スナックの周りで

皆様お元気ですか?・・・と書いて指が止まってしまった。実はなにか挨拶を書くつもりだったが、やはり 慣れないことはするもんじゃない。すぐ本編に入るのだ。最近自宅でパソコンに向かうとすぐ韓国語の雑記 を書かねば、という気になってしまって笑ってしまう。誰も頼んじゃいないのに。さっきもこの文章を書くのに ヨンピル(ハングル入力用のフリーソフト)を起動して、とりあえず日付を書いて、はて自分は何をしておるのか? ・・・まぁ、そんな日々である。

すべての原点だった韓国スナック(ところでこんな呼び方でいいんだろうか?)からは、すっかり足が遠のいている。 ママの店は2軒あって、「ローズ」という名前の方が1年とちょっと前(現在98年3月)から半年近く 通った店で、もう1軒が「姫路」といって、これはごくたまに顔を出す程度である。ローズはカウンターだけの 店で、ボトルが入っていれば5千円で飲める。姫路は逆にカウンターがなく、韓国方式でセットいくらなので ボトルキープはできない。焼酎ならセットで1万円である。こっちに顔を出すのはほとんどママへの義理だった。 ローズにほとんど行かなくなったので、ちょっと穴埋めのつもりで高い方へ顔を出すのである。 高いと言ってもアガッシ(アジュンマも)のいる韓国関係の飲み屋としては安い方かも知れない。 その辺は価値観の問題なので「高い!」と思う人は行かなくてよろしい。自分は韓国語が恋しくなると行く。 自分の部屋で韓国語放送が見えるとはいえ、生のやりとりにはかなわない。

最近そのスナックに変化があった。いや、スナック自体はそのままだがママの周囲がちょっと変わった。 その辺りを書いていこうと思う。1つは、ママの娘と息子が急に帰国したこと。もう1つは昨年末に来日したヒョン がこれまた急に遊びに来たこと。前にも書いたが、ママの弟をヒョンと呼んでいるだけで、それが名前ではない。 そもそもは男が自分の兄をこう呼ぶ。ついでに書くと女が自分の兄を呼ぶときはオッパ、姉の場合は男ならヌナ、 女ならオンニと呼ぶ。それらは「先輩」とか「親しい年上の男(女)」の呼称に使える。普通子供の名前のあとに アッパ(お父さん)、オンマ(お母さん)をつけて呼ぶが、自分はヒョン、ヌナ、と呼ぶのが気に入っている。 そのヒョンが来るからには自分は行かねばならない。居酒屋へでも案内しなければならない。 ソウルでアガッシ付きの店に連れていってもらってるのに、自分は居酒屋でいいんだろうか? これは仕方がない。そんな店(日本人の)知らないし、夫婦で来ているし。

まぁ、そんなことをダラダラ書こうと思う。

突然の帰国

ママの娘は自分の最初の先生と言ってよい。1年前、日本語があまりしゃべれないその娘と、なんとか 話をしようとしたのがいいエネルギーになった。スナックのカウンターの中でいつもヒマそうにしていて、 その姿、その仕種に自分は「異国から来て頑張っている女」を見たのだ。・・・なんだかそう思ったのだ。 下手な韓国語で笑わせるのがとても心地よかったのである。

韓国に行くまで自分にとって韓国語とは、イコールその娘、スヨンだったのである。 ここでスヨンなんて書いたが、実際はスヨンッシィ(スヨンさん)と呼ばないと勘弁してくれなかった。 近所のスーパーでバッタリ会ってコーヒーをおごった以外に2人で会うことは結局なく、 男女としてはちっとも面白い関係ではなかったが、自分は感謝している。前にも書いたが、長い時間 いらいらせずに自分の韓国語につきあってくれる韓国人はめったにいない。 このスヨンは、1年前のまるで話にならないレベルの自分の韓国語を根気よく聞いてくれ、そして 教えてくれた。まぁたまには耐え切れずに「日本語で言って!」ということもあったのだが、 あれだけ通ってもじっと聞いてくれたのだから、優しい子なのだ。韓国語の勉強を始めて間もない人が いたら試してみるとよい。どんな店でもいいから韓国人の店員に話し掛けて、しばらく会話してみると わかる。「まぁ!韓国語を学んでいらっしゃいますか!」(直訳)とニコニコしてくれるのは最初のうち だけだ。(笑)

