Nanalopper





 
 
去る2002年8月16日、
半世紀の歴史に幕を閉じた益田競馬。
最終日にはこの日本一小さな競馬場の最期を
見届けようと同競馬史上最多の4621人もの
ファンが強い日差しの中で熱い声援を送り、
二度と戻らない夏を惜しんだ。

そして、ファンにまじって最後のレースを
見つめる老人がいた。
ピーター・ハンコック。
彼こそが益田競馬開設の祖であり、
誰よりも益田競馬を愛した男。
そんな彼の口から益田競馬秘話が語られる。


ピーター・ハンコック 
1918年11月16日 アメリカ生。
米で騎手として54勝をあげる。
1942年に落馬事故で騎手を引退、競馬ジャーナリストを経て1943年に来日。以後、益田競馬開設に携わるなど、スーパーバイザーとして日本の地方競馬の発展に力を注ぐ。



――55年もの間、お疲れさまでした。

ハンコック ありがとう。なんだか身体の半分を失ったような感じです。益田は私にとって特別な競馬場でしたから。

――益田競馬開設の原動力となったのはハンコックさんだと聞いてますが。

ハンコック 原動力というのは大げさですが、いろいろと私のアイデアをとりいれてもらったことは事実です。私の理想の競馬場を実現するために・・・小さく、ささやかで、馬と関係者と地元の人々が気軽に触れあえるような、そんな暖かい競馬場をね。

――確かにアットホームで親しみのある競馬場でした。かつてはメインスタンドが『わらぶき屋根』だったと聞きます。

ハンコック 私が日本に来て最も感銘を受けた文化の一つが"WARABUKI"です。是非、競馬と日本文化の融合を図りたい、そう思い競馬場の随所に日本伝統の技術を取り入れました。

――築地松もその一つですね。

ハンコック ええ、あれは島根県が世界に誇る素晴らしい伝統です。築地松のノウハウを生かし、ラチの代用として丈夫な生垣を設置しました。残念ながら生垣とわらぶき屋根のメインスタンドは1972年のコース改修で無くなってしまいましたが、築地松はパドックの防風林として現在も残っています。コースは整地されて住宅地になることが決まっていますが、パドックはイベント会場として残すことを検討中です。

――故エリック・フランクル氏が当時の益田競馬場を「世界一美しい競馬場」と称したことはあまりにも有名ですが。

ハンコック 彼ほどの偉大な人物にそう言って貰えたことは、とても光栄に思います。


1947年当時の益田競馬場

ゴール板の奥に見えるのが勝馬投票券発売所。建物はわらぶき屋根で、コースの内側に位置する。コースとの間は生垣で仕切られており、島根県伝統の防風林である『築地松』の技術が生かされている。

Photo - P.Hancock



――当時の競馬場を、私もこの目で見てみたかった気がします。さて、開業時の苦労話などありましたらお聞かせください。

ハンコック 苦労話というか、すべてが手作りでぶっつけ本番でしたからね。鳥取砂丘から徹夜で砂を運んできてコースを作って。ゲートなんて竹製でしたし。とりあえず馬を走らせて馬券を発売して、それで精一杯でした。


――その勝馬投票券は手書きでしたね。当時としても全国で益田だけだったように記憶していますが。

ハンコック 当時は予算も無かったのでとりあえず手書き馬券でスタートしようということで。しかし、それがアットホームな雰囲気で良いと好評でしてね。益田競馬らしいといいますか。

――馬券売りのトメおばあさんといえば益田競馬の顔でしたものね。

ハンコック 彼女がいてくれなかったら益田競馬はもっと早くに破綻していたでしょう。

――手書き馬券で、偽造などの問題は起こりませんでしたか?

ハンコック 良くも悪くも小さい競馬場ですからね。トメさんが、誰がどれだけ買ったかは全て覚えていてくれましたし、そういう問題はほとんど起こらなかったんですが・・・

――が?


