TUNISIAへヤロビーナ!!

飯能ダバイファミリー 島崎 アロミ

 今でも忘れもしない6月3日の夜、渡辺ぺコリンから「今年の夏チュニジアへ一緒に行きませんか。是非前向きに考えてね。」と電話をもらった。なぜ私?どうしてチュニジア?あまりに突然のお誘いに一瞬頭の中が真っ白になったが、私の中では殆どその日の内に行くことを決めていた。というのは、丁度その日ワークショップがあり、交流から帰ってきたばかりの人たちが、やたら輝いて見えていて「やっぱり、交流行くって大きなことだよねぇ、私も考えてみようかなぁ」と思っていたからだ。しかし、特にここに行きたいという場所もなく、ましてやチュニジアは私の選択肢の中には到底無い国だった。 しかし今回経験してみて思ったことだが、誘われるって悪くないですね。自分1人では考えも及ばないことを周りは投げてくれる時があって・・まさにこのチュニジア交流がそうでした。よし行こう、って私の気持ちが固まると、周りのさまざまな状況も行ける方向になっていくから不思議です。家族の了解も得て、二日後ぺコリンに行く旨の電話をしたのでした。

マリンカもチュニジアへ!

 チュニジア行きは、私だけでも驚きの出来事だったのに、メンバーのマリンカも一緒に行くことになったから、一層のオドロキです。別件でマリンカと電話していた時のこと「実は私、夏にチュニジア交流に行くことになったの」と言うと「いいなあ、チュニジアって綺麗なところだよね、クスクス食べてみたい」「えっ、クスクスってなあに?」と、何も知らない私。すかさず「じゃ、一緒に行こうよ、時間が無いから明日までに返事してね」って何とも強引な気がするけど、次の日「行けることになったよ」とマリンカからの嬉しい電話。物事を決断する時って、時間の長さは関係ないですね。

準備をする

 その後、参加者は全員で8名(渡辺ぺコリン、奈良のハップさん、有楽町ホーイホイFのサラン、そのメンバーローズ、きんちゃんに小倉あんこちゃん、マリンカ、アロミ)となり、昨年の交流参加者で立ち上げたチュニジアメーリングリストに私たちも入れていただき、情報交換などがはじまりました。又、各ファミリーで『チュニジアDAY』を設け、以前交流に参加した人、今年行く人、近隣のメンバーなどが参加できる会で、色々な方と交流をもつことが出来たのはとっても良かったです。そして、クリームなおちゃんを始め力強い応援隊もできちゃいました。ここ飯能にもはるばるぺコリン、サラン、きんちゃん、あんこちゃんが来てくれて「参加者の殆どと既にボクたちも会ってるなんてすごいよね」とは、飯能在住のアデランテの言葉。本当にそう思います。最近ご無沙汰だった「アラビア語を聞き始めたよ」って声かけてくれる人もいっぱい出てきてくれて、沢山の応援をもらっての準備が良い感じで始ったのでした。 ところが・・7月、8月と交流の日にちが段々と迫ってくると、私の中に焦りのようなものが生まれてきたのです。元々遠いフランス語、もっともっと遠いアラビア語、しかもチュニジアのアラビア語はCDとちょっと違うらしい・・と聞けば、これは出会った家族の言葉を一生懸命聞いて、私も真似していくしかない(赤ちゃんのようにね)って頭では解っているのに、やっぱり人と比べてしまう。身近にいる韓国に行きますっていうステラが、メキシコに行きますっていうDemmyが、目を見張るほど言葉を増やしていくのを目の当たりにすると「私を置いてかないでー・・」って思えて。おまけにCDでみつけた「ラー」の音、チュニジアでは「レー」って言うらしよ。反対にYesは「アイィ」って言うんだってって聞けば、「レー」にはレレレのおじさんのポーズ(知らない人ごめんなさい)「アイィ」にはアイーンのポーズで望めばOKよとせっちゃんからのアドバイス。ほんとかなぁ、私は必死なんですけどって思いつつもこうやって遊んでるのが一番よね。

