」などと考える余裕さえなかったけど。運転技術に関する不安は勿論だけど「道、知らないんだよー(泣)」 なんて思い出もあり。
 それを考えると「ゲームとして成立してるんかい?」って気がするけど、まぁ、声フェチとしては、かなり楽しめるゲームではないかと結論(笑)。銀河万丈教官に怒鳴られたり、千葉繁教官にイヤミを言われたり、森山周一郎教官たちに怒られるのもなかなか楽しい(←ばか)。教官の数を増やしてくれると、もっとマル。
2001.02.13
 別に、何がどうこうというのではなくて、ただなんとな〜く沈んだ気分でした。で、別に何が欲しいとか目的があるでもなく、中古CDショップに入りました。
 こんな時は、よどんだ音楽を聴いて、どっぷり淀むか…、それとも、脳天気な曲を聴いて無理矢理元気になるか…、いや、α波出そうな曲がいいかな〜と、古今東西のいろんな音楽コーナーをめぐる。うをー、椎名林檎の「無罪 モラトリアム」の初回プレス盤、8000円というのにちいさく驚きつつ、狭い店内をぐるぐる。
 どれも、いまひとつだよな〜。そもそも音楽なんか聴く気分じゃないかも。もー、何もせずにぐだーっとしてるか? と考えていたら、店内のBGMに救われてしまった。
 GUNS N' ROSESの「PAITIENCE」。はじめは、聴いたことがあるような曲だわー、あら、エアロスミス? いや、ちがう…なんて思いながら、半分は耳をすり抜けてたんだけど、この曲が始まった途端、「あ、このCD、持ってたなー」なんてコトを思い出して。なぜだか、少し気分も良くなりました。結構単純だ、自分。
 家に帰って、何年かぶりでかけたこのCDのタイトルは「GN'R LIES」。前半はライブで、陽気にノリノリ。「んもうガンズ」って感じなんだけど、後半いきなりアコースティックになるんだよね。その1曲目が前出の「PAITIENCE」で、これが、なぜだか心に染みる…。「騒→静」のコントラストもよいのかも。
2001.02.12
 本を読むことに関しては、わりと我が道を行く方なので、ベストセラーは辛うじて視野に入れている程度なんだけど。でも、たまには気分を変えてってコトで、結婚願望もないのに、『結婚願望』(山本文緒著・三笠書房)を読んだ。ここで『プラナリア』を読まないところが、へそ曲がり(笑)。
 読んで、ちょっと疲れた…。今まで自分が知らなかったことや、難しいことが書いてあるのを読むのはそれほど疲れないけど、自分と異なる信条を読むというのは、心の中でいちいちツッコミを入れてしまうワタシのような人間(ばかだねぇ)には、この上ないストレス。
 著者は自分は「恋愛体質だった」と言い放つ。一方ワタシは、著者の言葉を借りて言うなら私は「恋愛体質ではない」人らしい。「恋愛体質」だったころの著者の話はつまらない。ことごとく苦痛だった。なんか「そーなんだろうね」って感じで。著者と自分の間にささーって、距離が生まれる。
 「この歳になって、もし自分が恋愛体質でなかったら、ずいぶん人生違ったよな、とため息まじりに思う」というのも、そう。「じゃあ、体質改善すれば良かったじゃん」という気がするのだけど、恋愛至上主義の人には、それ以外の価値観が理解されにくいという感がある。だから「体質改善」などという発想は多分生まれないのだろう。逆に、ある日突然私が恋愛に目覚めたら、「よし、きょうから私は恋愛体質になるぞ」って決意はできる(実際なれるかどうかは別にして)。
 だからって、別に私は「恋愛体質」な人をバカにしているわけではなくて、「恋愛体質の人は恋愛体質なりに、そうでない人はそうでないなりの、違った「経験」をしているわけだから、どちらの人生もそれなりに学ぶことはあるだろうし…と思うわけだ。例えば、同級生が10代で結婚して、子供産んで、20代前半には既に離婚…したりしているけど、そりゃー私には真似できませんって感じの人生だ。
 恋愛体質だった著者も、だからこそ、結婚し、離婚も経験し、現在の自分というものを形作っている。恋愛体質ではない私はまだ結婚も離婚もしてないから、それについては実体験をもとに語ることはできない。でも、彼女が恋愛について考えたり悩んだりしていた時間、私は別のことについて考えたり体験したりしてきたし、これからもそうだろう(著者と歳がちがうから比べることはできないが)。

