序
合宮国(UP)第2京、市街地南部に位置する丘陵、後に合宮国最後の都市として承認されることになる第5市、情熱の国と呼ばれるこの小高い丘の上に2300年に渡り街を静かに見守るように建っているのがダイル教会。森の木々が色づき始めた3月第4週の日曜日、小雨も上がった頃、女が蛇の目片手に下駄履きで歩いて来る。少しした後、ぞろぞろと第2京市民と思われる者達が大勢の人が歩いて来る。子どもから老人まで、宮国人、魔国人、αβ星人、帝星人まで。みな面満面に朝日を浴び、優しき微笑みを頂いて。
Aug.17th,1998/Mar.10th,1999
Welcome to the Castle No.3.
DON'T DISTURB THIS GROOVE.
Doro UENO*
This story is written for the series of "welcome to the castle no.3".
Content
INTRODUCTION T:見えない U:いつかどこかで V:偉大なる人よ W:約束 X:ふたり Y:日はまた昇る Z:約束(その2) [:終戦記念日 \:迷い ]:偉大なる人よ(その2)
T:見えない
牧師が老人と何やら話し込んでいる。背い伸びをして深呼吸をしている女子、キャッチボールを楽しんでいる少年達、芝の上に仲睦まじく座っている恋人達、屈伸運動をしている中年の紳士。
「朝か」
少し離れ、木陰で寛いだ格好の男が呟いた。男は肌に陽の暖かさを感じ、吐く息の白さに寒さを噛みしめていた。何処から迷い込んで来たのか男の周りに仔犬が一匹まとわり付いてくる。「クーン、クーン」と哭く。徹夜明けに冷んやりとした朝の風に心地良さを感じながら男は朝食だったチーズをくれてやった。仔犬は余程腹が減っていたと見えて一口で平らげた。
「ふっ、俺が喰うよりずっとありがたみがあるわな」
男は無意識に呟いた言葉に苦笑した。雲の切れ間から日が差している。教会から聞こえてくる歌声に思う。「信じる者は救われる」。神か。確かに気が楽だよな。絶望なんてないんだろうな。羨ましい。少し暖かくなってきた。歌は先程から止んで2、3人が会話をしているようだ。鳥がさえずっている。一体何を話しているんだろう。雛に餌の取り方を授しているのかな。それとも恋の語らいかな? うーん、眠くなってきたなァ。ありゃ、仔犬はもうすっかりいい気分で寝てやがるわ。ったくしょうがねえなァ。男は言い終わるか終わらぬうちに眠りについた。俺は一体どうすればいいんだ?
ん? 心地いいはずなんだけど暑いな。飛び起きると風は収まり、日は頭上に輝いていた。教会に人気はない。腹が減ったな。ん、ワン公は? まあ、いいや。少し雲が出てきたようだ。街に下りようとしたとき「ウーー、ウーー」と遠くの方から仔犬の吠える声が聞こえた。森で餌でも見つけたのかな? 目を凝らすと黄色い物がちらちら動いて見える。だんだん近づいてくる。虎か? 昔魔国にいたらしいが合宮国に虎はいないはずだ。虎もチーズが欲しいか? しかし、まずいな。教会に逃げ込もうとした時扉が開いた。
「あら、洋一さん」
二人の女がいる。さっき、蛇の目を片手に歩いて来たほうの女が言った。もう一人の女はこの女より背が高い。色白でどこかの国の民俗衣装をまとっている。地球人の洋一にとってはどちらもかなり個性的な衣装なのだが、こちらの女の衣装はこの辺では見かけない物だった。2人は何やら話している。虎がゆっくり歩いてくる。その前で犬が一所懸命立ちはだかっている。犬は男を返り見て2度吠えた。背の高い女は何やら呪文のような事を唱えた。虎はすぐさま、立ち止まり座した。犬は嬉しそうに私の方へ駆けてきた。
「済みません、うちの小鉄がご迷惑掛けて」
「あの虎ですか…」
「ええ」
「紹介するわ、こちらは、幼い頃からの友人のAsahiさん。魔国の方よ」
「始めまして。第3宮殿に居候している洋一です。東京から参りました」
「お噂は、美祢子より伺っております。是非魔国にもお立ち寄り下さい。では、美祢子、先の件は検討しておきます」
女は暇を告げると虎を連れて去っていった。
「あら、可愛い仔犬ね。洋一さんの?」
「迷犬、欲しきゃ差し上げましょう」
「飼ってお上げなさい!」
「仕方ないね、こう懐かれちゃ。魔国は伝説の国と思っていたが」
「1000年ほど前に姿を隠したのよ。唯合宮国がその位置を確認できないだけ。珠に姿を現します。でもAsahiさんの家系は外交官だったから合宮国にいるのよ」
「何を話していたのですか」
「何って、時事批評かしら」
「虎は驚きました」
「ふっふっふ、あなたにも恐れる物はあるのね」
「うーん、虎さんだと死闘を極めるね。腕の1本、2本は覚悟しないと」
美祢子はしゃがんで仔犬を可愛がっていた。
「美祢子さん、私の恐れる物はね、言う事を聞かない自分、屈伏せざるを得ない事、それに強いて言えば君かな」
「あら、どうしてかしら」
「君は上述2つを克服しているからさ」
美祢子は仔犬を降ろすと腰を降ろした。
「外面からみれば、あるいはそう見えるかも知れません。時には泣きたくもなります。怒りたくもなります。誰でもそうでしょ。あなたは泣いたり怒ったりしないの」
洋一も隣に並んで坐った。地平線のすぐ上の雲と空の境界付近を凝視しているように見える。風が出て来、陽が射していた時に較べ、可成涼しい。風は強いがまだ雨にはなりそうにない。
「私は年がら年中泣いてますよ。毎日怒って、笑って、喜んで暮らしてます」
「そう? 私は本を読みます、好きな曲でもかけながら。何でもいいから片っ端から。そして疲れたら眠ります」
「で、忘れちゃう?」
「先にあなたも言ったでしょ。怖いのは屈伏する事だって。たとえ私が忘れても記憶が、文章、旋律と共にその屈辱を忘れる事はないでしょう」
「あんた凄いわ。良くできてる。脱帽です。そんな貴女にお願いがあるんですが」
「私に出来ることでしたら」
洋一は美祢子を見つめた。
「(怒るだろうな)止めときましょう」
「私から言っても宜しいかしら」
「止めましょう、重苦しい話は。美祢子さんはまだ地球を見た事はないでしょう。宇宙から見ると青い海、その上に浮かぶ白い雲……、それはもう綺麗だった。ここと同じぐらい。そう、我々、人類が現れる前までは。少しずつ、正確な時計が狂うように……。やはりそっちの方に話が行ってしまうのか。我は安らぐには罪深すぎるのか」
「それは時間が費かるでしょう、でも地球星はちゃんと元に戻ります。お金がなくたって、国土がなくたって、どうにかなります。しかしね、死だけは、地上で唯一、死だけは回復ないのです。命は、悲しみ、憎しみだけを残し、2度と戻ることはありません。この世に生を受けて生まれきた以上、人は等しく生きる権利を有します。これは、例外なく適用されます。命は尊き物です。いかなる理由があろうとも奪ってはなりません。これを左右するのは神だけです」
「地上に神は存在しないし、存在したとしても神は命を左右なんかできないだろう。しょせん神にだって限界はあるだろう。限界によって人と呼んだり神と呼んだりするのさ」
「私たちは、慣用的に神と呼んでいるだけです。生物の場合遺伝子がそれです。その組み合わせは偶然が支配します。そしてこの自然の気粉れがのお蔭で現在の私達があるのです」
「自然が?」
「詰まり宇宙です」
「宇宙が我々の存在を望んだと言うのか」
「嘗てには宙新星には金剛環銀河一の帝国がありました。最盛期には銀河内の殆どの惑星を支配します。支配を受けた星の人民は奴隷となり極地で働かされ、死んで行きました。宙新星には莫大な富が転がり込んで来ます。やがて宮国人はこの機関に気が付きます。自分達の放蕩は膨大な人の血の結晶なのだと。しかし遅すぎました。人類が絶滅した星も少なくありませんでした。生き残った人類も感情が欠如していました。私達の先祖は大変悲しみ、戦う本能を内に封印し、変身を遂げました。それが現在の魔国人と言われています。宮国人の正式な定義は魔国人と他星人の間の子です。現在大半の宮国人は宇宙の辺境に行き、残った人々の為に働いています。これで合宮国が地球星より大きな領土を有しながら、人民はたった数万人しかいない理由がお分りでしょう。あなたの目の前の女には脈々と悪魔の血が受け継がれているのです」
「なかなか出来ない事ですよ。誰だって自分が可愛い物です。素晴らしい事ですよ。そうやって過去を悔い、人のために尽くすという事は。悪魔は決して他人のために働いたりしません。『罪を憎んで人を憎まず』という言葉を聞いたことがあります。もし、嘗て合宮国が金剛環銀河を侵略したとしても、悔い改めた国を責める国はないでしょう」
「お気持だけ受け取って置きましょう。私たちは、もし宇宙の何処かで戦争が起きれば、真先に駆けつけ、双方の銃の間に立ちます。金や領土などどうにでもなります。憎しみもいずれ冷めるでしょう。それで戦争が終わるなら、私達は喜んで鉛玉を受けましょう。私達の罪はそれぐらいでは消えないのです。だからもし、あなたの国で戦争が起きているのなら出掛けて行って、あなた方の盾となります。奴隷にと言われれば奴隷になりますし、生贄にと言われれば生贄になります。私達は2度と繁栄してはならない民族なのです。『力』を内に封じ、この『力』と共に滅びるのをじっと願っているのです。外から見ればそれは素晴らしい国に見えるかもしれません。しかし私達はそう思われると思われる程心苦しいのです。他の国が貧しいのは皆私達のせいなのです。欲しい物は総て差し上げましょう。人間は決して肉食動物ではありません。野生生物が生きる為に殺すのとは訳が違います。殺さねばならないという事は決してありません。それこそは社会が間違っているか悪魔の仕業です。お願いです。もう殺し合わないで下さい。責任は私達にあります。侵略したばっかりに戦わなくてもいい物を。憎しみを植え付けたのは私達なのです」
「合宮国が過去に地球を?」
「否定はしません。私達は逃げも隠れも致しません。敵の代わりに私達を憎んで下さい。私達を殺して下さい。滅ぼされようとも、実験台になろうとも、奴隷になろうとも私達は何も言いません。死んで罪が消えるというわけではないし、死んで行った大勢の人々が帰ってくるわけでもありません。でもそれで残された人々の気が済むのなら。殺されても文句は言わないでしょう。私達よりもっと悲惨に何も言わず死んで行った人々は大勢いるのですから」
「私は軍人です。その信条の為なら死も恐れない。その血は最後の一滴まで戦う事を止めず、任務の為なら妻子親兄弟でも殺す事を厭わないでしょう。感情など唐の昔に忘れました。銃と弾が遊び相手だった。私は合宮国にとって異質な人間です。陽も射さない、空気も淀んだ地下街で来る日も来る日も銃を撃っていればいい。もう、元に戻らないでしょう。殺して、殺して、殺しまくるのが楽しいんです。そしてこのゲームを終わらせるには誰かが私の心臓を撃ち抜けばいい。もう、どっちの陣営が勝とうが知った事ではない。領土でも金でも女でもなく、誰が命令するからでもなく、唯、銃に弾があれば、向かってくる物に発射してればいいんだ。実に簡単な作業だ。今まで気が遠くなるぐらい繰り返してきた。そして繰り返していく事だろう。誰かが私の息の根を止めるまで。相手だって同じこと。たとえ戦争が終わっても我々の帰る所はない。戦場が安息の地だった。一緒に戦った者だけが仲間だった。一人消え、又一人消え、私が残った。もし戦争が終わり国に戻ってもすぐに強盗として捕まって処刑されるだろう。戦争中は必要とされても終われば邪魔物だ。我々がいなくなれば世界は平和になる。至って簡単だ。何処かで適当に戦争を起こしておけばいい。やがていなくなる。自分達が増えようと消えようと一向に構わない。唯、銃と弾と敵さえ与えてくれれば。狂ちゃってるんだ、根本的に。直しようがない。働くのが好きなサラリーマンと同じ。仕事をしないと怖いんだ。息しないと窒息するのと同じで、働いていないと死ぬと思っている。創り出した社会の被害者、可哀そうに。唯一の違いは我々には仕事でなく銃だった事だろう。別に何でも良かった、熱中できさえすれば。毎日してて飽きないような、それでいてスリリングな……、何てったって成功報酬が生だからね。尚更だった。これ以上の報酬はない。サラリーマンならすぐにでも兵士になれるかもしれないが我々はサラリーマンには戻れない。我々は金のために戦っているわけではないからね。皆、自分の命を賭けて戦っていた。
戦争をなくすには政府をなくせばいい。そうすれば我々は滅び、戦争は二度と起こらぬであろう。我々は政府を攻撃はしない。政府は我々を使い領土を広げ、替りに銃と弾を呉れる。共存共栄。但し政府が裏切れば我々は容赦しない。もし行うなら完璧に行った方が良い。失敗すれば自分の首を絞める事になる。だから決して我々には手を出さない。何百万年前から、人類が協力する事を覚えてから、我々は存在し続けてきた。そして社会がある限り存在し続けるだろう。もし政府が我々に戦闘を止めろと言えば止めるがそれは死ねという命令と同じだ。命を賭ける以上の博打があると思いますか。仲間内で殺し合いを始めるのが落ちだ。又、戦争になれば我々みたいな者が何処からともなく現れるだろう。我々は金より命の方が価値のある事を知っている。だから政府を軽蔑している。馬鹿に踊らされているんだから我々は馬鹿以下さ。精巧過ぎて狂ちゃったのさ。精巧に出来てる者には、この世界は堪えられない。幾つもの矛盾、数々の疑問、我慢は美徳ではない。努力は報われず、正直者は馬鹿を見る。金が全ての世界。まともな人間が住める環境じゃなかった。理想の世界、そう合宮国のような国、条件が全て揃うと、我々は超人的の能力を発揮する。でも一旦狂うといけない。そこには悪魔がいる。精巧過ぎて誰にも直せやしないし、誰も才能を惜しんで止めようとはしない。かと言って捨てる訳にもいかない。ほっとくと危険だ。と言うわけで人知れず最前線に送り込まれると言うわけだ。悲しいけどこれが定めさ」
「残りの全員がそうであってもあなたは違うと思います。決闘のしたい者は心ゆくまですればいいでしょう。決闘をしたがる者は心の何処かで死を望んでいるのです。そしてそれはいずれ必ず死を招きます。ですがあなたは死を望んでいるようには見えません。その証拠に今のあなたがあるのです。彼らは正々堂々と命を賭けて戦っています、そこに最高の、それこそ死でも受け入れる敬意を払って。あなたは違います。あなたは好きで戦っているわけではありません。生きるために戦っておられる。だからどんなに惨めでも、どんなに卑劣でも、あらゆる手段を講じて生き残って来た事でしょう。あなたにとって戦いとは単なる、目的への手段でしかありません。戦う事は義務ではないのですよ。無理して戦う必要はありません」
「ふふふ、思いも付かなかった。確かにそうかも知れない。我々は解って戦っているわけではない。でも戦いを止める訳にはいかない。百歩譲って止めるにしても私は今まで多くの罪のない者を地獄に送ってきた。許されるようはずはない。私の両手は彼らの返り血を浴び血塗れなのです」
「あなたの、東京市への拘りは何」
「両親かな」
「ご免なさい、孤児でしたの」
「気になさらないで下さい。我々は身内のいる方が珍しいんです。私の両親は開戦前夜東京市の中心であり、頭脳であるネットワークを死守しました。守り切れぬと悟ると彼らは自分達を道連れに、自分達で作り上げた物、子である私同様可愛かったんでしょうね、きっと、を破壊しました。敵の手に落ちた今でも再度稼働する見込みはありません。東京市は完全に死んでしまった。東京市の解放はみんなの夢だった。誰もが東京市が好きだった。でもみんな、それを見ることなく散っていく」
「あなたにはもっと他にする事があるはずです。あなたを必要とする世界があるはずです。あなたは澄んだ瞳をしています。あなたは戦場に身を置くべき人ではありません。過去に捕らわれていてはいけないと思います。あなたは意志の強い人です。楽な方へ逃げてはいけません。たった一度の人生です。私の言葉に強制力はありません。決定はあなた自身で行うのです」
「運命は変えられない物だと思う。でももし変えられるならば、あなたの言う通りかも知れない。正しい方に従うでしょう」
「安心しました」
「でも、何故合宮国に関係ない私を助けたんですか。あの東京市第3地下街57番街で私は何かに導かれるようにして合宮国へ逃げ延びた。場合によっては合宮国にも戦火が及ぶかも知れないと言うのに」
「洋一様、貴殿をずっと、お慕いしておりました」
「ずっと? ではあの時の声は矢張貴女だったんですね。ここは一体何処なんですか。そして私は一体何者なんですか」
「ふふふ、一遍に言われても困りますわ。憶えて居ればおいおい判って来るでしょう。では……」
