東北、消え行くローカル私鉄を訪ねて

 

今こうして自宅でこの文を書いているが、昨日までの旅の出来事を振り返りながら、ふと、夢でも見ていたように思う事がある。

大袈裟に聞こえるかもしれないが、これはいつも旅から帰って思うことだ。それ程日常生活との差が激しいのだろう。私の場合他人から見れば、ただ汽車に乗って喜んでいる輩にしか過ぎないのかもしてない。しかし私から言わせればいわく、お仕着せの観光地巡りばかりをして一体何が楽しいのだろうか。勿論私とて風光明媚な眺めや、その土地でしか味わうことの出来ないものを楽しみにすることは決してやぶさかでない。但しそれは、出来ることなら自分自身で見つけ出してしかるべきだし、叶わずともその努力はしてゆきたいものだ。

本屋にいけば様々な旅行ガイドブックが出回ってているし、テレビを見れば必ずといっていいほど「こだわりの…」と言った陳腐な台詞で始まる旅行番組が氾濫している。確かに、それらを見て旅に出たいと思うことはあるだろう。かといって見た通り、聞いた通りに自分が旅をする必要はないと言うことだ。「百聞は一見にしかず」とは、紛う事無き真理である。しかし自分の目で見ることは見ても、そこに映った風景がテレビで放映されていたものと同じであることに感動してはいないか。それならば自宅で横になってテレビを見ていればいいのだ。浅薄なものであろうがなかろうが、一般の人にとって旅とはそういったものなのだろう。その点、手前味噌ではあるが、私の旅は企画、立案、計画、実行をすべて自分で行う。結果的にその旅が面白かったかどうかは別にして、自分で納得できるのはありがたい。

そもそもこの旅のきっかけは、千葉県に新車の納車にいくことにあった。普通ならば納車したらすぐに、新幹線で広島にとんぼ返りする所だろうが、折角遠くまで行くのだから、矢張り少し位は寄り道をして帰りたい。人に言わせるならば、今回のように千葉で所要があり、青森に寄って帰るのは寄り道ではないとの意見が圧倒的だろう。遠回り、それは分かっている。しかし折角の機会ではないか。そう滅多に遠方納車があるわけではないし、遠回りする分の差額を自分で払えばいいのだから誰にはばかることはない。

そんな訳で今回のたびと相成った。さて、そうすると目的地を何処にするかと言うことになるが、遠回りに寄り道するならば、これはもう北海道か東北地方しかあるまい。となると、どちらを選択するかと言うことになるのだが、北海道は去年家内と一緒に列車で回った。しかし海を渡って北海道まで行ったと言うのもなんとなくかっこいいし、矢張り北海道は何度行っても魅力が弱まることはない。そうなると問題なのが費用の面で、3万円の旅費を予定している今回は、少々苦しいことになる。それに出来ることならば、たどる行程は一筆書きになるようにしたい。これには理由があり、JRの運賃は長距離になればなる程、距離に対する価格が安くなるからだ。これを専門用語で「長距離逓減制」という。

一方東北地方ならばその一筆書きが可能になる。しかも中小の私鉄が散在しており、その中の南部縦貫鉄道はこの平成9年5月5日をもって廃止になると言う。昔は余り私鉄には興味を持たなかったのだが、こうした中小の私鉄は人知れず廃止になる場合が多く、またその鄙びた雰囲気も独特の味わいがある。とみに最近は、機会を見つけては各地方に乗りに出かけている。東北地方、殊に青森県には多く存在し、5社7路線が活躍している。

それに広島に住んでいる人間にとって、東北地方とは決して馴染みのある土地ではないし、積極的に行ってみようと思うところでもない。矢張り北海道に目が行ってしまう為だろう。地元の人には失礼かもしれないが、結構そんなものだと思う。

そんなことから今回は青森を中心に旅することとなった。

 

新車の納車は午前10時過ぎに無事終わり、半日を都内でぶらぶらして過ごした。

さて、今回の本当の旅の始まりはここ上野駅からだ。しかし列車に乗る前にやっておきたいことがある。出発は午後10時過ぎ。それまでには後1時間、何としてでも風呂に入りたい。昨日一晩中車を運転して疲れており、ましてや明日も時間的な余裕がなく風呂に入れそうにないからだ。明日、明後日、自分の体臭の事を考えるとうんざりしてしまう。勿論消臭スプレーは持参しているが、出来ればそんなもののお世話にはなりたくない。となると銭湯でも探さなければならない。上野駅近辺は都内でも割と下町のような雰囲気のある所だから、何軒かは見つかるに違いない。重い荷物を持って歩き回るのは御免被りたいが、簡単には見つからない。そうするうちに体中から汗が噴き出してきて、尚更風呂に入らずにいられない。諦めかけていたところに警察の派出所があり、警官に道を尋ねる。要領よく教えてくれたのはいいが、その銭湯まで歩いて15分程度かかるとの事で、列車の発車時刻が迫っている事もあり、結局今晩は諦めることにした。