 このエッセイを読んで、結婚や恋愛については得るところは少なかったな〜という気がする。「つきあう、ということの不思議」などということに、項目を一つ設けて今さら語り「つきあうとはどういうことだろうか」と自ら立てた命題に明確な答えを出さず、結婚とは「つきあう」よりはっきりとした関係だという話題に移動している(それを語りたかったのかもしれないけどさ)。
 「曖昧な関係がこわい」とも著者は書いているが、曖昧な関係や曖昧な立場なんかに魅力を感じている私は、「はっきりした関係=結婚」にも興味がないのかなーと思う程度。「結婚なんて、したくなったら、その時するさぁ〜」程度にしか考えていない私は、ある意味不真面目なのかも。著者が書くように、恋愛体質の人の方が、確かに、まじめに(いい意味でも悪い意味でも)考えているのかもしれない。
 どうせ読むなら、もっと「恋愛体質」の人しか経験できないエピソードや、その「はっきりした関係」を壊すエネルギーと方法やしんどさを読みたい。仲良くなるための指南本はこの世にたくさんあるけど、分かれるための本や雑誌は、とても少ない。今のご時世、きっちり、うまいこと分かれておかないと、ストーカー騒ぎに巻き込まれたりして大変なんである(笑)。

 が、しかし、「女の仕事」「独身女性の老い」とかそういったテーマになると、この人の話が、がぜん面白くなってくる。なのに、この本のテーマは「仕事」ではないので、すぐ話が恋愛にもどっちゃうんだけどね。なーんか『プラナリア』を読んでおいた方がお得だったかもなぁ……。ってことで、「恋愛体質な人」もしくは、「だった人」にはオススメかもしれない1冊。


2001.02.11
 先週に引き続き、昨日も広中さんdayで、ビデオに録っておいたのを見るのに2日がかりでしたわっ。2週連続でいやぁ〜もう、見ごたえ…聞きごたえありました!全部見終わってテレビを消しても、頭の中に「音の残像」が…。
2001.02.10
 と、そーゆー本を昨日、読んだものだから、その本に書いてあった「自分の体で音を共鳴させる遊び」を今やってます。単純だけど面白い遊び。自分の体で遊ぶのは楽しいねぇ。って、感想まで素朴でシンプルになってしまう。
 やり方は、本に詳しく書いてあるんだけど、「ん〜」ってハミングしながら、ノド、鼻、口、頭、胸が振動するのを自分で感じて、それをその場所を自覚的に移動させる…ってだけ。これが難しい。どうやら私は頭を共鳴させるのが苦手らしい。全然振動しない。他はちょっと試してみただけで、できたみたいなのに。
 で、それができるようになったら、上に書いた5カ所以外−背中とか、肩とか−に移動させるように練習するらしいんで、とりあえず、今は頭!本書によれば、オペラ歌手で太股を振動させられる人がいるそうで、そうなると、もう「人体の不思議」って世界。
 そうそう。以前ここにも書いた佐藤雅彦さんのショートアニメを見られる「ねっとのおやつ」がバージョンアップして正式版1.1になりました。無料です。おもしろいよ。(って、まわし者みたい…)
2001.02.09
 「声」というものに、まぁ…人並み以上に興味を持っていたりしても、世間の人からは「どーしてそんコトに興味があるのか? 」って感じで理解してもらえず、「同志」を探すのはなかなか難しかったりしますよね(笑)。みんな、顔や見た目には、こだわるくせに、どーして声には関心を抱かないのかしら?と、私は普段から思っています。