「美祢子さん、最後に一つだけ」
「何でしょう」
「私を、上野洋一を忘れる事は出来ますか」
「…客観的に見ても、私の幼い頃の体験から考えても、上野洋一という人物は私の人格の一部を成していると私は思います」
U:いつかどこかで
美祢子は教会に戻っていった。街に下りて遅い昼食を取る。裏通りの、いつも混んでいて入れない定食屋に入ってみる。TVでベイスボールのマイナーリーグを中継していた。
「ラッシャイ」
アンドロイドのウエイトレスが水を持ってくる。
「一番安い定食は?」
「定食、安イ」
壁のメニュを見る。奥から声が聞こえてくる。
「旦那、C定、25銭」
「じゃあ、そいつを4つ貰おうか」
「4つ?…そいつに注文してやって下せェ」
アンドロイドは犬を表に追っ払っている。
「おい、俺の犬だ」
「犬ダメ、犬ダメ」
「C定、4つ持ってこい」
ブロンズは奥へ下がった。TVから歓声が沸いた。一応やっているのは野球なのだが地球の物とは少し違う。第一、女性が交ざっている。バットが細い。フルフェイスのヘルメットをしている。球が高速で自転している。余程旨く弾き返さないと前には飛ばないだろう。そのくせバッターは高下駄を履いている。ファウルでも3振を採る。すぐにどんぶり山盛りの飯が3杯と掌大の不気味な緑のコロッケが2枚載った皿が4枚来た。繁盛していると言う事はこの市民は食欲をそそられるのだろうか。見回してみたがマヨネーズはないようなので、ソースをどっぷりと掛け、コロッケを頬張る。見た目ほど悪くはない。この値段にしてこのボリュームなら列が出来るはずだ。2杯目のどんぶりを平らげていると、再び犬が吠えた。「君の手に負えない物は私の手にも負えないんだよ、犬君」。……とは言っても犬に分かるはずはなく仕方なしに席を立とうとした瞬間、銃声が響いた。
「レイザか?」
空気が膨張するミシミシと言う音が聞こえる。丼を置くのも忘れ、洋一は表に飛び出した。通りは天地がひっくり返らん許りの大騒ぎである。犬は怯まず吠え続けている。農業用2足歩行ロボットが犬に怯えている。
「誰だ? おらの墾場員を虐めているのは」
案山子親父が空に向かって銃をぶっぱなしている。通行人が面白がって足を止めている。頻りに犬に喝采を送っている。犬は洋一の見ているのを知ってか知らぬか、一瞬の隙を突いて、ロボットの頭部にかけ登った。驚いたロボットは犬を跳ね除けようとして腕を振り翳した。無情にも犬ではなくロボットの首が明後日の方向に飛んで行った。次の瞬間、待ってましたとばかりジャンク屋が群がって動かなくなった鉄屑を解体し始めた。
「止めれ、何すんだ」
案山子親父が必死に怒鳴っていたが、30分もしない内に事は済み、ハイエナに襲われたロボットの残ったフレームが悲しげだった。店に戻ると仔猫大の鼠が我が物顔にコロッケを頬張っていた。
「おあいそ」
と叫ぶと又あのアンドロイドが出てきた。1円渡すと、
「アリガトサン」
と言った。
店を出た後、何処へ向かったのか覚えていない。唯足の向くままに歩いていたと思う。時折後から犬がキャンキャン鳴く。
「未来は変えられないのだろうか」
「未来はおろか過去でさえ変えられますよ」
「美祢子さん!」
「変えられるのよ」
「しかし美佐子さんが変えられないから歴史なのだと」
「勿論総てが変えられる訳ではないわ。でないと宇宙の存在そのものを否定しかねませんから」
「では、突然星は吹き飛んだりはしない訳か」
「そうとも言えません。例えばあなたが40歳以下で亡くなったら、宙新星は宇宙から消え去る事になります」
「な、な、なんと、ではここで話している我々は?」
「いえ、今話しているこの世界は幻となります。仮にあなたが20歳で死ぬとすれば、宙新星はその時はもう存在しませんからあなたはあの地下道で死ぬ事になります。もう20歳を過ぎていますから、このまま地球に戻らなければ少なくとも40歳までは死ぬ事はありません。もし死ぬとしても存在しない物の上で死ぬ事になり辻褄が合わなくなります」
「あなたの運命は」
「分かりません。でも大体は分かっております。20年後、生きていることはありますまい」
「それは分かりませんよ」
「いえ、私は宙新星の救世主である上野洋一氏をお守りせねばなりません。もし、彼が死ぬのなら私はその前に死んでいるはずです」
「ほう、では私は40歳で死ぬのですか」
「…………」
「図星らしいですね」
「これだけはどうにもならないの。変える事は不可能なの。どうしてこんなに私が悩んでいるかお分かり? …………ご免なさい、1人で取り乱してしまって」
「このまま時間が過ぎなければどんなに素晴らしい事だろうか」
「生涯あなたにお仕えします」
「駄目なのかな?」
「確かに地球に比べ、宙新星では来る日も来る日も同じ日に見えるでしょうが、1日として前日の繰り返しはないのです。止める事が出来ないから時間であるのです。合宮国なら難なく時間を止める事が出来ます。しかし時間を止めるという事は同時に原子の振動も止めてしまう事になります。温度がなくなり、光がなくなり、音がなくなり、永遠に終わる事のない闇が訪れる事になります」
「私には他の未来は用意されてないのですか」
「例えばどのような未来をお望みなのでしょうか」
「どんなのでも叶うのですか」
「あなた次第ですわ」
「何もかも忘れて貴女と一緒に暮らしたい」
「望めばそのようになるでしょう、でもその影響により2112年に地球は消滅します」
「消滅? 戦争か……」
「恒星シリウスの第2惑星ネロの宇宙艦隊が……」
「大変だ、内戦所じゃない。早く知らせなきゃ」
「無駄ですわ。今、ネロの宇宙艦隊は幻なのです。あなたが美祢子と暮らしている過程で現実と入れ替わります。万一伝えたとしましょう、防戦を整えても現れるのが恒星アルデバランの第4惑星ケルトンの大宇宙艦隊に変わっているでしょう。分かっている事は2112年に地球が消滅する事です」
「ならば、前もって火星にシェルタを建設し隠れていれば…………」
「あるいは人類だけでも助かるかも知れません。攻め込んできた宇宙艦隊が無人の地球を破壊して、黙って引き揚げて行くのなら。どちらにしても2112年になってみなければ分かりません。計算により最も確率の高い行動を打ち出してみてもそれは1割にも満たないし、計算の途中で時間がきてしまうでしょう」
「しかし私に関する限りかなり詳しく把握しているようですが」
「私達は上野洋一の未来を既に知っているのです。ですから類推が容易なのです」
「あなたは自分の未来も分からない癖に何で他人の未来が判るんだ」
「あなたは過去に1度だけ合宮国に現れています」
「ではその上野洋一は私ではない。ここに来たのは初めてだ」
「未来のあなたです。それにはまず宙新星の特異性に就いてお話ししなければならないでしょう」
V:偉大なる人よ
宙新星は歴史上常に火種になってきました。宙新星が金剛環銀河の重心に1番近い所にある事に端を発します。何故銀河の中心にある巨大なブラックホールに引き擦り込まれないのか。古の昔から人々の興味を惹いたこの理由がどうやらこのブラックホールに蓄えられた膨大なエナジを制御しているのが宙新星だかららしいのです。故に『宙新星を支配せし者金剛環銀河を支配す』と言われます。宙新星は117年前と113年前に他国より侵攻を受けます。一度目、合宮国は辛うじて敵を退けます。しかし、二度目の襲来には持ちこたえる事はありませんでした。全土を制圧され、国土を諦めた宮国人は命からがら四次元の隣国魔国に逃れました。宙新星は時間が無限ループに入ります。終わる事のない同じ日の繰り返しです。系全体が暗雲に包まれ、合宮国外の時間で100年が経とうと言う時に進退不可能なこの合宮国に現れるのが上野洋一、詰まり40歳のあなたなのです。当時合宮国にいた宮国人は私を含め数名だけでした。戦死した祖父の墓を守る為に志願したのです。私の考えは浅はかでした。魔国を発見できずに苛立つ銀河旅団人達は宮国人を見つけては魔国の在処を問い質し、分からぬと殺しました。当時も今も魔国を捜し当てる事は不可能です。私の傍の者は次々と姿を消していき、私も捕らえられます。捕らえられていた供の者は私の素性をばらす事もなく処刑されて行きました。いかなる理由でも戦争は行ってはならないと思います。敗戦国の人民には人権はありません。また戦勝国も永遠に戦勝国であり続ける事はないでしょう。私もまた何故合宮国にいたのか、他の宮国人は何処に行ったのか、魔国とは何処にあるのかと言った事を尋ねられました。私は国防には差し障りのない事を答え、彼等を失望させました。公開裁判の後には処刑が待っていました。最後に尼のような人が来て、何か望みはないかと尋ねました。
「鳥になりたいわ」
と答えました。口では言いませんでしたが顔を曇らせた事で不可能である事が分かりました。彼女は、質問の答を予期していないようでした。大抵の者は水や煙草を所望するのでしょう。
「何故鳥なの?」
「自由に空を飛んでみたいの」
彼女はにっこり微笑んで言いました。
「きっとなれますよ」
目隠しをさせられ、壁の前に立たされた時、私は、他の者と同じく「合宮国万歳」と叫ぶつもりでした。銃が構えられ、場内が静かになった時、大王が何か言いました。目隠しを解かれた私は何が起きているのか知りたくて周りを見回していました。場内はざわめいていました。大王の前でさっきの尼が片膝をついて、お辞儀をしていました。暫くし、私の元へ来てこう言いました。
「おめでとう、あなたは自由ですよ」
「シスター、何とお礼を言って良いものか」
「智慧、お願いがあるの」
そう言って額を私の額に重ねました。一瞬だったと思います。でも途方もなく長い時間に感じられました。金剛環銀河の誕生、生命、人間、戦争、星々の消滅、未来。浮かんではすぐ消えて行きました。私は白亜の城の前庭で白いパラソルのテーブルで彼女の話に聞き入っていました。緯度の高い地方の初夏を思わせる気候のなか、斜面を上がってくる風が心地よく感じられ、黄色の大輪の花が絨毯のように遥か眼下の緩やかな丘陵の斜面にまでずっと一面に咲き乱れていました。彼女は黒髪を結い、見事に色の調和のとれた民俗衣装に身を包んでいました。
「あなたは宙新星上にいる最後の宮国人よ。宙新星は宮国人の絶滅を以てして消滅します。いい事、今日から10日以内に第三宮庭にお客様が見えます。その方と一緒に第7宮殿に行きなさい。いいですね」
「どなた?」
「金剛環銀河にとって、合宮国にとって、そして私にとって最も大切な方よ」
彼女は唇を噛み、遠くを見ていました。暫くして私はこわごわ尋ねました。
「シスターは」
「心配しなくていいのよ、智慧。私には私の仕事があるの」
銃が構えられる音がして私達は現実に引き戻されました。大王が兵士に何か指示していました。彼女はミラーポートを呼び寄せ、私を第三宮庭に瞬間移動させました。23、24世紀でミラーポートの操作が可能なのは彼女と後述の方以外いません。私は泣きながら叫んでいました。
「待って、お願い」
彼女は微笑んでいました。私は今までこんなに素敵な笑顔を見た事はないですし、この笑顔を見ている限り、人が武器を持つ事はないと確信します。そんな最高の笑顔で私に答えました。もし神が存在するのなら間違いなく彼女の事でしょう。あの状況であの笑顔をたたえていられるのはあの方以外にはいらっしゃらないと思います。 最後に、彼女は鏡港の向こうで手を振りながら言いました。
「元気でね、智慧」
この方を美祢子と言います。
当時私は母方の祖父マーティン王に名付けていただいた『智慧』を名乗っていました。今の名前は彼女の名から戴いた物です。『美祢子』、古いダイル語で『全能、絶対』を意味します。第三宮庭を地下に退避させ、森林を焼き、敵の捜索を交いくぐり、篭城する事十日目、迷い込むように一人の男が現れます。その人は私を知っているようでした。とうとう最後まで名乗られませんでした。我々は二人で、いいえ三人でしょう、敵の勢力下の第七宮殿を攻略します。封印を解かれた大時計は再び時を刻み始めます。一瞬の事でした。鐘の音と共に閃光が走り、異形の者を焼き尽くしました。美祢子さんがその方を知っていたようにその方もまた美祢子さんを知っているようでした。私はできるだけ詳しくそれまでの事をお話ししました。
「済まなかった。辛い思いをさせたね、智慧」
「でも、美祢子さんは……」
「難しいと思うけど、おじさん思うに、美祢子は智慧に未来を託したんじゃないかな。多分美祢子は智慧やおじさんや他の人が元気で暮らせる事を望んでいるんだろう。もう誰も悲しまずに済むように。美祢子の願いは時を越え、生き続けると思うんだ」
その人は、私の礼の申し出に階段に架かっているあの肖像画を描く事を許しました。そしてあなたの出現を予言し、守るよう言い、誰も知らぬ間に姿を消します。
W:約束
「その人が私である証拠はないのですか」
「ええ、でも一目見てすぐあなただと判りましたよ」
「ありがとう、未来を知る事は素晴らしい。でもあなたは薄命な人だ」
「いいえ、十分過ぎる程仕合せですわ。あなたの近くに居られるだけで」
「幸せか、考えた事もなかった。幸せとは実感する物ではなく、時の過ぎるのも忘れ、やりたい事に没頭している時が幸せなんじゃないかな。趣味とは少し違う。その前に稼がなければならない。仕事について一段落したら周りが世話してくれるさ」
「そんなのおかしいわ。男性優位社会じゃない? 人間は皆平等であるべき。チャンスは等しく与えられるべきよ。誰にどんな才能があるかなんて誰にも判らないもの。才能とは遺伝に左右されるものではないわ。その人の学んだ事と周囲の環境、努力、経験、そして一番大事な事は向いているかという事より興味があるかという事。興味こそが才能を育てます。あなたも一遍とりつかれた方がいいわ」
「自由には制約が付き物だが」
「それはあなたの懸念の通り人類が踏み入れてはいけない領域があると思うわ。でもそんな事で怖じ気づくようでは意味のない事だわ。善し悪しは後の世の人が決めればいい事。仮に暴走を始めても、友が教えてくれるでしょう。最初は何でもいいんですよ。車が好きなら車がいいし、計算機が好きなら計算機がいいし、まず自分から近づいてみなきゃいつまで経っても簡単な事が解らないわ。慎重な人は一生何もできないわ。何もしなくても70年経てばあなたはこの世から消えてなくなるのよ。たとえ爆死でもいいじゃない。まさか百歳まで生きようなんて虫のいい事考えている訳ではないでしょうね。時間は無限ではないのよ。いつまでも過去の楽しかった日々にしがみついている訳にはいかないのよ。前を向いて歩こう。もう後ろには何もないもの。誰も未来は見えない。だが恐れてはいけない。それは丁度白いカンバスのように、書きようによっては地獄にもなるし、この上ない天国にもなる。誰にでもチャンスはあるわ。自分の夢を絵になさい。絵はやがて写真になり、映画となり、実現するでしょう。その為には沢山の友を作りなさい。あなたが倒れれば何処に居ようともきっと助けに来るでしょう。あなたも友が倒れたら助けに行きなさい。同じ志の者を増やしなさい。やがて友も増え、皆が望み、実現も近いでしょう。何でもいいです。全神経を集中できる事は探しなさい。見つかれば生まれてきた意味の半分を見いだした事になります。小さな努力の積み重ねがあなたを幸せにして行くでしょう。職業、趣味は膨大、それこそ、人の数だけあります。見つけてください。必ずあなたの天職があるはずです。死ねば地獄も天国もありません。この世が地獄であり、天国であるのです。地獄にするか、天国にするか、それはあなた次第です。私はどんな援助も惜しみません。でも見つけるのはあなた自身です。私のできる事はここまでです」
「ありがとう、美祢子さん。勇気が湧いてきました。自分はやはり地球に戻るべきだと思います。あなたもそう願っている事でしょう。合宮国は地球に比べて非常に魅力あるところだ。地球で言う桃源郷だ。完璧な社会システムを持っている。東京市は実に詰まらない事で悩んでいる。欲が人類をここまで引き上げた。我々はもう欲に溺れる事なく生きて行けるはずだ。そうすればもう少し、善し悪しの区別がつき易くなるだろう。本日はどうも講義ありがとう。これは聴講料です。是非お受取ください。私には他に差し上げる物がありません。あなたが私を慕ってくださる以上にあなたを尊敬しております。あなたは私の理想を遥かに越えています。私など遠く及ばないところにいます。もし私が戻らぬ場合、形見にして下さい。運良く戻れたら……」
「戻れますよ。きっと」
「私からも、大した物じゃございませんが、宮国人は全員首から下げております。宮国人を示す物で、志半ばで倒れる事があれば、主人に変わって最後の願いを叶えます」
「何でもですか」