カメラバックは肩に食い込み、生ける屍のように上野の街を歩く。急にビールが飲みたくなり、そういえば、と、まだ食事をしていないのに気づく。何軒か物色し、客の出入りがあり中の様子が分かる店に腰を落ち着けた。とりあえず生ビールを頼み、暫くしてステーキ丼なるものを注文した。私は普段あまり酒を飲みつけないが、この時ばかりは一気にジョッキを空にした。久しぶりにうまいと思うビールであった。2杯目を頼む頃合いになって丼が運ばれてきた。ご飯の上にステーキが乗っているだけのものだが、明らかに店先の見本とかけ離れている。肉の厚さはほぼ3分の1。詐欺とまでは言わない。まあ、都内での食事とはこんなモノであろう。さて、その丼をすばやく平らげ、腹まだ六分目位である。酒の肴の小皿くらいは、と思い、蛍烏賊の沖漬けを頼んだが、これが存外珍味であった。

ほろ酔い加減になって上野駅に足を運ぶ。出発までまだ30分ばかりあるが、早めに入場して列車の出入りする様でも眺めていようという魂胆である。夜10時前後、この時間はちょうど夜行列車の出発ラッシュである。臨時列車の「はくつる」を始め、同じく今は臨時列車に格下げされた往年の名列車「八甲田」「津軽」。これらの列車は私がまだ大学生の時代に乗った事があるが、あの当時は座席車だけの客車列車であった。目の前にいるものは電車化され、当時の面影はない。しかも客は少なく一車両に10人も乗っていないようだ。そういえば、上野駅自体も昔と比べればかなり様変わりしている。建物が変わったのではない。そこに出入りする列車が変わったのだ。私がこの駅から急行「八甲田」を利用したのがほぼ10年前。その当時は東北、上越新幹線などまだなく、様々な急行列車でさえ健在な時代であった。特急列車に関しては尚更である。あの目まぐるしく出入りする優等列車はどこに行ったのだろうか。今はその残滓を当時の時刻表に見出すしかない。

そうやって眺めているうちに、目的の寝台特急「はくつる」が入線してきた。この上野駅は頭端式のホームの為、機関車で牽引する客車列車の場合、いわゆるバックで入ってくる。列車の最後尾に係員が乗り込み、先頭の機関車運転手と頻繁に無線でやり取りしながらの作業である。おそらく一日に何回もこの作業をしているに違いないが、その表情には一寸の油断も感じられない。無事定位置で停車。拍手すら送りたくなるような芸当である。

今日は大型連休初日とあって、この列車に限っては満席の様子である。ホームで待つ人も多かったし、車内に入ってからも放送で勝手に空いた寝台に移らないようにとの注意があった。私が切符を手配した時、私の寝台が最後の一枚であると窓口氏に聞かされていたが、誠その通りである。

上野駅の発車が遅い時間の為、寝台はすでに設置されている。指定された上段に潜り込むが、二段寝台とは言え流石に上半身を起こすと天井に頭がつかえる。これでも三段式の寝台に比べればましなものだ。はるか昔、私が高校生のときに乗った三段寝台は、幅が52センチしかなく、全く上半身を起こす事など出来なかった。確かあれは、夜行鈍行「山陰」だった。

寝台特急「はくつる」は、気づかないうちに駅から離れつつあった。上野駅ではもっと派手な場内アナウンスがあるものと思っていたが、少し肩透かしを食らった感じだ。

列車の旅が始まり、ゆっくりと動き出して、ポイントのレールを乗り越える際の不規則な車輪の音を聞くと、気分は次第に日常の生活から離れていく。この感じは何度経験してもいいものだ。ゾクゾクと鳥肌すら立つ。とりあえず旅装を解いて、ビールでも飲みながら車窓を眺める。暫くすると通勤電車が次第に追いついて来て、やがて並走する。お互いに100キロ程度のスピードで走っているはずだが、相対的に止まっている様に見える。時間が止まった様な錯覚さえする。