 この本を読んだら、ちょっと「ふふ〜ん♪」って、いい気になっちゃいます。声に関心を持たないのは損なことなのよ。あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント(鴻上尚史著・講談社)。著者の鴻上氏は私の大好きな人のひとり。でも、こんなタイトルの本を買うのは少しこっ恥ずかしと思ってしまうワタシ。たとえば、PHP文庫や中●彰宏ちっくなタイトルの本はどうも苦手なもんで。書店の一角にはこの手の本ばかりを集めたコーナーがあったりして頭がクラクラする…。人間って、せっぱつまるとそういう本に手を出してしまうモノだと思います。
 それは、さておき。
 知っている人は知っている、この本の著者は、劇団第三舞台(テレビでも活躍してる俳優の筧利夫さんとか勝村政信さんはココの劇団の出身)の主宰・演出・脚本をやっています。ほかにも映画監督やったり、ファミコンソフト作ったり、エッセイ書いたり、クイズ番組に回答者で出てたり、神出鬼没です。いつも面白いコトをやったり言ったりしてる人です。因みに私がこの人を知ったのは、ラジオのオールナイトニッポンでした。そういえば、この番組ではCDデビュー(すぎやまこういち作曲)もしてましたっけ(サイン入りCD持ってます・爆)。 
 で、このコーカミさん、3年ほど前にロンドンの演劇学校に1年間通いました。生徒として。その数年前に「第三舞台」はロンドン公演を成功させた(と聞いてます)にもかかわらず、講師としてじゃなくて生徒としてです。その1年間のことはロンドン・デイズ(小学館)いう本になっていて、演劇のこと以外に、ことばのこととか、日本とヨーロッパの文化のこととか、日本の英語教育の問題とか、コミュニケーションのこととか、興味深いことがたくさん書いてあるので、とっても、おすすめです!!!
 イギリス(ヨーロッパ)では、俳優の訓練方法が「共有の財産」として何百年も蓄積されているらしいコーカミさんは、それを学びに行ったということだ(つまり日本の演劇界にはそういうモノがないということらしい。わお)。

 で、このロンドン市立ギルドホール音楽・演劇学校で学んできたことを、コーカミさんは日本でもガシガシやっています、ワークショップで。プロの俳優さんは勿論、それ以外の人にも。NHKの「課外授業・ようこそ先輩」では、子供達にも教えていました(めちゃくちゃ楽しそうだった)。
 で、それを演劇だけでなく、日常生活にも取り入れましょう、という提案とそれを実戦するためのヒントがこの「あなたの魅力を演出する〜」に書いてあるです。どーしてそんなことしなくちゃいけないの? という疑問に対する答えは、本を読んでもらうとして。この本を書くことになったきっかけは、プログラマーが自分で開発したソフトを発表する国際会議で、日本人が「原稿を読み上げるだけの」あまりに貧弱な発表をしたばっかりに、ソフトそのものは良いものなのに、アメリカ人のプログラマーのアピールに負けていた…のを見て、「な、なんとかならんのかああ!」と思ったことからだそうです。
 その場に居合わせなくても、私には想像がつきます。内外の政治家の演説、答弁なんかを思い浮かべれば…。アメリカ大統領の演説は、米国民でなくても「うをを!」と盛り上がれます。先日のアロヨ比大統領(きょうの「赤恥青恥」でも出題されてた)の演説も良かったです。それに引き替え……はぁ、もう言いますまい。逆に言えば、それは、さっき挙げた人たちが「芝居ががかっている」ということなのかもしれません。でも、テレビでよく見かける街頭インタビューや素人さんの記者会見を見ると、無表情に話す人が多いです。本心を語っているということが前提になっているから問題になりませんけど、もしも表情豊かな人がその隣にいて比較されるとしたら、本当なのに嘘っぽく見えるんじゃないかなーということが予想されます。
 かくいう私も、そーゆーこと−つまり声も含めた身体を使った表現−は苦手な人間です。ですが、何て言うか例えば、どうせプレゼントをするなら、ラッピングにもこだわりたい、って気持ち…はあります。でも、どうしたらいいか分からないんですね。「表現」なんていう文字を見るとうちひしがれちゃう。だって「表して、現す」んですよ。嗚呼。

 そんな、うちひしがれちゃう私でも、この本を読めば、少し希望が見えてきちゃう。つまりはっきり言って表現の素人さん向けです。それは素人の私でも分かります。目次を見れば分かるように、「感情」「声」「体」「ことば」に分けてその方法が書いてあります。まぁ、実際役立てようとしなくても「魅力的な声ってどういうことなの?」っていうコトがズバリ解剖してありますので、声を考える際のひとつの手がかりになるかと。考えてみれば簡単なことなのかもしれないんですが、それが実践できるかというレベルになると急にハードルが高くなってしまうので、すてきな声は価値があるんですねー。

 ぜひ、1冊、いかがです?