「何なりと。子どもに会いたいと思えば、会えますし、宇宙を破壊したくば、それもよいでしょう」
「面白いですね。不可能はないんですか」
「例外なく」
「もし私が四十歳以前に死ぬと」
「宇宙は崩壊します」
「崩壊しないように願えば」
「詳しくはなってみないと分かりませんが、恐らくペンダントは発動されません。四十歳以前に死ぬとすれば、その時は私も合宮国も存在しませんから、あなたは地下道で死ぬ事になります」
「一体どういう仕組みになっているんですか」
「私にも分かりません。五千年前からあります」
「ありがとう、美祢子さん。きっと役に立つでしょう」
「起動しない事を祈ります」
「俺は宇宙を消滅させたりはしませんよ」
「分かっています」
「あっ、成程。美祢子さんのペンダントも作動しない事を祈ります」
「呉々も態と作動させないで下さい。大変な事が起こります」
「自殺ですか?」
「ええ、宮国人には特別な力が働くので自殺は不可能なのですが、あなたは地球人だから」
「確かに生物で自殺するのは人間ぐらいですね」
「生物は自殺はしません。この不文律を冒すと、このペンダントの主は種の滅亡を感知し、銀河を創り直します」
「酷い事を」
「我々の願いを叶える代わりに考えている事を調べているのです」
「しかし医学が発達し、寿命がなくなったり、死ぬ日が分かるようになれば、自殺は増えるでしょう」
「寿命は遺伝子に刻まれており、どんな事をしても外す事はできません、ご安心を。外れた生物に意思は伴いません。又、最期がいつであるか、それを調べる事は禁じられております」
「さっき、宮国人はある力が作用して自殺ができないと言っていましたが」
「一千年ほど前は自殺者が多く、困り果てた時の王、ギガントロス五世が悲しみに対する免疫力を向上させるために、ヴァイルスの形で蒔いて収めたのです」
「決して悲観的にならないと?」
「ええ、どんなに悲惨な状況でも私たちは心の中ではうきうきしているのです。私も例外ではありません。不謹慎だと思われるでしょうがこれだけはどうにもならないのです」
「余り気にする事はないですよ。そういう人は沢山いますから。どうしてもと言うなら外せない事もないですが」
「ほんと?」
「訊きますか? 自殺したくなりますよ」
「お願いします。教えてください」
「どうしよう? なら、一つだけ忘れないでください、もしあなたが死んだら悲しむ人がいると言う事を」
「ありがとう。それは大丈夫よ」
「まず、美祢子さんの一番考えたくない感情は何ですか」
「恐怖かしら。恐怖は行動を奪います」
「じゃあ、いいですか、美祢子さんの言語、行動、動作、生活に若干狂いが生じますがよろしいですね」
「はい」
「難しくはない。恐怖を覚えたら心で悲しいと思ってください。決して恐れてはいけません」
「はい」
「悲しい事があったら恐れるのです」
「はい」
「それだけです。但し何も恐れなくなりますが……」
「何ですって?」
「別にかついでる訳じゃありません。宮国人は生まれてすぐしゃべれる。地球人は無意識のうちに周りの環境から自力で習得します。恐らく宮国人は遺伝子に言語、感情が刻まれているはずです。勿論他国語を覚えるように教育し直す事もできます。だから自殺防止を刻むとすれば感情に連動しているはずです。慣れるまで一寸経かるでしょうけど」
「ありがとう、洋一さん」
「でも本当に自殺したくなったらどうするんですか」
「悲劇は起こってしまう物。でも2度目はなりません」
「分かりました。これで条件が同じになった訳ですね。あっ、それからどんなに絶望的な状況でも決して諦めないように。希望を捨てなかったから今の我々があるのです」
「はい」
X:ふたり
「もう夕方か、都合がよろしければ食事にお誘いしますが」
「ええ、でもどちらへ」
「ちょっと待っててください、スペシャリストに聞いてきますから」
洋一は公衆電話に向かった。えーと、今日は日曜日だから清さんは……。
「もしもし、洋一ですが。ええ、今第二宮殿です。客をもてなすならどこがいいでしょうか」
「そりゃァ、洋一、第二宮殿だよ」
「あそこは駄目です。この前喧嘩しました」
「何だ、お前もか、仕方ないなァ。じゃあ、市民レストランかな」
「市民……? どこにあるんですか」
「第二宮殿の7階にある。誰を招待するか知らぬが、洋一だけだと入れないかも知れないぞ。誰か市民を連れていかんと」
「清さんでも駄目なんですか」
「何なら付いて行ってやろうか、ここは母の国だから俺は入れるんだ」
「参考になりました、では」
「誰とデートだ、洋一」
「妹さんです」
「美祢子か? 美佐子、美津子、美奈子、美和子、美枝子、美彌子、……」
「……」
「誰だ、洋一? 切りおったか」
美祢子は犬を抱いて待っていた。
「どうしたんです? 悲しそうな顔して」
「1度離れたらもう2度と逢えないような気がして」
「大丈夫ですよ、ドクトル・ジバゴじゃあるまいし」
「でも」
「さあ、スープが冷めちゃいますよ」
「ウェーン、ワーン」
周囲の人がじろじろ見る。地球人と宮国人のカップルは珍しいのだろう。美祢子は顔を埋めて泣いている。犬も傍でしおらしくしている。ハンカチを渡し、慰める。
「心配して下さってありがとう。私はこの通りピンピンしています。さあ、もう泣き止んで。みっともないですよ」
美祢子は泣き止まなかった。子どものように肩で嗚咽していた。近くに喫茶店でもないかと見回すが生憎そのような物はなかった。みんな道端の店を何かに急かされるかのように片付けている。もう殆ど真っ暗だった。警官が歩いてくるのが漸く分かった。ちょうどいい、喫茶店を訪ねようと思っていたところに向こうから近づいてきた。
「てめェら、ここで何をしている。ん? 女連れか」
第2京が夜間外出禁止だった事に気付いたが、忘れていたという言い訳は通用しまい。
「何をしているか聞いているんだ」
ええと、ここで一番偉いのは妃様だが、長期不在だし、清さんは深宇宙にいる事になっているし、……。
「実は、私たちは旅の者なんですが、本日の晩餐会に招待戴いたんですが、生憎不慣れな物で道に迷っていたところでして」
「怪しいな、署に連行しろ。それから、一応誰の食事会だって?」
「美智子様です」
「宮殿の?」
「はい」
「ちょっと待ってろ、本部に確認してみる。”ガッ、こちら138パトロール、どうぞ”」
「案内して下さるんですか、いやあ、助かった。一時はどうなる事かと」
そのとき、一軒路地裏から、「泥棒だ」という声が上がった。
「泥棒ですよ」
「分かってらい、ここで大人しく待ってろよ」
二人組の警官は素早く路地に消えた。変わって、食堂の兄ちゃんが出てきた。
「こっちですよ、さあ早く」
美祢子を背負い、犬を鷲掴みし走って後に付いた。どこかで会ったかな。でも悪い奴ではなさそうだ。美祢子は騒がなかった。寝入っているようだ。重い。どこかの大きな屋敷の勝手口から中に滑り込んだ。
「もう安全ですよ」
男は私の肩から2本にょきにょき生えている美祢子の腕を見ながら言った。
「こちらの方、美祢子さん(作者註、公には姫である事は伏せられている)でしょ」
美祢子をカウチに休ませ、勧められたテーブルに付いた。男は水割りを作っている。
「ええ、助かりました」
「あなたもお昼にお会いしましたね。洋一さんでしたっけ?」
「失礼ですが……」
「虎ですよ。Asahiさんの鞄持ちです。犬は気付いているようですね」
男の首に犬が噛みついている。
「これ、止めんか」
男の持ってきた飲み物は透明だった。ちょうど冷たい物が飲みたかったので一気に煽る。殆どエタノールだった。咳込みながら言った。
「きつい酒ですね」
「リヂッド・フレームと言う蒸留酒です。魔国は寒い所なので度数が低いと冬に凍ってしまうんですよ」
「確かに寒かろうと飲みたい物は飲みたいからな」
「あったまりますよ。但し気を付けないと、胃が凍ってしまうことがあります」
「あっはっは。しかし笑えない冗談だな」
「ですから、瓶が零度以下になるとコルク栓内に封じた水分が凍結膨張して抜けなくなる仕組みになっています。美祢子さんにもいかがですか」
「眠そうだから寝かせておきます」
「今、Asahiさんに連絡を取りましたので、じきに参るでしょう」
「ありがとう、正直言って困ってたんだ。どうしようかと思って」
「お強そうですね。それに度胸と機知もおありですし。あの言い訳は思い付きもしませんよ」
「いやァ、お恥ずかしい。しかしあなたが虎だとは驚きました」
「Asahiさんは魔国人なので傍に付いているときは虎の方が都合がいいのです」
「大変ですね、虎も」
「小鉄と言います。小さい頃、Asahiさんの父上、アーサー氏に大変お世話になりまして」
「合宮国の人ではないですね」
「ええ、故郷は魔国北西部ポトン共和国です。我が一族は通常は人間なのですが、繁殖期には虎に変態します。切れたとき、魔国人が恐竜化するのと同じです。どういう訳か私だけは季節に変わりなく変態できてしまうのですが。あれは忘れもしない魔国暦2713年初夏、異常な猿群れに出会った事から始まります。どこにでもいる尾無し猿なんですが、なんと共食いをしているのです。そして事もあろうに繁殖期で変態している我々に襲いかかってきたのです。地上に虎の敵となる動物はいません。事もなく退けたのですが、一週間もしない内に奇妙な事が起き始めました。仲間が蒸発してしまうのです。山狩りが行われました。その結果、洞窟から無惨に殺された行方不明の虎の死体と、狂った虎一頭が発見されました。狂った虎は我々に襲いかかってきました」
「狂犬病だ」
「猿と格闘した虎は大勢いました。一刻の猶予もありませんでした。村長はまだ幼かった私に魔国へ向かうよう命じました。私がワクチンと魔国人の医師を連れ、村に戻ったとき、村人は三分の二に減っていました。私はそのまま魔国に残ったのです」
「そうだったんですか。犠牲を無駄にしないでください。それが亡くなった方の願いだと思います」
「所で……」
「はい」
「美祢子さん、結婚されてたとは知りませんでした」
「私ですか? 違いますよ」
「失礼しました。どうなんでしょう」
「母国は戦争の真直中にありまして」
「珍しいですね」
「私の星では珍しくはないんだ。何か不都合が起きればすぐに戦争。商売にまでしている国すらある」
「合宮国に亡命したんですか」
「いえ、いずれ原隊復帰でしょう。結婚なんてとんでもない」
「でも一緒に居るって事は好きなんでしょ」
「だから東京に帰れないのかも知れません」
「つれて帰っちゃえば良いじゃないですか。彼女も喜ぶと思いますよ」
「戦争中じゃなければ考えますよ」
「彼女は多少危険でも一緒にいたいって思ってるんじゃないですか。必ずしも平和イコール幸福ではないですよ」
「俺には美祢子が俺を必要としているかどうか分からない。俺も美祢子を必要としているのかどうか分からない」
「少なくとも私にはそう見えましたが」
「分からない。でも今美祢子を東京に連れていってはいけないような気がする。あの戦争はどちらかが消え去るまで続くだろう」
「私には洋一さんが消え去ってはいけないと思いますよ」
「お宅は良いカップルに見えますが」
「私は魔国人でないので駄目です。魔国人は魔国人と結婚しないと血を引き継がないのです」
「んな事構うものか」
「ふふふ、そうもいかんのです。お互い悲しいところですね。そうだ。戦争の終わらせ方ってご存知ですか」
「どちらかが相手を綺麗さっぱり消し去ってしまうしかないね」
「それでは他の国との新たな戦いを引き起こすだけであって解決にはなりませんよ。それより最高責任者同士で喧嘩をさせるのが一番です」
「ほう、実現性はともかく、おもしろそうだな」
「特に素手で戦わせると見物ですよ。実に醜い争いです。人民も憎しみなど忘れてしまいます」
Y:日はまた昇る
同刻、第二宮殿七階市民レストラン。
「あの、お客様、そろそろ日も暮れましたので閉店とさせて戴きたいのですが」
「そう? 遅いな洋一は。誰を連れてくるか楽しみにしていたのに。逃げるとは卑怯な。電話を頼む」
「03・3XXX・XXXX」
「第三宮庭です」
「洋一君は居るかな」
「どちら様でしょうか」
「(ウーム、)第二宮殿のものなんですが」
「そちらの宮殿に出かけたきりですが」
「もう夜ですよ。第二宮殿では夜は出歩けないんです」
「おかしいですね」
「美祢子さんは?」
「申し訳ありませんが、姫の所在を申し上げることは出来かねます」
第一宮殿
「姫ですか? ここにいない姫は第一王女の美智子様か第二王女の美祢子様ぐらいですよ」
第二宮殿ポートドア
「美祢子さんですか。朝入国されてますが。はい? 教会じゃないですか。よく篭もられますから」
ダイル教会
「美祢子さんは二時に帰られましたが。魔国代理店を当たってみては?」
魔国代理店
「昼過ぎに別れたきりですが。洋一さんという方が一緒でしたよ」
洋一から電話があったのが六時。まさか。
「はい、第二宮殿夜警局」
「第三宮庭の者だが、そちらで美祢子と洋一と言う者が行方不明になっている、至急捜索して呉れ」
「美祢子様がですか?」
「そうだ、これは一刻を争う」
「そういえば七時前に怪しい二人連れが居たそうです。何でも美智子様の晩餐会に出席するとか」
「んな馬鹿な。そいつらだ。どうした?」
「泥棒を追跡している間に見失ったそうです」
「馬鹿者、早く捜せ」
まさかとは思うが地球に向かったんじゃあるまいな。しかしミラーポートは洋一は通れるとしても美祢子は難しいし、魔国か? 魔国は大戦前から閉鎖されているし、また消えましたじゃ、親父にどう顔向けすりゃァいいんだよ、ったく。
「あっ、気が付いたわね。動いちゃ駄目よ、暫く休んでなさい」
「Asahiさん? 私どうしてたのかしら」
「初めてだったわね。ここは魔国大使邸、旧王立図書館の裏よ。知られてないけど、この一画は魔国街で例外なく宮国人は入れないわ」
「洋一さんは?」
「隣の部屋よ。呼んでくる?」
美祢子は頷いた。
「分かったわ。待ってらっしゃい」
「もう元気ですね、美祢子さん。横になってて下さい」
「もう大丈夫よ。肩貸して下さる?」
「歩けますか?」
「美祢子、大丈夫なの?」
「ありがとう、Asahiさん、大丈夫よ」
「でもまだ顔色が余り良くないですね」
「食べれる? 軽く食べといた方がいいわ。いざと言うときに」
「はい?」
「あなた方二人は合宮国から追われているのよ」
「何故なの? 洋一さん」
「不図した事から合宮国上から消えてしまったんです」
「でも心配はいらないわよ、美祢子。私にいい考えがあるの」
「ありがとう、Asahiさん」
「話は洋一さんから伺いました。あなた方には少し休息が必要ですよ。もし良ければ魔国へいらっしゃい。後の事は私に任せて」
「私はOKです、美祢子さん」
「魔国なんて……」
「大丈夫。地上の魔国よ。どうかしら」
「なら……」
「そうと決まったら緩っくりしていられないわ。まずは食事食事」
「ご免なさい、洋一さん。東京市に行かれるのを邪魔したみたいで」
「今は忘れましょう。いずれ時機は来ましょう」
「いい事、美祢子。一応命がけよ」
「はい」
「二人とも魔国人になってもらいます」
「地球人」
「宮国人」
「魔国人よ。行商の格好をして街を出てもらいます。途中まで小鉄がお供いたします。川を遡ってトロク滝まで行って下さい。滝の裏側に地上魔国の入り口があります。しかし入り口は国境ですからここを通らねばなりません。サンズン市には連絡済みです。あなた方そっくりの者が2週間前合宮国に入国していますのでその二人になりすましてもらいます。はい、パスポートよ」
「Asahiさん、何から何まで……」
「ほらほら泣か(?)ないで。まだ魔国に入国した訳ではないのよ」
無事を知らせといた方がいいんじゃないかしらという美祢子にAsahiはほっときなさい、人が何しようと自由じゃないのと言いくるめていた。
合宮国内はくまなく捜索されていた。二度目だから油断していたのかも知れない。一週間しても二週間しても手がかり一つ掴めなかった。東京市に行ったのかも他星に逃れたのかもまだ生きているのかも判らなかった。蒸発してしまったと言うのが正しいだろう。二人はまんまと合宮国を脱していた。サンズン市市庁舎はすぐに見つかった。
「至急ルイス市長とお会いしたいのだが」
「氏名、住所とご用件をお願いします」
「洋一と美祢子だ。第三宮庭から来た。用件は在宮魔国大使館より伝えられているはずだ」
「少々お待ちを」
女性職員が階段を上って行った。通りに人は疎らだ。商店も殆ど開いていない。映画のセットを彷彿させる造りだ。ここに辿り着くまで馬で15日、かなり北部に来ていた。通りを誰も歩いていないので守衛が建物に入ってきた。
「今日はまた一段と冷えますな。また逆戻りですかな」
軽く会釈する。美祢子は席を立った。トイレかな?