出発の日

 そんな焦りも、当日を迎えると楽しみに変わるから不思議です。参加者全員元気に成田に集合。奈良のハップさんは、前日から安本さん宅にStayしていたので8名とみかちゃん、応援隊の方々も朝早く駆けつけてくれました。飯能でも咲ちゃんが駅まで見送りに来てくれたのに、残念一歩及ばず、会えませんでした。いよいよ離陸という時に携帯の電源を切ろうと思ったら、ユッケからのいってらっしゃいメールが。みんな、みんなありがとね。 今回の交流は、パリ経由のチュニス泊で飛行機はAir France.当然menuもフランス語と英語で書いてある。きゃはっ、これだけでも何だか嬉しくなるし、当然Tryよねフランス語で。Home Stayが始まるとnoアルコールだぁと覚悟していたので、飲み納めとばかりにwineを頼んでみました。"ヴァン ウージュ"恐る恐る言ってみたら、でてきた、でてきた赤ワイン。調子付いて白ワインまで頼んでしまったよ。   パリでは乗り継ぎの時間を利用して、みんなでお茶をのみながら、対面式その他のMeeting。 準備会でもやってきたwhat's Hi?も入れつつ、皆が声を出せたらいいねなんてことを話し、出発時間の遅れもあってチュニスに着いたのは、現地時間で夜の11時過ぎ。成田を出発してから約19時間、本当に来ちゃったんだね、アフリカ大陸に。こんなに遅いのに、ベンスター氏に空港まで出迎えていただきました。今日はもう遅いので又明日ねということで、私たちはチュニスのホテルへ。ホテルのエレベーターに乗るとき、傍に居たボーイさんに言ってみました、今にピッタリの言葉「ダッスパハラヘッ」そしたら彼も「ダッスパハラヘッ」。この言葉は、飯能では『アラビア語の9番』と言って北村ユッケファミリーがいつも歌っていたところ。でも「あっさはらへんなばーば、あっさはらへんなまーま、あっさはらへっ、ぬーめ」ってかなり空耳、かなり大波、かなりインパクトありですぐに皆も真似していた場所でした。お陰さまで私も、チュニジア行きを決める前から、アラビア語では唯一といっていい歌えたところ。そしてCDを聞いて歌ってるうちに何時しか「あっさはら」から「ダッスパハラ」に変化していったのです。通じたのもすごく嬉しかったけど、そのボーイさんのオドロキと喜びの入り混じった顔は今でも思い出します。後でユッケから聞いた話では、「アラビア語の9番」の発信源は去年チュニジア交流に行った、若松さっちゃんだったんだってね,びっくり。

対面式の朝

 朝10時、ホストファミリーが続々とホテルのロビーに集まってきた。可愛らしい女の子を連れた家族や素敵なご夫婦など、自分のホストファミリーでなくても皆が気軽に声を掛け合って話しが始まった。5家族、6家族と集まってきたところで私たちの多言語自己紹介と、簡単なwhat's Hi?をした。最近小学校などから依頼を受けている国際理解授業などでもやっているように、メンバー1人、1人が声を出していろんな言葉の自己紹介はとてもよかったと思う。そして、多言語を楽しむ、赤ちゃんと同じ道筋の自然習得、家族の一員としてのHome Stayなどが端的に話され、ホスト家族も巻き込んでとても良い対面式になった。   さぁ、これからそれぞれのホスト宅へ、と思ったら私のホストが来ていない。うっうそー、どうしよう。「私が送っていってあげるわよ」って声かけてくれたのはMadameアルル(昨年アッコさんがステイしたFIFA会長宅)の代理の方で、お迎えに来てくれたMadameリーサ。「いいんですか?」って思ったけどここはお願いするしかない。じゃ遠慮なくって車に乗ろうとしたら、乗れないじゃん、荷物多すぎて。決して大きくない車に、運転手のMadameリーサ、もう1人の女性(名前は??)が助手席に、サランとローズの2人がHome Stayすることになっていたので、後ろに私を含めて3人と、スーツケースが3つ。その他大きなバック。スゴイ体勢でローズが乗ってくれて何とか出発。しばらく行くと、ここが勤め先だからと私だけ降ろされた。大きな荷物と一緒に仕事が終わるまで会社に私も居るのかなぁなんて思っていたら、一人のおじさん登場。「この人が家まで送ってくれるから」とMadameリーサの言葉で、今度はおじさんの車に私一人乗った。果たして私のHostファミリーは私が今日来ることを知っているのだろうか?などと不安になりつつも、おじさんが道の説明をしてくれるのに耳を傾ける。このおじさんに、何か御礼をしなくちゃいけないかしら?突然そんなことを思った。でも荷物はスーツケースの中だし・・、そうだ!日本のコインをあげよう。5円玉や50円玉のように穴の開いたコインは珍しいって聞いたことがある。突然ゴソゴソとバックの中の財布を探し始めた。でもなかなか見つからない。やっやだっ護身の為のナイフでも出すんじゃないかと思われたらどうしよう、あった、あった5円玉一つだけ。私は5円玉を握りしめ到着を待った。ところがそれから更に5分、10分と車が走り進むと、今度は初対面の人にいきなりお金をあげるなんて、いかがなものかしらという思いにかられてきた。「なんでも金、金。これだから日本人はいやなんだ。一体、人の好意を何だと思ってるんだ、えっ?」なんて思われちゃったらどうしよう。あぁどうしよう、どうしよう・・。何だか訳がわからなくなってきところでHost宅に到着。Hostママが玄関で待って居てくれた。車が到着するや否やHostママとおじさんの二人で何か話し始め、おじさんは私の荷物を降ろしてくれたと思ったら、又すぐ車に乗り込んでさっさと行ってしまった。そんなことで、私が握り締めていた汗まみれの5円玉は、とうとう渡すことが出来なかった。