 鴻上フリーク(笑)の私としては、文体が「おすまし」な感じで少し物足りない気がするんですが、これは意識的にしたことだそうで、それももっともなことです。


2001.02.08
 と書いたら、折しも「2ちゃんねる」のネットラジオが7日深夜から始まったという情報をキャッチ。さっそく行ってみた。内容、喋り方、雰囲気が、異様にラジオにハマっていた頃−『ラジオパラダイス』買ったり、ラジオの改造をして日本全国の番組を聴こうとしたり(そしてモスクワ放送が聞こえてきたり)、E-スポの季節は、おおいに盛り上がったりしていたこと−を思い出す。こういう番組って、ラジオの一つのジャンルだよね。
 …はっ、誰も分からないような話題になってしまった。(もし分かったあなた、語り合いたいですね・笑)
 同じサイトで神谷明さんも番組を持ってるのを発見。なんか、いいっすね、こういうの。深夜だけど、24時間再放送が聞ける状態だから、普通のラジオみたいに聞き逃す心配がないし。でも、リアルタイムで聴いている高揚感みたいなものは、なくなるよね。生放送の、たとえ空間は別でも、時間を共有しているような感覚…あれは、なかなか良いものです。ところで、神谷サンとこのラジオの後半に「ラジオドラマ」みたいなのが流れてるんだけど、こりゃ一体どういう脈略でここに組み込まれてるんでしょう? 北条司原作の「パロット」っていう作品らしんだけど、出演が高山みなみサンと堀川りょうサンと中尾隆聖サン…豪華。さらに音楽は尾崎亜美。私のあてにならない勘では、この番組のために制作したとは考えにくいんだけど……?(ネットで検索してみたけど、調べがつかず。ここのサイトは再放送が前回のものしか置いてないから、分からないし) やっぱ、ラジオは毎回聴かないと、事情が掴めない。これが一見、欠点に見えるけど、そこが美点なんだ。 また聴こうっと。最近ネット・ラジオづいてるなー。
2001.02.07
 「祖父なんて関係ないね、フン」と思っていたらしい夏目房之介さんのおじいさんは、勿論、夏目漱石(本名・金之助)。その房之介さんの『これから』(講談社)を読んだ。このタイトルを聞いて、ご本人も笑ったそうだけど、気が利いていていい(笑)。「帯」には、ご丁寧に「なお、この本はフィクションではなく、登場する人物・団体は『それから』とは無関係です」とある。(爆笑)やるなー。因みにネーミングは、これを連載していた東京新聞の担当さん。
 それにしても、「○○なんて関係ないね、フン」という気持ちはよく分かる。○○には、親とか兄弟とか“関係ある人”を代入するんだけど、親が有名人でも偉人でも何でもない私でさえ思うんだから、いわんや文豪の祖父をや、である。しかも日本銀行券にまでなっちゃって。
 「関係ない、関係ない…」と思えば思うほど、かえって、意識していることになって、だから、関係なさそうだ(と自分が考える)方向に進んだりするんだけど、他人から見たら、やっぱり「血は争えない」みたいな状況だったりして、なんだかなーという人もいるような気がする。因みに私は「肉体的・外形的性質以外は、後天的に獲得するものだから普通遺伝しないんだ!」という基本スタンスなので、「やっぱり親子ねぇ」みたいな発言はしないことにしている(そのワリに「血のドラマ」などと呼ばれる競馬が好きだったりするのだけど、それはそれ)。
 で、この本、「50代の居場所」というサブタイトルからも推して知るべしなのだけど、マンガ論ではありません。どこぞの公園で太極拳をやっている房之介さん…という何だか素敵な表紙に象徴されるように、「年をとるということ」みたいのがテーマ。49歳で胃潰瘍のために鬼籍に入った漱石(房之介さん自身、会ったことはないそうだ)のことを「フン…」と思っていたのに、40歳ごろ「俺も漱石みたいに49歳で死ぬんじゃねぇか」と不合理に畏れている自分に気付いたりして、自分はあと何年生きられるんだろう、その「これから」をどう生きるかみたいなコトがつらつら書いてある。そんな房之介さん、現在50歳。
 50歳からの「これから」なんて、なんだかイヤミったらしい〜か、暗ーいか、真面目〜か、というイメージなんだけど、そんなことはない。と言うのも、世間で“いい年”と思われるような年齢になって、「どうやら私は一種『権威』のようにみなされているらしい」と気付いたり、とまどったり、「先生」と呼ばれて困ったりはするものの「これも一種、大人の責任って奴なんだろう」と受け入れざるをえない、なんて書いている御仁だもん。白髪や耳毛(!)や老眼のコトから始まって、「あこがれのジジイ像」については、かなり熱く(?)書いているように感じたのだけど、この「あこがれのジジイ」群は、みんなちょっと苦笑をさそっちゃうような、ジジイたち。わたしゃジジイにはなれないけど「こんなじいさんなら、うん、O.K.って」感じ(何がO.K.なのかは、自分でもよく分からん・笑)。