「どちらからお越しで?」
「合宮国です」
「また遠いところから。お疲れでしょう。緩っくりしてらして下さい」
「はァ」
「失礼だが君らは夫婦かな」
「いいえ」
「積もりはあるのかね、君は」
「わたしはともかく美祢子さんは忙しいので無理でしょう」
「それは知っている。君はどうなのかな」
「・・・?。できれば一緒にいたいですね。たとえメフィストフェレスに魂を売り渡そうとも」
「そうか、それはよかった。お主らは決して離れてはいかん。よいな」
「ふふふ、あはははは、失礼。説明が足りなかったようですね。私には不眠不休で一千年働いても片付かない仕事があるのです。それが片付かんうちは」
「んなもん、君がやらんでも他の者がやるさ」
「何者にも拘束、抑圧されず、自由に生きる人の集まり、東京解放天国。史上初の人民の国にして、今、最後の砦となろうとしているこの国が私の故郷です。誰の国でもない。私の国だ。たとえ最後の一人になろうとも私は全宇宙に誇れるこの国のために戦う」
「もしも彼女も君を愛しているのなら、君は仕事のせいにして彼女の愛を拒んでいる事にならないかな」
「美祢子さんが私を愛しているとでも言いたいんですか。この最低な人間を」
「好きになってしまえば関係ない。少なくとも儂には彼女が君を愛しているように見えるがな。分からんかね。察してあげなさい」
「分からぬな。貴様が何か私にしてくれるとでも言うのか」
「儂が言うまでもなく、それは君が一番分かっているはずだよ。では」
「お名前を伺ってませんが」
「生きていればまた会える」
「お名前とは思えませんが」
初老の警備員は手を振りながら扉の向こうに消えた。受付の職員はまだこない。きょろきょろしながら美祢子が降りてくる。いつの間にか真紅のドレスに着替えている。
「綺麗だ。薔薇のようですね、美祢子さん」
「ありがと、魔国の正装よ。上を見てきたんだけど、ここ、魔国じゃないみたい」
「ご、合宮国?」
「違うわ。よく分からないけど、生命の息吹とでも言おうか、人の気配が感じられないのよ」
「機械だけとでも?」
「微かにだけど、ギヤの歯音が聞こえない?」
「あれ、表に歩いているのはAsahiさんじゃない?」
「良く似てるわね。でもAsahiさんじゃないわ。魔国人はみんなあんな風よ」
「でも手を振ってるよ」
「うそよ、そんなことって在り得ないわ」
「本物のAsahiさんなの?」
「あれは映像よ。着いたばかりのときに見たわ」
階段を降りる途中で巨大な建物がふっと消えた。歩いていた階段も手摺も、道も商店も何もかもが消えてしまった。放り出されるように前のめりに落ちた。余り重力に逆らう事は心臓に良くない。すぐに激しい痛みと共に叢に落ちた。一息いれる間もなく美祢子が背中に降ってきた。サンズン市に何か起きているようだ。まさか合宮国が。
「痛たた、おおい、美祢子だいじょぶか」
広い草原だ。少し肌寒い。暮れかかった陽がやけに印象的だった。
「いったい何なのよ、失礼しちゃうわ。ドレスは破けるし」
いかん、美祢子のオヤダイに火が付きかかっている。
「仕方ない、野宿でもしましょうか、美祢子さん」
「馬鹿言わないで。内陸よ。夜になればすぐに零下二十度よ」
「でもさっきのが幻だったでしょ。何でこの草原が幻でないって言える?」
「構いませんよ。再び起きれなくなっても宜しいのでしたら。無理に止めはいたしません。唯、私はご免だわ」
「もう起きれないのか、じゃあ……」
「何?」
「XXXXXXXXXXX。XXXX、XXX」
「! なんて呆気な……。ご免なさい。恐いの。あなたを失うのは。私は宮国人だから薄いドレス一枚でも厳冬の大陸横断ぐらいはできるけど、あなたは地球人だから」
「生き残れたら結婚しよう。いいよね、美祢子」
「光が見えるわ。行ってみましょう」
宮国人の感情には付いて行けそうにない。美祢子は荷も持たずに駆け出して行った。旅行鞄を集め、後を追う。馬は、朝になれば出てくるだろう。ああ、なんて楽しい新婚旅行だろう。常緑の大木が生い茂る森の奥深くへ入って行った。足元も何も真っ暗闇で何も見えない。おおい、美祢子、どこ行った? 漸く近くまで来てみて分かったのだが、ここは魔国ではなかったようだ。虎の村だった。子どもの虎がいるところを見ると、小鉄とは違う種類の虎らしい。
「喰われるか凍死するか、選択が増えたわけだな」
「黙って」
足音も立てずに近づいてきたのは美祢子だった。
「どうしよう、人喰いかな?」
「ええ、1グループで約十頭。鍋を炊いてるわ。誰か捕まっているんだわ。見てきます。ここを動かないで」
音もなく闇に消えた。美祢子は忍者か? いるいる18頭かな。小鉄みたく人間にはなれないだろうな。足は速いし、木は登れるし」
「おい、ここで何してる」
「何ってみれば……。えっ、虎がしゃべった」
「お前だって猿のくせにしゃべれるじゃないか。来い」
洋一は衿をくわえられずるずる引摺られて行った。他の虎が大歓迎してくれる。食べても旨くないぞォ。
「おい、何者だ。おめェ」
鍋の横に座らされた。ボスらしき虎が言っている。
「魔国人だ。道に迷った」
「馬鹿言っちゃいけねえ。魔国人がそんなに弱々しいか。まあいい座れ。連れは何人だ」
「俺一人だが」
「愉快な客だな、デイブ」
「全くでさあ、ケント。魔国人は落ちつきがなくっていけねえ。その点黒髪はおもしれえ」
「俺は客なのかな、ケント」
「勿論さ、黒髪。お前さんは今日の大事な客だ。メインディッシュと言う名のな」
「黒髪じゃない、俺の名は洋一だ」
材料がスープの匂いで腹を空かしているのも情けない。
「なァ、洋一。ここはな、元来虎の土地なんだ。そこに開拓だなんだとぬかし、先住民を迫害する。こりゃあよくねえ事だよな」
「ああ、その通りだ、ケント」
「だからよ、陽が昇ったらすぐに村を襲ったのさ。あっという間だったな。建物が消えるように壊れて行った。だからお前さんの探してる村はないんだよ」
「別の村はないのか」
「ない事はない。ここから北へ150kmの所に石で囲まれた頑丈な都市、フリッガーがある」
「喰う気か?」
「人は食べても旨くない。だが腹も減ればそれも致仕方ない。俺らに危害を加えそうには見えないからお前さんは逃がしてやってもいい。あんたの連れを連れて来な」
「いないと……」
「俺の目は節穴じゃないぜ。あの青い髪の女だ。あいつは何者だ。俺ら虎が追いつけん」
「村人はどうした」
「殺してはいない。何人かはフリッガー市に向かったが、徒歩では1週間はかかる。残った者も寒さは防げまい」
「残念だったな。話の分かる奴らだと思っていたんだが。森の入り口に魔国の精鋭部隊が待ってるよ。君らは幻を壊したんだ。話し合いは終わった。じゃあな」
「何を訳の分からぬ事を言っているんだ、騙されんぞ」
「めでてえ奴らだな。まだ分からぬのか。お前らが町を壊しているとき誰か抵抗したか? 町が壊されるのに黙っている奴らいると思うか。あばよ、ケント。暇潰しにはなったぜ」
「待ってくれ、洋一さん。俺らは唯、自分達の土地を守っただけなんだ。信じてくれ。本当なんだ。好きでやった訳じゃない。植樹された針葉樹林じゃ食い物も手に入んねェんだよ」
「もう少し早く言って欲しかったな。合図はもう送った」
「何も知らない子ども達もいるんだ。見逃してくれ。頼む、洋一さん」
「俺を左遷させたい積もりか。分かった、分かった。そこまで言うんだったら、俺も男だ。機会をやろう。この森から10km以北は虎の自治区として認めよう。南には入るな。魔国人も北には入らない」
「すまねえ、恩に着る」
「感謝するのは逃げ延びてからにしろ。追跡に手心を加える積もりはないぞ。さあ行け、もう時間はないぞ」
「おい、みんな行くぞ」
単純な虎さん達で助かったな。ありがとう虎さん。すっかりスープが煮えてますな。がさっと後ろで物音がした。美祢子ではない。洋一は心臓が止まりそうになった。振り返る勇気はない。
「おお、人じゃ」
老人がいる。サンズン市民らしい。ぞろぞろ出てくる。
「どちらさんで?」
「おお、火じゃ、暖かい」
「勝手にやってて下さい」
美祢子が心配になって森を抜け、草原に探しに行く。月が出ていてとても明るい。草が動いているのが見え、すぐに美祢子は見つかった。
「大変だったんですよ。虎に捕まってしまって」
「おじさん誰?」
魔国人の子どもがおびえていた。
「寒いぞ、焚火に当たろう」
「ううん、ここにいるの。約束したの」
「げっ、美祢子か。村人がやばい」
全速で戻る。途中2、3度木の根に引っかかって転んだ。頼む、間に合ってくれ。焚火に映る刀をふりまわしている奴が目に入った。
「やめろ、美祢子。虎じゃないんだ」
羽交い締めにしようとしたが振り解かれ、木に叩き付けられた。火に映った者は美祢子ではなかった。こいつは一体?
「化け物め、何て馬鹿力だ」
洋一は切られかかっている村人を助けるため、両手で刀を受けとめた。緑色の鱗を持つ蜥蜴みたいな生物は長い爪の生えた足で洋一を蹴った。木に叩き付けられ、振りかざされる刀を右手で払おうとしたが、右手が上がらなかった。首を振って紙一重で避けると刀は深く幹に刺さった。木を背に、蜥蜴の腹を蹴り飛ばす。仰向けに転がっている内に刀を引き抜こうと試みたがびくともしない。蜥蜴はかみつこうと牙をむき出し、襲ってくる。洋一は根に足を取られ、転ぶ。蜥蜴が屈んで腹にかみつこうとした時、洋一は土を掴んで目に投げつけ、転がって蜥蜴の横に逃れた。蜥蜴は、洋一が居た根にかぶりついて離れない。徐に刀を抜くと倒れた蜥蜴に跨り、背中から心臓に刀を突き刺そうとした。そのとき誰かが怒鳴った。
「殺すな、そいつは人間じゃ」
「人間?」
洋一はそのまま崩れ落ちて行った。
「大丈夫か、ユーリーだ」
痛みに気がつくと医者らしき者が介護してくれていた。
「さっきのはなんだ」
「知らなかったのか、魔国人は本当に怒ると恐竜に戻るんだよ。たぶん君の……」
「死んじゃったかな?」
「刀も跳ね返す身体だ。心配いらない。ほっときゃ人間に戻る。死にそうなのはむしろ君の方じゃないかな」
「何だ、恐竜になれるんだったら虎ぐらい撃退してくれよ」
「君が虎を退治してくれたんだってね。ありがとう。村人に変わってお礼を言うよ」
「美祢子は?」
「君、洋一君だろ? 話はAsahiさんから聞いてるよ。すまんな、折角来てもらったのに町は瓦礫の山だし。おまけに虎退治までしてもらって」
「美祢子は?」
「向こうで寝てると思うよ。変態は身体にかかる負担が大きいからね」
「行かなくちゃ。傍についてなくちゃ」
「動かない方がいい。でないと二度と逢えなくなるよ、その美祢子さんに」
「そうだ虎が、……。僕が合図したら一斉に恐竜になって下さい」
「よっぽどの事でもない限り無理だ」
「虎が戻ってきます」
「何?」
「暫く休みます」
「おい、洋一君。合図は?」
「夜明けまで恐竜になって暴れてて下さい。序でに建材用に木も切り倒して置くとモアベター」
「おおい、みんな、大変だ。虎が攻めてくるぞ」
敗走する虎の一団では
「何か変じゃありませんか、ケント」
「何が?」
「魔国の精鋭部隊って誰か見ました?」
「アホ、目立つような精鋭部隊があるか」
「でも……」
「確かに奴は魔国人じゃなかったな。黒髪は魔国人にはいない。あいつは南の合宮国という国の人間に違いない」
「ちっ、一杯喰わされたな。何が精鋭部隊だ、ふざけやがって」
「何の音だ? おい、デイブ。些と見てこい」
「ケント、たまには自分で行ったらどうだ」
「なんだあの叫び声は?」
「木が、ケント、見ましたか? 木がなぎ倒されてます」
「ゴ、ゴジラだ」
「逃げましょう、ケント。本当だったんですよ。あの男の言った事は。5、60頭はいますよ」
美祢子が目を覚ましたのは昼前だった。昨日は夢の中に洋一が出てきてご機嫌だった。私どうしてたのかしら? 何もかも夢だったんだわ、きっと。町もあるし人も大勢いるし。
「おはようございます」
「ご苦労様……、きゃーーー」
「どうしました」
「来ないで、お願い」
「あっ、これですか? 変態が解けないんです。あなたと同じ魔国人ですよ」
「は?」
みんなで森の木を切り倒して町を再建している。恐竜だと少し動きにくそうである。なれれば大した事はない。しかし木を担いだり、家を組み立てている恐竜を見ているとかかる違和感はぬぐい去れない。
「洋一さん知りませんか」
「変態しない人かな」
「そ、そうね」
「向こうで寝てますよ。少し怪我をされてるんですよ」
「一体昨晩はどうしたのかしら、思い出せないわ」
「あなたの恐竜姿も素敵でしたよ」
「私が? だって私宮国人よ」
「嘘だと思うんでしたら、洋一さんでしたっけ? 聞いてご覧なさい」
町は殆どできあがっていた。風がなく蒸し暑い。
「らん、らん、らん、洋一さん?」
「うーん、うーん、うーん」
「大変血が止まらないわ」
美祢子のドレスよりシャツが真っ赤になるほど血に染まっている。脈は150を越えていた。体温も40度を越えている。
「生き残れたら結婚しよう。いいよね、美祢子」
美祢子の頭の中では昨日洋一が言った言葉が巡っていた。
「お医者様は?」
「ユーリーが治療したんですが、虎に破壊され満足に機器がないので。不便ですね、宮国人は」
「洋一さんは地球人なのよ。生きているのが不思議なぐらい。無線機は? 何もない? これじゃあ……」
「わ、分かりました。フリッガー市に行ってもどうにかなるとは限りませんが、背中に載せて下さい。恐竜なら3時間ぐらい走っても平気ですから」
「ありがとう。洋一さん、しっかり。必ず助けるわ」
「……」
「通常、我々はフリッガー市に入れないんです」
「?」
「純度が低いんですよ。だから我々は魔国人よりむしろ宮国人に近いんですよ。見えてきました、あれです」
丘の上に造られた城塞都市だった。周りには深い堀が巡らしてある。
「開門、重傷者がいる。一刻を争う。開けなければ打ち破りますよ」
城壁の上には市民が集まり始める。警備兵が市民の立ち入りを規制するが止められない。
「外魔人に告ぐ、開門は10時より5時までである。……」
「言っても無駄なようですから」
「打破っちゃいましょう、美祢子さん」
「アルバ、表が騒がしいようだが」
「はっ、ペトロ市長、サンズン市の外魔人が重傷者の手当を求めています」
「この前は軍隊を出してくれといっておき、今度は治療か、放っておけ」
「しかし、4人の内2人は恐竜化しており、このままではフリッガー市が危険です」
「何? すぐ開門しろ、手は出すな、連中の好きにさせておけ」
十分戦車が4両は通れそうな跳ね橋が下り始めた。城壁の上にいた見物人達は先を争うように階段に殺到した。門の内からは大砲が顔を出したが、ずるずる橋上を横滑りし、橋の鎖を引きちぎって掘りに沈んだ。装甲車がじりじり後退している。美祢子は脇目もふらず城内に入っていく。城内は騒然としている。美祢子は弧を描き後退する警備兵に怒鳴った。
「病院はどこです?」
警備兵は総崩れとなり我先へと逃げ始めた。一人12、3歳の若い兵が銃を構えている。
「無礼者、丸腰の人間に銃を向けるとは何事ですか」
青年はびくっとし、ずれ落ちた帽子を直すと銃を肩に掛けた。
「近衛第二師団のウォルフだ。市民がおびえている。これ以上の侵入を禁じる」
「第三宮庭の美祢子です。怪我人がおります。治療機器を拝借させていただきたいのですが」
青年は物腰の柔らかさに感心し、市長なら絶対真似できないと思った。
「失礼いたしました、美祢子様。ご案内しましょう」
5人の後から、市民がおっかなびっくり連いていく。ウォルフ以外に兵士の姿はない。
「アルバ、連中はどうなったんだ」