向こうの乗客の視線が否応なくこちらに注がれる。私はネクタイを解き、煙草を吹かしながら缶ビールを手にしている。今日は土曜日だが、おそらく仕事帰りなのだろう、くたびれた表情で空ろにこちらを見ている。思わずご苦労様とでも声をかけたくなり、ニヤリとしそうになるが、それをこらえる。こうしてみると正に家畜を運搬する貨物列車の様を呈している。向こう側の人もあれこれ思う事はあろうが、明らかにこちらに優越感がある。普段、自分自身が逆の立場にいる筈なのだ。しかし、こういった思いを持つとは、人間、勝手なものである。

しばらく並走すると、向こうは普通列車の悲しさ、次の駅に停まる為に次第に速度を落として行き、そして、止まっていた時間が動き出した。

列車が大宮駅を出ると、車内は本当に満員になった。下段寝台の両側に若い夫婦が乗ってきた。上段の向かい側は、どうやら若い女性のようだ。いずれの客も寝台に慣れていないのか、妙にごそごそしている。私と言えば、カーテンを締め切り、何冊かの本と缶ビールを枕元に置いて、つまみを摘んでいる。本に少し目を通すうちに、程なく瞼が重くなってきた。昨夜からの運転で、流石に疲れが溜まっているようだ。そこで、すぐに枕灯を消して仰向けになった。眠りに陥りながら、いびきをかかなければいいが、と不安がよぎる。

明けて27日。心地よい車輪の音に目が覚める。夢など見る間もなく、深く眠ったようだ。おもむろに時計を見ると、針は6時を少し回ったばかりだった。今回の計画の中で、寝過ごす事がないか少し心配だったが、それも杞憂に終わったようだ。下車予定の三沢駅まで後1時間ほどある。狭い寝台の中でうんうんと言いながら着替えをし、目をこすりながら洗面所へ向かう。いつもそうだが、夜行列車の朝は早い。同様に眠そうな乗客が何人か、通路側の腰掛けを出してぼんやり外を眺めている。そこを軽く会釈をしながら通り抜け、用事を済ますと一気に目が覚めた。私も通路の腰掛けを出してしばし外の様子をうかがう。夜は十分に明けているが、心なしか寒々としている。よく見ると木々にはまだ青葉はなく、広島との気候の差を思い知らされる。ここ青森はまだ、春を待つ季節なのだ。

三沢駅に降り立ったのは7時18分。さてここから私鉄の旅が始まる。まず一番手は十和田観光鉄道。ここ三沢駅と十和田市を結ぶ電車が走っている。三沢駅の改札を抜けると、左手にバスの待合室のような小さな駅があった。じっくり駅の様子を観察したいが出発は7時24分。急いで切符を買い、ホームに駆け込んだ。車両の写真を撮り車内になだれ込むと、待ちかねていたかのように電車は出発した。車両は二両編成で連接部は扉無しの通り抜けになっている。座席はロングシートのみで乗客は五人。動き出した電車は、狭い切り通しを急カーブで右に曲がり加速がつかないうちに最初の駅に停まった。

十和田観光鉄道の沿線は住宅地が点々と続き、電車は住宅の固まっているところで細めに停車していく。こういう地方の私鉄というのは、駅名が具体的であり、なお且つ大雑把である。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、例えば「工業高校前」というのは、地元の人にとっては特定の高校をさしてはいるが、一方他の人にとっては「○○工業高校」なのか分からない。要するに一人よがりの駅名という事だ。こういった傾向が顕著なのがバス停だろう。田舎に行けば「○○宅前」なんてのもあるくらいだ。

電車の速度は決して速くないが路盤の状態がよくなく、線路もあまり整備されていない様だ。外の風景を撮影しようとしても揺れが激しくままならない。どうした事か、線路の路盤の中だけにタンポポが咲いている。まだ緑が少ないこの地方で、タンポポの黄色い道がずっと向こうまで続いている。奇妙な風景だ。

終着の十和田市駅は、私鉄の駅に似合わず立派な二階建てのビルだった。電車はビルの一階部分に到着した。一度二階へ上がって改札を通り、そこから下へ降りるとバスターミナルになっている。一階は売店と呼ぶには少し大きいスーパー、待合室があり、その前に立ち食い蕎麦屋があるのがうれしい。丁度腹も空いてきたことだし、早速天ぷらそばを注文する。取りたてて美味い訳ではないが、矢張り釜から湯気を上げている様子を伺うと食べずにはいられない。悲しい性である。