 そういえば、長寿世界一の泉重千代翁が生前、「どんな女性が好みですか」とインタビューされて、「年上」と答えたというエピソードがあったけど、それを聞いたときも、私は「ぜーんぜんO.K!」と思った、そのO.K.(ますます分からん?)とにかく、そんなセンスは持ち合わせていたいなーと。でも、O.K.と思える「ばあさん」は、O.K.な「じいさん」より数が少ないと何となく思うのは、同性には厳しい目を向けてしまうからかしらん?

 とにかく、年をとったからって、したり顔の大人になるのは、環境によってそうなってしまうこともあるんだなーと、分かったけど、そんな環境になれてしまう人よりも、なんだかちょっと居心地が悪いという感覚を持ち続けている、房之介さんみたいな人の方が私は好きだな。
 確かに学校でも何でも、タテ社会の構造がある組織では、その組織に自分が属し続ける限り、「後輩」なるものがどんどん増えて、それに対しては堂々としている人の方がよい場合もあるかもしれないけど、私は「なんだかなー」と感じてしまって、1日も早く「彼ら ・彼女ら」が、独り立ちしてくれることを願っているもんなー。夏目さんみたいな自由業だと、こういうモノとは比較的無縁でいられるらしく、いいなぁ、などと思ったり。そんなコトは思ってみても仕方がないのだけど。

 ほかにも、自分の長男は厳しく育てちゃった夏目さんが、長男の息子(つまり孫)に甘くなってしまう複雑な心理を解説している部分には、「そ−ゆーものなのか」とやや衝撃を受けた。この逆ってのは、あるんですかねぇ、娘に厳しくしてしまう母親ってのは?(笑)
 というワケで、力の抜け具合が、とっても良い感じの1冊。こんなおじさんが増えると、私はとても嬉しい。だって、自分が偉そうにするのも嫌いだし、偉そうにされるのも、もっと嫌いだから、私(笑)。付け加えとくと、挿画のマンガも本人が描いてるよん。

 ついでに書いておくと、本文中にネットの「2ちゃんねる」に出没したときの話が書いてあって、「うわ、そんなの知らんかった!」と慌ててログを見に行った。自分のような人が他にもいたようだ。2ちゃんねる、これだから、侮れないぜ。でも、ネットの極みみたいな「2ちゃんねる」は本当に玉石混淆だから、巡回してまわるのは精神的に大変。だれか2チャンネル、案内してほしい(他力本願)。

 その夏目房之介さんも出演する(はず)の「BSマンガ夜話」の放送予定が決まったようだ。今回は2月26日から4日間…。
2001.02.06
 某局で再放送している「ペリーヌ物語」(日本アニメーション)。主人公ペリーヌの母親が死んでしまった回がきょう放送された。以前から思っていたのだけど、アニメの昔の人って(注:「昔のアニメの人」ではない)、一体何の病気で死んでしまうのだろう? 謎だ。
 突然ですが、『源氏物語』と『枕草子』−どちらが好きかと訊かれたら、私は『枕草子』と答える(あまり訊かれないけど)。一方は物語で、一方は随筆だから、比べようもないし、文学史上どちらが優れているとかそういうコトを論じるつもりもなしそんな比較は意味もないけど、好きか嫌いかなら、すっぱり答えちゃう。清少納言の方がお友達になれそうだし。