「はっ、ボーマ・ノースヴィル病院を占拠中です。パスト兵長によれば、完全に包囲したそうですが、大砲1門に装甲車を奪われ、多数の市民が捕らわれているとの事です」
「ええい、たった4人に何をしているのだ。イワンを呼べ」
「イワンを出すんですか」
洋一は昏睡状態に陥っていた。止血をし直し、酸素吸入を措置すると、美祢子は血液を探していた。
合宮国には見慣れない構造の病院だった。12、3階はあるガラス張りのコーン型の病院棟は病室だけでなく手術室からも総て外が見えるようになっている。手術室はドーナツを切った形をしており、入室すると正面の一面がガラス張りで外が見えるようになっている。ガラスの向こうは控え室になっており、身内、知り合いはここで手術を見守る事ができる。控え室の向こうは外周廊下である。病室を挟んだ外側には円周状に廊下があり、その外に緩やかに下ったバルコニが配してある。バルコニからは城内はもとより遥かの山々まで一望でき、外壁は小さな黄色の花の咲いた蔓草がコンクリートを覆いかくしている。晴れた日は2時間に1度、蔓に水をやるために貯めた雨水を使って噴水が湧くようになっている。屋上はガラスのドームで、内に設置された上向きのらっぱ型半反射ミラー、ブライトン・ベレが常に太陽を捕らえ、中央に配されたエレベイタと階段に光を供給している。ブライトン・ベレは昔あったのカンパニールの記念に設けられ、当初は時報替わりに美しい音色を奏でていたが、入院しているときぐらい時間に捕らわれたくないと不評を買い、合宮国の鐘同様無用の長物と化している。ドームとエレベイタ、階段は独立した建物で、渡り廊下で内廊下につながっている。この階段は2本あるエレベイタを8の字に取り囲み、下に行くに従って幅員が拡大する。1階には大きな木と噴水があり、繋がっている表の池から錦鯉が餌をもらいにくる。地階はない。変わっているのは建物だけではない。見舞いに訪れた人や病人、医者より健康な人の方が多いのだ。散歩にきているカップルや、写生している美術学校生、バルコニは小学生の鬼ごっこの場と化している。明らかに医者は嫌い、早く退院したいと思っている人の多い合宮国とは違う。4次元にある本国からも態々やってくる。ここの建設費や維持費がそのまま治療費に上乗せされるだろうと思っていると、合宮国のより安い。決して安い物を造るのではないので、細部にわたり検討し、何百年も保つ物を造るのが秘訣だそうだ。医療は商売ではないと言っていた。
「良い病院だなァ」
「あっ、洋一さん、起きちゃいけません。手術の途中です」
「信行、康夫は? さっき俺を呼んでた」
「美祢子さん、ちょっと来て下さい。洋一さんが気が付かれたんですが」
兵士が付いている事もあって、手術室の周りには人だかりが出来ている。みんな恐竜姿の魔国人が珍しくて仕方ないようだ。唯美祢子の周りには近づこうとはしなかった。
「ウォルフさん、γの129〜418、δの21〜94、αβの23の血液を探して頂戴」
「はい、美祢子さん」
美祢子は人をかき分け手術室に入った。洋一がトリケラを張り倒して出かけようとしていた。
「信行、貴様血迷ったか? すぐそこまで敵が来ているのに怪我がどうしたって? 死んじまえば怪我もへったくれもねェ」
「寝てなさい、洋一。あなたは重傷なのよ。このままでは死んでしまうわ」
「あっ、美祢子さん。洋一さんの様子が、ゲリラだの敵だの戦争だのって、出撃するってきかないんですよ。一体どこにこんな力が」
「心配ないわ。麻酔で一時的に昔の記憶が甦っているだけよ。身体に致命的ダメージを受けたり、麻酔で脳に刺激が与えられると起こる幻覚症状。人生の中で精神的極限状態にあったときの記憶が復元します。しかし魔国人や宮国人でもないのに意識が戻るなんて信じられないわ」
「みねこ? 美祢子って言うんだ、君は。気になってたんだ、なんて名前なのかなって」
「幻覚を見ているときでもちゃんと美祢子さんの事は覚えているんですね」
「良い旦那じゃないですか」
「おかしいわね、そんな器用な事はできないわ。聞いたところ、私と出会う以前に戻っていると思うんだけど。ねェ、洋一さん、何で病院にいるの?」
「父さんが重体なんだ。母さんは認めないけど、狙われたにちがいない」
「美祢子さん、ウォルフです。血液はありませんねェ。人工血液ではダメですか」
「洋一、あなた寝てないでしょ、少し休みなさい。誰もこないように私が見張っているわ」
「俺は男だ。たとえいかなる状況下でも女に事を頼んで自分が休む事はできない」
「なら美祢子を一生守って下さいまし」
「一生と言わず永遠に守ろう」
「おっ、言った、言った」
「嬉しいわ、洋一。でも今は休みなさい。客観的に見てもその方が良いと思うわ」
「美祢子がそう言うなら。でも一度寝たら二度と起きれないような気がするな」
「ちゃんと起こしてあげるわ。おやすみ、私の洋一」
「おやすみ、美祢子」
「仲がよろしいようで。アロです。どうも様子がおかしいですね、軍が包囲を解いています。と言って市民に避難を呼びかけるでもなし」
「ウォルフさん、アロさん、トリケラさん、2、3時間洋一さんをお願い。合宮国に帰って血液を取ってきます」
「一体どうやって行くつもりですか?」
「この規模の都市なら航空機を所有しているはずです。洋一さんは精神的に危険な位置にいます。もう一度悪夢を見れば立ち直れなくなるでしょう」
「旦那のために飛行機ぶんどって助けようってんですね。いいでしょう、私も手伝いましょう。合宮国なら何度か行った事がある」
「私はトリケラと共にここを守っていましょう」
美祢子とアロは医者に変装して飛行場に向かった。二人を目で後を追っていたウォルフは不思議そうにトリケラに言った。
「どうも静かすぎる」
「それより早く洋一さんに人工血液を輸血しよう」
「うわっ、来る。美祢子、早く逃げろ」
「分かりましたよ、洋一さん、じっとしてて下さい」
「来る? 何が来るんです」
「敵だ。ロボットだ。何十何百という数だ。早く逃げろ」
「いいですから、ウォルフ、押さえておいてもらえないか」
「本当に来るのかも知れない。洋一さんは何度もひどい戦いを切り抜けてきたと聞く」
「来る? 何が?」
「まさか、赤い犬が? 間違いない。美祢子さんが出かける前に早く気づくべきだった。うかつだった市民が大勢いるから安全だと思っていたが何で包囲を解いたのかが」
「イワンか? サンズン市でも聞いた事がある。あの部隊は余りに危険すぎて解散したはずだ」
「どこから来ますか、洋一さん」
「北だ」
「美祢子さん達大丈夫かな」
「トリケラ、移動するぞ、ぐずぐずするな。俺らは判断を誤ったかも知れない」
「美祢子さん、先に行って下さい。連けられてます」
「野良犬かしら」
「こいつら唯の犬じゃない。あなたは今、人間だから。後から行きます」
「分かりました、お願いします」
飛行場まできて美祢子は目を疑った。さっきの犬が30頭ぐらい屯している。私の心が読めるの?
「すみません、私犬ダメなんですけど、どけてもらえないですか」
犬が立ち上がり唸りだした。
「恐がるから警戒するんですよ、お嬢さん。こら、向こうへ行け」
警備に当たっていた50過ぎのガードマンに犬が飛びかかった。横にいた若い警官が笑いながら警棒で追い払おうとして首を咬まれる。本国への旅行者達が逃げまどう。危険を感じ、警備員達は銃を抜いた。美祢子は入り口を抜け整備場へ急いだ。ホールでは警備員達の叫び声と、撃てと言う声が響いた。地下の格納庫には埃のかぶった小型のプロペラ機が置かれていた。
「珍しいわね、αβ国製なんて。燃料入ってるじゃない。まだ使っているのね、これ。取り敢えず片道1500km飛べればいいわね。GPSは? 点火カートリッジは。遅いわね、アロさん」
美祢子は格納庫の入り口を開け始めた。入り口はロビーに続いていた。犬を片づけ終わって警備員が怪我の手当をしていた。警官が何人か調査している。警備員の一人が美祢子に気付き言った。
「さっきの……」
美祢子はあわてて複葉機のエンジンを掛け飛び乗った。
「ど、泥棒!」
警報が鳴り響いた。静まり返ったロビーが再び大騒ぎとなった。
「ご免なさい、どいて」
転回して翼に飛びついた警備員を振り落とすと器用に人を避けながらロビーを抜け滑走路に向かった。しかし今度は旅行者は拍手喝采である。追跡機を出せ、面子丸つぶれの警官が怒鳴っている。
器用に滑走路の飛行船を避けながら小型機はあっという間に上昇すると病院の周りを2回旋回した。
「あれはなんだ、アルバ」
「空港からだと、サンズン市の女が小型機を奪って逃走したそうです」
「馬鹿もん、すぐ撃ち落とせ」
「お任せ下さい、対空砲で撃ち落とします。追跡機も発進中です」
小さな飛行機が軍を翻弄しているので市民は大騒ぎだった。ウォルフ達は宮殿のなかの一に身を潜めていた。通りには空中戦見物の市民が大勢いた。犬に襲われないのは助かるが身動きも取れなかった。
「いともあっさり飛行機を奪取するとはな」
「思い出した。あの人は合宮国の王女だよ。第三宮庭の美祢子といえば合宮国では知らない人はない。在宮大使館のAsahiさんが知り合いがくるから言ってたから誰かと思っていたが」
「王女? あれが? 魔国では考えられんな」
「ここ百年で合宮国が魔国より発展した理由の一つだよ。別に王女だからと言って特別な扱いはない。それにあれぐらいできないと信頼は集められないな」
数十頭の犬に囲まれ、変態が解け、肩から血を流しているアロが呟いた。
「上手くいったか、しっかりな、美祢子さん」
飛行機のエンジン音を聞きながら俺もここまでかと思っていると不意にやな予感がした。「まさかな」
エンジン音は次第に大きくなり、機影が判然と見えてきた。犬も我慢しきれなくなって逃げ去った。翼ぎりぎりの煉瓦の道に、とんぼが枝に止まるように複葉機は舞降りてきた。
「アロさん、大丈夫ですか?」
上空では追跡するはずの飛行機が対空砲に狙われていた。
「先に行ったら良かったのに」
「素直じゃないですね」
市民が駆け寄ってきて、降りてこようとした美祢子に握手を求めている。アロは市民に後部座席にかつぎ込まれた。
「お怪我は?」
「ああ、骨に異常はないと思う」
翼は再び大空に舞い上がった。
Z:約束(その2)
「アルバ、私を何度失望させれば気が済むのだ」
「はっ?」
「ペトロ市長、小型機の鋭尾鋭所作動中、合宮国に発見された模様です。城の迷彩完了まで25分」
「亜、亜空間へ移動しては」
「もう遅いわ。後数分で合宮国の爆撃機が到達するだろう。君の首だけでは済まないんだよ」
市長の横では通信員が必死に本国を呼び出していた。
「Asahiいるか? 奈保子だ」
「こんにちは、奈保子。珍しいわね、ここに現れるなんて」
「お前ん家変わってんな、なんだこの魔国大使館ってのは」
「魔国大使がいる建物よ」
「誰が大使なんだよ、図々しいな」
「私よ。私が駐宮魔国大使のAsahiよ」
「えっ〜」
「今まで気が付かなかったの? ほかの理由で合宮国に魔国人がいる訳ないじゃないの」
「それより新聞見たぞ。お前だろ、Asahi」
「聞き捨てならないわね、奈保子。私が何かしたって言うの」
「美祢子だよ。行方不明になってる」
「心配してるのよ。どうも神隠しらしいわ」
「今も昔も神隠しなんてないよ。お前の国にいるんだろ」
「さあ、私にはなんとも……」
「だてに20年付き合ってるわけじゃねェぞ。ちゃんと船も持ってきた」
「SS?」
「うん」
「丁度いい時に来てくれたわ。うちの国の一つが連絡を絶っているの。徒歩だと一カ月は経かるところだったわ」
「だったわって、俺はまだなにも……。まさか」
「否定はしないけど」
「ちょっと待て、SSのトロンからだ」
「奈保子、αβ星航空機の鋭尾鋭所が作動してます」
「機種は?」
「Right128か129aです」
「骨董品だな」
「すぐそちらの視界に入ります」
「どうしたの、奈保子」
「やっかいな、αβ国のレシプロが飛んでるらしい」
「余りありがたくないわね。町がパニックになるわ」
「あれだ、真っ直ぐこっちに向かっている」
「えっ、あそこは王宮よ。撃ち落とされるわ」
「ありゃ? 美祢子だ。お〜い。Asahi、王宮に行くぞ」
「どうしたのかしら、美祢子」
「やっぱりAsahiが裏で糸引いてたのか」
珍しい飛行機とけたたましいエンジン音で町はパニックになっていた。美祢子は3回王宮の上を旋回すると広場に降り立った。すでに王宮警護隊が整列していた。
「侵入者へ、抵抗せず投降しなさい」
「美祢子さん、やばいですよ。王宮じゃないですか」
「こんにちは、山下さん」
「姫、失礼しました。おい、みんな下がれ」
「姫? ほんとかよ」
「機の整備をお願いします。すぐに発ちたいので。それから赤十字に電話を」
「かしこまりました、姫」
「美祢子、心配したぞ」
「奈保子、Asahiさん」
「急ぐのか? 船で来てる。乗りな」
「助かったわ。これで3時までには着くわ。東北東に1215km行って」
「血液なんて持って、誰か怪我でもしたの? それにサンズン市は連絡が途絶えてるし」
「洋一さんが怪我して出血多量なのよ。サンズン市は虎の襲撃を受けて壊滅的打撃を受け、再建中」
「ご免なさい、美祢子」
「いいのよ、Asahiさん」
「美祢子、見えてきたぞ。残骸だ」
「えっ?」
「兎に角降りてみましょう」
フリッガー市民がぶつぶつ言いながら後片付けをしている。あちこちに撃墜された爆撃機の残骸が横たわる。
「ああ、こりゃひでえ、何もかも丸焼けじゃないか」
「奈保子」
「悪い、美祢子。こんな爆撃の後みたいのは」
「ダイル国時代の自動攻撃装置が作動したんだわ」
病院は無事だった。しかし洋一の姿はなかった。宮殿はそっくり消えている。美祢子は地面に座り込んだ。ずっと俯いている。頻りに何か呟きながら。
「美祢子さん、見ていた者の話だと宮殿は本国に向かった模様です。恐らく洋一さん達も中にいるものと」
「美祢子、しっかりなさい」
「もう一個町があるそうじゃないか、行ってみようぜ、美祢子」
「そうね」
サンズン市は既に出来上がっていた。半数ぐらいが変態が解けている。
「お帰りなさい、Asahiさんもご一緒で……、どうでした、洋一さんは」
「やはり戻ってないのね」
Asahiはサンズン市の代表者と虎族の襲撃とその後に就いて詳しく話していた。
ウォルフとトリケラは4次元の魔国にいた。フリッガー宮殿は攻撃を受けたせいでバランスを崩し、着陸に失敗、国会議事堂の上に墜落し、議事堂を押し潰し、ひしゃげて止まった。
「ここは宮星上じゃないですね、ウォルフ」
「向こうに見えるのが重力城、魔国の首都だよ、トリケラ」
「しかしうちの市長も馬鹿だなァ、合宮国の爆撃機なんかにおびえて、リモコンなんだから胡麻化す事なんてたやすいのに」
「誰かおらぬか」
「フリーガー市近衛第二師団のウォルフであります」
「フリッガー市? 一体なんでこんなところにあるんだ、ウォルフ。変態してるのは誰だ」
「トリケラです、閣下」
「あ〜あ、よく寝た。おい、じじい、人に物を尋ねるときはまず自分から名乗れよ」
「まずいですよ、洋一さん、あの方の肩章見ませんでしたか。ファイブスタージェネラルですよ」
「ん? 貴様魔国人じゃないな、なにやつ」
「コーヒーでもご馳走してもらうか」
「すみません、将軍、この方は……」
「いいよ、自己紹介ぐらい自分でできるよ。それより今までを説明してくれ。うっすらとは覚えているんだが」
「将軍、宮殿にまだ多くの市民が残っていると思うんで」
「安心せい、トリケラ、もうレインジャー部隊が救出に突入している頃だ」