ここから次の目的地である南部縦貫鉄道の七戸駅には、バスで向かう事になる。幸いターミナルには七戸経由の青森行きのバスが止まっている。バスは広島市内で見かけるような近郊型(前に出口、中ほどに入り口)ではなく、観光バスのような運転席横に一ヶ所だけしかドアがないタイプのものだ。早速乗り込み運転手に行き先を尋ねる。するとこのバスは反対方向に向かうとの事で、満席だったバスの乗客の冷たい視線に追われて、慌ててバスを降りた。掲示されている発車時刻を確認すると、後30分前後は便がない様だ。これでは七戸駅での出発に間に合わない為、タクシーを利用する事にした。駅前のタクシープールには三台停まっており、そのいずれもがエンジンを切って、運転手は新聞を広げている。先頭のタクシーに声をかけるが気付く気配がない。困っていると、後ろに並んでいたタクシーがクラクションを鳴らし、ようやく事無きを得た。

運転手に行き先を告げると、最近こうゆう客が多いとの事。しかし殆どの人は南部縦貫鉄道始発駅の野辺地から乗っているようで、十和田観光鉄道を経由して七戸から乗る人の数は多くはない。現に、十和田市駅での同好の志は二,三人しか見かけなかった。今回の計画でも三沢から乗るこのルートは思案した所だ。

タクシーは高低差の激しい丘や沢を抜け、七戸駅に着いた。駅前は広々、というより殺風景で、砂利の播かれた広場の中に、ぽっかり浮かぶように駅舎がある。無味乾燥な2階建ての駅舎は、コンクリートの吹き付けが素のままで、その外観には出来た当時の面影はなく、今は黒く煤けている。中に入ると、そこは20年前には全国どこの駅でも見られた薄暗い木の作りで、ニスを何度も塗り直されたベンチには、埃が積もり腰掛ける気にもならない。今風の気の利いたものは何もない。廃止に反対する寄せ書きの色紙の黄ばみが、無駄なことはするな、と、語りかけているようだ。切符を買う為窓口に向かうと、そこには木枠のガラス窓があり、少し力を入れてガラガラと引き動かす。窓口氏に野辺地までの切符と、南部縦貫鉄道廃止の記念切符をお願いする。周りを見渡すと外から窺い知れないほどの人がたむろしている。とは言っても想像していたよりは多くない。それもそうだろう、野辺地からはまだ一本しか列車は到着していないのだから。

出発までに後20分ばかりあるので駅の構内をうろつく。駅員事務所は、さながら骨董品の市場のようで、用途の分からないただ古いだけのガラクタも数多くある。ホームに出るとそこには結構多くの人が列車の到着を待っていた。お目当てのレールバスも1両アイドリングしながら出番を待っている。因みにレールバスとは、車輪は普通の列車と同じだが、その上部、車体が道路を走るバスの形をしているものだ。もちろんガソリンエンジンで、自動車と同じようにギアクラッチがあり、警笛に至っては、線路上を走るものには不似合いな自動車と同じクラクションである。ホームは二面あり一応三番ホームまである事になっている。一応というのは、どこにもその表示がないからである。三番ホームのあたりには二両の機関車が佇んでいる。こげ茶色の塗装で40年は経ているような老兵だ。先ほどのレールバスと同様、そこにもレールファンが纏わりついている。ホームで列車を待っている人々を観察すると、レールファンが多いのはもちろんだが、家族連れで来ている人も結構いる。恐らく主人が引っ張ってきたのだろう。とは言っても、家族の皆もまんざらではない様子だ。このように消え行く鉄道に、その間際に乗りに来るというのは、一種、身勝手な行動かもしれない。消え行く側としては、そうなる事態を惹起する前に手助けをして欲しかったろうに。旅を終えて後の5月5日。テレビのニュースを見ていると、この南部縦貫鉄道の廃止を報じていた。それによれば、鉄道の存続をファンが会社に訴え、その声に答えて当初廃止の方針だったものを当面休止として扱うとの事。これはファン並びに地元の人には嬉しい知らせかもしれないが、今、全世界で活発に活動している環境保護運動と同じで、傲慢この上ない行為ではないか。言ってしまえば、おせっかいが過ぎるのだ。他人の親切、大きなお世話、と言うではないか。もちろん存続する事が悪いわけではない。地元の人について言えば、最悪の事態になるまで問題を放置しておいた責任があるし、ファンについては、ただ珍しいからといって廃止するなというのも、実際そうなっても自分は痛くも痒くもないのだからいい気なものである。