いよいよHome Stay

 最初の挨拶は「ボンジュー」と言ったか「あすれまー」と言ったか思い出せない。白い素敵なお宅のサロンに案内され、わたしはアルバムを出し自己紹介を始めた。家族のこと、私の家のこと、What's Hi?も当たり前だけど1人でやった。そして、Hiからの手紙も読んでもらった。ここには、Home stayの主旨などが書いてある。するとママのシャフィカは「私たちはsisterね」と言ってくれた。しかし『シャフィカ』という名前は非常に覚えづらく、手の甲にいつも書いていたのに見ないで言えるようになるまで、3日も掛かってしまった。  シャフィカは最初、私のフランス語もアラビア語もあまり通じないことに「一体これからどうしたらいいのかしら・・」とでも言うように遠い目をした。だけど当の私は行く前の焦りとは裏腹に「ハハハ」って感じだった。ホテルで会えなかった分、待っていてくれる人が居てくれてよかった〜って思ったからかもしれない。荷物を部屋に置き、しばらくするとシャフィカは昼食の支度を始めた。私もすぐに手伝った、というより横にいた。間もなくパパも仕事から帰ってきた。「Bonjour madame」背後から声をかけられた。振り返りざま私も「Bonjour je m'appelle純子 HomeStay merci beaucoup je suis contente」と言っていた。結構言えるじゃん、フランス語。3人で食事を終えたと思ったらもうパパが居ない。自分の部屋でシエスタの時間だった。寝るポーズをしながら「シエスタ?」って聞いてみたらシャフィカが「シエスタ」って答えた。確か、スペイン語じゃなかったっけ?でも、その後も「シエスタ」は「シエスタ」だった。まもなくシャフィカも、TVを見ながらソファーに横になった。私にも横になれという。さっきお邪魔したばかりの家でそんなぁと思いながらも、言われたとおりにすると、ものすごい睡魔が襲ってきたので「部屋で休んできます」と言って、ベッドで1時間半も寝てしまった。あんまり私が起きてこないのでシャフィカが起こしに来た。あちゃーすんごい寝てしまいました、謝りつつ起きるとシャフィカの友達のサイダが来ていた。「Sonoサイダ」って話かけてきた言葉は何とイタリア語。私が寝ている間にシャフィカが「純子は3年前イタリアに行ったのよ」とさっきのアルバムのことをいろいろ話していた。頭はボーッとしていたが、これから出かけると言う。三人で車に乗り、シディ・ブ・サイドというところに行った。翌日がフェスタらしくものすごい車で駐車するのにも一苦労。私も車の免許をもっているのでシャフィカが駐車しようとバックにギアを入れたとき、「うっ、それじゃあ車が入んないぞ」と心のなかで呟いていた。案の定、どうにも動きが取れない状況になってしまった。シャフィカは必死にハンドルを切りながら私に「主人の車だから」と言った。が、状況は変わらない。そこでサイダが私がやるわと勢い込んで代わったが、車は動くどころかエンストするだけ。サイダもハンドルを切りながら「私の車じゃないから」と私に言い、又シャフィカに代わった。私がやってみますって思わず言いそうになったが、隣は結構な高級車、ぶつけたら大変なので黙っていた。ふと後ろをみると、大渋滞、しかも早く行けとばかりクラクションの嵐。すぐ後ろにいたおじさんが「出たいのか?」と声をかけると「駐車したいの」とシャフィカ。何語かわからないけどやり取りはわかる。するとそのおじさん、何やらアドバイスをしに降りてきた。何時の間にか少年もいる。「レー、レー、ゴーシュ、ゴーシュ、シュワイエ、シュワイエ」最終的にはおじさんが駐車してくれたんだけど、その前にシャフィカはしっかりお隣の車にぶつけていました。