「おい、じじいも話を聞くか? コーヒー奢らせちまったしな」
「フン」
「夢を見てた。十年ぐらい前だったかな。うちの星は今でも戦争をしててな。日本はいち早く降伏してた。養父が撃たれて入院したんだ。大きな病院だったな。養父はいわゆる政府高官だった。占領軍は戦争協力を要求してたらしい。可哀そうだったな。子どもから老人まで大勢の人が入院してたのに。あっという間だった。ロボットが見えたと思った途端、事もあろうに病院の中で火炎放射を始めた。どうする事もできなかった。生き残ったのは俺だけだったと思う。その後日本は自分達を殺す事になる武器をせっせと造ってたっけな。あんた、魔国最高指導者だろ」
「……」
「美祢子と同じ臭いがする。何があっても戦争だけはやっちゃいけないよ。あれは人間のするこっちゃない。殺した方も二度と正気には戻らない。あんたら幸せだよ。いつ殺されるか分からない世界には住みたくないな」
「提言、難有く頂戴しよう」
サンズン市、翌朝十時、みんな揃って朝食をとっている。何か重い物が落ちるような低い地響きと、建物が共鳴してブーンという音がする。
「何かしら」
「トルネード?」
そのうち建物から少し離れたところの空の色が濃くなり始めたと思うと旋風の中心に高い塔を持つゴシック様式の城が現れ始めた。
「重力城? まさか」
「洋一さん!」
「魔国帝国宮殿」
「そう、四次元の城。魔国領の地上地下空中のいずれか一点にあり、その位置は誰にも分からない」
「でけェ、何の用かな」
門が開くと中から洋一、ウォルフ、トリケラが出てきた。城は再び四次元に消えた。
「やあ、美祢子、Asahiさん。元気そうで」
「何が『元気そうで』よ。血液は要らないのね」
「要ります。はい、Asahiさん。何かあったらこの無線機で呼べば来るとの事です」
「あんたが洋一かい、奈保子だ。よろしくな」
「そうですか、美祢子を助けてくれたんですか。ありがとう」
「何、いつもの事だよ」
「美祢子さん、ここに残りますか」
「でも合宮国中に知れ渡ってるはずだわ」
「では第三宮庭に戻りましょう」
「奈保子、気付かれずに第三宮庭まで行けるかしら」
「成層圏まで上昇してから第三宮庭に入れば良い」
「洋一さん、決まったわ」
「おっと、輸血の途中だった。じゃあ、サンズン市の皆さん、名残惜しいですがさようなら」
「ありがとう、洋一さん、美祢子さん、助かりました」
「奈保子さん、良い船ですね、宇宙へも?」
「王子、これは宇宙船だ」
「王子?」
「美祢子は王女だ、知らなかったのか」
「それは以前伺いました」
「王女の旦那は当然王子」
「ええ〜」
「一度言った事は必ず果たして戴きますよ、洋一さん」
「うーん、余り無責任な事は口にしてないと思うんですが」
「所で、洋一さん、市民が言うには私が恐竜になっていたらしいけど本当ですか」
「ええ、でも……」
「そんな訳ないわ。美祢子、宮国人でしょう」
「私も不思議でしょうがないのよ」
「私も変態するところは見てないので判然とは言えませんが。Asahiさんも変態できるんでしょ」
「私はやった事ないから分からないわ」
「洋一さん、よく生きているわね」
「魔国の人工血液は効きますね」
「それにしても腎臓大丈夫なんですか」
「まあ何とか。美祢子さんのお蔭ですよ」
「しかし、第二宮殿の市民と比べるとみんなおおらかだね」
「あら、誰がおおらかじゃないって?」
「Asahi、誤解だ。第二宮殿市民だよ」
「洋一さん、魔王と何話していたの」
「科学技術に興味があったから、それと戦争に就いてかな。魔国と言うのは魔王がいるからだと思っていたんだが、市民全員魔法が使えるからなんだ」
「魔国人は例外なく。但し幻術を除き、地上では効力は発揮しません」
「美祢子さんも?」
「美祢子の場合難しいわね」
「難しいって使えるのか、Asahi」
「そうじゃないのよ。宮国人からは魔国人は出ないのよ。だから」
「Asahiさん、何かやってくれませんか」
「私にはもう出来ないわ。宮国人になっちゃったんでしょう。そうそう、フリッガー城はどうなりました?」
「無事回収されました。当分の間はサンズン市が地上の魔国となります。Asahiさん、どうなってるんですか? 魔国は」
「質量を掛けて空間を歪がましてあるのよ」
「よく抜けませんね」
「あと、時間の制御。物理の法則が成り立たなくなり、魔法が使えるのです」
「で、重力城が造れるんだ」
「城内に空間制御装置を入れてあるので地上でも作動します」
「美祢子さん、合宮国にはないんですか」
「先祖が凡て封じました」
「出来たんですか」
「資料がないのでよく分からないのですが、現宮国都市中3分の1強は魔宮のように移動可能です」
「地球より全然進んでるわ。反物質なんか」
「造る事は容易ですが、貯蔵に難があります」
「知らない事は何もないのか」
「まだまだでしょう。かなり忘れ去られてますし」
「さて、これからどうしたものか」
「良いじゃないか、言い訳が出来て」
「美祢子、第三宮庭に着いたら一つ聞いてもらいたい事があるの」
「今でもいいわ」
「あなたには幸せになってもらいたいの」
「ありがとう、Asahiさん」
「あなた方なら幸せになれると思うわ。勿論自分達が好き合っているかが一番大事だけど、見てれば分かります。私が言うべき事じゃないけど結婚すべきだと思うわ。でないと一旦離れれば二度と会えなくなってしまいますよ。二人ともそんな状態にない事はよく知っているわ。せめて婚約だけでもしときなさい。取り返しが付かなくなってしまうわ。どうかしら、洋一さん」
「……どうせ駄目だと言っても承知しないでしょ」
「ええ。美祢子は」
「ありがとう、Asahiさんにはいつも心配ばかり掛けているわね。でもこれだけは駄目よ。私と洋一さんが好き合っていて、二人の間の問題を総て解決したとしてもやっぱり難しいでしょうね。望んでも不可能な事はあるのよ」
「一般論よ、美祢子の言っている事は。恋愛にはね、一般論は当てはまらないのよ。心が魅かれ合うの。どんなに遠くにいようとも。だから迷わぬように指を糸で結んでおきなさい。手繰り寄せられるように。ねっ、美祢子、お願い」
「美祢子さん、あなたが何をやろうとしているか、私は知らない。恐らく私を巻き込みたくないのでしょう。私も地球に戻って平和を夢見て戦わなければならない。美祢子さんは巻き込みたくない。でも美祢子が好きだ。たとえ魂と引き換えでも一緒にいたい。だから今は婚約だけ。いつになるか分からないけれども二人が自由になったら結婚しよう。これでいいんじゃないですか。だから今は婚約だけ」
「二人が一緒にいられるかどうかは神にしか分かりません。それが運命であるのならどうする事も出来ません。ですからせめて約束いたしましょう。二人が一緒に暮らせるよう祈りましょう。きっと叶う事でしょう。その日が来なくても二人は星になって永遠に結ばれるでしょう。そう、二人は約束したのだから」
[:終戦記念日
Asahiと奈保子がめい一杯の拍手で祝福してくれた。俺は三国一の幸せ者だ。
「おめでとう、きっと勝てるよ」
「少し羨ましい気もするけど。美祢子を守ってあげてね」
「美祢子、旦那は地球人なんだから喧嘩するときは手加減しないと死ぬぞ」
「美祢子、最後まで諦めちゃ駄目よ」
「美祢子さん、あなたの行おうとしている事を教えてくれませんか」
「誰にも告げない積もりだったけど。私はあなたを守る事も去る事ながら、私は命に変えても自分を守らなければならないのよ。お分かりかしら」
「些とも」
「助けてもらったら助けないといけないと言う事です」
「みんな俺を守ってくれたな。素敵な人達だった。やりたい事が一杯あったろうに。最も儚い願いすら叶えられずに。いずれ私も消えるだろう。そして東京解放天国は終焉を迎える」
「私も東京市へ行ってみたいのですが」
「ありがとう。でも駄目です。平和は与えられる物ではありません。自分達で掴みとらねばなりなせん。その辺の理由です」
「必ずお帰り下さい。でないとお分かりでしょうけど何もかも消滅してしまいます。私も合宮国も金剛環銀河も。だから一緒に行きたいのですが。あなたの邪魔はできません」
「姫、必ずや」
「合宮国へは適当に報告しておけばいいわね、美祢子」
「お願いします、Asahiさん」
「後で連絡するわ、美祢子。じゃあ、お暇させて貰うわ。奈保子、教会まで送って頂戴」
「ありがとう、奈保子。心配してくれて」
「何、美祢子が元気ならそれでいいよ」
円盤型の宇宙船は緩っくり浮かんだと思うとすぐ空高くに消えた。二人は見えなくなるまで見送っていた。日はまだ高かった。
「さてと、洋一さん。付き合って頂きたい所があるの」
「仮令地獄の果てまでも」
「地獄なんて行きたくはないわ」
美祢子について行くと病院だった。魔国の病院に較べると見劣りする。美祢子も医者なのだが、専門は精神医学だと言い張って診てくれなかった。医者はエイセイと言った。
「右腕はもう少し遅かったら壊死してましたよ。腎機能も低下しています。透析器に懸かって下さい。腕は集中治療で2、3日で良くなるでしょう。しかし2週間は安静にしていて下さい。激しい運動は控えめに。一体何をしたらこんなに……。えっ、恐竜と戦った。戦うのは自由だけど自分の身体の事も考えなきゃ。何、出血多量で半日動けなかった? 洋一君、死にたいの? その後美祢子君に診て貰い、うんうん、血液がないので魔国の人工血液を輸血した? そんな事したら死んじゃうよ。麻酔で幻覚を見た? モルヒネでも使用しているのかね、魔国は。君も結構むちゃするねェ、……」
美祢子は何処へ行ったんだろう。診察券だけ呉れて行ってしまった。体調悪いのかな。まさか地球へ出かけるはずはあるまい。美祢子も言っていたけれど、一旦離れるともう会えない気がする。何だろう、この厭な胸騒ぎは。精神がずたずたに引き裂かれてしまいそうだ。丸で姿の見えない幽霊のようだ。気にさえしなければなんて事はないが、見えないからこそ返って恐怖が増幅される、死後の世界におびえる老人のように。だが、私の場合、強ち起こらないと言えなくもないからやっかいだ。起きたら取り返しが付かない。他人で代用しようにもこれだけは不可能だ。と言って忘れる事もできない。苦しいなァ。代償は余りにも大きい。心が破綻してしまう。
「ん? どうした、エイセイ君」
「院長、この患者なんですが……」
世の中が平和だったならどんなにすばらしい事だろう。再び美祢子に逢えるかどうか分からないけれど現在ほど美祢子をいとおしくは思わないだろう。普通の家に生まれて、普通の学校に入学して、普通の会社に就職して、普通の妻を娶り、子どもに囲まれ暮らしているに違いない。本来人間はこうあるべきだ。300万年間、常に歴史の主役だったのは、英雄でも、王でも、革命家でも、法王でも、皇帝でも、資本家でも、芸術家でも、天才でも、将軍でも、大統領でもなかった。常に主役は一般市民なんだ。どんなに迫害されても、災害に見舞われても、疫病が流行っても、戦争に巻き込まれようとも決してなくなる事のないもの。後何百年万年続くか知らないけれど、やっぱり社会の中心は普通の人達なんだ。存在し続ける事、それが一番重要な事なんだ。どんなに良くても消滅しては意味のない事だ。いとも簡単に何千年も続いてきた国が滅びる。何千年がそれこそ数時間で跡形もなく消せる。消す事はたやすい。しかし二度と同じ物を創る事はできない。同時期に同じ時間をかけ、同じ努力を掛けてもできあがる物は違う。何故かと聞かれても、そうだからとしか答えられない。歴史は残った者の記録だ。歴史は生き残った者にしか桧舞台を提供しない。だから我々は生き残らなければならない、未来に。どんなに苦しくても消える方を選択してはならない。残った者が常に正義であるとは限らない。正義の味方は決して消えてはならない。正義を誓う者は後世まで生き残るが、悪魔に魂を売った者は生き残らない。必ず自滅する。自分達で争い、消える。悪魔は一匹しかいない。協力しないからだ。もう一匹でも出てくれば必ず殺し合う。争って世界を支配しようとする輩は悪魔だ。人の形をした悪魔。人の上に立つ者は、社会があれば必ず必要になる。他国の人間を殺し何とも思わないばかりか罵声を掛け喜んでいる者が立つべきではない。争いあれば駆けつけ、亡くなった者を悲しみ、不戦を誓える者でなければならない。たとえ相手が悪魔であってもしかり。殺したに変わりはないんだから。
「どうしたのだ」
「治療の後問診をしているとこの状態ですよ」
「おもしろいな。どれ、儂が変わろう。君は他の患者さんを見てあげなさい。ほう、美祢子君の」
たとえ殺されても相手を哀れんで上げられなければならない。できないと思われる人も少なくないと思う。でもどんなに相手が悪くても本当に悪魔であっても我々が相手を殺せば我々もまた相手と同類だ。永遠に争いに終止符は打たれない。どんなに憎くても、自分が惨めであろうとも許して上げよう。もし同意できる者があればあなたには資格がある。みんなが道に迷わないように、先導すべきだ。絶対に人の上に立つべきだ。私は死を恐れず、悔しいのを我慢して、相手を許せる人間がいれば、尊敬敬服する。たとえ命を落とす事になっても、私は喜んで協力したい。もしそのような人がいないならば、私がなってもいい。大半の人は私の意見に反対だと思う。非現実的だと。でもよく考えてほしい。殺し合いをしなくていいのならどんなに素晴らしい事か。犠牲を払っても少しずつ理想に近づけていくのが政治ですよ。守らないといけない。だからと言って殺していいわけはないんだ。それが銃弾に倒れて行った多くの人の悲願だった。我々には叶える義務があると思います。一致団結しないとできません。限りある命です。あなた方がどう使おうと私には何も言う権利はありません。でもその権利を勝ち取ってくれた人の事は忘れないで下さい。あなたの命は今は土の中で眠っている人が悲しみ、苦しみ、努力して守ってくれた物なんですよ。今解ろうとしなくてもいい。そのうち解るときがきます。そのとき思い出して下さい。我々が何を選択すべきなのか。今この世に存在し得る事が運命なら、たとえ消え去ったとしてもそれは運命。そのときまで存在し続けられた事に感謝すべきです。何も悪い事をしていないのに戦争と言うだけで殺されて行った人は沢山いるのですから。私は必ず戦争の無い日のくる事を確信しています。もしどうしても納得いかないと言うんであれば私の屍を乗り越えていくがいい。人類は自滅の道を選ぶ権利もあるのだから。
「まあ、教授、お久振りです。ご挨拶もせずに失礼いたしました」
「おお、美祢子君か。変わってるね、洋一君は。瞑想してるみたいだけど。おっと、客のくる時間だ。1カ月も休みが採れて、君が羨ましいよ。今度洋一君と話せないかな」
「あら、教授、手弁当で外交しなきゃならない身にもなって欲しいものですわ。洋一さんには後で聞いて置きましょう」
我々はどっちなのだろうか。それとも人類には決着が付かない問題なのだろうか。みんな心の奥では殺さないでと思っているはずだ。だから必ず、私が生きている間かも知れないし、その後かも知れないが、いつの日か人類全員が微笑める日がくるだろう。本当にもう少しの所まできているのかも知れない。その場に立ち会って感涙にむせってみたいものだ。
「……、ねえ、洋一さん」
俯いていた洋一は声の方を見上げた。目の前には美祢子がいた。
「どうしたの、目に涙を一杯にためて」
洋一は美祢子を抱きしめた。
「嬉しいんだ」