とは言っても、かく言う私もその場所に居たのであるから忸怩たる思いがある。

列車到着の時間が近づき、待っている皆の関心が列車のやって来る方向に向かった。林の中からヘッドライトをつけたオレンジ色の車体がヒョッコリ顔を出した。ホームに滑り込むまでの間、暫く直線を駆けてくるが、直線にもかかわらず車体が激しくゆれている。その速度ゆえ、なかなか近づいてこないが、待ちうける客から手招きをされるようにホームに入線して来た。バスと同じようなブザーが鳴って折り戸が開くと、中から詰め込まれた乗客が雪崩をうって降りてきた。待っていた人は慌てて小さな車両に乗り込んでいく。私といえば、はやる気持ちを押さえてゆっくりと乗り込み、車両後部のデッキに場所を確保した。到着まで立ったままになるが、見晴らしが良く写真の撮影には打ってつけだ。座席はロングシートのみで席数は決して多くはないが、鮨詰めになりつつある車内では、数人の地元の老人に席が譲られていた。

車掌が乗り込み、間の抜けた警笛、というよりクラクションを鳴らしてレールバスは動き出した。先ほどの様子から少々の揺れは覚悟していたが、その激しさは生半可なものでなかった。捉まり棒がなければ体ごと飛び跳ねてしまいそうだ。

レールバスは快調に揺れて小川を渡り、きり通しを抜けて、やがて小さな駅、というより停留所に停まる。そこは農道の横に寄り添う様に、待ち合いの小さな小屋があり、レールの枕木をならべたホームでもって佇んでいる。この箱庭のような場所に、是非、雪降る頃に訪れてみたいものだ。さぞツボにはまった絵になるに違いない。

車内の乗客たちは、地元の数人を除いて、皆感傷に浸るように会話もせず、思い思いの方向を見やっている。寡を以って尊しと為す、である。

廃止まで後わずかとあって、沿線にはにわかカメラマンが数多く三脚を立て、レールバスの通過を見送っている。中には、よくぞこんな薮の中にまで入ってきたものだと感心させられる人もいる。

西千曳を過ぎると、東北本線に近づいて行く。もともと、南部縦貫鉄道は東北本線の千曳駅から連絡する私鉄であったが、東北本線の経路変更に伴い、千曳駅の位置も変わってしまった。そのため南部縦貫鉄道も根無し草の状態を解消する為、野辺地駅まで延伸することになったものだ。西千曳からの東北本線との並走も、この為である。

レールバスは最後の直線を、力を振り絞って駆けり、やがて終着、野辺地駅に到着する。9時21分。そこには今まで以上の乗客が待ち構えていた。乗客は皆、名残惜しそうに降りて行く。車掌も心得たもので、切符を回収しようとせず、手渡そうとした客には、敢えて記念に持って帰って下さいと言って渡していた。狭いホームにいる沢山の乗車待ちの客の為、ゆっくり観察することもままならず、そそくさと跨線橋を渡って、次に乗る列車のホームに向かった。

青森へ向かう普通列車は大変混雑しており、立ったまま過ごすこととなった。ローカル線と言えば、列車は空いているように思いがちだが、近頃は編成車輌を少なくして、逆に列車を増発している。これは広島近郊で初めて試みられた方法で、列車を頻発して利用者の利便を図るものである。広島シティー電車方式と言われている。この為、一列車あたりの乗客が増加して、混雑するのである。

緩くしないだ弓の様な海岸が見下ろせる浅虫付近には、温泉宿が多くあり、夏は海水浴で賑わう所である。今日の印象では、晴れてはいるが陰鬱な雰囲気の立ち込める所で、この地が本州の端であることを、無言のうちに語っている。

青森駅は、青函連絡船全盛の頃を思い起こさせるのに十分な風格を備えている。頭端式のホームの先方ではレールが途切れており、かつては、連絡船が函館に向け を解いていた場所だ。一度私も利用したことがあったが、連絡船専用の広大な待合室は、このルートが人々の交通の主流を占めていた時代があったことを、改めて認識させられたものだ。現在でも、北海道に向かう列車は全て青森を経由するのだが、旅客機に奪われた長距離客の姿は、そんなに多く見受けられない。

青森ではゆっくりくつろぐ時間も無いまま、すでに入線していた特急「いなほ12号」に乗り込む。自由席はほぼ満席で、車掌に断って指定席に変更してもらう。次の下車駅、大鰐温泉駅までは30分程度の行程だが、野辺地からの立ったままの状態が意外にこたえた為だ。