 同じ時代に政治上敵対する主人に仕えたこの2人、1000年経っても比べられて、本人もさぞ腹がたつだろうとは思うけど。もう、そんなの昔習ったけど忘れちゃったわ、という人のために一応、この2人の立場を簡単に説明すると、紫式部は、彰子っていう、アノ藤原道長の娘に仕えてて、一方の清少納言の方は定子っていう藤原道隆の娘に使えていた。道長と道隆は兄弟なんだけど、この時期、摂政・関白の地位をめぐっての権力争いは藤原家の兄弟喧嘩・親子喧嘩って感じでだったわけ。で、時のミカドは一条天皇というんだけど、自分の娘を、この一条天皇の后にしようってんで、それぞれ送り込んだのが、さっき書いた彰子定子。その後の歴史からも分かるように結局天下を取ったのは道長。つまり『源氏物語』や『枕草子』が執筆された当時、既に清少納言の仕える定子は分が悪かった。
 そんな中で、明るく「あれは好き、これはキライ、これはカワイイ、それは楽しい」ってなコトを書きまくりながら、自分の仕える定子様(「御前」とか「宮の御前」というふうに記されている)はステキな方なのよー!ってアピールしてるのが『枕草子』。健気ぢゃないの。それにひきかえ紫式部は、なーんかジトーッって感じのオバさんのイメージ。そもそもあんなに長い物語を書くなんて、「しつこい」というか「粘着質」って感じ(偏見です)。しかも自分の仕えている彰子の立場が強いんだったら、たとえ清少納言の存在が目障りだったとしても黙って無視してればいいのに(と思うんだけど)ご丁寧に、清少納言の悪口(「女のクセに知ったかぶりしちゃってさ」みたいな内容)まで、しっかり後世に残しちゃって、これこそ本当の「お局様」って感じで、私はあまりよい印象を持ってない。(以上、私の偏見に基づいた解説。フォローがてら書いておくけど「源氏物語」も価値ある書物だし、面白さはあるよ)

 ココまでは前置き。
 私の好きな清少納言についての記述がある本を見つけた。雅楽-僕の好奇心』(東儀秀樹著・集英社新書)。(雅楽は今でも宮中行事なんかで耳にする音楽で、平安時代に貴族の間で流行ってた音楽)雅楽のプロ東儀さんによれば「彼女(清少納言)が好きだという舞や曲から察すると、けっこう彼女はミーハーだったのではないかとうかがえる」らしい。これを読んで、あ、やっぱりそう思う? と思ってしまった。私は彼女の音楽の趣味どころか、当時の音楽にはまったく疎い。けれど『枕草子』を読んだときの文体…っていうか文章の手触りみたいなものや内容から、そういう印象を持っていただけなんだけど、これは、読んでちょっと嬉しかった。ほかにも、雅楽の楽器についての彼女の記述を取り上げて「雰囲気をうまく物語っている」なんて言われちゃーもー♪ 清少納言のセンスが褒められたみたいか気がして、まるで自分が褒められたように嬉しい(←ばか)。
 しかも、本の冒頭に『枕草子』を引用しているというのも私の心を捉えた! そこでは、篳篥(ひちりき)という笛の音を「やかましくてくつわ虫 みだいで嫌」と書いた清少納言を、「彼女の周りには、ヘタクソな篳篥吹きしかいなかったったのだろうか」とかわいそうに思っていたりして、ほほえましい。
 何事も最初というものは肝心で、『銀英伝』の劇場版、最初のBGMがショパンのノクターンでなかったら、あんなにいきなりあの世界へ引き込まれなかったかも…と思う、ショパンも好きな私(もし違ってたとしても、遅かれ早かれ引き込まれたろうけど。しかも、ラヴェルの「ボレロ」も効果的だった!おかげであの世界に一気にひきずりこまれたもので・笑)。

 雅楽の本なので音楽に話を戻すと、この東儀さん、いろんなジャンルの音楽がお好きなようで、そこも私はいいなーと思う。しかも好きなアーティストに並んでる名前がまた、いい感じ。わりとハードなのも多くて。ピンク・フロイドの名前もあったっけ。「あの音楽はそういえば少し雅楽っぽい?」と思ったりした素人考えの私。東儀さん、一時期テレビで騒がれてた時は「ふーん」って感じで見てたけど、この本を読んで、いい意味でイメージが変わったよ。

 とは言え、本当はこの本はまだ読むつもりではなかった…。音楽の本だからCDの1枚でも聴いてから…と思っていたので。でも、立ち読みして冒頭を読んでしまった次の瞬間にはもうレジで支払いを済ませていた。(^_^;
 古典文学も好きな私としては、今まで「歌舞管弦」に関する知識は脚注のみに依存してしまっていたのは迂闊だったなーと、やや悔やまれる。それに、やっぱり文字だけで説明されても今ひとつピンとこない。でも、ま、これからでも遅くはない。本書によると、安倍晴明や陰陽道ブームと相まって「雅楽はブーム」になってるらしいし。これに便乗するか。これを読んで、一応の基本的予備知識は押さえられたような気がす(さらっと雅楽の演奏形態や楽器、音楽の種類、歴史などは、本当に分かりやすく説明してある!おまけに「日常語になった雅楽用語」というコラムもあって、知ったかぶりできるぞ・笑)
 つまり、すっかり私はこの本に感化されてしまった…というわけ。