笑いながらダンスを踊るように美祢子を持ち上げて廊下を走り始めた。病室から次々と患者、看護婦、見舞い客が出てきた。幸せそうな二人を見て輪になって拍手で祝福し始めた。合宮国では嬉しそうにしているとすぐ輪ができる。自分の事でなくても嬉しいらしい。
「ちょっと洋一さんたら、降ろして。みんな見てるわ」
洋一は美祢子を降ろすともう一度抱きしめて、キスした。
「何があったの」
洋一は照れくさそうに高揚し真赤な美祢子の耳元でいった。
「考え事してたなんて今さら言えないな、この状況では」
周りではみんな愉快そうに踊っていた。
「呆れた。何考えていたのよ」
「戦争の無くなった日の事を」
美祢子は洋一の首に手を回し、抱きしめて言った。
「いいわ。許して上げる。踊りましょう」
病院では、医者も看護婦も病人もみんな歌いながら踊った。本当に戦争がなくなったかのように一日だけの終戦記念日を祝っていた。
\:迷い
第三宮庭に戻った美祢子は嬉しそうに言った。
「今日は楽しかったわ。ありがとう、洋一さん」
ここんとこ色々あったが今思えば確かに楽しかった。無事であればこそ楽しい物だ。
「みんな陽気なんですね、宮国人は」
「まだ踊っていると思うわ。でも陰気な病院よりはましでしょ」
そこへばあやがやってくる。主が一月行方が分からなかったにも関わらずいつもと変わらぬ様子だ。
「私は全面的に姫を信頼しておりますから」
「私もばあやは全面的に信頼しているわ」
「誉めたって何も出やしませんよ。そうそう、お二人に病院から報告が届いております」
「ありがとう、ばあや」
「お茶にしましょう」
と厨房に向かう。書類には再検査の必要ありと書かれていた。内臓に障害が出ているのかと思ったがそうではなく、血液から遺伝子の結果が書かれている。検査の結果貴殿は宮国人という結果が出た。是非お会いしたい、Dr.貝原。
「ねェ、美祢子さん。貝原博士って知ってる?」
美祢子はくいいるように紙を見つめている。
「ねェ、美祢子さんったら。いったい何が書いてあるんですか」
覗こうとすると驚いたように「私事よ」と低い声で言った。
「見てませんよ。貝原博士って知らないですか」
「院長よ。合宮国きっての名医、地球人」
「なんだ、私以外にもいるんだ。会いたいって」
美祢子は不思議がって私の紙を取ろうとした。
「私事……」
「お貸し」
さっと取られてしまった。この人の頭の中はどうなっているんだろう。読むのに気を取られ自分の紙を忘れているので覗く。何々、あなたは誠に残念ながら魔国人である事が判りました。お分かりかと思いますが、宮国人からは魔国人は出ません。公表は差し控えますがいずれご決断を。
「美祢子さん、やっぱり魔国人だったんですか」
「み、見たわね」
「何です、姫。騒々しい」
「ばあや、質問があるんですが、もし仮に宮国人が魔国人であると判った場合どうなるんですか」
「……」
「そりゃ、すぐに保護されますわ。宮国人は魔国人を守るためにある物。まあ、そうですね王様のようのもてなしを受けて」
「身動き取れなくなる?」
「ええ、勿論」
「なんだ、今と変わり無いのか」
「誰か?」
「仮定です」
「ちなみに他星人が宮国人と発覚した場合どうなるかお教えしましょうか」
「どうにかなるんですか」
「まず他星に侵略できないのは勿論、15歳以上の者はすぐに妻を娶り、6年間金剛環銀河内の惑星探査に従事し、……」
「うそでしょ」
「本当です」
「判った、器械が壊れているんだ。2つ続けて間違う事はありえない」
「本当よ、洋一さん。お気の毒だけど」
「仕方ない、所で、宮国人と魔国人は結婚可能なんですか」
「宮国人は銀河内のほぼどこの星の人と結婚して子どもをもうけることが可能です。ただ、魔国人は魔国人を結婚しないと血を引き継がないため、法で規制されてます」
「美祢子さんは満足なんですか」
「洋一さんが宮国人に生まれたのも、私が魔国人に生まれたのも運命。逆らえないわ。私は魔国へいきます」
「私は地球に行けないんですか」
「無理です」
「私は宮国人だから一生魔国人の美祢子さんに尽くそう。私は何で宮……、地球の血に魔国人の血が混ざると何になるんですか」
「宮国人になります」
「私は怪我したとき魔国人の血を少々輸血しました」
「しかし」
「もう一度行ってみましょう。おもしろそうだからAsahiさんと奈保子さんも呼びませんか」
奈保子は事件だと聞かされていたらしく不機嫌だった。
「なんだこの音楽は。とても病院とは思えんな」
「洋一さんに聞いて」
「来る将来の終戦を記念して」
3人は昨日の事を話しながら行ってしまった。洋一は腕を診て貰うためにエイセイの所に行った。
「凄いね、もう治っているよ。超人的だ」
「宮国人と較べても?」
「並だ。魔国人の血が混ざっている者は細胞の活性化が一桁違うんだ」
「所で院長は今どちらへ」
「朝は、まだ院長室で推理小説を読んでいるはずだ。ここを出て真っ直ぐ400m、左に150m、階段の下の小部屋だ。小さいから通り過ぎないように。お大事に」
今朝は余り患者がいなかった。踊り疲れたのかもしれない。ノックする。気を付けていないと見落としそうな汚い扉だ。「どうぞ」。院長らしき人の声がしてロックが外れた。中に入ると中年の髭もじゃがいた。
「上野洋一と申しますが」
「おお、よう来た、よう来た。まっ、掛けなさいよ」
「はい」
「院長の貝原久だ」
廊下をどたばた走る音がする。踊りが始まったのかな。
「ここは大変ですね」
「もう慣れた。それより、昨日の舞踏会は君が催したそうだね」
「偶然の産物です」
「みんな楽しそうだったな。久振りだよ。踊ったのは」
「美祢子から聞きましたが先生は地球人なんですってね」
「君もか、珍しいな、同郷の人がいるなんて。私は1960年代にきた。今の地球はどうかな」
「2101年、どちらが勝っても最後の戦争になろう第三次世界大戦が始まります。10年経た今、地上の人口は実に百万分の一以下の数万人まで減少、地上の最後の砦である東京市の東京解放天国の消滅を待って戦争は終わるでしょう」
「一体地上に何が起こったのだ」
「亜、阿の人口爆発と急速な開発に伴う世界的気候変動による穀倉地帯の砂漠化。アマゾンの消失。軍を持たない事が災いし国連は真二つに分かれ、宇宙開発上位4カ国米、日、中、韓は国連を脱退、地球連邦を結成し、地上に対し宣戦布告したのです」
「そうか、……」
何か、こう、旅に出て一人になりたい気がした。何でだろう。魔国にでも行ってみようか。静かなところで緩っくりと人間とは何か、考えてみたい。考える動物、この世に生を受けて、何をすべきなんだろう。底のない考え事。止まらない時間。限りある命。その中で学び、働いて稼ぎ、結婚し、子を育て、時には戦い、世の出来事に一喜一憂し、短い人生に抗するかのようにせい一杯生きている。何処にどう時間配分しようがだれも文句は言わない。エディソンやアインシュタインが幸福であったかは分からない。犯罪者は本当に悪いのか。支配は人間のさだめなのか。宇宙は何処まであるのか。その先には何があるのか。未来や過去はどうなっているのか。人は神になれるのか。人間はどうして存在し得たのか。何で宇宙は人間のためにあるような造りをしているのか。我々は宇宙の子なのだろうか。地球を減らしてまで生き延びるべきなのだろうか。何故引力は存在するのか。我々は何処からきて何処へ行くのか。高い山の上や、海の真っ直中や、宇宙空間や、地の底や、そんなところで考えたい。緩っくり何千年も年万年も考えたい。それが好きなのではない。何か、こう、答えを探して行くうちに人間の正体が分かるような気がする、遺伝子の囁きが聞こえるような気がする、我々に何をすべきかを教えてくれるような、何となく魅かれ、古代より宇宙や数学や科学に魅かれ研究してきたように。一体我々に誰が問いかけているのだろう。知識は何処からくるのだろう。
私は東京市に帰りたくない。帰れば必ず死ぬのが分かる。しかし誰かが私に呼びかける。「行こう、行こう、行こう」。人間の宿命なのか、生まれたところで死にたがるという。「いやだ。私にはまだしたい事がある」。「待ってるよ、待ってるよ、待ってるよ」。私を待っているのか。何故。私は東京市の一部なのか。教えてくれ、私は何者なんだ。意識上の愛着ではない。人間は地上でしか生きられないのか。教えてくれ、何が我々を導くのか。……。
「洋一君」
目の前で大きな手が振られている。手は素早く上下に振られていた。気が付くと頭が重かった。院長は言った。
「君は悩み過ぎだ。多少ノイローゼになっている。それから……」
「洋一さん」
ドアをおもいっきり開け放ち、入ってきたのは美祢子だった。院長は心臓を押さえている。美祢子は院長を見て恐縮している。
「お掛けなさい、美祢子君」
「失礼しました、教授」
「洋一君、君は少し人のいるところを離れた方が良い。但し戦闘のあるところだけは禁物だよ。二度と戻らなくなる。良いかい、君一人だ。何でもできる。自殺も可能だ。規則正しく暮らせるようになったら戻っておいで。人恋しいからって戻ってきちゃだめだ。君は人が一生に一度必ず通る人間に対する不審と言う迷路に入っている。今出口を見失っている。だが出口はすぐそこにあるんだ。遠いか近いかは君次第だ。聞いてますか」
「ええ、院長。しかし……」
「それは考えん事だよ。いいかい、ずっとこのままという事はないんだ。早晩決断を下さねばならない。君の人格が完成されていようがいまいがだ。このままじゃいかん、何故だと思う」
「私は……、ここにいたい。でも誰かが私に呼びかけるんです。『東京市へ追いで、待ってるよ』。私の心は第三宮庭に半分、東京市に半分あるんです。秤に掛けられる物ではありません。身体はここにあっても心は東京市をさまよっているんです。時々私には影がないんじゃないかと思って恐らくなります」
「君は自分が不幸だと思うかね」
「いいえ」
「じゃあ、世の中が悪いとは」
「多少は」
「君には同情するよ。私なら狂いかねない。よく正常を保っていられるな。なァ、美祢子君。そうは思わぬか」
「同感ですわ」
「同意できるね」
「私には止める権利はございません。諦めは尽きませんけど」
「洋一君、行ってこい。そして緩っくり考えてこい。疲れた頃独りでに浮かんでくるさ。そう、宇宙の真理が」
「美祢子さん、済みませんが重力城を呼ぶようにAsahiさんに頼んで貰えませんか」
「行くか」
「ええ」
「だが美祢子君は妻だぞ」
「婚約者です」
「あんなに慕っているんだ。早く貰ってやれ。来るなと言っても戦火の地球にまで連いてくるぞ」
「結婚できるといいですね」
「君は自分で作った決まりに縛られすぎて積極性に欠けるね、まるで……。じゃあ、また後で」
美祢子が部屋に戻ってきた。俯いている。
「重力城は明日朝8時40分に国境から4kmの地点に現れるそうです」
他に何も言わない。返って申し訳なく思う。
「済みません、美祢子さん」
「よくってよ。私にはあなたを止める……」
震えている。抱き締めると途端に泣き始めた。というより暴れ始めた。魔国人は恐竜から進化したので強靭な体力を有する。止めようと羽交い締めにしたが振りほどかれ壁に叩きつけられる。私を狙っているのか、総てを破壊しようとしているのかは分からないが、スティールの椅子が飛んで来て、頭に受け気を失ってしまった。一撃で終わった。何とかしなくちゃ、何とかしなくちゃ、何とかしなくちゃ。はっと気付くと目が回っていた。周りの景色もぐるぐると、足を掴まれてものすごい勢いで振り回されている。声も出ない。大体感で腹筋を使い美祢子の腕を掴もうと試みる。触れた途端に美祢子は、「えっ」と言ったと思う。良かった正気に戻ってくれて。同時に足を放してくれた。目が回っている。勢いで私の身体は病室の窓をぶち破った。ものすごく痛みを感じたが、声も出なかった。何を掴もうにも間に合わなかった。下も分からないうちにどんどん落ちていく。壊れた窓から泣きそうな顔で美祢子が何やら叫んでいる。大丈夫だと手を振ったと思う。そのまま7階下の池まで落ち、水底まで沈んだ。泳ごうにも手も足も動かなかった。水が口や鼻から入ってきたがもう苦しくはなかった。息をしようにも口も肺も横隔膜も動かなかった。
]:偉大なる人よ(その2)
私はたとえ殺されても当然の人間である。20回死んでも足りないぐらいだ。そして、もし生まれ変われるにしても今はまだ死ねない。然るべき時が来れば従おう。それまで少し時間がほしい。私一人東京市に行っても歴史が変わるという物ではない。滅びる物は滅びる。ここには魅力がある。義務も何もない。ここがいい。神でも悪魔でも誰でもいい、私を起こしてくれ、私が死んだ後はあなたに尽くそう。私は起きろという声を聞いた。私は追われるように目覚めた。
私は明るい病室のベッドに寝かされていた。ほんのりと甘い香りがする。心なしかベッドに軽い振動を感じる。天井が高く、池の水面に反射した光がゆらゆら天井に映し出されている。背を向けた看護婦がパイプ椅子に座っている。頭を下げ、上下に少し首を振っている。その向こうにディスプレイがある。私の心拍か、脳波が映し出され、その横では全身の血液の動きと肺がモニターされている。看護婦はどうやら本を読んでいるようだ。水が欲しくなって声を出そうと思ったとき、彼女が美祢子である事に気づいた。髪を束ね、白衣を着た様は違和感を覚える。一つ吃驚させてやろうと思い、すっと起きあがった。途端に「ゴン」とでかい音がした。そして頭に異様な痛みが走った。美祢子が気付いて必死に制止している。また深い眠りに就いた。不思議な感覚だった。
「教授、大変です。しっかり、洋一さん」
「ん? いかん。手術だ、支度して」
「私も参加します」
「よかろう。君が執刀し給え」
「心臓停止」
「ポンプに切り替えろ」
「脳波依然なし」
「電気ショックを与えろ」
人工呼吸器で酸素は送り込んでいる。心臓も動きだした。しかし大脳がうんともすんとも言わなかった。
「脳死が確認されました」
「どうしても大脳が快復しない。やるだけやった。君が悪いわけじゃない。後は洋一君にしかどうにもできない。待っていよう」
「私のせいですわ。本など読んでいたばかりに」
「静かにしなさい、洋一君は寝ているんだ」
「でも」
「人は死ぬ物だよ。これだけはどうにもならない」
「しかし我々も宙新星も消えてしまいます。113年前宙新星を救った者、それが40歳の洋一さんです」
「王族だけでも避難させなければ」
「無駄ですわ。私も考えましたが、113年前に消滅していれば、我々は幻なんですもの」
「洋一君にかかっているのか」
「たとえ今助かったとしても東京市に行けば生還は難しいでしょう」
「しかし君がいくら止めても戻るだろうね。君に魅力がないと言う意味ではない。彼には定めなのだ。何万年も前から用意された人類への試練なのだ。東京市に行ってけりを付けねばなるまい。連邦が滅びるか、地上の民が滅びるか。人類にとってはどちらでもいい、兎に角けりが就けば」
「洋一さんに連いて行きます」
「駄目だよ。彼は命を落とす事になっても君をかばうだろう。彼は自分が消えると君も消えるという事を知らないまま死ぬだろう」
「ああ、どうすればいいのかしら。いっそ私が代わりに死んだ方が」
「彼は生きる望みを失うと思うね。いいかい、美祢子君、彼にとって君は生きがいなんだ。彼は必ず生き残り、君の元へ戻ってくる。だから君は帰るところを用意しておかなければならない。東京市へは儂が行こう。元はと言えば我々の時代の付けが彼らに回ったのだからな」
「いけませんわ、教授」