青森駅を出発し、暫くすると、それまで一本だった線路の太い束が、東北本線のものと、奥羽本線のものとに、それぞれ分かれて行く。こういう幹線が分かれて行く風景が見られるのは、日本広しと言えども滅多にあるものではない。

奥羽本線に入ってからは、住宅地も早々に途切れ、次第に田園地帯になって行く。線路沿いには、護岸工事を為されていない小さな川が、好き勝手に田畑の間を縫っている。驚いたのは、その川がちょっとした丘に接する所で、丘の頂上近くまで、山肌を侵食しているのだ。しかしこのような自然の川を見かけることは、殆ど無くなってしまった。もし時間があれば、ここで途中下車してこの河岸を散策してみたいものだ。

11時7分。大鰐温泉駅に降り立った。ここで弘南鉄道大鰐線に乗り換える。今まで何度もこの駅を通ったことがあったが、弘南鉄道の古ぼけた車輌を一瞥するだけで、ようやく実際に乗る機会がやってきた。思えば、そうやって乗る機会も無いままに消えていった中小私鉄の何と多いことか。今すぐ思い付くだけでも、岡山の片山鉄道、下津井電鉄、鹿児島の南薩鉄道、京都の加悦鉄道、等々。

愛想の無い駅員から中央弘前までの切符を買い、特徴の無い二両連結の電車のロングシートに腰掛ける。乗客は高校生が二人。途中から数人の老人が乗り込んでくるが、閑散とした車内に活気はない。車内広告のローカル色に満ちた雰囲気は、地方私鉄ならではのものである。バタ臭いセンスが堪えられない。

少しまどろむと中央弘前に着いていた。さて、ここからが問題である。弘南鉄道弘南線に乗り換えなければならない。乗り換えと言っても大鰐線と弘南線の弘前駅は2キロ程離れているのだ。駅名も中央弘前と弘前駅に分かれている。歩いて行けば20分かかると言う。しかし弘前駅からの出発は10分後。タクシーでも拾っていくしかないが、一台の客待ちをしていたタクシーは、タッチの差で他の客に奪われてしまった。苛々しながら次のタクシーを待つが、なかなか来ない。残り時間は、後5分。ようやくタクシーがやって来て、運転手に行き先を告げ、特に急いでもらう。地方都市らしく、信号機の連携は全く不合理に出来ている。信号の度に停車を強要される。駅に着き時計を見ると、発車時間になっている。諦めつつも、運転手への礼もそこそこに弘前駅に駆け込む。弘南鉄道の改札はJRと隣り合っており、中に入ればJRとの区別はない。息せき切って改札係の婦人に「切符は、」と訪ねると、事情を理解してくれたらしく、「早く、中で買って。」と通してくれた。丁度列車が到着したのか、人の波をかき分け跨線橋を渡って弘南鉄道のホームへ急ぐ。間一髪で目的の列車に間に合った。

古い町並みの中を縫うようにして、列車は黒石駅に到着した。この駅の改札で弘前からの料金を支払おうとしたが、駅員の婦人の言葉が聞き取れない。この辺りは津軽弁の地域だろうか、口を殆ど開けずに喋る言葉は耳に新鮮だ。しかし、少しはこちらの話し言葉に合わせてくれてもいいようなものだが。目的地を告げると、また何か喋り出した。よく聞くとここから先、川部までの列車は四月からダイヤが変わって、お目当ての12時50分発の列車は運行されていないと言う。次の出発の列車では、川部からの乗り換えに間に合わない。思案の末、結局またタクシーを利用することにした。

弘南鉄道黒石線に乗れなかったのは残念だったが、タクシーでのドライブもなかなか興味深いものであった。町並みを抜けると、一面にリンゴ畑が広がっており、リンゴの花が今が盛りと咲き誇っている。こういった場合、知っていてもタクシーの運転手に色々と尋ねてみるといい。地元の人しか知らない情報が聞けて面白い。運転手によると、この付近の人は、花見と言えば桜ではなく、リンゴの木の下でしていたそうだ。もちろん今、弘前市で行われている弘前桜祭りのように有名なものはあるが、全国共通に桜の木の下で酒盛りをすることはあるまい。

約10分ほどでJR川部駅に着いた。これは旅から帰った後から気付いたことだが、乗り損ねた弘南鉄道黒石線は、以前は国鉄の路線であった。黒石駅で、そこから先はディーゼルカーであることに不思議に思ったが、履歴が分かり得心がいった。私鉄と言うのは、意外と電化されているものなのである。ましてや、同じ会社の路線で、電化、非電化と分かれているのは合理的でない。

