| Menu |

Macintoshの灯を消すな!

[第一回]

Macは何故使いやすいのか

2000年9月3日
Yoshiki(DreamField)

Mac OS X批判が、あるいは賞賛の声が、あちこちで上がっていますが、私にはそのほとんどが的外れなことを言っているようにしか思えません。そこで、ここで基本に立ち返って、何故Macが使いやすいのかを論じてみたいと思います。

Macは何故使いやすいのでしょうか?人によって、色々な理由が思い付くと思います。でもそれは、たった一つのことに根ざしていると思うのです。それは、目の前に実際に物があるかのごとく感じられるように、努力を重ねたGUIです。こんなGUIは、他にありません。

これを実現するために、Macで最も重要な位置を占めているのがFinderです。Finderは、他のWindowシステムとどこが違うのでしょうか。Macではデスクトップにハードディスクが見えます。CD-ROMを入れれば、そのCD-ROMが見えます。そして、これを開くと中身を表示したウィンドウが現れます。これは、本当に目の前にある、ただ一つの物として扱われます。だから、絶対に中身が別の物に入れ代わったりはしません。それはそうでしょう。実際に目の前にある物が、他の場所にある別の物と突然入れ代わるわけがありません。閉じれば、元のハードディスクやCD-ROMに戻ります。決して忽然と消えたりはしません。それはそうです。開いている本を閉じたからといって、その中身は見えなくなりますが、本自体は決して消えたりはしません。そして、このウィンドウと同じ物を、もう一つ開く手段はありません。元のハードディスクを開いてみても、同じウィンドウがアクティブになるだけです。実際に目の前にある物は、コピーでもしない限り、決して二つに増えたりしません。だから二つ開くわけがないのです。MacのFinderは徐々に進歩してきましたが、この点は徹底されています。例えばSystem7以降では、リスト表示にした時に階層構造を表示できますが(三角ボタンを押すと、中が開いて見えるあれですね。)、この階層を表示したフォルダーを開いて別ウィンドウで表示すると、その階層は自動的に閉じてしまいます。一つの物が勝手に二つに増えるわけがないから、同じ物が画面上の二ケ所に現れるはずがない。これが徹底的に守られているのです。そして、このFinderは全ての土台になっています。画面上のデスクトップに、実際に物が置かれているのです。そこに置かれているドキュメントを開くと、アプリが起動して中身が見えるわけです。だから、Finderだけは特別な存在です。常に全面を被っているのは、このためです。

一方、他のウィンドウシステムはどうでしょうか。Mac以外のウィンドウシステムでは、実際に物がその場にあるかのごとく感じられるような努力はしていません。と言うより、そんな発想自体無く、プログラムの立場から整合性が取られるように設計されています。使用者には直接見えない、どこかにファイルシステムは存在しています。そして、ウィンドウはそれを様々な形で覗き見させてくれます。つまり、ウィンドウは覗き窓なのです。だから、同じ内容を表示しているウィンドウがいくつでも作れたり、TVを消すように突然消えたり、チャンネルを変えるように表示している中身を変えることができてしまうのです。ある意味、マルチディスプレイと言っても良いかもしれません。Windows95では、Macの真似をして、その場にあるかのようなふるまいが大分追加されましたが、その後の拡張を見ていると、単に動きをマネただけで、その本質はまったく別物であることが分かります。UNIXのウィンドウシステムも、最初からそういう発想自体ありません。プログラムが中心の考え方ですから、これは当然のことでしょう。驚くべきことに、Mac以外のウィンドウシステムは、現在のメジャー所は全部こうなのです。つまり、Mac以外の代わりはいくらでもあるのですが、Macの代わりは無いのです。

さて、ではどちらのウィンドウシステムがより使いやすいのでしょうか。これは目的にもよりますので、一概には結論付けられません。ですが、少なくとも私はコンピュータを道具として扱っている時には、目の前に物があるかのごとくふるまってくれた方が遥かにストレスは少ないです。例えば、絵を描く時にファイルシステムのことなんか意識したくはありません。絵を描く時には絵に集中したいんです。これがプログラムを組んでいる時でしたら、話は別です。プログラムとファイルシステムを意識することは、ベクトルが同じなので、負担にはならないからです。でも、コンピュータを道具として役立てている時は、そうではありません。違うベクトルのことを同時に行うと言うことは、うまいたとえが思い付かないのですが、絵を描く時に、一々絵の具の一本一本を書類で申請して手に入れないといけないようなものと考えてください。慣れれば楽々かもしれませんが、できればやりたくはありません。私だったら、胃に穴が開きます。

以上のように、私にとってMacがMacである条件は、目の前に実際に物があるかのごとく感じられるように工夫することを設計思想の根底に置いていること、ただそれだけです。その他の様々な使いやすい点は、これを根っことした枝葉だと思っているからです。従いまして、これが覆ってしまったら、それは最早私にとってMacではありません(Macと言う名前が付いていても。)。実は、見た目や操作性なんかどーでもいいのです。それがどんなに変わっていてもかまわない。Finderが似ても似つかなくてもいい。ただ一つ、この基本原理さえ守られていれば。

さて、Macの次期OSである、Mac OS Xはどうでしょうか?まだ正式に出荷されていないのですから、分かりませんね。ただ今は、Macではなくなってしまわないことを、祈るばかりです。

2000年9月3日
Yoshiki(DreamField)

補足1:GUIの種類はMacとそれ以外しか無いような書き方をしましたが、もちろんそんなことはありません。ただ、現在のメジャー所は、見事にその図式に治まっているように思えるし、その方が分かりやすい文書になると思ってそうしました。現実には、大多数の覗き窓と、それ以外の少数派といったところでしょうか。でも、その少数派は、私が知り得る限りはみんなMacと思想が違いますので、Macの代わりが無いということは変わりません。それに現実問題、自分が使うアプリが乗っていなければ、何の意味も無いのですよ。アプリあってのOSですから。

補足2:実は、目の前に実際に物があるかのごとく感じられるようなGUIにも弱点はあります。一般に大量にファイルを扱わなければならない事態には弱いようです。ただし、Macにおいては、最初からそうならないように、アプリも工夫されていますし、使う方だって工夫します。他のOSから見てここが駄目じゃん、と言われるようなことは、実は最初から回避されている場合も多いのです。だから、片方のOSしか知らない人同士が議論になると、話がまったく噛み合わず、気分は形而上の世界になりがちです。

ACCESS COUNT:

| Menu |

Last Update September 3rd, 2000s
Maintained by Yoshiki@nerv.ne.jp.
All rights reserved. Copyright (C) 2000 Yoshiki KOJIMA