スヨンはしかし、日本語を練習したいので、自分の韓国語に日本語で答えるのだった。そのため、 言いたいことはなんとか言えるが、相手の言うことがわからないという、偏った上達をしてしまった。 韓国に初めて行って「耳を鍛えなければ」と痛感したのはこのためでもある。店では常連客が次第に 自分から遠ざかった。それは自分が話す言葉の、日本語/韓国語の比率につれての変化であったから、 実に愉快だった。新規の客は自分の言葉を聞いて韓国人と思ったのだろうか。スヨンが自分に向かって 日本語を話すのだからそれはないが、会話の片側だけ意味が分かるというのは、たぶん聞いていて つまらないものなのだろう。初期に何度もからまれてクダをまかれたのが、嘘のようである。

スヨンは日本で生きて行くつもりはまったくなかった。いや、なくなっていた。最初の数ヶ月で自分は 日本に合わないと判断したのだそうだ。いつも韓国に帰ることばかり考えていた。また、もともと人見知り するタイプで、たぶん親しげに会話ができた日本人は日本語学校の先生と自分だけであった。 日本で暮らして日本語を学ぶというメリットをあまり活かしていなかったのである。 自分が、笑われようが嫌がられようが、韓国語をひとつ覚えるとすぐに店で使ってみるのに対し、 スヨンの日本語はちょっと伸び悩んでいた、と本人が後に教えてくれた。

このたびの突然の帰国は、今の自分には深刻な衝撃ではないのだが、もし1年前だったなら こんなに冷静ではいられなかったろう。当時、一生を共にしたいのではなく、刹那的欲望でもなく、 ちょっと不思議な感情でスヨンに韓国語をぶつけていたように思うが、その姿勢はそのまま韓国に対する姿勢で あって、全韓国人への姿勢であった。スヨンの出方ひとつで「韓国人はすばらしい」と感じるか 「韓国人はろくなやつらじゃない」と感じるか。結局はそのどちらでもなく、自分で韓国へ行ってみることに なって、自分にとってもう韓国=スヨンではなくなり、「大韓民国とは」とか「韓国人とは」等という大風呂敷は 広げずに、「いろんな人がいるのだ」という当たり前の結論(今のところこれしかない)を得てしまったが、 あの頃スヨンが突然帰国していたら、韓国語はそこでストップし、韓国にも行かず、インターネットにも 興味を持たず、・・・このホームページは存在していない。

もちろん当時知っていた韓国人はスヨンだけではない。ママがいた。ローズのアジュマガッシもいた。 しかし韓国語を教わったのは日本語が不自由なスヨンだった。しかも若くてきれいならスヨンが中心に なるのは当たり前だったろう。自分がどんなに真面目くさって韓国語、韓国語、と言ってみても、 最初の最初はスヨンが気に入ったからこそである。

ただし、まっしぐらにスヨンに向かって、韓国に向かって、突き進んだのではなかった。昔からの韓国への 印象というものがある。いくら口先できれいごとを言っても、「どうせ韓国人は(北朝鮮人も)オレ達を憎んでいる」、 しかも現代に生きる、「何もしていないオレ達」を含めて、という先入観があった。あってもしょうがない。 自分で動かない限り、誰も教えてくれないし、教えてくれても耳を貸さなかったろうから。 今では笑ってしまうような話だが、本当におっかなびっくり近づいたのである。差別感、被差別感ももちろん あった。韓国へ行ってハラボジに会う前に、もしローズに質の悪い韓国人客でもいて、自分に難癖をつけるなり ケンカをふっかけるなりしていたら、「お前らがそう出るならこっちだって・・・」という気持ちになるのは たぶん簡単だったと思う。そのくらい、韓国への初期の友好的姿勢は微妙なものだった。今ならさっき書いたように 「いろんな人がいる」と思うだけである。「○○人はこうだ」なんて話は、酔っ払ったときの冗談にも言いたくない し、そう言い切る人は信用できない。

ママの娘・スヨンは斯様に大きな存在だったのだが、徐々に自分の中では小さくなっていた。決して嫌ったのでは ない。韓国人代表の座から1人の韓国人に戻っただけである。先日も韓国土産を渡したし、韓国で会えば案内もしてくれる だろう。しかしちょっとがっかりしたのは、黙って帰ってしまったことである。急に帰国するなら電話の1本でもよこせば いいのに、と思う。このあたりのスヨンの心の動きは、韓国で落ち着いたころに聞いてみたい。今年の夏には 帰国が決まっていたので、あと少しだった。よほど韓国に帰りたくなったか、就職を考えて年度末までに帰ったか、 ここで自分が考えてもわからない。ただ、韓国語を教わった、練習させてもらった、そのお礼ぐらい日本で言わせてもらいかった。