勝馬投票券

勝馬投票券はすべて手書きで、窓口のおばあさんがその場で番号と金額を書いて発売するパフォーマンスが好評を博した。券は当日限り有効。

Photo - K.I-te



勝馬投票券発売窓口

窓口はここ1箇所のみ。台の上に見えるソロバンは、晩年はお釣りの計算にしか使われなかったが、かつてはオッズ計算にも大活躍していた。

Photo - P.Hancock

ハンコック 大変だったのはオッズ計算ですよ。コンピュータ導入など望むべくもないですからね。締め切りと同時に、大急ぎで集計して、レース終了と同時に、ソロバンで計算(笑)

――ソ、ソロバンですか?(笑)

ハンコック 当時は電卓の性能も低かったんで、ソロバンのほうが早くて確実だったんですよ。

――結局、廃止となった最後の年まで手書きの馬券のままでしたね。資金面の問題ですか?

ハンコック 実はコース改修の際に人件費削減のために自動券売機にしようという話がもちあがったんですが、私が「とんでもない!」と一蹴したんですよ(笑)「そんな味気ない馬券は益田競馬じゃない、手書き馬券の暖かさこそが益田競馬だ」とね。確かに設備投資にまわす資金がないという問題もありましたが、私たちは今でも手書き馬券に誇りを持っています。

――その後もオッズ計算はソロバンで?

ハンコック いや、オッズ計算はさすがにコンピュータを導入しました。ずいぶんと楽になりましたよ!(笑)

――パドックに掲示されている馬体重一覧なども手書きですね。

ハンコック 特に自動化するメリットがないですからね。フルゲート8頭ですから手で書いたほうが早い。しかし、着順掲示板は早いうちに自動化するべきだったと今でも後悔しています。あれで10人は死にましたから。

――10人もですか?

ハンコック 夏はまさに蒸し風呂です、優に50度を超えますからね。『着順の掲示はまだか?』と客が騒ぐので駆けつけてみると中で息絶えていた、ということがよくありました。亡くなった方には気の毒なことをしました。1972年に冷房を入れてからはそういうこともなくなったんですが。


着順掲示板

電光掲示板ではなく、昔の野球場のように数字を書いたボードを内側からハメこむタイプ。夏は内部温度が50度を超え、死人が続出した。

Photo - K.I-te


――その1972年には大規模なコース改修が行われていますね。改修前と後ではまるで別のコースのようです。

ハンコック 1周200メートルのまるで校庭のような競馬場から、1周1000メートルへの、規格に準拠した競馬場へ。あれが良くも悪くも転機だったんでしょうね。

――大切なものを無くしてしまったようにも感じますが。

ハンコック 結果的に見ればそうかもしれない。だが当時は時代が「ケイバ」を求めていた。1周200メートルではもはや「ケイバ」とは呼べない時代になったのです。

――古き良き益田競馬であることより「ケイバ」であることが重要だったんでしょうか。

ハンコック 決断を後悔してはいない。そのおかげでニホンカイローレル、ニホンカイユーノスたちの素晴らしい馬に巡り会うことが出来た。彼らは私たちに夢と希望と自信を与えてくれた。箱庭の中の夢ではない、大きな夢をね。

――1990年代に入り、バブル崩壊、中央競馬のアラブ廃止と激動の時代を迎えていくわけですが。

ハンコック それが時代の流れということです。もう益田競馬クラスでは商業的に成り立たない情勢になっていきました。他の地方競馬場も例外ではありません。ですが私はこの半世紀、甘く切ない、そういう時代をこの場所で過ごせたことを誇りに思います。

――すべては時の過ぎゆくままに、ですか。


晩年の益田競馬場

1997年撮影。メインスタンドはコースの外側に移設され、ゴール板の奥、わらぶき屋根の建物があった位置は駐車場になっている。

Photo - K.I-te



夢の跡

廃止後の益田競馬場前は行き交う人もなく・・・。

Photo - K.I-te

ハンコック 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

――まるで人生のようですね。

ハンコック そうではない。すべての人生が益田競馬そのものなのだ。

――誰もの人生のすべてが、ここにあったということですか?


ハンコック 少なくとも、私はそう思っています。

――最後に、なにか益田競馬に寄せる思いなどがありましたら。

ハンコック つい昨日、益田競馬の後を追うように亡くなったトメさんの御冥福をお祈りします。お疲れさま。すべての関係者とファンのみなさま、ありがとう。

――今日はお忙しい中どうもありがとうございました。

2002.08.18 益田競馬場跡地にて



インタビュアー:K.I-te
取材協力:益田競馬場、益田市
※この話はすべてフィクションであり、実在の人物、施設とは一切関係ありません。