意外と知られていない,日本人移民と唐ゆきさんにまつわる日本とフィリピンの関わりと,フィリピン国内での日本人の動きを示す年表です。
(思ったより出入りが激しいのには驚きました。)
更新 09/15/1998
西暦 | 年号 | フィリピン特にマニラでの出来事 | ダバオでの出来事 |
1570年代 | ルソン(現マニラ)の在住邦人20名 日本との交易が盛んになる フィリピンの総人口約70万人? スペインによる支配始まる |
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1592年 | 在住邦人約300名 | ||
1595年 | 在住邦人約1000名 多くがキリスト教弾圧による亡命者 |
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1630年代 | 在住邦人1500〜3000名 | ||
1640年代 | 鎖国令によりルソン居住地崩壊*1 | ||
1870年代 | フィリピンの総人口約400万人 | ||
1888年 | 明治21年 | 邦人人口35名,日本領事館設立*2 | |
1893年 | 明治26年 | 邦人人口7名,領事館閉鎖 | |
1897年 | 明治30年 | 領事館再開 | |
1898年 | 支配権がスペインからアメリカへ移る | ||
1900年 | 明治33年 | マニラの女郎宿総数35軒,抱女数247名*3 | |
1903年 | 明治36年 | バギオ山岳道路建設(ベンゲット)への日本人労働者導入決定 邦人総人口921名 (内女性446名,ほとんどが抱女=唐ゆきさん) 1470名の移民到着 (ほとんど男子,ベンゲット移民開始*4) 総人口764万人(初の国勢調査が行われた) |
30名が試験的に入植後失敗し撤退 (ダバオで麻栽培を行っていた比人の求めによる) |
1904年 | 明治37年 | 1626名の移民到着 (ほとんど男子,ベンゲット移民) |
ベンゲットから180名入植 マニラ麻農園始まる |
1905年 | 明治38年 | ベンゲット工事完了 ほとんどの労働移民者帰国 |
邦人人口350名 (以下の数字は資料によってばらつきがあります。) |
1910年 | 明治43年 | マニラの邦人人口789名 (内女性276名,その内135名が抱女) スルーにて日本人会設立 |
邦人人口325名 |
1912年 | 大正元年 | 邦人人口429名 | |
1915年 | 大正4年 | 邦人人口400名 | |
1917年 | 大正6年 | 3453名の移民 (ほとんど男子,9割がダバオへ移送) 日本人学校設立(アジアで2番目) |
ダバオ移民急増 |
1918年 | 大正7年 | 3559名の移民 (ほとんど男子,9割がダバオへ移送) |
邦人人口約6500名 (内女性200名,内70名が唐ゆきさん) ダバオの売春宿数13 日本人会設立 比人による邦人排除運動 |
1919年 | 大正8年 | マニラ領事館を総領事館に格上げ | |
1920年 | 大正9年 | 日本領事館(ダバオ分室)設立 | |
1924年 | 大正13年 | マニラ日本人会設立 | 日本人学校設立 |
1925年 | 大正14年 | ダバオの売春宿数0(日本人会による排除*5) | |
1928年 | 昭和3年 | 総人口1031万人 日本人勢力が問題視される |
邦人人口約9,000名 |
1935年 | 昭和10年 | 邦人人口約14,000名 | |
1939年 | 昭和14年 | 邦人総人口約29,000名 (マニラには約5,000名) 総人口1600万人 |
邦人人口約18,000名 8割が麻栽培関係者 |
1940年 | 昭和15年 | 全邦人人口約25,000名 | |
1942年 | 昭和17年 | 日本軍によるマニラ占領 軍政が敷かれる |
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1943年 | 昭和18年 | マニラ総領事館を大使館に格上げ (初代大使は村田省蔵) |
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1945年 | 昭和20年 | 日本軍降伏,全邦人強制送還 戦争による惨劇の内容は, 日本軍の戦死者約47万人 在留邦人,日系移民死亡者約2万人 比国民間人死亡者約111万人 (謹んで慰霊に合掌) |
バギオ,マニラ,ダバオに多数の日本人二世が取り残される (大多数はダバオ) |
1952年 | 昭和27年 | マニラ在外事務所開設 | |
1956年 | 昭和31年 | 日比国交回復 日本大使館再開 (再開初代大使は朝海浩一郎) |
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1960年 | 昭和35年 | 総人口2709万人 | |
1962年 | 昭和37年 | 皇太子夫妻(現天皇皇后両陛下)による親善訪問 対日感情が緩和される |
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1972年 | 昭和47年 | シスター・テレシア海野(1990死去)による日系人の救済始まる | |
1974年 | 昭和49年 | ルバング島で小野田元少尉発見さる | |
1976年 | 昭和51年 | マニラ日本人会設立 | |
1981年 | 昭和56年 | フィリピン日系人会設立 | |
1984年 | 昭和59年 | マニラ会設立(大沢清氏会長) | |
1990年 | 平成2年 | 総人口6056万人 | |
1992年 | 平成4年 | 在留邦人4,219名 (内永住者678名) |
[補足]
*1:
1640年代の日本人居住地崩壊によって,在比日本人はフィリピンの土に戻ったとおもわれますが,想像を飛躍させると,現在のフィリピン人の中には僅かなりとも,その頃の日本人から受け継がれた血が混じっているのではないかと予想されます。
そう思うと,フィリピンがより身近に思えるのは,わたしだけでしょうか。
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*2:
1888年の領事館設立は,実質上の必要性は無かったが,スペイン領事の横浜駐在申し入れに対する相互乗り入れの見地から行われました。
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*3:
唐ゆきさんの移民はほとんど違法で秘密裏に行われたため,正確な人数が把握されていない面があります。
が上記の唐ゆきさんに関する数字はフィリピン政府による実状調査の類により把握された数字で,ほぼ正確なものであると想像されます。
当時の日本の法律では女性は留学や移民者の配偶者としての移民しか認めていなかったため,唐ゆきにされる女性は誘拐に近い行為で集められ,貨物船の船倉などに隠され,密入国させられました。
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*4:
ベンゲット移民は,正しくは移民ではなく1年契約の契約労働者でした。
この工事は1900年に始まり,最初はフィリピン人,その後フィリピン人+中国人で工事を行いましたが,結局失敗し,当時の工事主任である米人少佐の発案で日本人の起用が決められ,日本から多数の労働者を入れて行われ,1905年に完了しました。
この工事で日本人労働者から約700名の犠牲者が出ました。
この時期の移民者はほとんどが労働移民で,ベンゲットだけでなく,フィリピン内で行われた米国による各種のインフラ整備に貢献しました。日本から労働力を呼ぶ必要があったのは,工事に必要な熟練技能職がフィリピン内では不足していたためでした。
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*5:
日本人会により唐ゆきさんが排除されたのは,それまでの農夫/工事人夫がメインの移民から,会社を表に出した企業人が増えてきて,商売上日本に対するイメージが下がるのを恐れてのことでした。
元々は売春宿を経営していた人間の多くも,金が貯まると「表」の会社を起こし,その後は排除側へ回ったようです。
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