ヒョン・ヌナ来日

それにしても急な来日だった。何か事情があるのかも知れないが、そこまでは詮索できない。気分転換みたいなものだと いう内容のことを言っていたが。何も知らずに、ずいぶんご無沙汰だからと店を覗いたら、上述のように娘とその弟も帰国、そして ヒョンが遊びに来るという話が出てきて、自分はちょっと混乱した。その日はアジュマばっかりの店にしては珍しく若い (そう見えただけだったが)アガッシがいて、本当はママの娘に採点してもらおうと持参した身辺雑記を、感動的に まじめに直してくれて、なんだか気持ちがあっちへ行ったりこっちへ来たりしてしまった。

そして来日。たぶんハラボジのときと同様に、ママの妹がとりあえず仕切るような気がしていたが、案の定すぐには 会えなかった。3日目にようやく電話が来たがあいにく残業中で、恐ろしくゆっくりした、かえって分かりづらい 韓国語で(笑)メッセージが残されていた。その夜、とりあえずママに電話をしてみたら姫路へ来いという。客として 行くつもりはなかったので、「客じゃない」「客じゃない」と言うのだが、おしぼりを渡され、眞露のキャップが開けられ、 「この子、今日から入ったの。休みの日にどこか連れてってやって。日本語も教えて。」と、ここの開店以来たぶん初めての20代 アガッシを席につけられ、まぁそれはそれで気になりながらも、それでも自分は「車で来たし」「今日はヒョンを待ってるだけだし」 と言い張り(笑)、結局金は払わなかった(笑)。

そして少し酔ったヒョン、ヌナ登場。心なしか元気がなさそうに見えたのは、こっちに「IMF時代」という先入観が あったからかも知れない。土産だと言って、海苔とパク・チニョンのCDをくれた。その夜は翌々日の約束だけして帰った。 アガッシに「今日はごめんね、また来るから」と心にもないことを言いつつ、しかし後日しっかり行くのだが、ともかく この週は仕事とヒョン達への気遣いでへとへとになってしまい、翌週は扁桃腺を腫らせて会社を2日休むのである。(笑)

週の真ん中、ちょっと連絡ミスがあってなかなか会えなかったが、ヒョン夫妻と居酒屋へ行った。連絡ミスとは、ママに 教わったママの妹のマンションの電話番号が間違っていて、どこかの店にかかったのだ。電話に出たのは日本人でも韓国人でも ない女で、話がまるで通じない。「私ハ日本語ヨクワカリマセン、マダ誰モ来テマセン」を繰り返すだけだった。ちょっと 韓国人の日本語っぽくないなという感じはしたが、そこはママの妹のところ(妹の店?だと思った)だから韓国人だろうと 思い込んで、韓国語で自分が姫路のママの知り合いで、ママの弟がそこにいるだろうから替わってくれと、一生懸命に 言うのだが、「アナタノ言葉ガワカリマセン」と言われ、かなり傷ついた。が、それは当たり前だ。たぶん東南アジアの 人なのだ。ママに電話してもう1度聞くと、まるで違う電話番号ではないか。自分はいったいどこの店に電話をかけたのだろう?

地元だから店はいくつも知ってるのだが、日本語がほとんどわからない2人が気楽に韓国語で話せる店というと、 結局チェーン店の居酒屋になってしまった。こっちが気を遣う必要はなかったかも知れないが、たとえばカウンターがメインの 静かな小料理屋風居酒屋のようなところは、こっちも落ち着かないのだ。料理はその方がうまいんだけど。

「おお!しゃべれるのか!すごい!」と去年の春に言われた自分の韓国語は、今は「なんだ、こんな言葉もわからんか」と言わせる レベルなので(つまり2人は、当初の過小評価から一気に過大評価してくれている)聞き取れないところは適当に ごまかしたり話題を変えたりと、相変わらず冷や汗ものだが、飲んでると口がなめらかになって 約2時間、あれやこれやと話し込んだ。旅行記4で、ハラボジが自分に紹介しようとしたのは男らしいと書いたが、 実は幼稚園の先生をしているアガッシだった。これは少し前にママに聞いていたのだが、そうするとやはり、あのとき さっさとモーテルを引き払ってしまったことがちょっと悔やまれるのだった。あのときハラボジは確かに日本語で 「〜のムスコ」だと言ったのに、「ムスメ」の間違いだとは・・・で、そのアガッシがどんな娘で、次に行くときには 会えるのか、日本語はどの程度わかるのか、そんな話をかなりした(笑)。こういう話はスラスラしゃべれて向こうの 言葉も聞き取れるから不思議だ。

どうも話を聞いていると、日本に遊びに来てからロクなところに案内されてないようだった。オートレースにパチンコ屋、 なんでもない百貨店、葛西臨海公園、あとは近所ばかり。「面白かった」と言うのだが、ヒョンとヌナと息子のテジュン(幼稚園児) がかわいそうになった。が、「おまえも韓国でそうだったじゃないか」と言われてみると、確かにそうだったが。 それで、週末に自分が車でどこかに連れて行くから、時間を作って欲しいと頼んで、ドライブすることにした。 前夜に連絡を入れるからという約束だった。