私の家族

 私の家族(ブラヒア家)は、お父さんのマハスン、お母さんのシャフィカ、娘のアスマ(25歳)、息子のラシッド(23歳),ユーセフ(18歳)だ。私がステイ中、一度も家族全員で食事したことがなく、というか家に全員が揃ったことがなかった。始めはそのことに戸惑い1人、1人に用意したお土産を直接手渡したくて、「ラシッドは何時帰る?」「ユーセフはどこ?」といつもシャフィカに聞いていた。  お父さんのマハスンは、公務員。夏期のチュニジアは仕事が半日なので、私のステイ中は午後の2時から3時ごろには帰ってきていた。きりっとしたスーツ姿から一転、家に帰ると白いランニングシャツと紺の短パン姿のデカパン親父に変身する。私がいる間だけじゃなく、おそらくその後もずーっと変わらないんだろうなこの姿。一緒に食事をしていても食べるのが早く、その間TVのチャンネルを忙しなく変える。言葉の問題より彼とは共通の話題が中々みつからない。だから、いつも笑顔が会話だった。時々見せる気難しい表情から私が家にいること、あまり快く思ってないかもと思っていたところ、サッカーのTicketをもらってきてくれた。しかもチュニジア・フランス戦だ。パパの運転でシャフィカと私の3人で観戦にでかけた。何を隠そう私はスタジアムでの観戦が初めてだったし、試合内容も1対1の引き分けでよい試合だった。帰りがけ、私はパパに駆け寄り「je suis contente」を繰り返した。パパはticketをもらってきた甲斐があったというものよ、と言わんばかりの笑顔で答えてくれた。少しパパに近づけた気がした。  シャフィカは20数年銀行に勤めているが、私のStayに合わせて一週間ヴァカンスを取ってくれていたので、いつも一緒にいた。何しろ友達、知り合いが驚くほど多い。道を歩いている時、車に乗っている時必ず知り合いに出会う。この人は同じ銀行の人、この人は幼馴染み、この人はTVスター、この人はナントカのプレジデント・・と実に幅広い。HomeStay最後の日、娘のアスマの婚約式(フィアンセーゼ)の様子のビデオを見て驚いた。そこに出てくる殆どの人を私が知っていたからだ。アスマは「招待客の殆どがママの知り合いよ」と言った、納得。  アスマは大学の研究室にて勉強中の才媛。私がHomeStayする2日前に婚約して、来年結婚する。'99 年に現地の窓口となってくれているベンスター氏らと来日し、Hippoメンバー宅にHomeStayした。 フランス語、アラビア語は勿論大学で使っている英語、他にもスペイン語、イタリア語を話す。最初、私に対してけん制球とも言うべき質問を英語でぶつけて来た。喋り始めはいつも「What do you think about・・」チュニジア人のこと、アスマ家族についてどう思うかとたたみ込むような早口で聞いてくる。ずっとこの調子なのかと思ったら、ある時「チンチンって言う乾杯の言葉、日本では言っちゃいけないんでしょ、チンチンてなあに」と悪戯っぽく聞いてきたときがあった。この時から他愛のない話題でも盛り上がるようになり、私の姿が見えなくなると「ジュンコァ、ジュンコァ」と声をかけてきて、トイレぐらいゆっくり行かせてくれって思う程だった。  兄のラシッドは学生でシャイな人。パパもそうだが、チュニジアの男性は冷蔵庫に用意してある食事を自分で出して食べ、キチンと片付ける、実に手間がかからない。だから何時の間にか現れ、何時の間にか居なくなる。アスマによると、大人しそうに見えるけどガールフレンドも沢山、お酒だって飲んじゃうらしい。  弟のユーセフはラシッドとは対照的にいつも笑顔を振り撒いている。そしてやたらダンスがうまい、かっこよすぎる。日本の若者と同じでいつも携帯電話を気にしていて、しょっちゅう女の子からの電話があった。日本人の男友達が居るらしく「どうして日本人は、指のわかれた靴下を履くの?」と聞いてきた。私、履いてないんですけど・・。