川部駅で少し時間が出来たので、昼食の算段をする。とはいっても、駅にキヨスクはなく、駅前にも食堂の類はない。仕方なく駅周辺をうろついてみると、ようやく一軒の小さなスーパーマーケットを見つけた。その中を覗いてみるが、弁当のようなものは無く、結局売れ残りのようなおにぎり二つと、サンドイッチ、そしてレジの横においてあった、チーズ入りの魚肉ソーセージを数本求めた。

さて、これから今まで乗ろうとしてなかなか乗れなかった五能線だ。列車はローカル線にしては長大な六両編成。都会では珍しくないが、ディーゼルカーのこんなに長い編成は最近ではめっきりお目にかかる機会が少なくなった。車内で1ボックス占領し、先ほど買った昼食を摂る。期待していなかったおにぎりが割とおいしい。いや、本当においしい。製造元をみると、地元の無名の食品会社だったが、米もさる事ながら、炊き方が上手なのだろう。車内は少々暑く、窓を全開にして外のわずかに冷たい芯を持った風を取り入れる。吹き込む風を気にしなければならない客は他におらず、心置きなく車窓を楽しむことが出来る。缶ビールを明けるプシュッ、という音も、風と伴に列車後方に流れ去って行く。至福のひとときだ。

車窓からは、遠方に白神山地が望まれ、その中でもひときわ津軽富士、岩木山が中腹まで雪を纏って聳え立っている。その裾野は富士山のようになだらかで、地平線の彼方に溶け込んでいる。山はしばしば、信仰の対象になるが、津軽富士のこの山容を一見すれば、理屈抜きでその理由が分かる気がする。

五能線とは五所川原駅で一時お別れし、津軽鉄道で更に北を目指す。津軽鉄道は周知の通り、ストーブ列車で有名である。冬の運転時には全国各地から客が集まるが、流石にこのシーズンは少し生彩を欠いている。しかし、その車輌は他の車輌とあわせて、駅の構内に多く展示されている。様々な案内書きと共に、津軽鉄道の並々ならぬ経営努力が見て伺える。

津軽平野は地平線まで田畑が続いている印象で、列車が走る堰堤が最も高い場所を占めている。冬になれば、民家以外は全て雪の下に隠れ、風を遮る山の無い平野は、日本海からの吹雪に容赦無く晒されるのだろう。今日のようなうららかな日は、地元の人にとって一層貴重なものに違いない。

列車は新型車輌の為、窓が開かない。少しエアコンを入れて欲しいくらいだが、その気配はない。先ほどのビールが効いたのか、暖かい車内でつい舟をこぐ。

「お客さん、終点ですよ。」

運転手の声に起こされ、寝ぼけて容量悪く料金箱にお金を入れ、津軽中里駅に降りた。駅の周りを散策するが、これといった興味を引くものはなく、駅に戻って記念切符を求めて、折り返しの列車に乗った。

五所川原駅から五能線の旅を再開する。乗車するのは快速「リゾートしらかみ」。全車指定席で、車輌もこの列車専用に特別にあつらえた物である。私が手にしている指定券は、昨日乗った特急はくつる同様、最後の一枚であった。いかに連休最初の休日とはいえ、いきなり満席とは不思議で、団体の客でもいるのだろうと思っていたが、実際に乗車してその理由が分かった。この専用車輌は四両編成で、中央二両がセミコンパートメントになっており、両端の二両が普通座席車になっている。座席車も運転台に近い部分は、ちょっとしたロビーのようになっていて、常に日本海の方を向くようにベンチシートが設けられている。座席も、グリーン車並みにシートピッチが広く取られており、案内のパンフレットによれば一編成の定員は144名ということだ。新幹線のような塗色をした殆ど新造に近いような改造を受けた車体に、グリーン車並みの設備。これで指定席料金、500円を払うだけなのだから、人気が出て当然である。JR東日本は、この列車にクルージングトレインと名づけているが、その看板に偽りはない。

車端のロビーでは、すでに中年男性二人がビールやおつまみを置いて、話に花を咲かせている。私も早速その場所に移り、カメラを構えて日の暮れかかった日本海を眺める。焼けた鉄のように真っ赤な夕日が、雲の中から顔を覗かせると、車内から一斉に歓声が上がる。海面も、夕日を受けてフラクタルに形を変える波のきらめきが美しい。