2001.02.05
 昨年出版された『刑務所の中』(花輪和一著)が既に6万部を超えたそうです。感想は、11月の日記にもう書いたので省きますが、去年読んだ中でベスト5に入れたい一冊。前々回の「本パラ」にも登場したけど、その時は「お買いあげ」ゼロだったので、「う〜、面白いのにぃ」と、悲しかった。
 その後、また手に入れた“花輪本”は『朱雀門』(青林工藝舎)。時は平安。百鬼夜行ではありませんが、異形だの虫だのがたくさん登場。えげつない人間もいっぱい。虫が苦手な私は「ひぃぃ〜」と思いながら読むのだけど、何故か引き込まれて、結局全部読んでしまった。平安文学…殊に説話集とか…って、異形の世界が日常の近くにじんわり存在する感じが漂ってるから、こーゆー話があっても違和感がない。しかも、「ええーっ、そこで終わりなの!?」ってところで話が終わったりしてることもあって、ますます説話っぽい感じです。
 何はともあれ、着実に花輪ワールドにハマりつつあります…。
 レコード店のDVDコーナーを歩いていたら、「地獄の黙示録」が置いてあって、その横に「出荷停止! 在庫分のみ」なんて書いてあったんだけど、映画業界に疎い私は、意味を測りかねる。何かあったんすか〜?地獄の黙示録っていったら、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」がBGMになってるアレっすよね???
2001.02.04
 『うろんな客(原題:The Doubtful Guest)』(エドワード・ゴーリー著・柴田元幸訳・河出書房新社)は絵本です。
 作者のゴーリーさんは昨年お亡くなりになってしまったそうで、私がこの人の本を手にしたのは、その後でした。ゴーリーさんの本を買ったのは『優雅に叱責する自転車』(同)に続いて2冊目。
 この本、まず、タイトルが絶品っ! 「うろんな客」ですよ、う・ろ・ん。最近「うろん」という言葉を耳にも口にもしたことがなかったもので、この絵本を読んでから、わたしの中でちょっとした「うろんブーム」が起きております。うろんな人、うろんな言動、うろんな店…うろんって、なんだかステキ。(そうか?)
 さて、本の中に出てくる「うろんな客」というのは、なんだか不思議な生き物。ペンギンみたいな体型で、鼻が長くて、靴と縞のマフラーを身につけている(表紙に出てるヤツ)。でも何となく笑いを誘うような…これだけは説明しきれないので、実際に見てもらうしかないっすね。まさしく「うろん」な姿。このうろんの固まりみたいな奴が、ある家にやって来た。壁に鼻を一晩中押しつけてみたり、わざわざ扉の前の床に横たわったり……行動もうろん。ページをめくるたびに次々と「うろん」な行動をやらかす。でも一家の人は、追い出そうとかそんなことを考えるでもないようで、17年も家に居着いている…というお話。ああ、面白さがさっぱり伝わっていない気が…。
 