その夜、ヒョンの電話がなかなか来ないので(ちょっと動機に嘘があります)姫路に出向き、閉店まで飲んでしまった。 かなり遅い時間にママが現れて、ヒョンから電話が来ないことを伝えると、どこかへ電話をかけてくれた。 電話口に酔ったヒョンの声。・・・たぶん翌朝電話する、という内容だった。こっちも酔っていたので 約束ができたようなできないような状態だったが、あまりきちんとまじめに約束するとあとでイライラするので、 (・・・わかる人だけわかってください)曖昧な、実現の可能性30%ぐらいのつもりで電話を切った。

が、さすが我がヒョン。しっかり翌朝10時、電話でたたき起こしてくれた(笑)。わりと近所の公園まで 車で連れて行ってくれと言う。確かパンマル(目下に使う言葉)ではなかったなぁ・・・今回の来日中、なんとなくヒョンに 元気がないと感じたのは、ときどき出てくる丁寧な話し方のせいだったかも知れない。年末に会ったときはもうちょっと 自分に対して上からものを言っていたように思うのだが。まぁともかく、自分は即座にOKした。

体にあまり力が入らず、なんだか変だなぁと思いながらも、ママの妹のマンションへ向かった。 出てきたのはヒョン、ヌナ、テジュン、ママの妹、その娘(小学生)で、ミラージュはぎゅうぎゅうに なった。ママの妹という人は、ローズで何度かみかけ、ハラボジ来日のときにちょっと言葉を交わしただけで、 顔もうろ覚えだった。その子供もローズで見たことがあり、向こうも自分を知っていると言っていた。 日本語は完璧である・・・ということは韓国語はいまひとつかな、と思ってヒョンに聞くとその通りだそうだ。

行く先を指定されたので悩まずに済んだが、自分はもうちょっと遠くまでのドライブを想定していたので ちょっと拍子抜けするような距離だった。その公園はまぁ、子連れでにぎわう田舎の自然公園といった程度のもので、 やっぱり「こんなところでいいのかなぁ」と思ったが、子供がはしゃいでいたのでいいことにした。 韓国語ウィークの最終日ともなると、自分も冗談を言ったりしていい調子なのだが、やはり向こうが自分の 程度をよく理解してくれているからこそ成り立つ会話でもあった。テジュンの手をひいてぶらぶら歩いて 弁当(コンビニのだが)を広げて、とてものどかなほのぼのとした数時間だった。

GWのあたりにまたソウルで会おうということにして、別れた。GWなんて韓国にはないから4月の終わりから 5月の初めまで、なんて言い方をしたが、日本の会社員は休みが多いなぁと思っているに違いない。 現在、比較的休みを取り易い職場、自分で緩急をつけられる仕事にあたっているからいいが、いつ担当業務が 変わったり、異動になってしまうとも限らない。行けるうちに行っておくしかない。そんなことを説明できなかった のがちょっと心残りだった。韓国が大変なときに、自分がのんきに遊んでる印象は与えたくなかったのだ。 それは自分のイメージ、日本人のイメージのためというより、これからソウルに帰って職を探すヒョンの士気の ためだった。どんな商売でもいいから早く元気に働いてほしい。

ヒョン一行が成田を飛び立つ月曜日、自分は扁桃腺を爆発させて寝ていた。次の旅行では抗生物質入りの扁桃腺の 薬を必ず買って来るつもりだ。以前呉光朝さんが買って飲んだ(呉光朝さんのHP参照)、あの薬を買おうと 堅く決めている。今から約1ヶ月後に5度目の旅行をする。他の国?・・・それが、まださっぱり興味がない。 そして韓国が好きか嫌いか、まだよくわからずにいる。仲良くなった人だけは好きだ、なんて主張がいつまで通用するのか わからないが、まだそのぐらいしか自信を持って言えないのだから仕方がない。それでついつい深く考えようとすら していない。確かに民族差別的な発言には「ムカッ」とくる。韓国に限らずアジアより欧米に媚びを売る風潮も気分が悪い。 英語以外の外国語を学ぶ際の環境の不備も気に入らない。・・・が、「韓国好きの○○君」などと言われるとなぜか 「カチン」とくるのである。こんなことまで書くつもりじゃなかったが、最近なにかにつけて考えていることの1つが、 「自分は韓国が好きなのか?」ということなのである。それは当分、答えが出そうにない。

スナックそのものについても、もっと何か書こうと思っていたが、それは別な機会に譲る。


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