10分ほどして次の人に席を譲る。こういったパブリックスペースは、程々の所で席を立つのがマナーである。空いた席には、次々と別の乗客が座って車窓を楽しんでいるが、先ほどの二人の中年男性は席を動こうとしない。会話を聞いていると、こんな旅が出来て良かった云々と言っているが、こういう周りに気遣い出来ない人には、早々にご退場願いたい。

突然、列車が駅でもない所に停車した。車掌から、夕日の名所であるが、本日は水平線に沈む夕日をご覧に入れることが出来ない旨、お詫びの放送があった。日没寸前から、海上にもやが出てきていた。しかしながらそのお詫びとして、乗客全員に、リンゴ酒をプレゼントしてくれるとのこと。なかなか憎い演出である。繰り返すようだが、たった500円でこの内容。乗客は皆、満足しているに違いない。勿論、私もその一人である。

五能線の終わり、東能代駅を過ぎる頃から、日はとっぷりと暮れ、外の景色を伺う術も無い。後は終着秋田までひたすら本を読んで過ごす。乗客の多くも疲れた様子で、軽いいびきをかいている人もいる。けだるい雰囲気が車内を包み、いつのまにか耳が遠くなっている。息を呑んで耳を通すと、いつのまにか聞こえなくなっていた周囲の雑音が、よみがえってくる。

秋田到着は定刻どおり、20時16分。まだ早い時間だというのに構内は閑散としており、駅のアナウンスも無い。ただ、ディーゼルカーのエンジン音がコロコロと響いているだけである。お目当ての秋田新幹線の姿もそこには無く、肩透かしを食らった気分だ。

秋田駅は新幹線開業を契機に、立派なエアターミナルのような建物に変わっていた。いささか立派すぎるきらいが無いではないが、コンコースのあちこちに掲げられた新幹線開業の看板を見ていると、はしゃぎたくなる気持ちを理解できなくも無い。数年前に訪れた時は、広島駅を二周りも、三周りも小さくしたような駅だったが、今はどうだろう、完全に追い抜かれてしまった印象だ。

晩飯を仕入れる為、構内をうろつくが、シャッターを下ろしている店が殆どだ。まだ8時を過ぎたばかりだというのに、この有り様はどうだ。地方都市の夜は、更けるのが早いというが、新幹線の力をもってしても例外ではないということか。仕方なくミスタードーナッツで今晩の飢えをしのぐことにした。ところで、いわゆる、秋田美人というが、これは風説ではない。本当のことである。全人口に占める美人の割合は、明らかに多い。ただそれだけである。閑話休題。

東北地方の最終ランナーは、上野行きの寝台特急「あけぼの」である。この列車ではB個室寝台を用意してある。一人用の個室の利用は始めてだが、以前乗ったトワイライトエクスプレスのシングルツイン(一人用の個室にベッドを追加してツインでも利用できるもの)と同等の広さで結構快適に過ごせそうだ。通路を挟んで両側に、上下に重なって個室が並んでいる。個室にはそれぞれ扉の所に暗証番号式のキーロックが付いており、安心して部屋を離れることが出来る。洗面を済ませた後、部屋に篭もり、汗臭い上着やシャツを脱いでパンツ一枚になる。誰に気兼ねすること無く好きな恰好になれるのはいい気分だ。これで料金は普通のB寝台と同じなのだから、利用しない手はない。開放的な気分になってその姿のまま外を眺めていると、いつのまにか駅に停車した。向かいのホームに停車中の列車の乗客と、一瞬目が合いそうになるが、間一髪でカーテンを閉めた。いい気になって喜んでいると、とんだ恥を晒しかねない。

今宵はなんとなく寝てしまうのが惜しい気がする。そこで、暫く缶ビールを片手にぼんやりと外を眺めてみる。民家の近くを通ると、夕げの最中だろうか、暖かい光が窓から漏れ、瞬く間に後ろに遠ざかって行く。あの家庭では今、どんな会話をしていたのだろう。何か深刻な問題でも起こっているのではないだろうか。そんな埒も無いことを思いつつも、すでにその民家は、数キロ彼方にある遠い街の灯の一つでしかない。これを出会いと言っていいならば、僅か1秒にも満たない列車の旅ならではの醍醐味である。この狭い日本でさえ、気も遠くなるような人が住んでいる。今は他人としてすれ違っているが、いつか、何か不思議なえにしによって、言葉を交わす日が来るかもしれない。私のそんな思いなど知らぬそぶりで、列車はひたすら西を目指している。