「知っている事は行わなければならない。君も儂も、洋一君も知ってしまったからね。何、死にはせん。君にしかできぬ事もあるし、儂にしかできない事もある。もちろん洋一君にしかできない事もある。一つづつ終わらせていこう。分かるね」
「分かりました、教授。お願いがあります。もしこのまま洋一さんが目を覚まさなかったら、記憶を移し私の大脳を移植して下さい」
「大丈夫、彼は死なないよ」
「お願いします、どんな事をしても、鬼、悪魔と呼ばれようとも構いません。私の最愛の人を助けてあげて」
「後は君が見守っていてあげなさい。彼にとってそれが一番良い。何かあったら呼んで下さい」
神よ、洋一さんを起こして下さい。私にはどうする事もできません。ああ、洋一さん、起きて、まだ眠っちゃいや。約束したじゃない。お願い。
マンホールのような構造物を登っている。遥か上に小さく空が見える。下は暗闇で何も見えない。なぜか迷彩服を着ていた。ここは井戸かな。空気が淀んでいて、生暖かい。変な感じだ。下の方でズズーンと火薬の爆発する音がした。微かに暗闇の中に赤い炎が見える。急いで登る。マンホールに蓋はなかったが頭を突き出すと「ゴン」と何かにぶつかった。透明なガラス半球で蓋をしてある。登った所は一面何処までも草花が咲いている。無数の蝶が飛び回っている。雲が緩っくり動いている。幾つも星が見える。地球の月ぐらいのや、それより小さい物、みんな薄い白色か透明に見える。大きい物が20ぐらい数えられた。人の気配は感じられない。が一人いた。花を摘んでいる女がいた。白衣ににた白いドレスを着ている。こちらに向き直った。
「あれ、美祢子。お〜い、美祢子、ここだ」
聞こえないらしい。ガラスみたいな器をコンコン叩く。向こう側からは見えないようだ。女はバスケット一杯花を摘み終わると手を翳し、太陽を仰ぐとすたすた行ってしまった。おもいっきりドームを持ち上げようとしたがびくともしない。ぶち破れるような道具もなかった。GTはここに来て以来、美祢子に取られたままだった。だんだん暑くなってきた。シャツを脱いで、ガンガンと叩いてみるがむなしく空に響いた。小鳥がドームの上に留まった。
「わかんないだろうな。俺はここを出てそっちに行きたいんだ。でも無理か。俺がそっちに行ったら調和を乱しそうだもんな」
羽が青緑の美しい小鳥は話終わると飛んで行った。下の方では爆発が頻繁に起こっていた。一体何をやっているんだろうか。諦めて降りようとパイプに手を掛けたとき再び女がやってきた。花が山積みのバスケットを持っている。
「おおい、ここだ」
女は男のすぐ横を通り過ぎて行ってしまった。畜生、どうなってるんだ、このドームは。そうか。もう一度来ると確信して洋一はじっと待った。少しすると果たして女が戻ってきた。白い帽子を被っている。「しめた」。洋一はおもむろにライターを出し、火打ち石を灯した。何回か繰り返していると女が気付き、近づいてきた。不思議そうな表情でドームを見ている。そのうちドームを2回ノックし、耳を当てた。こちらも2回ノックする。驚いた様子で後ずさりした。
「待って、怪しい者じゃないんだ」
ライターを灯す。女は近づいてきて2回ノックした。今度は3回叩く。女の表情は明るくなり5回ノックした。7回叩く。女は11回ノックし待った。返事は13回だった。返事を聞き女は決心した。禁じられた不開門を開けた。
「ああ、助かった。ありがとう、美祢子」
「?」
言葉が通じない。でも確かに美祢子だ。ボディラングェジで伝える。下でまた爆発の音がした。女はおびえたように急いで蓋を閉めた。ドームは日を反射し、銀色に輝いていた。洋一は咲いていた紫色の大きな花を摘むと女の髪に飾ってやった。女は微笑んで男の腕を引いて家へと連れて行った。森のそばに小さな家があった。中に入ると暖炉のそばで老婆が布を織っていた。ばあさんは口を開いた。2、3言女と何か話した。それからこちらの方を向いて言った。目が悪いようだ。
「あんた、地の国から来たのが?」
女は緑色の飲み物を持ってきた。緑茶かと思ったが違った。酸味があってうまい。アルコールが入っているようだ。ばあさんの横にちょこんと座った。壁に色んな物が飾られている。刀とか、家紋とか、鎧、冠いろいろある。
「ここは何処なんでしょう」
「ここが? ここは外の国じゃ」
「私は気を失うまで合宮国第三宮庭にいました。この女性とそっくりな人と共に」
「気の遠くなるような昔、そういう国があったかも知れない。我々はお前さんの子孫じゃないが、遠い親戚じゃ。お前さん方の平和な時代は終わり、やがて動乱の時代が来たのじゃ。地の国が大勢押し寄せてきた。我々は祖国を脱し、地の国の軍隊諸とも永遠に時間の一点に封じたはずじゃった。しかし彼らはこの通り結界を抜ける方法を知っていた。もうここもじきなくなる。あの炎が総てを焼き尽くすだろう。ここにはもう十数人の7力人しか残っていない。この7力人を以って7力国は終わる。じゃが、只では終わらぬ。最後の7力人の死を以ってエオグ星( The Eye Of the Galaxy )は宇宙を巻き込んで消滅しよう。お気の毒じゃが我々には最早お前さん方を他の宇宙に逃がしてやる力はない。許しておくれ」
「7力って魔法の事かな」
「そうじゃ、人間に与えられた7番目の感覚、それが魔法、脳波だけで総てをコントロールできる」
「私も宙新星が消滅するのは悲しい。行って戦争を止めてきましょう」
「よした方がいい、それより、この子が大変お主を気に入っておってな。暫く遊んでてやってくれぬか」
「それはかまわんですが」
「○△□」
「○△□? ああ、あなたの名前ですね」
「城の国の言葉で『美祢子』、つまり全能を意味する7力語じゃ。大事にしてやってくだせえ」
「私は上野洋一。洋一」
「洋一?」
「そう、洋一」
「洋一、…………………………」
「お客人、○△□と湖に行っといで」
非常に快適な気候だ。暑いが風があり、汗ばむ事もない。木は疎らだが、何処も草が生えており、土の露出しているところはない。星が美しい。大きな湖に出た。漣が立っている。何処にでもありそうな湖だが、透明度が高く水底が見える。水は冷たくて気持ち良い。手で掬うと、きらきらと輝きながら丸い玉となって指の間からこぼれ落ちる。多少粘度が高い。泳いでみたいと伝えると、少し困惑していたが、君は泳がなくてもいいと伝えると了解した。婦人の前で裸になる訳には行かないので少し離れた木の上から飛び込んだ。心臓が止まりそうな冷たさだ。すぐに顔が火照ってくる。おいでと女を誘ってみたが、女は笑いながら首を振って断った。潜ると大きな都市が炎に包まれているのが見えた。灰色の建物が延々と煙を吐き続けている。人の姿は見えない。ディープパープルとダークグリーンのロボットが後退している。動きの速いスカーレットのロボットが進撃している。この湖は水底が透けて地下が見える。都市というか、国が多階層構造をしている。大きな爆発がした。かなりの振動である。少し沈んだような気がした。スカーレットのロボットは見覚えがあった。東京市で何度も殺されかけた地球連邦のメトロポリス専用ロボットだ。急いで陸に上がる。女は目を覆っている。これはいけない。服を着て武器はないか女に尋ねる。
「いけない」
「分かるんですか」
「戦ってはいけない」
「何故です。守らないといけないでしょう。じゃなきゃ早く逃げましょう」
女は首を横に振る。
「責任、我々にもある。武器を持ってはいけない。持てば彼らと同類。武器は武器では消せない」
「自分達が消滅したら意味がないでしょう」
「消え去るのも、7力国に生まれた者の定め」
「ならば私はその定めに従う必要はないはず。私は生きたい。だから武器をとる」
「手伝えない」
「いいですよ。武器の在処だけ教えて下さい。知ってるんでしょ。王女様だもんね」
「分かりました」
女は山の方へ歩いて行った。床版に穴が開いたのか、所々煙を噴いている。鳥がめくら滅法に飛び回っている。可哀そうに。鍾乳洞のようだ。床に光る石が敷き詰めてある。大きな扉がある。女が首飾りを取り出し、光を反射させた。あっという間に明るくなり、開いた扉の向こうの階段に向かう。途中モニターが戦闘を映し出している。ダークグリーンとディープパープルのロボットが後退するすぐ後ろに大きな城がある。形こそは変わっているが紛れもなく重力城であった。兵器庫には見た事もない兵器が山と積まれていた。軽そうなランチャーを持ち上げる。女が慌てて止める。どうも惑星が吹き飛ぶほどの威力があるらしい。レーザーがあったので2本とカートリッジを貰う。
「君はおばあさんや残っている人をここへ避難させて下さい」
分かるのか頷く。心配そうにしている。
「私は地の国の人間です。と言っても彼らとは違い、以前に彼らによって滅ぼされた前地の国の最後の生き残りです。あなた方にはご迷惑を掛け申し訳なく思っております。我々の責任です。だから行きます。行って彼らと共に消えましょう」
女は首に抱きついて泣いている。
「…………………………」
「お呪いですか」
ドームまで行くとばあさんが待っていた。
「行きなさるのか」
「狂ってしまった分身はこの手で止めを指さねばなりません」
「我々はあなたとであったことを永遠に忘れまい。真の戦士として」
「さようなら、お姫様。もうお会いする事もありますまい」
土管は途中までしかなかった。落下傘で降りる。飛行兵器がなくて良かった。上を見るとさっきの湖が見える。都市の採光用のようだ。廃虚と化したビルに降り立った。窓の少ない変わったビルだった。試しに遠くの赤いロボットに狙いを定めて撃ってみる。高出力のレーザーだ。赤いのはたちまち吹き飛んだ。後方から攻撃され赤いロボット達は混乱し、右往左往しているうちに緑のロボットに駆逐された。赤軍第二部隊は後方へ退いた。重力城の方へ行く。みんな勝ったような大騒ぎをしている。大歓迎で迎えられる。魔王に会う。152代目である。
「外の国より参りました、洋一です。城の国は今どうなっていますか」
「占領されている」
「私を城の国、第三宮庭に連れて行って欲しいのですが」
「いかん、今の重力城では1分でもいれば発見され、1時間と攻撃に保たない」
「そうですか」
「洋一殿、ウォルフ大佐です。危険ですが行けない事もありませんよ。城の国のポートドアは作動しています」
「是非とも行って奴らを消さねば」
「お供しましょう」
「時が止まったままですよ」
「第7宮殿が生きているんだ」
第二宮殿の地下に来れた。第二宮殿は無傷だった。魔国領内に大きなパラボナが数個あり、重なっている部分がさっきの重力城域に繋がっている。こちらから増援部隊を送るところだった。
「成程ね」
パラボナをスクラップにして呟く。
「当分は大丈夫だろう」
赤軍は何故機械が壊れたのかも分からず大騒ぎしている。ついでに上空の大型戦艦も破壊する。第三宮庭に行ってみる。地中に埋まっていた。急いで沈める。彼方に朽ち果てたミラーポートがあった。まだ動いていた。この辺はもう敢然に征服が済んだらしく、軍の姿はない。一面荒れ地になっている。湖の影もない。東京市へ向かう。何か息苦しい。鼻の奥や喉がヒリヒリする。地上は想像がつかないほど変わり果てていた。一面の砂漠。ガイガーカウンタがうるさい。嵐のように砂が舞っている。雨はない。人気はない。住める状況でもない。息苦しい。灰色の空がくっきりしているが心なしか黒く感じる。地平線の彼方にトルネードが見える。幾つも幾つも。暑い。頭がくらくらする。これが地球か。人類は何をしていたんだ。壊れた建物が点在している。風が強くなってきた。第三宮庭に戻る。ミラーポートを砂の中に埋める。もう使われない事を祈る。第7宮殿に行って唖然とした。コントロールタワーは全壊していた。「やられた」。私は第三宮庭に行って宙新星の再生装置のスイッチをいれた。24時間後には再生が開始される。
「ごめん、美祢子。お前の城なのに」
赤軍本拠地、第二宮殿に行く。もう思い残す事はなかった。唯只管レーザーを打ちまくった。そのうち目の前が真っ暗になった。どれくらい気を失っていただろうか。気が付くと兵士がおろおろしている。横を戦車が走り抜ける。宙新星が爆発し始めたらしい。右肺を撃ち抜かれていた。出血は止まっていた。第二宮殿はすぐそこだった。
「戻れるか」
要らない物を捨て立とうとしたが、ふらついてすぐに倒れた。這っていく。すぐに出血が始まった。何度も何度も気が遠くなりそうになった。もう戻っても助かるまい。無駄だと思っても身体は動く。皮肉な物だ。どうにか魔国まで辿り着く。宙新星が再生に入った事を告げる。看護を断り外の国に連れて行くよう頼む。ばあさんと女が待っていた。男は、不安そうな女に向かって心配するなと言った。男は崇高な微笑みをたたえたまま永眠した。この男が合宮国最後の王、洋一・トークン・シース・上野45世だった。
幻聴か。
「洋一、洋一、洋一」
「○△□か」
美祢子は頬摺りしながら洋一の名を呼んでいた。再び目が覚めた。
「良かった、あなた一度死んだのよ」
頭に包帯が巻いてある。
「千年後に行ってきました」
「もう、心配してたのに。洋一」
「ありがとう、美祢子」
「洋一」
「はい」
「洋一」
「はい?」
「やっぱり洋一だ。良かった」
「ありがとう」
肩を掴むと美祢子はずるずると床に崩れた。
「少しは休めばいいのに」
美祢子を寝ていたベッドに寝かすと「お休み」と額にキスをし、洋一は院長の所へ行った。瞳孔が完全に開いたんじゃないかと思われるほど目を丸くして驚いている。
「よく無事だったね」
「ええ、美祢子のお蔭です」
「大変だったんだよ。奇跡だよ」
「それと誰だろう、私の身代わりになってくれた方のお蔭です。遠い未来の英雄。院長、合宮国の武器庫に連れて行って貰えませんか」
「ん? 王族じゃなきゃ入れぬ。何で知ってる」
「お告げかな」
「美祢子君に聴いてみなさい」
「今眠ったところです。決めました。私は戦場に戻ります。今私がくい止めねば千年後罪もない人々が迷惑します。合宮国、魔国が滅び、金剛石銀河は消滅に向かうでしょう。地球は人の住めない星になっていました。連邦は単なる破壊好きです。壊すために創っているにすぎません。破壊が必要なのではなく、破壊好きなんです。言うなれば癌細胞と同じ」
「ならば、儂も地球に行こう。話は美祢子君から聞いたよ。もう宮国人籍は外してある」
「止した方がいいですよ」
「儂も地球人じゃ、悔しいのは君だけじゃない」
「心強いです。院長。美祢子の説得をお願いしようと思ったんですが」
「君は行かない方がいいんじゃないかな」
「我々の子どもや、子孫に申し訳が立ちません。美祢子も分かっているはずです。私が倒れたとしてもいずれ納得するでしょう。私が第三宮庭でぐずぐずしているのを快くは思ってないでしょう。第一私は彼女に言えません、資格がないんですから。誰にも頼らず生きていくなら別でしょうが、社会で二人で暮らしていくとなれば必ず必要となります。時間がかかるかもしれません。何十年後でも私たちは好き合っていると確信します。どんなに苦しくても私は乗り越える。人生に無駄はありません。70年じゃどんなにがんばっても総ての本は読めないし、映画は見れないし、音楽は聞けないし、絵も見れません。働いて稼いでも高が知れてるし、……」
「分かった。だが黙って行っちゃいけないよ。まあ、さっきからそこで聞いていると思うが」
「お入り下さい、美祢子さん。大切な話があります」
「儂は第一宮殿に行ってくるよ」
「私は泣きたいのを堪えて、あなたに伝えなければなりません。結論から言えば、院長と共に東京市に行きます」
「私はお供をすることができません。ご無事にお戻り下さい」
「姫、私ともう一度、終戦の踊りを踊りましょう」