ジャスマンの香り

 夏のチュニジアは何処の家の庭にも美しく花が咲いている。あんなに大きなブーゲンビレアの木を見たのは初めてだ。ブラヒア家にも玄関横に大きく成長したジャスミンの木がある。シャフィカはジャスミンのことをジャスマンと呼んでいた。その花をたくさん摘んで皿に盛り食卓に置く。すると窓から入る心地よい風と共にジャスマンの香りが部屋中に広がる。シャフィカは毎日ジャスマンを摘んでいた。ゆったりと流れる時間、いいですねぇ。シャフィカを始め、チュニジアの人々は香りをとても大切にする。カフェなど街中ではジャスマンを小さな花束にして売っていて、人々はその香りを嗅ぎながら会話を楽しむ。女性のみならず、男性などはジャスマンを耳に飾っていて私にはちょっと不思議に思える光景だった。

アラビア語は人をつなぐ!?

 HomeStay初日の夜から、シャフィカの知り合いに沢山会った。皆、私が何者かと興味津々なのが視線で痛いほど感じる。「チュニジアはどう?」「食べ物はどう?」これに対して私の答えはすべて「ハルアバルシャ」だ。私の所属するファミリーの名前だし音にも馴染みがあった。考えもせずハルアバルシャを繰り返していたが皆の反応は・・あらぁアラビア語話せるのねぇとばかり忽ち目尻が下がってくるのだ。 ハルアバルシャも繰り返すうちに板に付いて来る。「エジプトに行ったことがあるの?」なんて聞かれることもあった。「チュニジアでは何て言うの?」と聞くと「ハルーアバルシャ」とちょっとイントネーションが違う。すると次回から私も「ハルーアバルシャ」になる。シャフィカの友達のアイダからは、「まねをするのがとっても上手、1ヶ月も居たらベラベラね。」と言ってもらった。  またある時は結婚式出席の為、向かう車の中。アスマのフィアンセのモハメッドの運転で、アスマ、モハメッドの妹、シャフィカと私の5人で、いろんな言葉で盛り上がっていた。何しろアスマは5つの言葉モハメッドも英語も話すので3つ、その妹に至ってはドイツ語も話すし恐らく6つ、7つは話すと思う。大騒ぎの車中、シャフィカ1人だけがモハメッドの運転を心配していた。私たちの会話の間を縫って「モハメッド、シュワイエ、シュワイエ」と何度も繰り返していた。そう、シディ・ブ・サイドで車を駐車する時、おじさんと少年が言っていた言葉だ。ところが"小さい"にも、"少し"の時も「シュワイエ」がでてくる。私はこれらすべてに「シュワイエ」を使っていたが、シャフィカが車の場面では「ビ シュワイエよ」と教えてくれた。  又、ある時こんなことがあった。朝、朝食の支度をしながら、突然私が「エンタ ハルワン ザイール ハルワン ヘボック バルシャ バルシャ アナファルファーナ ムジーナ ベヒ!」とシャフィカに向かって歌った。するとシャフィカは目を丸くして驚いた顔をしたと思ったら、今度は顔を真っ赤にして笑い出した。アラビア語の「愛の言葉」と聞いていて随分前にファミリーで流行っていた言葉だ。たぶんわかちゃん達からもらったのだと思うけど、はっきりとした意味も当然知らぬままアンジュセヨで前の人が言っていたのを私も其のまま、まねしていたのだ。私にしてみれば、突然思い出して言ってみただけだったのだが、シャフィカはとても気に入ってしまった。この日シャフィカの兄家族の別荘に出かけた。昼食後皆くつろいでいる時、突然シャフィカがパパに向かってあれを言えとふってきた。私がエィっとばかり大きな声で「エンタ ハルワン・・」をパパに向かって言い切るとシエスタ中だったパパが嬉しそうな顔で一言「アイィ」と大きく頷いてくれた。本当に嬉しそうだ。やった〜、パパに又一歩近くなれた、と思っていたら周りにも驚くべき反応が。そこは海が近いので海から帰ってきた子供達あり、食後のシエスタ中の人あり、食事中の人ありで一つの部屋に10人以上の人が居ながらも皆がバラバラとした感じだった。ところが、なんと皆がアンジュセヨのように、それぞれ椅子を持って集まってきたのだ。そして、今度は何が出るの?とばかり私の次の言葉を待っている。もう、何にも出ませんよ、と言いつつもひとしきりその話題で盛り上がった。