 一体何なんだー!? と思ったら、謎解きの一つの方法が「あとがき」に書いてあります。納得。でも、読み方を限定せずに「うろん」をしみじみ眺めているだけでも充分楽しい。
 文章も良くて、韻を踏んだ原文も添えられているので、日本語を読んでから、原文を読むと2度おいしい。訳は五七調になってて、やや苦しい箇所もあるような気もするけど原文を見れば補えるかな。
 原文を読者が読むことを前提として翻訳をやっちゃいけないのだー!(意訳・笑) という主張をしていたのは『翻訳はいかにすべきか』(岩波新書)の柳瀬尚紀氏。これはねー、何か翻訳本を読んだとき、「なんだかよく分からなかったわ」という感想を抱いたことのある人に捧げたい。翻訳を志す人でなくても充分面白い。
 例えば、先日、ある小説の翻訳を読んでいたら、会話のシーンで「そんなジョークつまらない」とか何とかいう文章があったのだけど、何度そこを読み返してみてもどこら辺がジョークなのかさっぱり理解不能。諦めて先へ進んだ私でした。
 柳瀬氏の翻訳活動、私は大好きだ。一部には「単なるダジャレだ」とか「おやじギャグ」なとどいう批判もあるが、そーゆー人は、勝手にぼんやりとしたストーリーの輪郭しか読みとれない訳を読んでいればよろしい。
 「サウンド・オブ・ミュージック」に「ドレミの歌」というのがある。あれを原文に忠実に訳して曲にのせて歌ったところで「だめじゃん」ってコトになると思う。「♪ド〜は鹿、メスの鹿」じゃだめだろう、やっぱり。元の歌詞に鹿とはなくても「ドーナツ」と歌ってしまう方がいい。もっと良いのは、「ど」から始まる「鹿」に関係のある(鹿を意味する)単語をどーにか、探してくることだろう。英文和訳と翻訳は違うってこと。
 その、「もっと良い」をやってるのが、柳瀬氏の翻訳。
 柳瀬氏の翻訳とは、なんぞや? という人がいらっしゃいましたら、「あとがき」のルイス・キャロルの文章の翻訳を是非、見てほしい。わたしゃ、感動しましたよ。翻訳にも感動ができるのよ。それより何より、これなら、キャロルが姪っ子のアリスに話して聞かせたように、日本の子供にも話して聞かせられそうだ。こんなわくわくする翻訳は他では見られない! だから、もったいないのでここには引用しない。

 ついでに言うなら、巻末に収録されている二葉亭四迷の「余が飜譯の標準」という5ページの文章も短いながらも、ムダが無く、驚くほど得るところが多い。未完に終わってしまった『浮雲』を書いた人とはとても思えない! というのは大げさだけど、主人公が閉じこもっって尻すぼまりになっちゃった小説より、こっちの方がよほど好印象だ。(失礼?)ただし、二葉亭訳の小説は、外国なのになぜか江戸の香りが漂う不思議な味わい(笑)がある。でも、明治の人には、こうやって読んでもらうしかなかったのかも?(推論)


2001.02.03
 聖徳太子について考える。
 なぜと言われても困るけど。(笑)ただの思いつきです。
 彼が604年に「憲法十七条」を制定したのは、中学生レベルの常識。この憲法の筆頭に「和を以て貴しとなし、さからふること無きをむねとせよ」ってなコトが書いてある。10年ぐらい前に『和をもって日本となす』(ロバート・ホワイティング著・角川書店)てな野球本があったことからも分かるように、制定から約1400年を経た現在でも、この標語(?)は、殆ど健在。「仲良くしなさい」「協力しなさい」なんて説教タレられる時によく援用される。
 しかし、待て!
 聖徳太子は、遣隋使(607年)をつかって「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す…」とかなんとかいう内容の手紙を時の皇帝・煬帝に送りつけ、激怒させた(らしい)張本人。
 つまり、太子のおっさん(おっさん呼ばわり・笑)は、内に向かっては、「仲良くしろ」と言いながら、外に向かってはケンカを売っていたわけである。こんなコトでいいのか太子よ?「和」を云々するんだったら、外国とも仲良くせねばなるまい。
 だから太子は、本気で「和を以て…」なんてコトを言っていたわけではなかったことが分かるよね。国内の豪族同士の争いを止めさせ、強い国づくりをするための方便として言っていただけ。その上で、随に対等の立場を主張する外交政策に転換。その政治家としての手腕は認めねばなるまい。
 が、そんなわけで、「和を以て…」のスローガンが私に向かって発された時は、これを無効といたします。(笑)
 きょうの小倉競馬第8レースで、白毛馬シラユキヒメ(牝・5歳・父サンデーサイレンス・母ウェイブウインド)がデビューして11着だった。「白毛」というのは、馬の毛色の種類の一つで、日本で生まれたのはこれまでたったの8頭、海外でも20頭あまり、という珍馬。しかも遺伝的メカニズムは、いまだに謎だとか。これまでJRA所属馬の白毛馬は4頭いたけれど、いずれも未勝利。 SS産駒だけに、勝つところをみてみたい気がする。
2001.02.02
 今まで、このページが「読まれている」という認識が殆どなかったので、下に向かって書き加えていましたが、どうやら、お読みくださっている方も少数ながらいらっしゃるようなので、読み込みのムダを省くために、今月から、上に書き加えるようにしたいと思います。