トイレ事件

 交流に行く前から、トイレはちょっとした話題になっていた。紙は無いけど、ホースはあるらしい。 じゃ、ホースを使った後はどうするの?想像は膨らみ、でもまぁ行けば何とかなるわよとみんなから言われていたが、チュニジアの我が家は地下1F,地上3Fの各階にトイレがありホースもあるけど、紙もある。家の中では何も心配はなかった。しかし外出先となると、色々と状況が変わる。シャフィカとチュニスにあるスーク(市場)に行った時のことだ。スーク近くのショッピングセンターの建物の中のトイレに行った。入り口に女性がいて、お金を払って使用する。それだけなら結構あるシステムだが、そこはお金を払うとトイレまで案内してくれ、使用中は外から鍵をかけられる。が、そんなことはすっかり忘れていた。当然ドアを開けようとしても開かない。うっどうしよう。数回ガチャガチャしてると、シャフィカが外から「push,push」と声をかける。押してるけど開かないのよとばかり相変わらず、ガチャガチャしていた。ふと横を見るとボタンがある。フランス語でなんか書いてある。残念ながら、私には最後のICIしか読めない。ここを押せということなのか、でもそれは赤く囲ってあって日本だったらどう見ても非常用のボタンだ。もし私がこのボタンを押して、建物中に轟く音が鳴り響いたら・・と考えると押せない。相変わらずガチャガチャやっていると、先ほどの女性が外から鍵を開け、私の顔を見るなり、「このボタンを押して」と呆れ顔で言った。やっぱりそうだったのね・・。  二度目は、シャフィカの友人宅の別荘に行った時のことだ。コルブスという所で山から温泉が海に流れてきていて、海の美しさは、これぞチュニジアンブルーといったところだった。私は別荘に着くなり、挨拶もそこそこにトイレを借りた。カチャっと鍵をスライドさせた時は気づかなかったが、鍵を開けようとした時に鍵のつまみが無いことに気づいた。どうにも鍵が動かない。丁度バックを持っていたので中からボールペンやら、先の尖った物を出してはTryしてみたがびくともしない。又やってしまった。トイレの中は狭く、すぐに汗が吹き出てきた。今回はかなりピンチだ。これは帰国してから気付いたことだが、その時私はどうやら「開かない」と言ってるつもりで「Don't open」と言っていたようだ。いや間違いなく言っていた。でも状況で当然周りは判ってくれた。突然ドアがドカンと言う音と共に開いた。すると見知らぬ男の子が立っていた。「ボ,ボンジュー」思わず私が言った。彼はその家の息子さん(モハメッド)で、ナント肘でドアをぶちやぶってしまった、私のために・・。この事があってから、私がトイレに入ろうとするとシャフィカが必ず急いで鍵のチェックに行った。そして、鍵が壊れていたり、なかったりすると、私がトイレの前に立っているからくれぐれも余計なことをしないようにと私に促した。ホントお手間かけました。

空耳がいっぱい

 夏のチュニジアの夜は長い。イベントもいっぱいで、その殆どが夜の8時過ぎから始まる。私はHomeStay中、毎晩のように帰りが午前さまだった。そう、本当に色々なところに連れて行っていただいた。Homestay2日目の夜、マリアージュに行くというので、てっきりどなたかの結婚式をチラッと見せて貰えるだけかと思ったら、とんでもない私も出席者の1人だった。チュニジアの結婚式は1週間の期間で3回のPartyをする。私はその内の2回のPartyに出席した。1度目の夜は、花嫁の家の庭に親戚、知人など美しく着飾った人々が集り、生演奏の歌とともに歌いたい人は歌い、踊りたい人は踊り、喋りたい人は喋る。これが延々3,4時間続く。これが噂のベリーダンスというものかしらと踊りこそしなかったが、興味津々楽しんで見ていた。女の子も7,8歳ともなると胸元に何とか姉妹のようにキラキラしたラメをつけ、実に色っぽく踊る。その踊りに見入っていた時、突然私は耳を疑った。日本語が聞こえてきたのだ、しかも歌から。「や〜せてみな〜、や〜せてみな〜、や〜せてみ〜な〜、や〜ぶれそ〜だ〜、や〜ぶれそ〜だ〜、や〜ぶれそ〜だ〜」真面目な顔で歌っているから笑えてしまう。しかもその曲に合わせてノリノリで踊っている人もいる。日本に帰ったら皆に教えてあげようと、この日の夜日記に書いた。  ところが、空耳はこれだけではなかった。5日目の夜、コンサートに行った時のことだ。夜の9時から始まるコンサートに1時間も遅刻しながら、シャフィカはVIPのticketを見せ、良い席に着かせろと関係者に詰め寄った。お陰で私1人だけだったが一番前のほぼ真ん中の席に着かせてもらえた。かがみながら席に着き後ろを振り向くと、なんと会場には2000人は居たかもしれない。私が着席して間もなくブッシュナックという超有名歌手が登場した。黒の蝶ネクタイに髭をたくわえ、見た目はちょっとニヒルなアラブ人といった印象だ。だが、第一声を聞いて驚いた。長〜い前奏の後「えんた達笑ってHappy」と歌ったのだ、しかも真面目な顔で。「ぷー」私は噴きだしそうになったが必死にこらえた。何しろ私のすぐ前にはTVカメラが回っていた、生放送だ。大笑いしている顔が映ったりしたら大変だ。しかし、もしここに日本人が隣に居たら間違いなく大笑いだったと思う。空耳はこれだけでは終わらなかった。コンサートも後半、3人目の女性ゲストが登場した時だ。美しいイブニングドレスに身を包み歌った歌が「おヒップがほっぱい、ほっぺにいれてみな〜」しかも皆でハモっている。もう笑わせるのはやめてくれ〜。 帰りの車の中、シャフィカとアスマが「コンサートはどうだった?」と聞いてきた。私は待ってましたとばかり興奮気味に日本語に聞こえる歌があったことを言った。ほらほら「えんた達笑ってHAPPY」って歌あったでしょ、と自信満々で歌った。だが、2人はキョトンとした顔で「ない」と言い、今度は2人で興奮気味にあの歌がどうだと盛り上がっている。ちょっと待ってよ、確かにあったわよ、その時の私は強情にも引き下がらず、何度も2人に歌った。が、結局そんな歌はないことになってしまった。

育む言葉

 私は今回で交流は2回目だ。準備期間も短かったし、自分にとってものすごく遠い言葉が話されている国だから行ってみようなんて、恐らくHiをやっていなければ決して思わなかったことだ。一番一緒に居たシャフィカは、フランス語、アラビア語でも勿論話してくれたが、彼女にとってあまり得意でない英語も一生懸命使って私に話し掛けてくれた。だから、一度使い始めるとシャフィカの英語もメキメキと上手くなっていくのがわかった。私も彼女の言う言葉のまねをし、二人の間で何語という枠を超えた「共通語」が生まれた気がした。気持ちを寄せ合い、一生懸命聞こう、伝えようとするとこんな風になるのかな、持っている言葉が多い(多言語)ほど「あれかな、これかな」といろんな引き出しから、表現する言葉を出してくる面白さも感じた。トイレのドアをぶち破いてくれたモハメッドはシャフィカの話す英語を聞いて私に「わかるの?」と聞いてきた。「ぜーんぶわかるよ、ホントに全部」そう私は英語を聞こうとしていたわけではないから。またある時、冷蔵庫のミネラルウォーターが無くなってしまって「どこにある?」とシャフィカに聞くと、アクションつきで「んー、んー、んー」と全部「ん」だけで説明してくれた。そして私は言われたとおり、階段を降りて地下室の部屋にある冷蔵庫を開けミネラルウォーターを見事に取ってくることが出来た。「言葉は育むもの」そんなことを感じさせてくれる暖かく、心地よい言葉の環境をシャフィカをはじめチュニジアの人々に大きなお土産として頂いてきた気がする。

 チュニジア交流は'99年のパイオニア隊から始まって今回で4回目になる。どの交流もそうだと思うが、人の数だけ様々な出会いがあり、交流がある。交流が始まったばかりの頃は、毎日が観光の連続だったと言う話を聞くと、きっと今回ほどHost家族と交流が持てたことは無いと思うし、そうなれたのは毎回の参加者やそれに関わる人々が"家族としてのHome Stay"を目指し創る事を努力してくれていたからだと思う。関わる一人、一人みんなが大事なのだ。そう思うと、今後もチュニジア交流が嬉しく継続していけるよう、私も沢山の人に体験を話していきたいと思う。